薄明を待つ天女達~南川下町診療所浮世草子

風鈴

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第三章

茨棘の誕生日

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 茨棘の23歳の誕生日、紅玉は茨棘の誕生日を祝う宴に出席していた。紅玉は、茨棘の旦那様の郷原俊樹ごうはらとしきがあまり好きではない。こう言う宴を開く程の財力があるそうだが、他の贔屓のお客様に就くために呼ばれている遊女にも色目を使う。彼の黒い噂は、紅玉でも聞き及ぶ。『藤ノ井』ではあまりいないが、他の妓楼で、25歳間近で崖っぷちにいるΩが格下遊女になって移動する時を狙って彼は安く買い叩くと言う噂である。遊女を何だと思っているのかと糾弾したくなる。
 勿論、その日の宴でも紅玉に色目をかける。紅玉はそれが虫唾が走る程嫌いだが、気付かないふりでやり過ごす。
 もうひとり招かざる客が混ざっていた。瑞葵が、郷原に挨拶をして今は郷原を挟んで茨棘の反対側の横に座っている。これまで茨棘を祝う宴に顔を見せても挨拶のみで帰っていた彼が今年に限って郷原の誘いにのって居座るのは初めてであった。勿論、茨棘の戦友と言ってはばからない瑞葵が祝いに駆けつけるのは当たり前だが、あのように旦那様の色目にしなを作って応えるなんてことは『藤ノ井』では禁忌であり、御職同士の旦那様には挨拶までで部屋に引き上げていくのが暗黙の了解である。それを見ていつも瑞葵側にいる茜凛までも眉を顰める。
 このような状況にも茨棘は、何にも云わずににこりと笑っていた。優しい心根の彼がここで瑞葵と言い争うことは絶対ない。彼はプライドで乗り越えようとするために茨棘の心は崩壊寸前だろうと紅玉は思うと心を痛めるのであった。

 しかし、茨棘は冷静だった。この状況になった原因に心あたりがあった。三峰先生からの手紙が毎月茨棘を励ますように送られてくるようになって気持ちが落ち着いた。その頃に郷原が支払いが重なっているために『藤ノ井』への支払いを待って欲しいと言ってきた。お客様の未払い金は茨棘の借金となる。郷原は茨棘の旦那様としての地位があるので茨棘を専有金を支払いと接待の飲み食いも併せて毎月結構なお支払いがあるのは聞いていた。他のご贔屓様からはそんなことを言われた事がなかったのでどうしたらいいのかわからなくなった。
 そんな時に、村雨が部屋に来てお下がりにと綺麗なブレスレットを持ってきた。
「茨棘、これ俺はもうこの手のブレスレットをつけないから」
 村雨が御職の頃に良くブレスレットをつけていたことを思い出しながら品物を見る。
「村雨にいさん、これ高そうだよ良いの?」
「大丈夫、旦那さんが買ってくれたものじゃないから」
「えぇ、お客様からの贈り物でもこれ良い物だよ」
 茨棘はもう一度商品を見て村雨に確かめる。
「良い物だから持っていたけど、つけない物は不用品だから良いんだよ。お前が誰かにお下がりにしても構わない」
「なるほどね…。それならもらっておくね」
 茨棘は少し考えていた。郷原からの事を村雨に相談するかどうか逡巡して言い淀む。
「茨棘、お前この頃おかしいよ。みんな声に出さないけど心配している」
「うん………ン」
「聞くからおい言い」
 茨棘は村雨が自分の事を心配して来てくれたと思うと、嬉しかった。
「うん、郷原様が今月の私のお支払いを来月に併せて支払うって言ったんだ。どうしたらいいかわからない、来月にまとめても良いもの?」
 茨棘は本当に自分の稼ぎに無頓着なタイプで、自分がどのくらい稼いでるのか全く知っていない。借金の事しか気になっていないのだ。村雨は一息吐いた。
「茨棘、そんな理不尽な事を言われたら、すぐに相談しないと支払い期限が過ぎると大変な事になる」
 村雨は茨棘の部屋を大急ぎで出て支配人を呼ぶ。茨棘は、大慌ての真意が分かっていなかった。しかし、事は大事だった。支配人は良弥に連絡を取り、直ぐ様良弥が郷原の会社に行った。本来なら支払いの遅延の手続きは支配人を通すことになっていて、半月から1か月ほど伸ばせる。ただ支払いの遅納を遊女の判断ではできない。それを悪用する輩がいるからだ。
 その悪用を企業の社長でするのは『藤ノ井』では初めてだった。小悪党の話ならすぐに良弥の裏部隊が話をして終わらせるが、郷原は500万円だ。それも可愛い茨棘を貶めるとは良弥は許せなかった。社長室に通されて郷原と対峙した。
「郷原社長、茨棘に言った支払い遅延のお話ですが、こんなチンケな詐欺まがいの事を私どもの『藤ノ井』を相手になさるとは思ってもみないことでした。こんな事が財界にもお顔を出される郷原様でございます。変な噂が立つ事にはなりはしないかと思います。私も企業家で事業も展開しておりますので、時には資金繰りも大変な時もございます。そのためにお支払いの遅延にも対処させて頂いております。いっかいの遊女である茨棘ではなく支配人に言って頂きましたら支配人の方で処理できました。その事につきましては、毎回御請求書を送らせて頂く時に書面でお知らせしておるはずでございますが、失念されていたのでしょうか?
 私共としては、即金でお支払いくださるのであれば、今回の事を誰にも漏らしは致しません。あなた様は今回の事をどうされますか?あなた様が『藤ノ井』で使われた飲食と交際費併せて500万円をお支払いできないなら致し方ございません。これ以降の『藤ノ井』でのお付き合いはこれまでとさせて頂きます。そうなれば『藤ノ井』が沈黙致しましても、今回のことは他の遊郭にも話は漏れると思われます。遊女茨棘は今回の損失を負う事となりますが、今回の場合『藤ノ井』への債権でございます。債権の付け替え先を銀行?都内の石川組にもする事も可能です。私は『藤ノ井』の楼主です。こんな事で遊女が泥を被るなんて許しません。それでも今回お支払いを無しになさいますか?」
 良弥は冷ややかに郷原を見た。郷原は、経済界でのにこやかに笑っている良弥の顔しか見たことがなかった。『藤ノ井』はほとんど支配人が采配して楼主は会ったことはなかった。郷原は財界の噂話をその時思い出した。『『藤ノ井』の楼主は、都内にある石川組の親分とも差しで話せると言う噂を思い出した。南川組とは桁が違うほどの大きな組の親分と自分より年下の良弥が懇意など許せないと思っていても、それよりも自分の変な噂が流れると事業にも影が出てくる。今回は引くしか無い』郷原は、会社の担当者を呼び、良弥にお金を払った。
「ありがとうございます。違約金につきましては、後ほど支配人の方より御請求書を送らせていただきます」
 良弥は、支払われた金を持って何事もないように郷原の会社を出て『藤ノ井』に帰って行った。そして、茨棘を楼主の部屋に呼んだ。
「茨棘、次こんな事が有れば直ぐに村雨に言うんだよ。お前は大切な『藤ノ井』の遊女であり、かけがいの無い茨なのだからわかったな」
「はい、楼主ありがとうございました」
 茨棘は良弥にお説教をされたが、それが少し嬉しかった。いつも以上に良弥の顔を見れたからだった。横で聞いていた支配人夫夫は、良弥のとろけるように優しい声に胸焼けしそうだった。茨棘もいつもの氷の顔でないのを見ると満更でもないようだ、それより嬉しく思っているようだった。支配人夫夫は『早く手元に置いて囲んで終え』と良弥に言いたくなった。
 そのあたりから郷原の気持ちが離れていると茨棘は感じていた。次の月の遊女の定期検診の日に他の妓楼の遊女から『郷原に良くしていただいている』とこれ見よがしに皮肉を浴びせられた。いつものように瑞葵がその手の喧嘩を買ってくれたから茨棘はあまり気にしていない。だから茨棘は誕生日の宴は無いと思っていた。だが誕生日の宴を開くと言う話を聞いて、茨棘は旦那様と一度ゆっくり会ってお金のことを謝りたいと思っていた。しかし、郷原はその意趣返しとして禁忌を犯して瑞葵を誕生日の宴に呼ぶと言う行動に至ったのだ。
 茨棘は郷原が瑞葵と縁を結ぶために意地で誕生日を開き、私との縁を切る布石にするんだろうと思った。『遊女も人気商売、旦那様が飽きれば他に逃げるのはこの商売ではよくある。遊女の方から旦那様に三下り半を出すことはできない。相手からの契約破棄を待つしかできないのだ。だが、そのうち今の状況は他人に知れる。そうなると、今迄のお客様も縁遠くなる人もいるだろうか』考えを巡らせながらも、宴が終わる最後まで気丈に座り胸を張る。
 それでも、茨棘は『藤ノ井』の竹の位だからお客様がいない訳ではないので売り上げが急に落ちることはないが、借金を抱えている彼には無力感に襲われる。
 唯一茨棘の心を救ったのは誕生日の次の日にフランスにいる元贔屓のお客様であった画家の三峰先生から誕生日のお祝いの品だった。フランス製の水彩絵の具とデッサン帳だった。デッサン帳はフランスの街中の様子を描いたもので、絵が好きな茨棘にはとても嬉しいプレゼントだった。画家らしく写真ではないそれらの絵はとても美しかった。
 それを見ながら三峰先生の優しさを思い出す。彼が自分の父親だと思う。母親の数少ない遺品の中に母親の絵姿があった。茨棘はその絵が好きで、モデルが自分に似ているのは嫌味だが、絵から受ける優しさを感じて好きだった。それは落款にうっすらと見える『』の文字、すぐには会えない彼への思慕が募る。
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