恋の一文字教えてください

葉嶋ナノハ

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番外編

長野にて (後編)

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後編です。
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 柚仁のお母さんが連れて行ってくれた温泉は、車で五分ほどのところにあった。
 少し高台になっているため、町の仄かな明かりが浴場からも見える。
「広いんですね~」
 想像していたよりも大きな施設で、立派な露天風呂まであることに驚いた。洗い場の床に木桶を置くと、コーン、という音が天井に響く。
「綺麗よね。ここは朝風呂にも入れるの。お天気の日は、とっても眺めがいいのよ~。今度来ようね」
「はい」
 柚仁のお母さんの微笑みに、私も笑って頷いた。
 体を軽く流してから大浴場のお湯に浸かる。時間が遅いのか、私たちの他にお客さんは一人しかいなかった。
 ちょうどいい温度のお湯が、じんわりと体を温めてくれる。今日はたくさん歩いたよね。緊張していたせいか、あまりそうは感じなかったけど、実は結構疲れてたのかも。
 は~……気持ちがいい。柚仁、まだお父さんと一緒に寝てるのかな。お母さんと私が二人で出掛けてるのを知ったら驚くだろうなぁ。
 お湯から上がり、洗い場で垢すりタオルにボディーソープを乗せていると、隣に座っていたお母さんが手を差し出した。
「貸して。ひまちゃんの背中、流してあげる」
 せ、せせ背中を!? 誰かに体を洗ってもらうなんて、小学校低学年ぶりくらい? 普通の親子って、温泉に来たら大人でもこういうことをするものなのかな。戸惑いながら返事をする。
「えっ、あ、じゃあ私が先にお母さんの背中を、」
「いいのいいの、流させて。はい、そっち向いて」
 お風呂の椅子の向きを変えて、言われるがままに、柚仁のお母さんへ背中を向けた。少し丸めた私の背中を優しい感触が上下する。お母さんが私に気を遣っているのが感じられて……妙に恥ずかしくなってしまった。
 いろいろ見られちゃってるよね。ほくろとか、贅肉とか……。あ、まさか、キスマークとか付いてないよね……!?
「はい、終わり」
「ありがとうございます。あの、私も洗わせてください」
「うふふ、じゃあお願いしようかな」
 お母さんに渡されたボディタオルで、彼女の背中を洗っていく。丸くて柔らかい肌……私のお母さんが生きていたら、こんな感じなのかもしれない。
 お母さんとの距離が一気に縮まったように感じられて、恥ずかしい気持ちがいつの間にか嬉しさへと変わっていた。

 髪も洗い終わり、今度は露天風呂へ入ることになった。
 ぽつぽつと置かれた灯りがお風呂を浮かび上がらせていて、とても雰囲気がいい。冷たい空気にさらされた体を、急いでお湯に浸からせた。
「あー気持ちいい~!」
「本当ね。貸し切りみたい」
 露天風呂には私とお母さんだけだった。
「あ、星があんなに……!」
 真っ暗な夜空に、星がたくさんきらめいていた。普段見る星の十倍以上はあるんじゃない!?
「もう少し標高の高い場所へ行くと、降るような星が見られるの。夏にでも一緒に行きましょうね」
「はい、行ってみたいです」

 ふう、と一息吐いて湯船に寄りかかる。本当に気持ちがいい。贅沢を満喫している私の名を、お母さんが小さな声で呼んだ。
「ひまちゃん」
「はい」
「柚仁を、よろしく頼みますね」
 突然の言葉を受けた私は、背筋を伸ばしてお母さんのほうに向き直った。急に、どうしたんだろう。
「あの子に花岡家の、籐仁先生の跡を継がせてしまったこと……お父さんがね、時々言うの。本当にこれで良かったのかって」
「……」
「柚仁は、自分が好きでやってるんだから気にするなって言うんだけど、私たちに気を遣ってるんじゃないかなんて、たまに思ってねえ」
 お母さんはお湯の中で自分の腕を撫でながら、穏やかな口調で話を続けた。
「籐仁先生の跡を継ぐのがプレッシャーになっていないか心配なの。あの子はあの子の才能があるのに、籐仁を超えられないだなんて、口癖みたいに言うから、ちょっと心配で」
 夏に花岡家の庭で花火をしたときのことを思い出す。柚仁が自分のことを話してくれたから、私も胸に抱えていたものを吐き出すことができた。
「多分、ひまちゃんになら本音を話すんじゃないかと思うの。もしかしたらもう、何でも話しているのかもしれないけれど、よろしくお願いします」
 お母さんがぺこりと頭を下げた。
「ごめんね、こんなこと頼んじゃって」
「いいえ。私、嬉しいです。大事なことを言っていただけて……こちらこそよろしくお願いします」
 顔を上げたお母さんが、私を見つめている。
「ゆうちゃんは前に、籐仁先生のことがとても好きだったって教えてくれました。自分を可愛がってくれて、たくさんのことを教えてくれたって。だから跡を継いだんだって」
「……」
「そのときのゆうちゃん、きちんと覚悟を決めているように見えました」
「ひまちゃんがそう感じるのなら、大丈夫なのかな」
 苦笑したお母さんの表情に胸が痛くなった。離れて暮らしているんだもん、心配だよね。柚仁のお父さんは籐仁先生に反発して跡を継がなかったと聞いていたから、余計にお母さんが心を痛めている気持ちが伝わる。
「ゆうちゃんの書道教室、とても人気があるんですよ」
「そうなの?」
「キャンセル待ちなんです。書道の先生してるゆうちゃん、楽しそうだし、すごーくカッコイイんですよ!」
 だから大丈夫、と思わずお母さんの手を握ってしまった。
「私、ゆうちゃんの傍にいて、彼のお手伝いができるように精一杯頑張ります」
「……ありがとう、ひまちゃん。そうね。私もひまちゃんの、いいお姑さんになれるように頑張ります」
 お母さんは私の手を強く握り返して、笑ってくれた。
「ひまちゃんは柚仁の初恋の人だもんね。あなたが傍にいてくれるなら、柚仁は大丈夫ね」
「あの……本当に初恋なんですか?」
 柚仁本人からも少し聞いたことがあるけれど、まさかお母さんからも聞くことになるとは……
「そうよ。毎日毎日、ひまちゃんの話ばっかりして、オレはひまと結婚する! まで言ってたんだから」
「え!」
「本人は覚えてないかもしれないけど、私はよーく覚えてるわよ」
 ふふと笑ったお母さんは、もう一度私の手を、今度は優しくしっかりと、握ってくれた。


 翌朝、お父さんの畑へ柚仁もついて行き、野菜についていろいろ教えてもらっていた。私はその間、家の中に小さな工房を持っているお母さんのお手伝いをした。お母さんはパン作りが得意で、いくつかのお店に卸しているほどの腕前だという。
 朝食後にお父さんは町へ仕事に出掛けるため、ここでお別れ。その後、お母さんが駅とは逆方向のお店にパンを卸に行かなければならないということで、私たちも一緒に家を出て、車で近くのバス停まで送ってもらった。
「ありがとな。また来るから」
「そうよ。本当はもう一泊してもらって、あれこれ案内したかったのに」
 柚仁が車から荷物を下ろしている傍で、お母さんが言った。
「忙しいんだよ、これでも。またゆっくり来るから」
「人気の教室なんだってね。やるじゃないの」
 お母さんが柚仁の背中を、ぱんと叩いた。
「ま、まーな」
 あ、珍しい、柚仁の照れている顔。
「ひまちゃん、来月のお食事会でまた会いましょうね。杉田さんにも、お姉さん方にもよろしくお伝えしてね」
「はい。本当に、お世話になりました。あの」
「ん?」
「今度お邪魔した時には、私にもパンの作り方を教えてください。お父さんの、お蕎麦も」
 お母さんの顔が、ふんわりとした笑顔になった。
「もちろんよ! 柚仁は置いといていいから、ひまちゃん一人でもおいで」
「何だよ、俺も一緒に来させてくれよ」
 むくれた柚仁の顔がおかしくて、私とお母さんとで声を上げて笑った。

 本数の少ないバスを待つ。二十分ほどして到着したバスの、一番後ろの座席に乗り込んだ。私たちの他には誰も乗っていない。
「そういやお前、昨夜、何で起こさなかったんだよ。何が悲しくて親父と寝なくちゃいけないんだっての」
 隣で柚仁がぶつくさ言い始めた。
「お母さんと一緒に何回も起こしたけど、柚仁もお父さんも、全然起きなかったんだもん」
「朝方は寒いだろうから、お前にあっためてもらおうと思ってたのによ」
「え」
「目が覚めたら、親父の薄ら寒い頭が目の前にあって、はったおそうかと思ったわ」
「柚仁、ひどい」
 お父さんには失礼だけど、思わず吹いてしまった。
「あのね、柚仁とお父さんが寝てる間に、お母さんと温泉に行ったんだよ」
「そうらしいな。気持ちよかったか?」
「うん! 露天風呂にも入ったんだけどね、星が本当に綺麗だったの……」
 彼のお母さんと、お湯に浸かりながら話したことを思い出した。
「ねえ、柚仁」
「ん?」
「籐仁先生の跡を継いで、良かった?」
「何だよ、唐突に。……何か言われたな?」
 溜息を吐いた柚仁の、次の言葉を静かに待った。
「良かったも何も、自分で決めたことだ。良かったと思えるようにしないといけないのは自分だろ。……まぁ、結果なんていつ出るかわからないけどさ」
 柚仁が私の頭に手を置いた。
「教室は賑わってるし、共同の個展も順調だし、苦労はあるけどそれなりに楽しい。何より、花岡家に俺が戻ってきたことで杉田さんとまた縁が出来て、ひまとこうして結婚することになったわけだしな。今は、これで良かったと思ってるよ」
 彼の大きな手が、私の髪をくしゃくしゃと撫でる。照れ隠しの彼の気持ちが伝わり、嬉しく思いながら確認した。
「やっぱり私が初恋だったんだね、柚仁」
「は?」
「お母さんが言ってたの。小さい頃、ひまと結婚する! ってお家で言ってたんだってね。可愛い」
「余計なことばっか教えやがって」
「柚仁は覚えてないだろうけど、お母さんはしっかり覚えてるって言ってたよ」
 舌打ちした柚仁が、前を向いたまま呟いた。
「……覚えてるよ」
「え?」
「俺も覚えてる。真剣にそう思ってたし、あの頃よりも今はもっと……ひまと結婚したいって思ってるからな」
 柚仁が私の手を握った。昨夜のお母さんと同じ、強い力で。
「今度は、お前のお父さんとお母さんのところだな。三浦のほうなんだっけ?」
「お墓参りのこと?」
「ああ。次の休みに必ず行こう」
「……ありがとう」
 最初は、勢いで結婚しようって言ったのかと思ってた。でも、こんなにも彼は私のことを考えて……ううん、私だけじゃない、私の家族のことまで考えてくれている。そう気付くたびに、幸せの涙が浮かんでしまう。
「ひまは絶対に俺が幸せにするからな」
「ゆうちゃん」
「覚悟しとけよ」
「う、うん……覚悟する……っ!」
「ばっ、こんなところで泣くなよ」
「誰も、い、いないから、いいでしょ」
 涙を拭きながら震える私の肩を、柚仁が安心させるようにぎゅっと抱いてくれた。
「まだ早いな、時間。少し観光してから帰るか?」
「ほんと?」
「行きたいところある?」
「あ、ある! ちょっと待って」
 もう一度涙を拭って、ごそごそとバッグを探り、ガイドブックを取り出した。昨夜、寝る前にこの周辺も調べておいたんだよね。
「えーと、陣屋小路っていう素敵なところがあるんだって。ここを散歩したい」
「へー、いいじゃん」
 本を広げて指さすと、柚仁も興味を示した。江戸の風情が残る素敵な小路だ。
「それから美術館と……あとね、ここのモンブランが食べたいの」
「まだ食うのかよ」
「だってここでしか食べられないんだよ~。柚仁も一緒に食べよ? ね?」
 彼の顔を覗き込むと、突然、ちゅっとキスをされた。
「こっ、こんなところで何すんの……!」
「誰もいないから、いいだろが」
 私の言葉を真似した柚仁が、優しい顔で笑った。

 窓の外は五月晴れ。
 濃い緑と青い青い空が、私たちの訪れを歓迎してくれているかのように輝いていた。

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