恋の一文字教えてください

葉嶋ナノハ

文字の大きさ
20 / 22
番外編

長野にて (後編)

しおりを挟む
後編です。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 柚仁のお母さんが連れて行ってくれた温泉は、車で五分ほどのところにあった。
 少し高台になっているため、町の仄かな明かりが浴場からも見える。
「広いんですね~」
 想像していたよりも大きな施設で、立派な露天風呂まであることに驚いた。洗い場の床に木桶を置くと、コーン、という音が天井に響く。
「綺麗よね。ここは朝風呂にも入れるの。お天気の日は、とっても眺めがいいのよ~。今度来ようね」
「はい」
 柚仁のお母さんの微笑みに、私も笑って頷いた。
 体を軽く流してから大浴場のお湯に浸かる。時間が遅いのか、私たちの他にお客さんは一人しかいなかった。
 ちょうどいい温度のお湯が、じんわりと体を温めてくれる。今日はたくさん歩いたよね。緊張していたせいか、あまりそうは感じなかったけど、実は結構疲れてたのかも。
 は~……気持ちがいい。柚仁、まだお父さんと一緒に寝てるのかな。お母さんと私が二人で出掛けてるのを知ったら驚くだろうなぁ。
 お湯から上がり、洗い場で垢すりタオルにボディーソープを乗せていると、隣に座っていたお母さんが手を差し出した。
「貸して。ひまちゃんの背中、流してあげる」
 せ、せせ背中を!? 誰かに体を洗ってもらうなんて、小学校低学年ぶりくらい? 普通の親子って、温泉に来たら大人でもこういうことをするものなのかな。戸惑いながら返事をする。
「えっ、あ、じゃあ私が先にお母さんの背中を、」
「いいのいいの、流させて。はい、そっち向いて」
 お風呂の椅子の向きを変えて、言われるがままに、柚仁のお母さんへ背中を向けた。少し丸めた私の背中を優しい感触が上下する。お母さんが私に気を遣っているのが感じられて……妙に恥ずかしくなってしまった。
 いろいろ見られちゃってるよね。ほくろとか、贅肉とか……。あ、まさか、キスマークとか付いてないよね……!?
「はい、終わり」
「ありがとうございます。あの、私も洗わせてください」
「うふふ、じゃあお願いしようかな」
 お母さんに渡されたボディタオルで、彼女の背中を洗っていく。丸くて柔らかい肌……私のお母さんが生きていたら、こんな感じなのかもしれない。
 お母さんとの距離が一気に縮まったように感じられて、恥ずかしい気持ちがいつの間にか嬉しさへと変わっていた。

 髪も洗い終わり、今度は露天風呂へ入ることになった。
 ぽつぽつと置かれた灯りがお風呂を浮かび上がらせていて、とても雰囲気がいい。冷たい空気にさらされた体を、急いでお湯に浸からせた。
「あー気持ちいい~!」
「本当ね。貸し切りみたい」
 露天風呂には私とお母さんだけだった。
「あ、星があんなに……!」
 真っ暗な夜空に、星がたくさんきらめいていた。普段見る星の十倍以上はあるんじゃない!?
「もう少し標高の高い場所へ行くと、降るような星が見られるの。夏にでも一緒に行きましょうね」
「はい、行ってみたいです」

 ふう、と一息吐いて湯船に寄りかかる。本当に気持ちがいい。贅沢を満喫している私の名を、お母さんが小さな声で呼んだ。
「ひまちゃん」
「はい」
「柚仁を、よろしく頼みますね」
 突然の言葉を受けた私は、背筋を伸ばしてお母さんのほうに向き直った。急に、どうしたんだろう。
「あの子に花岡家の、籐仁先生の跡を継がせてしまったこと……お父さんがね、時々言うの。本当にこれで良かったのかって」
「……」
「柚仁は、自分が好きでやってるんだから気にするなって言うんだけど、私たちに気を遣ってるんじゃないかなんて、たまに思ってねえ」
 お母さんはお湯の中で自分の腕を撫でながら、穏やかな口調で話を続けた。
「籐仁先生の跡を継ぐのがプレッシャーになっていないか心配なの。あの子はあの子の才能があるのに、籐仁を超えられないだなんて、口癖みたいに言うから、ちょっと心配で」
 夏に花岡家の庭で花火をしたときのことを思い出す。柚仁が自分のことを話してくれたから、私も胸に抱えていたものを吐き出すことができた。
「多分、ひまちゃんになら本音を話すんじゃないかと思うの。もしかしたらもう、何でも話しているのかもしれないけれど、よろしくお願いします」
 お母さんがぺこりと頭を下げた。
「ごめんね、こんなこと頼んじゃって」
「いいえ。私、嬉しいです。大事なことを言っていただけて……こちらこそよろしくお願いします」
 顔を上げたお母さんが、私を見つめている。
「ゆうちゃんは前に、籐仁先生のことがとても好きだったって教えてくれました。自分を可愛がってくれて、たくさんのことを教えてくれたって。だから跡を継いだんだって」
「……」
「そのときのゆうちゃん、きちんと覚悟を決めているように見えました」
「ひまちゃんがそう感じるのなら、大丈夫なのかな」
 苦笑したお母さんの表情に胸が痛くなった。離れて暮らしているんだもん、心配だよね。柚仁のお父さんは籐仁先生に反発して跡を継がなかったと聞いていたから、余計にお母さんが心を痛めている気持ちが伝わる。
「ゆうちゃんの書道教室、とても人気があるんですよ」
「そうなの?」
「キャンセル待ちなんです。書道の先生してるゆうちゃん、楽しそうだし、すごーくカッコイイんですよ!」
 だから大丈夫、と思わずお母さんの手を握ってしまった。
「私、ゆうちゃんの傍にいて、彼のお手伝いができるように精一杯頑張ります」
「……ありがとう、ひまちゃん。そうね。私もひまちゃんの、いいお姑さんになれるように頑張ります」
 お母さんは私の手を強く握り返して、笑ってくれた。
「ひまちゃんは柚仁の初恋の人だもんね。あなたが傍にいてくれるなら、柚仁は大丈夫ね」
「あの……本当に初恋なんですか?」
 柚仁本人からも少し聞いたことがあるけれど、まさかお母さんからも聞くことになるとは……
「そうよ。毎日毎日、ひまちゃんの話ばっかりして、オレはひまと結婚する! まで言ってたんだから」
「え!」
「本人は覚えてないかもしれないけど、私はよーく覚えてるわよ」
 ふふと笑ったお母さんは、もう一度私の手を、今度は優しくしっかりと、握ってくれた。


 翌朝、お父さんの畑へ柚仁もついて行き、野菜についていろいろ教えてもらっていた。私はその間、家の中に小さな工房を持っているお母さんのお手伝いをした。お母さんはパン作りが得意で、いくつかのお店に卸しているほどの腕前だという。
 朝食後にお父さんは町へ仕事に出掛けるため、ここでお別れ。その後、お母さんが駅とは逆方向のお店にパンを卸に行かなければならないということで、私たちも一緒に家を出て、車で近くのバス停まで送ってもらった。
「ありがとな。また来るから」
「そうよ。本当はもう一泊してもらって、あれこれ案内したかったのに」
 柚仁が車から荷物を下ろしている傍で、お母さんが言った。
「忙しいんだよ、これでも。またゆっくり来るから」
「人気の教室なんだってね。やるじゃないの」
 お母さんが柚仁の背中を、ぱんと叩いた。
「ま、まーな」
 あ、珍しい、柚仁の照れている顔。
「ひまちゃん、来月のお食事会でまた会いましょうね。杉田さんにも、お姉さん方にもよろしくお伝えしてね」
「はい。本当に、お世話になりました。あの」
「ん?」
「今度お邪魔した時には、私にもパンの作り方を教えてください。お父さんの、お蕎麦も」
 お母さんの顔が、ふんわりとした笑顔になった。
「もちろんよ! 柚仁は置いといていいから、ひまちゃん一人でもおいで」
「何だよ、俺も一緒に来させてくれよ」
 むくれた柚仁の顔がおかしくて、私とお母さんとで声を上げて笑った。

 本数の少ないバスを待つ。二十分ほどして到着したバスの、一番後ろの座席に乗り込んだ。私たちの他には誰も乗っていない。
「そういやお前、昨夜、何で起こさなかったんだよ。何が悲しくて親父と寝なくちゃいけないんだっての」
 隣で柚仁がぶつくさ言い始めた。
「お母さんと一緒に何回も起こしたけど、柚仁もお父さんも、全然起きなかったんだもん」
「朝方は寒いだろうから、お前にあっためてもらおうと思ってたのによ」
「え」
「目が覚めたら、親父の薄ら寒い頭が目の前にあって、はったおそうかと思ったわ」
「柚仁、ひどい」
 お父さんには失礼だけど、思わず吹いてしまった。
「あのね、柚仁とお父さんが寝てる間に、お母さんと温泉に行ったんだよ」
「そうらしいな。気持ちよかったか?」
「うん! 露天風呂にも入ったんだけどね、星が本当に綺麗だったの……」
 彼のお母さんと、お湯に浸かりながら話したことを思い出した。
「ねえ、柚仁」
「ん?」
「籐仁先生の跡を継いで、良かった?」
「何だよ、唐突に。……何か言われたな?」
 溜息を吐いた柚仁の、次の言葉を静かに待った。
「良かったも何も、自分で決めたことだ。良かったと思えるようにしないといけないのは自分だろ。……まぁ、結果なんていつ出るかわからないけどさ」
 柚仁が私の頭に手を置いた。
「教室は賑わってるし、共同の個展も順調だし、苦労はあるけどそれなりに楽しい。何より、花岡家に俺が戻ってきたことで杉田さんとまた縁が出来て、ひまとこうして結婚することになったわけだしな。今は、これで良かったと思ってるよ」
 彼の大きな手が、私の髪をくしゃくしゃと撫でる。照れ隠しの彼の気持ちが伝わり、嬉しく思いながら確認した。
「やっぱり私が初恋だったんだね、柚仁」
「は?」
「お母さんが言ってたの。小さい頃、ひまと結婚する! ってお家で言ってたんだってね。可愛い」
「余計なことばっか教えやがって」
「柚仁は覚えてないだろうけど、お母さんはしっかり覚えてるって言ってたよ」
 舌打ちした柚仁が、前を向いたまま呟いた。
「……覚えてるよ」
「え?」
「俺も覚えてる。真剣にそう思ってたし、あの頃よりも今はもっと……ひまと結婚したいって思ってるからな」
 柚仁が私の手を握った。昨夜のお母さんと同じ、強い力で。
「今度は、お前のお父さんとお母さんのところだな。三浦のほうなんだっけ?」
「お墓参りのこと?」
「ああ。次の休みに必ず行こう」
「……ありがとう」
 最初は、勢いで結婚しようって言ったのかと思ってた。でも、こんなにも彼は私のことを考えて……ううん、私だけじゃない、私の家族のことまで考えてくれている。そう気付くたびに、幸せの涙が浮かんでしまう。
「ひまは絶対に俺が幸せにするからな」
「ゆうちゃん」
「覚悟しとけよ」
「う、うん……覚悟する……っ!」
「ばっ、こんなところで泣くなよ」
「誰も、い、いないから、いいでしょ」
 涙を拭きながら震える私の肩を、柚仁が安心させるようにぎゅっと抱いてくれた。
「まだ早いな、時間。少し観光してから帰るか?」
「ほんと?」
「行きたいところある?」
「あ、ある! ちょっと待って」
 もう一度涙を拭って、ごそごそとバッグを探り、ガイドブックを取り出した。昨夜、寝る前にこの周辺も調べておいたんだよね。
「えーと、陣屋小路っていう素敵なところがあるんだって。ここを散歩したい」
「へー、いいじゃん」
 本を広げて指さすと、柚仁も興味を示した。江戸の風情が残る素敵な小路だ。
「それから美術館と……あとね、ここのモンブランが食べたいの」
「まだ食うのかよ」
「だってここでしか食べられないんだよ~。柚仁も一緒に食べよ? ね?」
 彼の顔を覗き込むと、突然、ちゅっとキスをされた。
「こっ、こんなところで何すんの……!」
「誰もいないから、いいだろが」
 私の言葉を真似した柚仁が、優しい顔で笑った。

 窓の外は五月晴れ。
 濃い緑と青い青い空が、私たちの訪れを歓迎してくれているかのように輝いていた。

しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

王子を身籠りました

青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。 王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。 再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。

初夜に暴言を吐いた夫は後悔し続ける──10年後の償い【完結】

星森 永羽(ほしもりとわ)
恋愛
王命により、辺境伯ロキアのもとへ嫁いだのは、金髪翠眼の美しき公爵令嬢スフィア。 だが、初夜に彼が告げたのは、愛も権限も与えないという冷酷な宣言だった。噂に踊らされ、彼女を「穢れた花嫁」と罵ったロキア。 しかし、わずか一日でスフィアは姿を消し、教会から届いたのは婚姻無効と慰謝料請求の書状──。 王と公爵の怒りを買ったロキアは、爵位も領地も名誉も奪われ、ただの補佐官として生きることに。 そして十年後、運命のいたずらか、彼は被災地で再びスフィアと出会う。 地位も捨て、娘を抱えて生きる彼女の姿に、ロキアの胸に去来するのは、悔恨と赦しを乞う想い──。 ⚠️本作はAIの生成した文章を一部に使用しています。

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

完結 辺境伯様に嫁いで半年、完全に忘れられているようです   

ヴァンドール
恋愛
実家でも忘れられた存在で 嫁いだ辺境伯様にも離れに追いやられ、それすら 忘れ去られて早、半年が過ぎました。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

二十年以上無視してきた夫が、今さら文通を申し込んできました

小豆缶
恋愛
「お願いです。文通から始めてもらえませんか?」 二十年以上会話もなかった夫――この国の王が、ある日突然そう言ってきた。 第一王妃マリアは、公爵家出身の正妃。だが夫はかつて、寵愛する第三王妃の話のみを信じ、彼女を殴ったことがある。その事件が原因で、マリアは男性恐怖症が悪化して、夫と二人きりでは会話すらできなくなっていた。 それから二十年。 第三王妃はとある事故で亡くなり、夫は反省したらしい。だからといって――今さら夫婦関係をやり直したいと言われても遅すぎる。 なのに王は諦めない。毎日の手紙。花を一輪。夜食の差し入れ。 不器用すぎる求愛に振り回されるうち、マリアの中で止まっていた感情が少しずつ動き始める。 これは、冷えきった政略夫婦が「文通」からやり直す恋の話。 ※本作は「存在されていないことにされていた管理ギフトの少女王宮で真の家族に出会う」のスピンオフですが、単体で読めます。

【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜

来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、 疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。 無愛想で冷静な上司・東條崇雅。 その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、 仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。 けれど―― そこから、彼の態度は変わり始めた。 苦手な仕事から外され、 負担を減らされ、 静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。 「辞めるのは認めない」 そんな言葉すらないのに、 無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。 これは愛? それともただの執着? じれじれと、甘く、不器用に。 二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。 無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。 ※この物語はフィクションです。 登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。

ヤンデレにデレてみた

果桃しろくろ
恋愛
母が、ヤンデレな義父と再婚した。 もれなく、ヤンデレな義弟がついてきた。

処理中です...
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。
番外編を閲覧することが出来ません。
過去1ヶ月以内にエタニティの小説・漫画・アニメを1話以上レンタルしている と、エタニティのすべての番外編を読むことができます。

このユーザをミュートしますか?

※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。