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よく知っていた隣人
しおりを挟む休みの日なのに、早く目が覚めてしまった。二度寝をしようとしても上手くできなくて、茜は仕方なく起きあがった。
カーテンを開けると雲一つない快晴が広がっている。こういう日はシーツなんかを洗濯して干したいところだが、そんな気分にはなれなかった。
それでもお腹は空くのが不思議なもので、茜は冷蔵庫からオレンジジュースを取り出してグラスにそそぎ、食パンの袋から一枚取り出すとトースターに放り込んだ。
食パンが焼けるまでの間に、冷蔵庫からマーガリンと苺ジャムを出してテーブルに乗せる。あとはただぼうっと焼けるのを待つだけだ。
チーン。
トースターがパンが焼けたと言ってくる。皿に焼けた食パンを乗せると、マーガリンを塗り、ジャムを塗った。それを食べては、オレンジジュースで流し込む。
あの川井のことがあってから、卵かけご飯が食べられなくなった。あの砂になる瞬間が頭から離れない。鶏の魂の話がずっと頭の中にある。
これでいいと、川井の希望通りだったはずなのに、こうして引きずるのは自分のエゴだというのはわかっている。それでも上手く立ち直る方法がわからなかった。
トーストを食べ終わり、皿とグラスを流しに置くと、ベランダに出てみた。日差しが強くなってきて、春も終わってしまいそうだ。
手すりに頬杖をついて町並みを見ると、遠くまで続く建物が見える。そのどれにも、人が住んでいて、働いていて、生活がある。
六十年という決まった期間、それを精一杯生きなくてはいけないのは、罰なのだろうか、それとも希望なのだろうか。
そんなことを考えていると、隣の部屋の窓が開く気配がした。スリッパを履く音に続いて、洗濯物を干す音も聞こえてくる。
ふと茜は隣人がどんな人が知らないなと思った。ここの階は一人用のフロアで、特に左右に挨拶はいらないと案内してくれた人に言われたのだ。
だから、隣が男性か女性かも知らない。たまに物音がするし、今現在隣で洗濯物を干しているのだから、住んではいるのだろう。今、挨拶した方がいいのだろうかと考えていると、聞き慣れた声がした。
「あれ? 八巻?」
「……天真!?」
隣との仕切の横からひょっこりと顔を出したのは、よく知った同期、天真博文だった。
「え、隣、天真なの?」
「まぁ、うちココだけど」
土日休みの茜と休日がシフト制の天真では、休日が合うことあまりない。だからこれまで玄関先でもベランダでも合うことがなかったし、茜も休日に隣の気配がしないなと思っていた。
「同時期に来たから区画も一緒だし、社宅だし、こういうこともあるだろ」
「ないわよ」
「いや、現にあるじゃん」
「あんまりベランダ覗かないでよね。洗濯物とかあるし」
「そっちこそ。オレのパンツ見んなよ」
「誰が見るか」
洗濯物を干すのは終わったのか、一時中断したのか、天真は茜と同じように手すり頬杖をついた。
「中入んないの?」
「んー天気いいし」
「なにそれ」
「お前さ」
「なによ」
「ちゃんと飯食ってるか?」
「食べてる。さっきもトースト食べた」
「寝れてるか?」
それが一体なんなのだと苛立った茜が、頬杖をといて天真を見る。するとすぐに次の言葉が飛んできた。
「お前、酷い顔してるぞ」
「え……」
「なにがあった」
「別になにも」
「なにもって顔じゃない」
「ただちょっと、仕事で消滅する人を見ただけ。それだけよ」
口に出してみたら、本当にそれだけだった。消滅する人を見た。それが初対面の人ではなかっただけ。でも2、3度会っただけだし、こんなに感傷になる必要もないのかもしれない。
ぐるぐるそんなことを思い出した頃、天真がことさら明るい声で茜を呼んだ。
「八巻」
「なに」
「昼、食いに行こうぜ」
「え?」
「美味いとこ教えてやる。オレもお迎え課の先輩から教えてもらったんだ。ご飯、味噌汁、キャベツ食べ放題。あと漬け物が美味い。十一時半になったチャイム鳴らすから。逃げんなよ」
それだけ言うと天真は部屋の中に入っていった。
「逃げないわよ……」
隣との仕切にぼそりと呟いて、茜も部屋の中に入る。天真との約束の時間までまだある。洗濯機を回して、掃除をするくらい余裕だ。
ベッドからシーツをはがして洗濯機に放り込み、洗剤と柔軟剤を入れるとスイッチを入れる。その間に散らばったものを片づけて、掃除機をかけた。
ケトルで湯を沸かして紅茶を淹れて、暇つぶしにと買ってきていたファッション雑誌をぱらぱらとめくる。夏の服は全然持っていないから、そろそろ買いに行かないといけない。行動範囲が増えるとスマホも欲しい。生きていくには物入りだ。
洗濯機が終了の音楽を流す。シーツを干すと、七分袖のワンピースとカーディガンに着替えて、時間まで雑誌を眺めていた。
この家のチャイムが鳴らされるのは初めてだ。それは存外にそわそわする。十分前から時計を気にして、天真は時間きっちりにチャイムを鳴らした。
いつも休日に使っているポシェットを持って、玄関に行く。ドアを開けると、役所で見るスーツ姿ではなく、コットンシャツとチノパンツというラフな格好の天真がいた。
「逃げなかったな」
「逃げるわけないでしょ」
そんなことを言いながら、ドアを閉めて、鍵をかける。そんな茜を待って、天真が歩き出した。
「歩いて行けるの?」
「行ける行ける。社宅のすぐ近くだし」
そう言う天真が茜を連れてきたのは、いつも行くスーパーからほど近くにある古い定食屋だった。
「こんなとこに定食屋さんがあるなんて知らなかった」
「だろ? オレも教えてもらうまで知らなかった」
開店時間からすぐだからか、店内には男女の二人組がいるだけだった。
「おばちゃーん、こんにちは」
三角巾とエプロンをつけたふくよかな女性に天真が声をかける。女性はこちらを見ると笑顔になって、声をあげた。
「あらー天真ちゃん、私服ってことは今日は休み? まぁまぁこっちに来たばっかりってのに、可愛い彼女見つけちゃって」
「こいつは役所の同期の八巻。この店知らねぇって言うから連れてきたの」
「もぉーデートならもっといい店に連れて行きなよ。さぁさぁ、好きな席座って」
「うん。八巻。座ろうぜ」
「う、うん」
天真は店の奥に入っていくと、壁際の席に座った。茜もその前に座る。すぐに店員のおばちゃんがお冷やを持ってきてくれた。
「はい、お冷や。注文決まったら呼んでね」
「ありがとうございます」
メニューを開くと定食を中心に様々な料理が並んでいた。
「天真はなにする?」
「オレ、ここではトンカツ定食一択。揚げ物家でしたくねーもん」
「確かにね。じゃあ、私はミックスカツ定食」
「いいじゃん。おばちゃーん」
天真がおばちゃんに声をかけ、注文を言う。おばちゃんは笑顔で返事をすると、厨房に声をかけた。
「ここって昔からあるの?」
「みたいだな。でも厨房のおじちゃんはあと五年で転生だって言ってた」
「そうなんだ」
「でも厨房にもう一人若めの人がいて、その人が受け継ぐって言ってたから、この店はなくならねーよ」
「息子さん?」
「ここはあの世だぜ? みんな一人でここに来るし、あの人たちも他人だよ。一人で生きる人たちが多いから、みんな仲がいい感じはする」
厨房から少しだけ見えるおじさんと、ホールをまとめるおばさんのやりとりはまるで長年連れ添った夫婦のようだ。
「いらっしゃいませぇー」
店の入り口が開いて、四人家族が入ってくる。両親と小さな男の子が二人。
「あの家族も、他人なのかな」
茜が純粋な疑問を口に出すと、天真はその家族をちらりと見てお冷やを飲んだ。
「ここで出会って恋人になる人もいるし、疑似家族を作る人もいる。本当の家族の場合は一緒に死んだってことだな。事故とか事件とか」
「……」
「あとは一家心中」
入り口近くに座った四人家族は、メニューを見て楽しそうだ。でもここがあの世である限り、彼らは一度死んだ身だ。それも寿命ではない形で。
あの大型スーパーでもそんな人たちもたくさん見た。家族連れはいたし、その全てが本当の家族じゃなくて、ここに来てできた疑似家族かもしれない。それでも何組かは本当の家族だったのだろう。事故か事件か。そんな悲しい出来事で死んだ人たちでも、ここでは楽しく過ごしてもらいたい。
「はい、お待たせぇ! トンカツ定食とミックスカツ定食ねぇ。キャベツと味噌汁とご飯はおかわり自由だから遠慮なく言ってね」
茜の思考を遮るように、おばちゃんがお盆を二つ持ってくる。その上には熱々の揚げ物が乗っていた。
「わぁ」
「いっぱい食べろよ」
「うん」
自家製ドレッシングだというのをキャベツにかけると、少しの酸味が美味しくていくらでも食べれそうだった。ミックスカツはチキンカツにチーズメンチ、それにエビフライが乗っている。あれこれ食べれて、茜は自分の選択が正しかったことを理解した。
ご飯だって結構な量が最初から盛られていて、結局茜はおかわりをすることなく完食した。天真はどれも一通りおかわして、気持ちのいい食べっぷりを見せつけてくれた。
「やっぱここのトンカツ美味いわ」
おかわりした味噌汁を飲み干して、満足そうに天真が言う。茜の方にはまだご飯と味噌汁が少し残ってて、慌てて食べようとしたのを天真が止めた。
「ゆっくり食えよ。今日休みだろ」
「う、うん」
「オレさ、交通事故で死んだんだわ」
「え?」
同期で、同じ役所で働いていて、隣に住んでいても、天真のことは本当になにも知らない。死亡理由を聞くのは気が引けたし、二十代前半にしか見えない天真のことだから、きっと病気か事故かなんだろうなと勝手に想像していただけだ。
「大学三年の時に。歩いてたらじじいの運転ミスってやつで、ビルと車の間に挟まれて」
「覚えてるんだね」
「まぁね。オレ一人っ子でさ、親より先に死ぬんだなぁって思ったら、なんか未練とか後悔とか色々押し寄せてきて、気がついたらここで役所にスカウトされてた」
「……そうなんだ」
「まだ両親が死ぬまで時間はあるけど、職員は六十年転生の縛りを受けないし、もう一度くらい会えるかなって」
「会えるといいね」
「おう。お前もな」
「私は生前の記憶ないから」
茜には天真のように死んだときの記憶も、家族の記憶もない。少しだけ天真のことが羨ましく思った。
「でも、お前、茜って名前があるだろ?」
「え?」
「それってお前に茜って名前をつけた親がいるってことだろ」
「そう、なのかな」
「ちなみにオレの博文って名前はじいちゃんがつけた。伊藤博文みたいに偉い人になれって」
「いとう? 誰?」
「初代首相」
食後のお茶を飲みながら、天真が言う。お茶は温かいほうじ茶で、いい香りがした。
自分の名前が、誰かにつけられたものだというを、今まで考えたことがなかった。でも言われてみればそうだ。この「茜」という名前を自分につけた人がいるはずだ。
両親か、祖父母か、それとも名付け親が別にいるのか。
記憶のない生前の輪郭がゆらゆらと動き出す気がした。
混み始めた店内をあとにして、外にでる。自分が誘ったのだからと、天真が奢ってくれた。それをありがたく受け取る。
「今日の夜はしっかり寝ろよ。湯船にも浸かれよ」
「わかってるよ」
買い物に隣の駅まで行くという天真を別れて、いつも行くスーパーに寄って、オレンジジュースと食パンを買った。夕飯はどうしようかと思ったけど、今は満腹でとてもじゃないけど考えられない。
社宅の自分の家につくと、開けていった窓から風が入ってきて気持ちが良かった。手を洗って、オレンジジュースを冷蔵庫に入れると、ベッドに飛び込んだ。
満腹と暖かな日差しと心地よい風。
睡魔はすぐにやってきた。
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