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春編①『桜花爛漫、世は薄紅色』
第四話「夜桜周遊」⑵
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屋形船は洋燈商店街へと舵を切り、ゆっくりと進む。波は穏やかで、程よい揺れが眠気を誘った。
日頃の疲れからか、次第に由良のまぶたが落ちていく。その時、ふいに薄紅色の何かが目の前をよぎった。
「ん?」
反射的につかむ。つかんだ手を開くと、一枚の桜の花びらを捕らえていた。
「何でこんなところに桜が? 洋燈公園から飛んできたのかしら」
花びらは風に吹かれ、由良の手から舞い上がる。由良は花びらの行方を目で追ううちに、ようやく周囲の変化に気がついた。
少し目を離した隙に、大通り沿いに植えられていた街路樹が一本残らず満開の桜へと変貌していたのだ。萌黄色の新芽はどこへやら、薄紅色の花々は街灯に照らされ、色鮮やかに輝いていた。風が吹くたびに大量の桜の花びらが吹雪のごとく降り注ぎ、漆黒の川を薄紅色に染め上げていった。
「……綺麗」
この世のものとは思えない美しい光景に、由良は息を呑む。あまりに現実離れし過ぎていて「このままあの世へ連れて行かれるのではないか」と危ぶむほどだった。
大通りの桜の花びらは商店街の暗いアーケードにまで流れ込み、星のように散らばっていた。しかも奥へ進むにつれ、量が増えていく。
「こんなところまで流れてきたのか」
「いいえ。あれらは別の桜のものですわ」
「別の? この辺りに桜なんてあったかな」
由良は桜世の言葉を疑っていたが、洋燈神社が見えてくると合点がいった。
洋燈神社にそびえ立っているはずのイチョウが、桜の巨木へと姿を変えていたのだ。巨木の周りには無数の花びらが散り落ち、地面を薄紅色で覆い尽くしていた。
イチョウだけではない。神社を取り囲む森の木々も桜に変わり、桜の森へと様変わりしていた。神社同様、いつもは味気ない茶色い地面を散り落ちた花びらが埋め尽くし、くすみのない薄紅色の絨毯がどこまでも広がっていた。
「……伊調さんが見たら、卒倒するでしょうね。あの人、イチョウが大好きだから」
由良は春色になったイチョウの姿に心を奪われつつも、イチョウ好きの常連客に同情した。
同時に、彼女にだけは今日見たもののことを話さないでおこうと誓った。
その後も行く先々で、あらゆる樹木が桜へと変化していた。民家の庭の木、鉢に植えられた盆栽、黄福寺のイチョウの木……どこもかしこも桜だらけだった。由良は、一生分の桜を見た気さえした。
しかし、不思議と飽きはしなかった。いつもと違う街の風景に、テンションが高まっていたのかもしれない。
気になるのは、これらの現象が全て桜世の手によるものなのかという点だった。その疑問を直接本人に尋ねると、桜世は袖で口元を隠し、クスクスと笑った。
「だって貴方、桜をご覧になりたいのでしょう? せっかくなら、十二分に堪能して頂かないと」
「にしたって、大規模過ぎます。あれ、明日には元に戻っているんでしょうね?」
「さぁ? それは貴方次第じゃなくて?」
「私次第?」
意味深な言い回しに、由良は眉をひそめる。
ずっと気にはなっていた。桜世が〈心の落とし物〉だとして、一体これは誰の未練が生んだ幻なのだろうか?
「……分からない」
思い当たる人間の顔を次々に浮かべていく。しかし、どの人物も決定打に欠けた。
全くの赤の他人の〈心の落とし物〉ならば、ただただ申し訳なかった。他人が乗るはずだった船に勝手に居座っているようで、居心地が悪かった。
日頃の疲れからか、次第に由良のまぶたが落ちていく。その時、ふいに薄紅色の何かが目の前をよぎった。
「ん?」
反射的につかむ。つかんだ手を開くと、一枚の桜の花びらを捕らえていた。
「何でこんなところに桜が? 洋燈公園から飛んできたのかしら」
花びらは風に吹かれ、由良の手から舞い上がる。由良は花びらの行方を目で追ううちに、ようやく周囲の変化に気がついた。
少し目を離した隙に、大通り沿いに植えられていた街路樹が一本残らず満開の桜へと変貌していたのだ。萌黄色の新芽はどこへやら、薄紅色の花々は街灯に照らされ、色鮮やかに輝いていた。風が吹くたびに大量の桜の花びらが吹雪のごとく降り注ぎ、漆黒の川を薄紅色に染め上げていった。
「……綺麗」
この世のものとは思えない美しい光景に、由良は息を呑む。あまりに現実離れし過ぎていて「このままあの世へ連れて行かれるのではないか」と危ぶむほどだった。
大通りの桜の花びらは商店街の暗いアーケードにまで流れ込み、星のように散らばっていた。しかも奥へ進むにつれ、量が増えていく。
「こんなところまで流れてきたのか」
「いいえ。あれらは別の桜のものですわ」
「別の? この辺りに桜なんてあったかな」
由良は桜世の言葉を疑っていたが、洋燈神社が見えてくると合点がいった。
洋燈神社にそびえ立っているはずのイチョウが、桜の巨木へと姿を変えていたのだ。巨木の周りには無数の花びらが散り落ち、地面を薄紅色で覆い尽くしていた。
イチョウだけではない。神社を取り囲む森の木々も桜に変わり、桜の森へと様変わりしていた。神社同様、いつもは味気ない茶色い地面を散り落ちた花びらが埋め尽くし、くすみのない薄紅色の絨毯がどこまでも広がっていた。
「……伊調さんが見たら、卒倒するでしょうね。あの人、イチョウが大好きだから」
由良は春色になったイチョウの姿に心を奪われつつも、イチョウ好きの常連客に同情した。
同時に、彼女にだけは今日見たもののことを話さないでおこうと誓った。
その後も行く先々で、あらゆる樹木が桜へと変化していた。民家の庭の木、鉢に植えられた盆栽、黄福寺のイチョウの木……どこもかしこも桜だらけだった。由良は、一生分の桜を見た気さえした。
しかし、不思議と飽きはしなかった。いつもと違う街の風景に、テンションが高まっていたのかもしれない。
気になるのは、これらの現象が全て桜世の手によるものなのかという点だった。その疑問を直接本人に尋ねると、桜世は袖で口元を隠し、クスクスと笑った。
「だって貴方、桜をご覧になりたいのでしょう? せっかくなら、十二分に堪能して頂かないと」
「にしたって、大規模過ぎます。あれ、明日には元に戻っているんでしょうね?」
「さぁ? それは貴方次第じゃなくて?」
「私次第?」
意味深な言い回しに、由良は眉をひそめる。
ずっと気にはなっていた。桜世が〈心の落とし物〉だとして、一体これは誰の未練が生んだ幻なのだろうか?
「……分からない」
思い当たる人間の顔を次々に浮かべていく。しかし、どの人物も決定打に欠けた。
全くの赤の他人の〈心の落とし物〉ならば、ただただ申し訳なかった。他人が乗るはずだった船に勝手に居座っているようで、居心地が悪かった。
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