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第二章 疑念と忠誠
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夜の東宮は、静まり返っていた。
政務棟の明かりはすでに落とされ、回廊を照らす水晶灯の光だけが、石畳に淡く反射している。
書房の中では、ただ一人、王太子・景耀が机に向かっていた。積み重なった書簡の束を脇へ寄せると、盃を手に取る。ぬるくなった白酒を口に含んだ瞬間、かすかな鉄の匂いが鼻先をかすめた。
――金属の匂い。
宴の夜に漂っていた、あの異様な臭気。
喉を通る酒はたちまち苦味を帯び、景耀の記憶を静かに呼び覚ました。
あれは、まだ五歳の春だった。
ある朝、母・麗妃が蒼ざめた顔で自室へと呼び寄せた。
「景耀……」
彼女の指が震えながら、彼の腹をなぞる。へその下、白い肌に青い龍のような文様が淡く浮かび上がっていた。
龍の証。――蒼嶺国の正統な後継者のみに現れる文様だった。
麗妃はすぐに侍女たちを下がらせ、戸口に錠を下ろした。
「この印のことは、誰にも――いいえ、私以外には決して知られてはなりません」
その声音には、喜びではなく恐怖がにじんでいた。
なぜなら、この印を持つ子は――命を狙われるからだ。
当時、国王には二十人を超える子供たちがいた。景耀はその中で最も年長だった。正妃の子ではなかったものの、その容姿と聡明さから周囲の期待を一身に集めていた。しかし、それは、血で血を洗う後継者争いの渦中に自らを置くことでもあった。
池に落とされた弟。薬湯に毒を盛られた妹。寝所で窒息死した異母兄。
幼いながらも、景耀は兄弟姉妹が亡くなる様子を日常の一部として見てきた。いつ自分がその刃の標的になるかもわからない。そんな緊張の中で育ってきた。
龍の印が刻まれたあの日から、景耀の人生は常に暗殺と隣り合わせだった。
十八歳になった頃、気づけば国王の子は自分を除いて誰も残っていなかった。
一人、また一人と消えていく兄弟たち。
名家の思惑、妃たちの野心、臣下たちの忠誠と裏切り――それらすべてが絡み合い、玉座の周囲には常に血の臭いが漂っていた。
ちょうどその頃、国王は病に倒れ、景耀が政務を代行することになった。王座は遠い未来の話ではなく、目前の現実となった。
――だからこそ。
だからこそ、あの夜に仕掛けられた毒は、過去の亡霊の再来にも思えた。玉座を狙う者が、再び牙を剥いたのだ。
景耀は立ち上がり、窓を押し開けた。夜風が頬を撫で、香炉の煙を揺らす。蒼穹宮の向こうには、春の星々が冷たく輝いていた。
彼の胸の奥で、静かに怒りの焔が灯る。
これ以上、血を流させはしない。自分の命も、この国も――誰にも奪わせはしない。
ふと、景耀の視線が控えの間の方を向いた。
あの夜、自ら毒を舐め、命を賭して自分を守った宦官——凌雪はなんとか命を取り留めた。意識を失う寸前、彼は笑みをこぼした。自分の存在を肯定するように――。
景耀は書房の窓を静かに閉め、奥の寝所へと向かった。
*
薬草の苦い匂いが、鼻腔をかすめた。
ぼんやりと霞んだ視界の中、凌雪はゆっくりとまぶたを持ち上げる。見知らぬ天井が目に入った。しばらくして、そこが東宮の一室であることに気づく。
身体を起こそうとした瞬間、腹の底から鈍い痛みが込み上げ、息が詰まった。喉も焼け付くように痛む。宴の夜、盃に残った酒を舐めた時の、あの鉄臭い味と痺れるような感覚が、脳裏に蘇る。
「目が覚めたか」
声に振り向くと、部屋の隅に医官が座っていた。年配の宦官医で、落ち着いた目をしていた。
「毒は舌先だけだったようだ。運がよかったな。あと少し遅ければ、命はなかった」
医官はそういって、木の盆を差し出した。湯気の立つ薬湯が乗っている。凌雪は感謝の意を込めて拱手し、両手で受け取った。薬はひどく苦く、喉を通るたびに内臓に染み渡るようだった。
「殿下が、お前の治療を命じられた。倒れたお前をすぐにここへ運び、解毒薬を飲ませるように仰せになったのだ」
「……殿下が?」
凌雪は意外そうに目を見開いた。医官は淡々と頷く。
「宴の混乱で倒れた宦官に、普通ならここまでの手当てはしない。殿下のご沙汰がなければ、お前は床に放置され、今頃は死んでいたであろう」
その言葉が胸にずしりと響いた。景耀が……命じたのだ。
凌雪は膝の上で拳を握った。
――あの夜、あの瞬間には、迷いはなかった。殿下を守ること。それが自分に課せられた唯一の役目だった。
外から、宦官たちのかすかかなざわめきが聞こえてきた。
「……毒だったらしい」
「宴の席で……」
「中庶子が身を投げ出したって?」
凌雪は布団の上に身を起こし、扉の向こうに耳を澄ませた。噂はすでに東宮中を駆け巡っているようだった。
「身体は動かせそうか?」
「……はい。なんとか」
「ならば、自室にて休むがよい。毒を口にしたのだから、養生せねば身体にさわるぞ」
「いえ、そういうわけには――」
凌雪はかぶりを振って身体を動かそうとした。だが、身体に痛みが走る。
「だめだ。殿下から仰せつかっておる。しっかり養生させるようにとな」
「殿下が?」
凌雪は驚きのあまり目を見開いた。
――まさか、殿下が私を休ませてくださるとは……。
「そういうことでしたら、数日、自室で養生したいと思います」
「それがよかろう。わしから殿下に数日自室で休むと伝えておこう」
「ありがとうございます」
医官の言葉に頷き、凌雪は慎重に身体を動かした。まだ頭は重く、吐き気も残っていたが、重い足を引きずるように東宮書房にある自室へと向かった。
痺れが残っていてうまく歩けない。普段ならすぐに着く距離なのに、一刻あまりもかけてようやく自室にたどり着いた。木の扉を押しやり中に入ると、白壁に質素な寝台と机が目に飛び込んだ。見慣れた簡素な室内に安堵する。
おぼつかない足取りで寝台まで向かうと、力無く倒れ込んだ。
――殿下から休息をいただけて、よかったのかもしれない。この様子では、とても仕事などできなかった……。
寝台に仰向けになり目をつぶると深い眠りについた。
政務棟の明かりはすでに落とされ、回廊を照らす水晶灯の光だけが、石畳に淡く反射している。
書房の中では、ただ一人、王太子・景耀が机に向かっていた。積み重なった書簡の束を脇へ寄せると、盃を手に取る。ぬるくなった白酒を口に含んだ瞬間、かすかな鉄の匂いが鼻先をかすめた。
――金属の匂い。
宴の夜に漂っていた、あの異様な臭気。
喉を通る酒はたちまち苦味を帯び、景耀の記憶を静かに呼び覚ました。
あれは、まだ五歳の春だった。
ある朝、母・麗妃が蒼ざめた顔で自室へと呼び寄せた。
「景耀……」
彼女の指が震えながら、彼の腹をなぞる。へその下、白い肌に青い龍のような文様が淡く浮かび上がっていた。
龍の証。――蒼嶺国の正統な後継者のみに現れる文様だった。
麗妃はすぐに侍女たちを下がらせ、戸口に錠を下ろした。
「この印のことは、誰にも――いいえ、私以外には決して知られてはなりません」
その声音には、喜びではなく恐怖がにじんでいた。
なぜなら、この印を持つ子は――命を狙われるからだ。
当時、国王には二十人を超える子供たちがいた。景耀はその中で最も年長だった。正妃の子ではなかったものの、その容姿と聡明さから周囲の期待を一身に集めていた。しかし、それは、血で血を洗う後継者争いの渦中に自らを置くことでもあった。
池に落とされた弟。薬湯に毒を盛られた妹。寝所で窒息死した異母兄。
幼いながらも、景耀は兄弟姉妹が亡くなる様子を日常の一部として見てきた。いつ自分がその刃の標的になるかもわからない。そんな緊張の中で育ってきた。
龍の印が刻まれたあの日から、景耀の人生は常に暗殺と隣り合わせだった。
十八歳になった頃、気づけば国王の子は自分を除いて誰も残っていなかった。
一人、また一人と消えていく兄弟たち。
名家の思惑、妃たちの野心、臣下たちの忠誠と裏切り――それらすべてが絡み合い、玉座の周囲には常に血の臭いが漂っていた。
ちょうどその頃、国王は病に倒れ、景耀が政務を代行することになった。王座は遠い未来の話ではなく、目前の現実となった。
――だからこそ。
だからこそ、あの夜に仕掛けられた毒は、過去の亡霊の再来にも思えた。玉座を狙う者が、再び牙を剥いたのだ。
景耀は立ち上がり、窓を押し開けた。夜風が頬を撫で、香炉の煙を揺らす。蒼穹宮の向こうには、春の星々が冷たく輝いていた。
彼の胸の奥で、静かに怒りの焔が灯る。
これ以上、血を流させはしない。自分の命も、この国も――誰にも奪わせはしない。
ふと、景耀の視線が控えの間の方を向いた。
あの夜、自ら毒を舐め、命を賭して自分を守った宦官——凌雪はなんとか命を取り留めた。意識を失う寸前、彼は笑みをこぼした。自分の存在を肯定するように――。
景耀は書房の窓を静かに閉め、奥の寝所へと向かった。
*
薬草の苦い匂いが、鼻腔をかすめた。
ぼんやりと霞んだ視界の中、凌雪はゆっくりとまぶたを持ち上げる。見知らぬ天井が目に入った。しばらくして、そこが東宮の一室であることに気づく。
身体を起こそうとした瞬間、腹の底から鈍い痛みが込み上げ、息が詰まった。喉も焼け付くように痛む。宴の夜、盃に残った酒を舐めた時の、あの鉄臭い味と痺れるような感覚が、脳裏に蘇る。
「目が覚めたか」
声に振り向くと、部屋の隅に医官が座っていた。年配の宦官医で、落ち着いた目をしていた。
「毒は舌先だけだったようだ。運がよかったな。あと少し遅ければ、命はなかった」
医官はそういって、木の盆を差し出した。湯気の立つ薬湯が乗っている。凌雪は感謝の意を込めて拱手し、両手で受け取った。薬はひどく苦く、喉を通るたびに内臓に染み渡るようだった。
「殿下が、お前の治療を命じられた。倒れたお前をすぐにここへ運び、解毒薬を飲ませるように仰せになったのだ」
「……殿下が?」
凌雪は意外そうに目を見開いた。医官は淡々と頷く。
「宴の混乱で倒れた宦官に、普通ならここまでの手当てはしない。殿下のご沙汰がなければ、お前は床に放置され、今頃は死んでいたであろう」
その言葉が胸にずしりと響いた。景耀が……命じたのだ。
凌雪は膝の上で拳を握った。
――あの夜、あの瞬間には、迷いはなかった。殿下を守ること。それが自分に課せられた唯一の役目だった。
外から、宦官たちのかすかかなざわめきが聞こえてきた。
「……毒だったらしい」
「宴の席で……」
「中庶子が身を投げ出したって?」
凌雪は布団の上に身を起こし、扉の向こうに耳を澄ませた。噂はすでに東宮中を駆け巡っているようだった。
「身体は動かせそうか?」
「……はい。なんとか」
「ならば、自室にて休むがよい。毒を口にしたのだから、養生せねば身体にさわるぞ」
「いえ、そういうわけには――」
凌雪はかぶりを振って身体を動かそうとした。だが、身体に痛みが走る。
「だめだ。殿下から仰せつかっておる。しっかり養生させるようにとな」
「殿下が?」
凌雪は驚きのあまり目を見開いた。
――まさか、殿下が私を休ませてくださるとは……。
「そういうことでしたら、数日、自室で養生したいと思います」
「それがよかろう。わしから殿下に数日自室で休むと伝えておこう」
「ありがとうございます」
医官の言葉に頷き、凌雪は慎重に身体を動かした。まだ頭は重く、吐き気も残っていたが、重い足を引きずるように東宮書房にある自室へと向かった。
痺れが残っていてうまく歩けない。普段ならすぐに着く距離なのに、一刻あまりもかけてようやく自室にたどり着いた。木の扉を押しやり中に入ると、白壁に質素な寝台と机が目に飛び込んだ。見慣れた簡素な室内に安堵する。
おぼつかない足取りで寝台まで向かうと、力無く倒れ込んだ。
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