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第四章 揺らぐ玉座と誓い
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次の日、凌雪は控えの間に向かった。傷はまだ痛むが、景耀のそばにいたい。その一心だった。
その部屋に足を踏み入れると、小宦官たちが驚いて次々と声を上げた。
「中庶子様、もう、よろしいのですか?」
「無理せず休まれていた方が……」
韓文も口調は荒かったが、ほっとした表情をしていた。
「まったく……。うちの中庶子様は無茶をする……」
「皆、心配かけてすまなかった」
凌雪は小宦官たちに頭を下げた。すると一番若い宦官が声を上げた。
「中庶子様、あまり一人で抱え込まないでください。私たちはみんな殿下をお守りするためにここにいるのです。ですから――」
そこまでいうと、目から大粒の涙を流した。凌雪はまだ十二、三であろう小宦官に近づき、そっと頭を撫でた。
「心配してくれてありがとう。皆にも手伝ってもらえることがあればいうから、もう、泣くな」
小宦官は袖で涙を拭い、拱手をした。
――自分は一人じゃない。こんなにも心配してくれる仲間がいる。
胸がじんわりと熱を帯びた。
*
その後、書房に入ると、景耀が驚いて顔を上げた。その目には明らかな心配の色が浮かんでいる。
「もうよいのか? もっと養生していた方がいいのではないか?」
凌雪は景耀の前に行き、拱手をして深く頭を下げた。
「このたびは医局までわたくしを運んでくださったとのこと、ありがとうございました。殿下の配慮のおかげで再び命拾いをしました」
すると景耀は立ち上がり、凌雪の頬を手のひらで包んだ。彼の手はあたたかく、優しさが滲み出ていた。そそのぬくもりに、思わず涙があふれそうになる。
「お前は私のものだ……。勝手に死ぬなど許さぬ」
その言葉には、不器用な愛情が染みこんでいた。
「はっ。この命のあるかぎり、殿下のお側を離れません」
その言葉を聞くと景耀はまるで少年のように明るい笑顔を見せた。その笑顔を見て、凌雪の胸は温かさで満たされた。
*
夕刻の政務棟は、人の気配が薄い。昼の喧噪が去った廊下には、灯り待ちの薄闇が溜まり、石床は冷たく光っている。
凌雪は書状の束を胸に抱え、角の陰で足を止めた。先の曲がり角から、低く押し殺した声が洩れてくる。
「……太子は宦官に惑わされている」
「男とも女ともわからぬような顔立ちに心奪われているのでは?」
「奴を排除すれば、均衡が崩れる。殿下のまわりは空く。押さえるのは今しかない」
息が凍った。声の主は、宰相・魏嵐の側に連なる中堅の官吏たちだ。名指しは避けているが、言葉の刃は十分に鋭い。
「太子の傍らにいる中庶子――あれさえ退ければ、宰相閣下の進言はまっすぐ通る」
「東宮の宦官など、書房から外せばよい。『不始末』が一度あれば、名目は幾らでも立つ」
「うむ。夜の巡回で『行き違い』でも起これば、誰も疑うまい」
血が引くのがはっきりとわかった。体が冷たくなる。
――私が、狙われているのか。
握った拳が無意識のうちに固くなる。いつからなのだろうか。殿下のそばにいることが、殿下を守る盾であると同時に、それが逆に弱みになるとは思ってもみなかった。
「だがあの一件以来、東宮の警備が増えた。手荒なことは難しいか……」
「ならば口を使えばいい。『宦官が政に口を出すのは行き過ぎ』と、朝の場で大声を上げるのだ。殿下は理に聡い。理で縛れば、宦官一人のために争いはなさらぬ」
胸の奥がきしむ。
――私がいることで、殿下に無用の矢が飛ぶ。
それでも離れれば、殿下の背はむき出しになる。どうすればいいのか――。
凌雪は音を立てぬよう後ずさりし、来た道へ戻った。灯りのない廊下を歩く足が、驚くほど頼りない。
*
東宮書房の格子窓から、沈む陽の名残が細くさし込んでいる。机上には未決の奏状が重ねられ、筆の香りがかすかに漂った。
景耀は筆を置き、目だけでこちらを見る。蒼い光が、迷いを許さない。
「顔色が悪いな。……話せ」
たったそれだけの言葉。景耀には嘘は通じない。喉が乾きうまく言葉が出てこない。だがいえば、殿下に新たな敵意を呼ぶ。いわねば、闇は深まるばかりだ。
凌雪は深く拱手し、言葉を選んだ。
「政務棟で密談の一部始終を耳にしました。宰相派が、殿下のお名を利用して書房を押さえつけ、私を排除しようと企てているようです。『太子は宦官に惑わされている』『奴を排除すれば均衡が崩れる』とも話していました」
書房に落ちた沈黙は短く、重かった。景耀は立ち上がり、机端に指を置く。わずかに鳴った木の音が、決断の合図のように響く。
「誰だ」
「名は出ておりません。ただ、言い回しからして宰相派の中堅かと。夜の巡回で『行き違い』を起こす、とも」
景耀の横顔に冷たい線が走り、すぐに消えた。声は低く、揺れない。
「……よく知らせた。調べさせよう。巡回は組を替え、報告経路は書房直送に固定する。門の出入り記録も今夜から写し取れ」
「はっ」
命令ひとつでことが済むほど、今回の策は生易しいものではない。凌雪は唇を噛み、気づけば、言葉がこぼれていた。
「殿下。……わたくしが側にあることで、殿下が矢面に立たされます。もし、わたくしを――」
景耀の視線が、凌雪にぴたりと止まった。
ひた、と歩を寄せ、書台越しに手を伸ばす。指先が、凌雪の手の甲を軽く押さえた。
その温度は、静かな火のように強い。
「お前がいるから、私は今日まで無事でいられた。――『均衡』などというなら、私が守るべき均衡は一つだけだ。民の暮らしと、この書房の秩序だ」
凌雪は言葉を失い、視線が揺れた。景耀はゆっくりと手を離し、扉の方へ声を飛ばす。
「韓文。控えの者を呼べ」
返答ののち、小宦官が姿を見せる。景耀は簡潔に命じた。
「今夜から巡回は六更ごとに組替え。外庭は東宮の兵、内庭は近衛で二重に固める。記録は二本作れ。ひとつは書房、もうひとつは理財卿に回す。誰がいつ動いたか、後で必ずたどれるようにな」
「承知しました」
小宦官が去り、静けさが戻る。景耀は椅子に戻り、筆を取ったが、墨を含ませる手を一度だけ止めた。
その一拍に、何かが滲む。
「……『惑わされている』か」
自嘲のようでいて、どこか愉快そうでもある響きだった。景耀は顔を上げ、真っすぐに凌雪を見た。
「私は自分の意志で道を選ぶ。誰にも操られぬ。だが、お前の言葉だけは受け止める。お前は私を支え、導いてくれる存在だ。もし弱点だというなら、その弱点ごと私が守ればいい」
胸の真ん中に、熱が落ちた。息が詰まる。凌雪は深く頭を垂れる。
「恐懼に堪えません」
「それと、宰相派の『理』はここで受ける。朝の場で騒ぐ者がいれば、理で黙らせるだけだ。……心配するな」
筆が滑り始める。朱の印が紙面に落ち、命が形になる。
凌雪は机脇に控え、書かれる文字を追った。命令は単純で、抜け目がない。巡回の組替え、出入りの記録、来客の身元照合。どれも、闇に潜む者をあぶり出すための網だ。
ふと、景耀の筆が止まった。彼は視線だけを上げ、穏やかに告げる。
「凌雪。お前は私のところから動くな。誰が何をいおうと、聞き流せ」
「……はい」
「明日、朝一で理財卿と近衛長を呼ぶ。今夜は扉を閉め、灯りを増やせ。窓側には近づくな。刺客は影を好むからな」
景耀の短い指示が、胸に張りつめていた不安を少しずつ溶かしていく。
凌雪が灯台に火を継ぎ足していると、景耀が不意に口を開いた。
「……お前は自分を弱点だといったな」
手が止まる。返事の前に、続きが落ちてきた。
「ならば覚えておけ。弱点とは、守るべきものの別名だ」
灯りがぱち、と小さく音を立てた。
外では夜風が生まれ、格子に当たって細く鳴く。書房は、いつもより明るい。扉の前には交替の衛兵が立ち、控えの間では小宦官が足早に動いている。
凌雪は胸の奥に広がる痛みを、静かな熱で包み込んだ。
――ならば、弱点のままでいい。殿下が守るというなら、私は殿下を守る。
その夜、東宮の灯りはいつもより遅くまで消えなかった。
紙の上で朱が乾いてゆく間に、見えない網が張られ、足跡を記す帳面が用意される。
闇の向こうで、誰かが舌打ちをしたとしてもかまわない。
「均衡」という言葉で脅す者たちに、書房は静かに答える準備を整えていた。
その部屋に足を踏み入れると、小宦官たちが驚いて次々と声を上げた。
「中庶子様、もう、よろしいのですか?」
「無理せず休まれていた方が……」
韓文も口調は荒かったが、ほっとした表情をしていた。
「まったく……。うちの中庶子様は無茶をする……」
「皆、心配かけてすまなかった」
凌雪は小宦官たちに頭を下げた。すると一番若い宦官が声を上げた。
「中庶子様、あまり一人で抱え込まないでください。私たちはみんな殿下をお守りするためにここにいるのです。ですから――」
そこまでいうと、目から大粒の涙を流した。凌雪はまだ十二、三であろう小宦官に近づき、そっと頭を撫でた。
「心配してくれてありがとう。皆にも手伝ってもらえることがあればいうから、もう、泣くな」
小宦官は袖で涙を拭い、拱手をした。
――自分は一人じゃない。こんなにも心配してくれる仲間がいる。
胸がじんわりと熱を帯びた。
*
その後、書房に入ると、景耀が驚いて顔を上げた。その目には明らかな心配の色が浮かんでいる。
「もうよいのか? もっと養生していた方がいいのではないか?」
凌雪は景耀の前に行き、拱手をして深く頭を下げた。
「このたびは医局までわたくしを運んでくださったとのこと、ありがとうございました。殿下の配慮のおかげで再び命拾いをしました」
すると景耀は立ち上がり、凌雪の頬を手のひらで包んだ。彼の手はあたたかく、優しさが滲み出ていた。そそのぬくもりに、思わず涙があふれそうになる。
「お前は私のものだ……。勝手に死ぬなど許さぬ」
その言葉には、不器用な愛情が染みこんでいた。
「はっ。この命のあるかぎり、殿下のお側を離れません」
その言葉を聞くと景耀はまるで少年のように明るい笑顔を見せた。その笑顔を見て、凌雪の胸は温かさで満たされた。
*
夕刻の政務棟は、人の気配が薄い。昼の喧噪が去った廊下には、灯り待ちの薄闇が溜まり、石床は冷たく光っている。
凌雪は書状の束を胸に抱え、角の陰で足を止めた。先の曲がり角から、低く押し殺した声が洩れてくる。
「……太子は宦官に惑わされている」
「男とも女ともわからぬような顔立ちに心奪われているのでは?」
「奴を排除すれば、均衡が崩れる。殿下のまわりは空く。押さえるのは今しかない」
息が凍った。声の主は、宰相・魏嵐の側に連なる中堅の官吏たちだ。名指しは避けているが、言葉の刃は十分に鋭い。
「太子の傍らにいる中庶子――あれさえ退ければ、宰相閣下の進言はまっすぐ通る」
「東宮の宦官など、書房から外せばよい。『不始末』が一度あれば、名目は幾らでも立つ」
「うむ。夜の巡回で『行き違い』でも起これば、誰も疑うまい」
血が引くのがはっきりとわかった。体が冷たくなる。
――私が、狙われているのか。
握った拳が無意識のうちに固くなる。いつからなのだろうか。殿下のそばにいることが、殿下を守る盾であると同時に、それが逆に弱みになるとは思ってもみなかった。
「だがあの一件以来、東宮の警備が増えた。手荒なことは難しいか……」
「ならば口を使えばいい。『宦官が政に口を出すのは行き過ぎ』と、朝の場で大声を上げるのだ。殿下は理に聡い。理で縛れば、宦官一人のために争いはなさらぬ」
胸の奥がきしむ。
――私がいることで、殿下に無用の矢が飛ぶ。
それでも離れれば、殿下の背はむき出しになる。どうすればいいのか――。
凌雪は音を立てぬよう後ずさりし、来た道へ戻った。灯りのない廊下を歩く足が、驚くほど頼りない。
*
東宮書房の格子窓から、沈む陽の名残が細くさし込んでいる。机上には未決の奏状が重ねられ、筆の香りがかすかに漂った。
景耀は筆を置き、目だけでこちらを見る。蒼い光が、迷いを許さない。
「顔色が悪いな。……話せ」
たったそれだけの言葉。景耀には嘘は通じない。喉が乾きうまく言葉が出てこない。だがいえば、殿下に新たな敵意を呼ぶ。いわねば、闇は深まるばかりだ。
凌雪は深く拱手し、言葉を選んだ。
「政務棟で密談の一部始終を耳にしました。宰相派が、殿下のお名を利用して書房を押さえつけ、私を排除しようと企てているようです。『太子は宦官に惑わされている』『奴を排除すれば均衡が崩れる』とも話していました」
書房に落ちた沈黙は短く、重かった。景耀は立ち上がり、机端に指を置く。わずかに鳴った木の音が、決断の合図のように響く。
「誰だ」
「名は出ておりません。ただ、言い回しからして宰相派の中堅かと。夜の巡回で『行き違い』を起こす、とも」
景耀の横顔に冷たい線が走り、すぐに消えた。声は低く、揺れない。
「……よく知らせた。調べさせよう。巡回は組を替え、報告経路は書房直送に固定する。門の出入り記録も今夜から写し取れ」
「はっ」
命令ひとつでことが済むほど、今回の策は生易しいものではない。凌雪は唇を噛み、気づけば、言葉がこぼれていた。
「殿下。……わたくしが側にあることで、殿下が矢面に立たされます。もし、わたくしを――」
景耀の視線が、凌雪にぴたりと止まった。
ひた、と歩を寄せ、書台越しに手を伸ばす。指先が、凌雪の手の甲を軽く押さえた。
その温度は、静かな火のように強い。
「お前がいるから、私は今日まで無事でいられた。――『均衡』などというなら、私が守るべき均衡は一つだけだ。民の暮らしと、この書房の秩序だ」
凌雪は言葉を失い、視線が揺れた。景耀はゆっくりと手を離し、扉の方へ声を飛ばす。
「韓文。控えの者を呼べ」
返答ののち、小宦官が姿を見せる。景耀は簡潔に命じた。
「今夜から巡回は六更ごとに組替え。外庭は東宮の兵、内庭は近衛で二重に固める。記録は二本作れ。ひとつは書房、もうひとつは理財卿に回す。誰がいつ動いたか、後で必ずたどれるようにな」
「承知しました」
小宦官が去り、静けさが戻る。景耀は椅子に戻り、筆を取ったが、墨を含ませる手を一度だけ止めた。
その一拍に、何かが滲む。
「……『惑わされている』か」
自嘲のようでいて、どこか愉快そうでもある響きだった。景耀は顔を上げ、真っすぐに凌雪を見た。
「私は自分の意志で道を選ぶ。誰にも操られぬ。だが、お前の言葉だけは受け止める。お前は私を支え、導いてくれる存在だ。もし弱点だというなら、その弱点ごと私が守ればいい」
胸の真ん中に、熱が落ちた。息が詰まる。凌雪は深く頭を垂れる。
「恐懼に堪えません」
「それと、宰相派の『理』はここで受ける。朝の場で騒ぐ者がいれば、理で黙らせるだけだ。……心配するな」
筆が滑り始める。朱の印が紙面に落ち、命が形になる。
凌雪は机脇に控え、書かれる文字を追った。命令は単純で、抜け目がない。巡回の組替え、出入りの記録、来客の身元照合。どれも、闇に潜む者をあぶり出すための網だ。
ふと、景耀の筆が止まった。彼は視線だけを上げ、穏やかに告げる。
「凌雪。お前は私のところから動くな。誰が何をいおうと、聞き流せ」
「……はい」
「明日、朝一で理財卿と近衛長を呼ぶ。今夜は扉を閉め、灯りを増やせ。窓側には近づくな。刺客は影を好むからな」
景耀の短い指示が、胸に張りつめていた不安を少しずつ溶かしていく。
凌雪が灯台に火を継ぎ足していると、景耀が不意に口を開いた。
「……お前は自分を弱点だといったな」
手が止まる。返事の前に、続きが落ちてきた。
「ならば覚えておけ。弱点とは、守るべきものの別名だ」
灯りがぱち、と小さく音を立てた。
外では夜風が生まれ、格子に当たって細く鳴く。書房は、いつもより明るい。扉の前には交替の衛兵が立ち、控えの間では小宦官が足早に動いている。
凌雪は胸の奥に広がる痛みを、静かな熱で包み込んだ。
――ならば、弱点のままでいい。殿下が守るというなら、私は殿下を守る。
その夜、東宮の灯りはいつもより遅くまで消えなかった。
紙の上で朱が乾いてゆく間に、見えない網が張られ、足跡を記す帳面が用意される。
闇の向こうで、誰かが舌打ちをしたとしてもかまわない。
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