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第9話 我、願ひたまふ。鬼に逢ひ見んことを(中編〜明かされた真実〜)
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窓の外の景色がだんだん雪深くなってゆく。
私は、列車の中でただ、移りゆく景色をぼんやりと眺めていた。
新橋駅から東海道本線に乗り、京都を目指していた。
気持ちがいらいらしていた。
早く伏見へゆかなければ。
それだけで頭は一杯だった。
「そういらいらするなよ。焦っても列車はこれ以上は早くならないぜ?」
目の前でゆで卵を美味そうに食べているのは茶の背広姿の各務君だった。
「わかってるよ。でも、気が焦るのはどうしようもないだろう?」
私は少し苛立った声を出した。
「泣いても笑っても十二時間近くはかかるんだ。諦めろ」
各務君はいけしゃあしゃあと言った。
東京から神戸までを結ぶ最急行(※1)は終点の神戸まで約十二時間五十分。京都までなら十二時間弱といったところだ。
「妾は一等車がよかったのう……三等車は疲れるわ」
黒地に白の花柄のワンピースを着て、帽子を深く被ったモガ姿のヘイマオ嬢は、各務君と並ぶと恋人同士か新婚夫婦のようにお似合いだ。
彼女は各務君が剥いたゆで卵を当然のように横から奪い取ってぱくぱくと食べている。
すれ違う人が思わず振り返るほどの美しい顔の口元に、卵の黄身のかけらがくっついていてもお構いなしだ。
「勝手なことを言わないでくれ。無賃乗車のくせに」
「そんなことはないぞ。妾も各務殿もちゃんと金は払った」
ヘイマオ嬢は心外だと言わんばかりだ。
「木の葉で作った金じゃないか」
「出自はどうあれ金は金じゃ」
ヘイマオ嬢はあっけらかんと言い、私は思わず眉を寄せこめかみを押さえる。
彼らの行いは良くないことだが、さりとて彼らの分の運賃まで出せるほど私の所持金に余裕はない。
最急行の運賃は高価であり、三等車の切符を一人分買うのが精一杯だ。
それに、そもそも彼らは人ではないから、人の作った決まり事は関係ないのだ。
知ってて黙認するのもいいことではないが、今の状況では致し方ないので私は見なかったことにして目を瞑るしかない。
あのあと、かけつけた医師は原因不明の病であると首をかしげ、納得行かない奥様は哀れな医者を役立たずと攻めていた。普段物静かな奥様があそこまで取り乱すのを私ははじめて見た。
医者がわからぬのも無理はない。先生は病気ではないのだから。
ヘイマオ嬢の話によれば、人間の魂魄は三魂七魄からなり、魂は精神を支える気、魄は肉体を支える気であるという。三魂は陽に属すもの。天魂とも呼ばれ、人の死後は天に向かうらしい。
対して七魄は陰に属すもの。地魂とも呼ばれ、人の死後は地に戻るという。
先生はこの地魂である七魄を蛟に奪われている。
三魂は精神を、七魄は体を司るので、七魄のない今の先生は動くことができないのだという。
しかし、ヘイマオ嬢が天魂である三魂を護ったので、先生はかろうじて生きている。
「蛟から鉄斎の七魄を取り戻すには、契約の破棄をさせねばならんのじゃ」
ヘイマオ嬢はそう言った。
一方的な契約とはいえ、人の願いに対し、その願いを叶えたからには対価を得てしかるべきというのは物の怪の世界での古くからの掟。
だが、蛟に契約を破棄させるのはかなりやっかいかもしれないとヘイマオ嬢は申し訳なさそうに私に言った。
「ひとつだけ方法があるさ」
各務君が私に言った。
「大神様に調停をお願いすることだ」
それを聞いてヘイマオ嬢が目を輝かせた。
「おお。それは名案じゃ。伏見の大神様の調停とあらば蛟も話し合いに応じよう。伏見殿なら妾も少しは面識がある。妾も同行しようぞ」
そういうわけで私は伏見へ行く決心をした。
眠りつづける先生のことが心配だったが、私の心配そうな顔を見てヘイマオ嬢は笑って言った。
「大丈夫じゃ。我らの留守の間、鉄斎は『おたま』が護るから」
ヘイマオ嬢はそう言って艶やかな長い黒髪を一本抜くと、それにふっと息を吹きかけた。髪は見る間に形を変え、一匹の黒猫の姿になった。
「妾の分身の『おたま』じゃ。これがおれば、鉄斎の周りに結界を張るので、妙な物の怪は近づけぬ。愛猫に見守られていれば、鉄斎も安心じゃろ」
『おたま』は眠っている先生の枕もとに行くと、寄り添うようにそこでうずくまった。
ヘイマオ嬢は自分が守護する香箱のないところには移動できないため、私がヘイマオ嬢の香箱を持って、伏見に行くことにした。
奥様には「母の故郷に、どんな病にも効くお守りを授けてくれるところがあるので、そこに行って先生のために祈願をしてくる」と告げ、伏見に行く許可を貰った。
師走の京都は小雪が舞っていた。
空は重い鈍色で、風は酷く冷たかった。
「ほう……なにやら風情のある街じゃのう」
「ここは日本一美しい街だ。かつては帝のいた古都でもある」
各務君がヘイマオ嬢に得意げに言った。
ヘイマオ嬢は物珍しそうにきょろきょろとあたりを見回しながらはしゃぎ、各務君もそんなヘイマオ嬢に楽しげに説明している。
二人とも呑気なものだ。観光できたわけではないのに。
気分が重かったのは私一人だけだった。
「ほう。日本の帝は東京ではなくここにおったのか」
「昔の話だけどな。昔の京都はそれはそれは風雅で美しかった」
「ほう。妾のいた咸陽の都(※2)も美しかったが、それと比べてどうなんじゃろう」
「さてな。俺は大陸には渡ったことがないからな」
いったいこの二人はどれだけ生きているのだろう?
路面電車に乗り、伏見へ。
駅に降り立ち、直ぐに参道方面に向かって歩き出した私を各務君が呼び止めた。
「吉岡君。叔父さんの家にはご挨拶に寄らないのかい?」
「今回は行かないよ。各務君も知っているだろう? 私があそこであまり歓迎されていないことは」
「ふむ……」
各務君は一瞬だけ気の毒そうな表情を見せたが、直ぐに明るい声で
「なら景気づけに雀の焼き鳥でも食べていくか。ヘイマオ嬢にもご馳走してやろう」
と言った。
正月を間近に控えた伏見見稲荷は、以前来た時よりも活気があった。
露店の準備をする人、参道に落ちているごみを拾って屑篭に入れる人、のんびりと参道を孫と散歩するご隠居、物珍しそうに参道沿いの店を覗く観光客などで以前来た時より賑わっている。
境内に入ると、白い着物に浅葱色の袴を纏った狐たちの姿が目立ち始めた。
もちろんここに居る人間たちに彼らの姿は見えない。
「見事なもんじゃのう」
ヘイマオ嬢は感心しながら境内を見回す。
「のう、各務殿。なぜここの鳥居は見事な朱色なのじゃ? なぜこんなに沢山あるのじゃ?」
「稲荷の鳥居は朱で彩色すると決められているからさ。『稲荷塗り』と言うんだぜ」
「ほお……何かいわれがあるのかの?」
「朱は『生み出す力』のある色だからな。ここでは人の願いの数だけ鳥居が建てられる」
「なるほど……」
「言い換えれば人の欲の数でもあるな」
各務君を先頭に、迷路のように入り組んで立ち並ぶ、赤い鳥居の道を私たちは歩いた。
参拝客に混じって、浄服姿の狐たちとすれ違う。
彼らは各務君の姿を見ると、立ち止まってうやうやしく一礼する。やはり、各務君はここでもかなり高い地位にいるに違いないと私は確信していた。
昼なお暗い奥の院を進むにつれて、参拝客の姿は殆どなくなり、時折鳥の鳴く声と、草を踏む自分たちの足音以外聞こえなくなった。
ここはもう、参拝客の入れない地域かもしれなかった。
ひときわ大きな赤い鳥居の前で、各務君は立ち止まった。
私にも見覚えのある場所だった。
ここから先は神域だ。
浄服姿の狐が二匹、槍のような形状の杖を交差させ、行く手を塞いでいた。
「大神様にお目どおり願いたい」
各務君の言葉に狐たちは一礼し、
「鏡魂の君。どうぞお通りくださいませ」
と言って道を開けた。
懐かしい、白銀の世界。
炊き立ての飯のいい香りが漂い、常に金の稲穂が満ちている。
ここにくると、何故か心がほっとする。
まるで故郷に戻ってきたような懐かしさを感じるのだ。
『よく来たね、秋斗』
御簾の向こうから穏やかで年老いた声がした。
「はい」
『大陸からのお客人もいるね』
ヘイマオ嬢は軽く会釈をした。
「大神様、今日は……」
各務君が言い終わらないうちに大神様は言った。
『わかっておる。我にあの頑固者の蛟を説得してくれというのじゃろ?』
「はっ」
各務君は深く頭を下げた。
『それに……秋斗。お前、自分が何者かを知りたいと思っているのだね?』
大神様は全てお見通しだった。
「蛟は私のことを奇果と言いました。教えてください……奇果とはなんなのですか?」
『それを知ることはお前のためにはならないよ。それでもお前は知りたいか?』
大神様の声は静かだった。私は少し怖くなった。
「全てを知ることはどうして私のためにならないのですか?」
『まだ、お前が大人ではないからだよ。秋斗』
大神様の声は優しかった。
「私はもう二十三です。充分に大人です」
『年を取るだけが大人ではないよ、秋斗。お前はまだ人生の経験が浅い。それは本当の大人ではないよ……だけど、お前がどうしても知りたいなら、少しだけ教えても良いかもしれぬ』
大神様の言葉と共に、社の御簾がゆっくりとあがりはじめた。
各務君は私に耳打ちする。
「大神様が光臨なさるよ……頭を垂れ、平伏するんだ吉岡君。大神様のお姿は、人間が気軽に見るものではないからね」
私は言われたとおりに頭を下げる。
御簾が完全に巻き上がり、あたりに金色の光が溢れ出る。
俯いていてもその光の眩しさがわかる。
ゆっくりと歩むように足音が、私の側に近づいてきた。
「宇迦之御魂神の御成りである。一同は伏して迎え奉られよ」
各務君が高らかな声で言った。
ヘイマオ嬢も、側に控えていた眷属狐たちも一斉に平伏した。
『鏡魂の君。堅苦しい儀礼は良い……秋斗や、顔をあげなさい』
大神様は私の直ぐ側にいた。
宇迦之御魂神は金色の光に包まれていた。その姿は小柄な老婆の姿であり、純白の着物に身を包んでいた。
純白の狐面を被ったその顔はわからない。
『奇果……それは、数百年に一人、人の子の中に現れる物の怪と人の二つの魂を持つ者。その本質は陰陽。奇果の魂の半分は人の領分たる陽であり、残りの半分は物の怪の領分の陰である。陰と陽は互いに依存しながら存在するもの。ゆえに奇果は人にして人に非ず。半人半妖と言っても良い』
━━━━━━━ 半人半妖……?
私は愕然とした。
では私は人間ではないというのか?
私は半分物の怪だというのか?
だとしたら私はいったい何者なのだ?
あまりの衝撃に頭の中が疑問符だらけになる。
すっかり困惑している私に向かって、大神様は優しく言った。
『秋斗……昔、我はお前に言うたはずじゃ。お前は人と物の怪の中間にいる危うい存在だと……お前はゆらぎの存在。心がけ次第で神にも近くなり、物の怪にも近くなる。お前を取り込めば物の怪は力を増し、強くなる。人の中にあれば限りなく清浄な魂を持つ。これがどういうことかわかるか?』
「私の、心がけ次第……と?」
『そう。奇果は自分の力の自覚をしなければ人の世に埋もれ、その力を知ることなく生涯を終えることができる。見鬼の才を発しなければ悪しき物の怪に見つかることもない。しかし、お前の力は生まれつき強かった。それには理由がある』
大神様は優しい声で言った。しかし、私は未だ動揺するばかりで心は酷く乱れていた。
『お前の母の血筋は我らに縁深き大陸より渡来した一族の血脈に繋がるもの。お前の一族に生まれる『忌み子』は特にその資質が強い。忌み子の中でも力が特に強い者は奇果となる……奇果を放置すればいずれ悪しき物の怪に食われよう、それゆえ、彼らの血筋に縁ある我らが奇果を護っておるのだ』
ヘイマオ嬢の言葉を私は思い出していた。
母の旧姓は「羽田」。その始祖を辿れば大陸より渡ってきた秦氏に繋がる。
「教えてください大神様……なぜ、羽田の血筋にそのような者が生まれるのですか?」
『弓月君の時代の、ある呪いのせいじゃ……』
「弓月君……」
知識として知っている名前だった。
始皇帝の子孫であり、秦氏の始祖。百済から日本へ渡ってきた渡来人だ。
「呪いとはなんですか? 大神様」
私は大神様に尋ねた。
しかし、大神様は静かに首を横に振った。
『それはお前に話すにはまだ早いよ……秋斗。お前はもっと学ばなければならないし、経験を積まねばならない。今の話を聞いた程度で、動揺しているようではとても話せない。全てを知ることは、お前の運命を決めることでもあるから』
「私の運命……」
『そう。お前が人として生涯を終えるか、悪しき物の怪に食われて悪神となるか……全てはお前次第で決まる』
━━━━━━━ すべては私次第。
「わかりました……では、今はこれ以上は聞きますまい」
これ以上はいくら聞いてもきっと教えてはもらえないと私は感じていた。
大神様は大きく頷いた。
『そこにいる、大陸の客人とお前が知己なのも何かの縁であろうな……縁とはほんに不思議なものよ……』
ヘイマオ嬢は大神様に優雅に会釈した。
ヘイマオ嬢は大陸のある皇帝に侍っていた愛猫……ということは……彼女が宿った香箱が私の近くに巡ってきたのも何かのめぐり合わせということなのだろうか?
「大神様。蛟めにはどのようにとりなしていただけましょう? 我が香箱の主の七魄、いかにすれば戻りましょう?」
ヘイマオ嬢は大神様に伺いをたてる。
『蛟めの契約が正式なものでないことを証明できればよいのだろう? ならば容易きこと。蛟めが宿っていた石像を探し当てるのじゃ。契約があるならば、石像にその痕跡があるはずじゃ。もしも、その痕跡がなければ契約は正式なものではない。正式な契約でなければ我が調停することもできよう……よしんば正式な契約であっても……なに、一計を案じることはできる』
大神様はそう言って笑った。
「大神様、本田先生はその石像のあった処には大きな建物が建ってしまったと仰っていました。石像はもうないかもしれません」
私がそう言うと大神様は大きく首を横に振った。
『案ずることはないよ秋斗。かの石像のあった場所を昔に戻せば済むことじゃ』
そう言うと大神様は片手を上げ、控えの眷属狐を呼んだ。
『時戻りの葉をこれに』
「はい。ただいま」
浄服姿の眷属狐はすぐに、金色の木の葉を持って戻ってきた。
眷属狐は大神様にうやうやしく木の葉を手渡した。
『これをお前にあげよう。この木の葉を石像のあったあたりに置けば、その近辺が一時間だけ昔に戻る。どれぐらい戻すかの加減は鏡魂の君に任せればよい。一時間のあいだに石像を手に入れればよいだろう』
私の手元には淡く金色に光る木の葉が一枚手渡された。
「これで先生が救える……」
私はもういても立っても居られなかった。
一刻も早く東京に戻りたかった。
『それを持って早くお戻り。秋斗……契約を確かめたら我が眷属に報せを託すが良い……あとは我がどうにかしよう……』
「ありがとうございます。大神様」
私はあらためて大神様に深く頭を下げた。
『お前の師は必ず救わねばならん……かの者はいずれお前に困ったことが起こった時、助けてくれる大切な人だからね』
「はい」
大神様はまた御簾の向こうに戻り、私はヘイマオ嬢や各務君と共に、再び深く頭をさげたのだった。
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※1 大正十二年頃は一等車、二等車で構成された最急行(現在の特急のようなもの)が最急行一、二列車と呼ばれた。乗車券のほかに特急券を買わなければならない列車であり、庶民は主に三等車の三、四列車を利用した。
この時代、東京~神戸間の所要時間は最速で約十二時間五十分だった。
※2 現在の西安。始皇帝時代の秦の都である。
私は、列車の中でただ、移りゆく景色をぼんやりと眺めていた。
新橋駅から東海道本線に乗り、京都を目指していた。
気持ちがいらいらしていた。
早く伏見へゆかなければ。
それだけで頭は一杯だった。
「そういらいらするなよ。焦っても列車はこれ以上は早くならないぜ?」
目の前でゆで卵を美味そうに食べているのは茶の背広姿の各務君だった。
「わかってるよ。でも、気が焦るのはどうしようもないだろう?」
私は少し苛立った声を出した。
「泣いても笑っても十二時間近くはかかるんだ。諦めろ」
各務君はいけしゃあしゃあと言った。
東京から神戸までを結ぶ最急行(※1)は終点の神戸まで約十二時間五十分。京都までなら十二時間弱といったところだ。
「妾は一等車がよかったのう……三等車は疲れるわ」
黒地に白の花柄のワンピースを着て、帽子を深く被ったモガ姿のヘイマオ嬢は、各務君と並ぶと恋人同士か新婚夫婦のようにお似合いだ。
彼女は各務君が剥いたゆで卵を当然のように横から奪い取ってぱくぱくと食べている。
すれ違う人が思わず振り返るほどの美しい顔の口元に、卵の黄身のかけらがくっついていてもお構いなしだ。
「勝手なことを言わないでくれ。無賃乗車のくせに」
「そんなことはないぞ。妾も各務殿もちゃんと金は払った」
ヘイマオ嬢は心外だと言わんばかりだ。
「木の葉で作った金じゃないか」
「出自はどうあれ金は金じゃ」
ヘイマオ嬢はあっけらかんと言い、私は思わず眉を寄せこめかみを押さえる。
彼らの行いは良くないことだが、さりとて彼らの分の運賃まで出せるほど私の所持金に余裕はない。
最急行の運賃は高価であり、三等車の切符を一人分買うのが精一杯だ。
それに、そもそも彼らは人ではないから、人の作った決まり事は関係ないのだ。
知ってて黙認するのもいいことではないが、今の状況では致し方ないので私は見なかったことにして目を瞑るしかない。
あのあと、かけつけた医師は原因不明の病であると首をかしげ、納得行かない奥様は哀れな医者を役立たずと攻めていた。普段物静かな奥様があそこまで取り乱すのを私ははじめて見た。
医者がわからぬのも無理はない。先生は病気ではないのだから。
ヘイマオ嬢の話によれば、人間の魂魄は三魂七魄からなり、魂は精神を支える気、魄は肉体を支える気であるという。三魂は陽に属すもの。天魂とも呼ばれ、人の死後は天に向かうらしい。
対して七魄は陰に属すもの。地魂とも呼ばれ、人の死後は地に戻るという。
先生はこの地魂である七魄を蛟に奪われている。
三魂は精神を、七魄は体を司るので、七魄のない今の先生は動くことができないのだという。
しかし、ヘイマオ嬢が天魂である三魂を護ったので、先生はかろうじて生きている。
「蛟から鉄斎の七魄を取り戻すには、契約の破棄をさせねばならんのじゃ」
ヘイマオ嬢はそう言った。
一方的な契約とはいえ、人の願いに対し、その願いを叶えたからには対価を得てしかるべきというのは物の怪の世界での古くからの掟。
だが、蛟に契約を破棄させるのはかなりやっかいかもしれないとヘイマオ嬢は申し訳なさそうに私に言った。
「ひとつだけ方法があるさ」
各務君が私に言った。
「大神様に調停をお願いすることだ」
それを聞いてヘイマオ嬢が目を輝かせた。
「おお。それは名案じゃ。伏見の大神様の調停とあらば蛟も話し合いに応じよう。伏見殿なら妾も少しは面識がある。妾も同行しようぞ」
そういうわけで私は伏見へ行く決心をした。
眠りつづける先生のことが心配だったが、私の心配そうな顔を見てヘイマオ嬢は笑って言った。
「大丈夫じゃ。我らの留守の間、鉄斎は『おたま』が護るから」
ヘイマオ嬢はそう言って艶やかな長い黒髪を一本抜くと、それにふっと息を吹きかけた。髪は見る間に形を変え、一匹の黒猫の姿になった。
「妾の分身の『おたま』じゃ。これがおれば、鉄斎の周りに結界を張るので、妙な物の怪は近づけぬ。愛猫に見守られていれば、鉄斎も安心じゃろ」
『おたま』は眠っている先生の枕もとに行くと、寄り添うようにそこでうずくまった。
ヘイマオ嬢は自分が守護する香箱のないところには移動できないため、私がヘイマオ嬢の香箱を持って、伏見に行くことにした。
奥様には「母の故郷に、どんな病にも効くお守りを授けてくれるところがあるので、そこに行って先生のために祈願をしてくる」と告げ、伏見に行く許可を貰った。
師走の京都は小雪が舞っていた。
空は重い鈍色で、風は酷く冷たかった。
「ほう……なにやら風情のある街じゃのう」
「ここは日本一美しい街だ。かつては帝のいた古都でもある」
各務君がヘイマオ嬢に得意げに言った。
ヘイマオ嬢は物珍しそうにきょろきょろとあたりを見回しながらはしゃぎ、各務君もそんなヘイマオ嬢に楽しげに説明している。
二人とも呑気なものだ。観光できたわけではないのに。
気分が重かったのは私一人だけだった。
「ほう。日本の帝は東京ではなくここにおったのか」
「昔の話だけどな。昔の京都はそれはそれは風雅で美しかった」
「ほう。妾のいた咸陽の都(※2)も美しかったが、それと比べてどうなんじゃろう」
「さてな。俺は大陸には渡ったことがないからな」
いったいこの二人はどれだけ生きているのだろう?
路面電車に乗り、伏見へ。
駅に降り立ち、直ぐに参道方面に向かって歩き出した私を各務君が呼び止めた。
「吉岡君。叔父さんの家にはご挨拶に寄らないのかい?」
「今回は行かないよ。各務君も知っているだろう? 私があそこであまり歓迎されていないことは」
「ふむ……」
各務君は一瞬だけ気の毒そうな表情を見せたが、直ぐに明るい声で
「なら景気づけに雀の焼き鳥でも食べていくか。ヘイマオ嬢にもご馳走してやろう」
と言った。
正月を間近に控えた伏見見稲荷は、以前来た時よりも活気があった。
露店の準備をする人、参道に落ちているごみを拾って屑篭に入れる人、のんびりと参道を孫と散歩するご隠居、物珍しそうに参道沿いの店を覗く観光客などで以前来た時より賑わっている。
境内に入ると、白い着物に浅葱色の袴を纏った狐たちの姿が目立ち始めた。
もちろんここに居る人間たちに彼らの姿は見えない。
「見事なもんじゃのう」
ヘイマオ嬢は感心しながら境内を見回す。
「のう、各務殿。なぜここの鳥居は見事な朱色なのじゃ? なぜこんなに沢山あるのじゃ?」
「稲荷の鳥居は朱で彩色すると決められているからさ。『稲荷塗り』と言うんだぜ」
「ほお……何かいわれがあるのかの?」
「朱は『生み出す力』のある色だからな。ここでは人の願いの数だけ鳥居が建てられる」
「なるほど……」
「言い換えれば人の欲の数でもあるな」
各務君を先頭に、迷路のように入り組んで立ち並ぶ、赤い鳥居の道を私たちは歩いた。
参拝客に混じって、浄服姿の狐たちとすれ違う。
彼らは各務君の姿を見ると、立ち止まってうやうやしく一礼する。やはり、各務君はここでもかなり高い地位にいるに違いないと私は確信していた。
昼なお暗い奥の院を進むにつれて、参拝客の姿は殆どなくなり、時折鳥の鳴く声と、草を踏む自分たちの足音以外聞こえなくなった。
ここはもう、参拝客の入れない地域かもしれなかった。
ひときわ大きな赤い鳥居の前で、各務君は立ち止まった。
私にも見覚えのある場所だった。
ここから先は神域だ。
浄服姿の狐が二匹、槍のような形状の杖を交差させ、行く手を塞いでいた。
「大神様にお目どおり願いたい」
各務君の言葉に狐たちは一礼し、
「鏡魂の君。どうぞお通りくださいませ」
と言って道を開けた。
懐かしい、白銀の世界。
炊き立ての飯のいい香りが漂い、常に金の稲穂が満ちている。
ここにくると、何故か心がほっとする。
まるで故郷に戻ってきたような懐かしさを感じるのだ。
『よく来たね、秋斗』
御簾の向こうから穏やかで年老いた声がした。
「はい」
『大陸からのお客人もいるね』
ヘイマオ嬢は軽く会釈をした。
「大神様、今日は……」
各務君が言い終わらないうちに大神様は言った。
『わかっておる。我にあの頑固者の蛟を説得してくれというのじゃろ?』
「はっ」
各務君は深く頭を下げた。
『それに……秋斗。お前、自分が何者かを知りたいと思っているのだね?』
大神様は全てお見通しだった。
「蛟は私のことを奇果と言いました。教えてください……奇果とはなんなのですか?」
『それを知ることはお前のためにはならないよ。それでもお前は知りたいか?』
大神様の声は静かだった。私は少し怖くなった。
「全てを知ることはどうして私のためにならないのですか?」
『まだ、お前が大人ではないからだよ。秋斗』
大神様の声は優しかった。
「私はもう二十三です。充分に大人です」
『年を取るだけが大人ではないよ、秋斗。お前はまだ人生の経験が浅い。それは本当の大人ではないよ……だけど、お前がどうしても知りたいなら、少しだけ教えても良いかもしれぬ』
大神様の言葉と共に、社の御簾がゆっくりとあがりはじめた。
各務君は私に耳打ちする。
「大神様が光臨なさるよ……頭を垂れ、平伏するんだ吉岡君。大神様のお姿は、人間が気軽に見るものではないからね」
私は言われたとおりに頭を下げる。
御簾が完全に巻き上がり、あたりに金色の光が溢れ出る。
俯いていてもその光の眩しさがわかる。
ゆっくりと歩むように足音が、私の側に近づいてきた。
「宇迦之御魂神の御成りである。一同は伏して迎え奉られよ」
各務君が高らかな声で言った。
ヘイマオ嬢も、側に控えていた眷属狐たちも一斉に平伏した。
『鏡魂の君。堅苦しい儀礼は良い……秋斗や、顔をあげなさい』
大神様は私の直ぐ側にいた。
宇迦之御魂神は金色の光に包まれていた。その姿は小柄な老婆の姿であり、純白の着物に身を包んでいた。
純白の狐面を被ったその顔はわからない。
『奇果……それは、数百年に一人、人の子の中に現れる物の怪と人の二つの魂を持つ者。その本質は陰陽。奇果の魂の半分は人の領分たる陽であり、残りの半分は物の怪の領分の陰である。陰と陽は互いに依存しながら存在するもの。ゆえに奇果は人にして人に非ず。半人半妖と言っても良い』
━━━━━━━ 半人半妖……?
私は愕然とした。
では私は人間ではないというのか?
私は半分物の怪だというのか?
だとしたら私はいったい何者なのだ?
あまりの衝撃に頭の中が疑問符だらけになる。
すっかり困惑している私に向かって、大神様は優しく言った。
『秋斗……昔、我はお前に言うたはずじゃ。お前は人と物の怪の中間にいる危うい存在だと……お前はゆらぎの存在。心がけ次第で神にも近くなり、物の怪にも近くなる。お前を取り込めば物の怪は力を増し、強くなる。人の中にあれば限りなく清浄な魂を持つ。これがどういうことかわかるか?』
「私の、心がけ次第……と?」
『そう。奇果は自分の力の自覚をしなければ人の世に埋もれ、その力を知ることなく生涯を終えることができる。見鬼の才を発しなければ悪しき物の怪に見つかることもない。しかし、お前の力は生まれつき強かった。それには理由がある』
大神様は優しい声で言った。しかし、私は未だ動揺するばかりで心は酷く乱れていた。
『お前の母の血筋は我らに縁深き大陸より渡来した一族の血脈に繋がるもの。お前の一族に生まれる『忌み子』は特にその資質が強い。忌み子の中でも力が特に強い者は奇果となる……奇果を放置すればいずれ悪しき物の怪に食われよう、それゆえ、彼らの血筋に縁ある我らが奇果を護っておるのだ』
ヘイマオ嬢の言葉を私は思い出していた。
母の旧姓は「羽田」。その始祖を辿れば大陸より渡ってきた秦氏に繋がる。
「教えてください大神様……なぜ、羽田の血筋にそのような者が生まれるのですか?」
『弓月君の時代の、ある呪いのせいじゃ……』
「弓月君……」
知識として知っている名前だった。
始皇帝の子孫であり、秦氏の始祖。百済から日本へ渡ってきた渡来人だ。
「呪いとはなんですか? 大神様」
私は大神様に尋ねた。
しかし、大神様は静かに首を横に振った。
『それはお前に話すにはまだ早いよ……秋斗。お前はもっと学ばなければならないし、経験を積まねばならない。今の話を聞いた程度で、動揺しているようではとても話せない。全てを知ることは、お前の運命を決めることでもあるから』
「私の運命……」
『そう。お前が人として生涯を終えるか、悪しき物の怪に食われて悪神となるか……全てはお前次第で決まる』
━━━━━━━ すべては私次第。
「わかりました……では、今はこれ以上は聞きますまい」
これ以上はいくら聞いてもきっと教えてはもらえないと私は感じていた。
大神様は大きく頷いた。
『そこにいる、大陸の客人とお前が知己なのも何かの縁であろうな……縁とはほんに不思議なものよ……』
ヘイマオ嬢は大神様に優雅に会釈した。
ヘイマオ嬢は大陸のある皇帝に侍っていた愛猫……ということは……彼女が宿った香箱が私の近くに巡ってきたのも何かのめぐり合わせということなのだろうか?
「大神様。蛟めにはどのようにとりなしていただけましょう? 我が香箱の主の七魄、いかにすれば戻りましょう?」
ヘイマオ嬢は大神様に伺いをたてる。
『蛟めの契約が正式なものでないことを証明できればよいのだろう? ならば容易きこと。蛟めが宿っていた石像を探し当てるのじゃ。契約があるならば、石像にその痕跡があるはずじゃ。もしも、その痕跡がなければ契約は正式なものではない。正式な契約でなければ我が調停することもできよう……よしんば正式な契約であっても……なに、一計を案じることはできる』
大神様はそう言って笑った。
「大神様、本田先生はその石像のあった処には大きな建物が建ってしまったと仰っていました。石像はもうないかもしれません」
私がそう言うと大神様は大きく首を横に振った。
『案ずることはないよ秋斗。かの石像のあった場所を昔に戻せば済むことじゃ』
そう言うと大神様は片手を上げ、控えの眷属狐を呼んだ。
『時戻りの葉をこれに』
「はい。ただいま」
浄服姿の眷属狐はすぐに、金色の木の葉を持って戻ってきた。
眷属狐は大神様にうやうやしく木の葉を手渡した。
『これをお前にあげよう。この木の葉を石像のあったあたりに置けば、その近辺が一時間だけ昔に戻る。どれぐらい戻すかの加減は鏡魂の君に任せればよい。一時間のあいだに石像を手に入れればよいだろう』
私の手元には淡く金色に光る木の葉が一枚手渡された。
「これで先生が救える……」
私はもういても立っても居られなかった。
一刻も早く東京に戻りたかった。
『それを持って早くお戻り。秋斗……契約を確かめたら我が眷属に報せを託すが良い……あとは我がどうにかしよう……』
「ありがとうございます。大神様」
私はあらためて大神様に深く頭を下げた。
『お前の師は必ず救わねばならん……かの者はいずれお前に困ったことが起こった時、助けてくれる大切な人だからね』
「はい」
大神様はまた御簾の向こうに戻り、私はヘイマオ嬢や各務君と共に、再び深く頭をさげたのだった。
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※1 大正十二年頃は一等車、二等車で構成された最急行(現在の特急のようなもの)が最急行一、二列車と呼ばれた。乗車券のほかに特急券を買わなければならない列車であり、庶民は主に三等車の三、四列車を利用した。
この時代、東京~神戸間の所要時間は最速で約十二時間五十分だった。
※2 現在の西安。始皇帝時代の秦の都である。
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