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1巻
1-3
できる限り自然に聞こえるように振る舞い、小さく微笑みも作ってみせた。陽太がいつもより暗い目で見下ろしてくる。幸平は自分の心臓がどくどく音を立てるのを聴いている。
そして、陽太が言った。
「いや。いい。やめとく」
「……あ、そう、だよね」
その素っ気ない口調に幸平はショックを受けつつも、かろうじて返した。サッと思考が冷えていく感覚に襲われる。指先までも冷たくなり、熱されたように酔っていた頭が嘘みたいに鮮明になる。
アルコールの酔いと、夜道を陽太と歩ける状況で浮かれていたのだ。
浮かれて、吐き出してしまった言葉を後悔しても、後の祭り。断られるのを、なんで想定していなかったのだろう。その確率のほうが断然高いと最初から気付けたはずなのに、どうして俺は……
呆然とした心地のまま歩く。もうすっかり頭は冴えていた。吐いてしまった言葉をなかったことにしたいけれど、そんなこと不可能で、どう会話を続ければいいのか分からなくなる。そしてまたこうして黙ってしまう。陽太の顔が見られなかった。すると唐突に陽太の携帯からバイブ音がした。
「……陽太君、電話出ないの?」
それをきっかけにして、ようやっと幸平は次の言葉を発することができた。
何も傷付いてなんかいない装いをして陽太の顔を見上げる。陽太はこちらを見てから、その画面に浮かんだ文字に視線を落とした。
「あぁ、うん」
歯切れの悪い返事を不思議に思う。思わず画面を盗み見ると、相手の名前を意図せず捉えてしまった。陽太はすぐに携帯を後ろ手に隠したけれど、幸平は見たのだ。あれは……
「……陽太君、電車逆だよね」
背中が熱い。頭のてっぺんも熱い。幸平はその熱を自覚しつつ、呟いた。
陽太は携帯を手に、「コウちゃん?」と眉を顰める。幸平はパーカーを脱いで、陽太へ押し付けた。
「俺もう、一人で帰れそう」
「けど」
「男なんだから送らなくても平気だよ。じゃあ、またね」
「コウちゃんっ」
もうこれ以上話せない。逃げるようにその場を立ち去ろうとするが、その瞬間、腕を掴まれた。
陽太は焦ったように下唇を噛んでいる。片手をポケットに突っ込み、ソレを取り出した。
「今日、先約があったのに時間取ってごめん」
幸平はソレ――一万円札を無理矢理握らされる。
……ああ、まただ、と幸平は頭がぐらぐらする思いだった。
いつもセックスをした後に、陽太は金を渡してくる。
幸平はこれを目にするたび固まってしまって、どうしたら良いか分からなくなるのだ。
「じゃあまた」
陽太は言って、体の向きを変えた。あっという間に通りへ出てタクシーを拾っていってしまう。去り際も彼は携帯を気にしていた。幸平の頭の中にはまだ、あのバイブ音が響いている。
しばらくその場に立ち尽くしていたが、幸平はゆっくりと歩き出す。一万円札はボディバッグの中に突っ込んだ。幸平にはこの金になんの意味があるのか分からない。谷田らに関係がバレた時も、この金に関しては言えなかった。誰にも話していないし、その意味を知るのが怖くて検索すらできない。
金を渡されるなんて異常だとは分かっているけれど……意味を知るのが嫌なのだ。
幸平には陽太の他に恋愛経験がない。照らし合わせる前例はなく、男同士の恋愛は周りを見渡してもおらず、『普通の恋愛』の想像もつかなかった。
陽太には他に恋愛の経験くらいあるはず。けれど、幸平は陽太以外を知らない。何も、何も分からない。
陽太の携帯に表示されていた名前が、脳裏に浮かぶ。
「……すみれ、さん」
画面には『すみれ』と表示されていた。きっとあれが室井の言っていた、花の名前の女性だ。室井が教えてくれた『陽太の好きな女性』。
室井は、陽太が頻繁に彼女と電話をしていると話していた。幸平は、陽太がその人からの着信を受ける様をさっき初めて見たが、室井は高校時代に陽太とかなりの時間を共に過ごしているのだし、彼は陽太が『すみれさん』と電話している姿をよく見かけていたのだろう。
正直に言うと、幸平はその名に覚えがあった。高校時代の秋、体育祭で陽太はタトゥーを隠すために、黒いインナーを着ていた。周りにいた友人達が、彫るの痛くなかった? と親しそうに問いかけると、彼は答えたのだ。『すみれは腕がいいから』と。
「タトゥーの人……」
『すみれさん』は陽太の体にタトゥーを彫った女性だ。陽太がタトゥーを入れたのは中学生の時だから、現在も連絡をとっているなら彼女とは長い付き合いになる。あの体育祭の日、陽太は言った。
『あの人は、憧れみたいな人』
「……室井君の言ってた通りだ」
陽太にとって『すみれさん』は特別な女性だった。あの陽太が憧れるくらいなのだから。
改札の手前でとうとう足が止まる。後ろから来た人が幸平の肩にぶつかり舌打ちした。ハッと頭を下げて謝り、幸平も改札を通る。茫然自失のまま電車に揺られ、いつの間にか最寄り駅にいた。
閑静な夜の住宅街を一人歩く。つい先ほどまでの居酒屋とは打って変わった静けさの中で考える。飲み会で陽太は、女の子達に付き合ってる人がいるのかを聞かれて、なんと答えたのだろう。
好きな人がいるのか聞かれたら、なんと答えただろう。
「ただいま」
乾いた声が淋しい部屋に落ちる。部屋には、隅のほうに陽太が置き忘れていったパンの袋があった。それらは箱の中に入っていて中身は見えない。どんなパンなのか分からない。このパンをどうすべきか、今の幸平では、陽太へ気軽にメッセージで訊ねることもできない。
些細なことすらできない。何も訊けない。箱を開けるのが怖いのだ。
……陽太と没交渉となった十四歳から、ずっとそうだった。
「……ほんと、俺って弱い」
谷田の言った通りだ。俺はずっと『弱っちい』まま。高校の時から、何も変わってない。
あの頃から、ずっと。
第二章 森良幸平 十七歳
「うわ、大奥だ」
放課後。幸平が教室で日誌を書いていると、前の席に座った谷田が緊張感に満ちた声を上げた。
幸平は顔を上げて、谷田の視線の先を追う。廊下にはもう中心人物はいない。複数の男女達の過ぎ去っていく姿が見えるだけだ。
……大奥。この学校でそれが意味するのは歴史上の単語ではない。『溝口陽太』と、彼を取り巻く集団を暗喩しているのだ。
「そういや幸平、溝口さんと同じ中学なんだっけ? 七中だろ?」
二年に上がって仲良くなった友達の谷田がこちらに顔を戻した。幸平も日誌に視線を戻しペンを走らせる。頷きながら、六限の日本史欄に《皆、眠そうでした。》と記述する。五限が体育だったせいで舟を漕いでいる者が複数いた。一日の総合欄には《修学旅行が楽しみです。》とだけ書く。
「溝口さんって昔からあんな怖ぇの?」
日誌を閉じて、机にぶら下げていたリュックを膝の上に置いた。谷田は、幸平の机に肘をひっかけて、『大奥』が去ったほうへ目を向ける。
「見えないけど肩とか腕にタトゥー入ってるんだろ? ピアスもめちゃくちゃ開いてんじゃん。見てるだけで怖いよ。ずっと笑ってるけど、目の奥は笑ってない感じするし……なんと言ってもバチクソにイケメンだし。中学でさ、溝口さんと話したことある?」
幸平は斜め下に、否定とも肯定とも取れる角度で頷いた。谷田は前者の意味で受け取ったらしい。
「まぁ、ないわな。つか、溝口さん、あんま中学来てなかったって聞くし。溝口さんが刺青ゴリゴリの人達と歩いてんの見たって誰かが言ってた。きっと中学ん時からそういう人達と遊んでたんだろうな。世界違うわ。幸平とはタイプが違うし、そりゃ話さないか」
幸平は椅子にかけておいたパーカーを手に取り腕を通した。十月ともなれば肌寒く、今日は朝から空が分厚い雲に覆われていたので特に冷える。シャツにパーカーだけでは足りなくなってきた。
谷田は私服だが、幸平は制服を着ている。この高校は私服校で何を着ようと基本的には自由だ。男子はほとんど私服を着ているが、幸平は違う。アパートに住んでいた大学生が高校の時に使っていたスラックスをお下がりでもらって着用している。上は白シャツを着ていれば制服風になるし、シャツも二枚あれば使い回せるので、幸平の服装は入学してからこの一年と半年間、固定である。
「修学旅行、来週って、やばすぎ」
今月の行事といえばそれだ。谷田は嬉しそうに歯を見せて笑った。
「テンション上がる。それ終わったら体育祭だぜ? 最高だな。幸平、今日もバイトか?」
「うん。その前に花壇寄ってく」
リュックと日誌を持って立ち上がると谷田が「俺も行く」と腰を上げた。職員室に担任の教師はいなかった。日誌だけ机に置いて、二人は校舎の裏にある花壇へと向かった。
花壇は、通称『お花係』と呼ばれている花壇係が管理している。実際にはほとんどの花壇係が仕事をしておらず、同じ二年では、幸平と他クラスの女子二人だけで二学年用花壇の花々を世話している。一年の花壇では野菜と雑草を育てていた。一年には中学からの後輩である室井も属していて、たまに開かれる係会議で顔を合わせたりもする。
幸平は物置から空の二リットルペットボトルを二つ取り、谷田もジョウロを持ってくれた。水道に寄り、水を汲む。水でなみなみになったペットボトルを両手にぶら下げ、花壇へと向かった。
「でさー、長センが言うには宿泊先の旅館、めっちゃ良いとこなんだって。庭とかも立派なんだってさ。そういう侘び寂び? 分かんねぇけどいいよな。てかアレらしいよ! 夜、近くの城のライトアップ見に行っていいって! 希望する班はタクシーで行くんだってさ。俺らどうする?」
「どっちでもいいよ」
「でも幸平、金ねーもんなぁ。タクシー代とか入場料とか、もったいないよなぁ」
「気にしなくていいのに。なんなら俺抜きで行ってきていいよ。部屋で待ってるから楽しんできて」
「幸平マジで気にしてなさそうだからすごいよな」
感心して呟く谷田の横で、幸平は植物に水をやる。本来ならば朝にE組の女子が水をやる予定だったが忘れていたようで、『放課後水やり頼める?』と相談されたのだ。
「幸平に無駄なタクシー代は払わせられん。やっぱ部屋で遊ぼう。トランプとかさ。つーか、飯の後に出かけるの絶対だるいしな」
「気遣わないでいいのに」
「いやいや。俺、お前が京都に『夜行バスでいきたい』って言った時の衝撃忘れらんないんだよ」
幸平は土の湿り具合を確認しながら「ごめんって」と返す。確かにその発言をしたのは事実だ。学校で修学旅行代を支払った際の帰り道、あまりの高額費用に呆然とした心地で、泣きそうになりながら呟いた言葉だった。
「普通に遊ぶか。だって夜だぜ? テンションあがるぅっ」
「あ。そうだ、谷田、修学旅行さ、いくら持ってく?」
せっかく汲んだけれどペットボトル二本も必要なかった。その水で軽く手を洗いながら聞くと、谷田は楽しそうに返した。
「小遣い? 母ちゃんが二万くれるって誓ってくれた」
「へぇ、誓いを……」
二万か……食費一ヶ月分だ。一体五日間で何をそこまで、と幸平は考える。ひとまず一応、それくらいは用意しておこうと決意した。谷田も楽しみにしてくれているのだ。金がないというだけで諸々の誘いを断り、チームの足を引っ張って白けさせるわけにはいかない。
「幸平が修学旅行来れんのほんとラッキー。食べ歩きしようぜ! 幸平さ、夏休み前まで行かないって宣言してたから、すげぇ嬉しい」
「うん、たまたま予定が空いたんだ」
谷田は「嘘つけ!」とケラケラ笑った。確かに嘘だった。母にバレただけだ。欠席の連絡が学校から母に入ったらしい。バレなければ、欠席していたのに。やっぱり隠し事は露呈するものだ。
「美味いもんたくさん食おうなぁ。奈良とか何があんだろ? 鹿せんべい? 食っていいのかな。いいよな。せんべいって言ってるし」
奈良も京都も、行ったことがない。中学時代の修学旅行も行っていないのでよく分からないが、鹿は人間を襲わないのだろうか。と単純な疑問を口にすると、谷田は「は?」と目を丸くした。
「え? 鹿って人間襲うの?」
「襲わねぇよ。そうじゃなくて、中学の修旅も行ってねぇの?」
「あ、うん」
「なんだよ。金か? 可哀想だなぁ。家とかもさ、この間までワンルームで三人暮らしだろ? 信じらんねぇわ。俺なら耐えられん。弟と母親とワンルームって。同棲じゃん。リリコと同棲してるようなもんじゃん」
「俺の母さんを名前で呼ぶな」
「何はともあれ、修学旅行楽しみだな!」
笑い返すと、谷田も嬉しそうに笑ってくれた。が、突如として彼の表情から笑顔が消え去り、幽霊でも見たかのような顔で校舎を見上げた。何かと思ったが、その答えを谷田は指差した。
「あっ、ちょ、見えたっ。見ちまった。幸平、あそこいる!」
谷田は幸平の背後に聳え立つ校舎を見ている。示されたほうへ顔を向けると、三階に人影が見えた。
「溝口さんだ……」
その言葉に幸平は目を凝らした。言われてみると、そうかもしれない。
窓際に陽太らしき人物の後ろ姿が見える。そこまで遠くはないけれど、幸平は目が悪いので判別できなかった。コンタクトをしている谷田には、はっきりと目視できるらしい。
その人影が動き出す。廊下の奥へ消え、ここからでは見えなくなった。
ペットボトルの中身も空になる。「ビビったな」と息を吐く谷田に対し、幸平は曖昧に頷き、二人は物置へ歩き出した。
平日のバイト先はブックカフェで、以前まで住んでいたアパートの最寄り駅付近にある。今の家からも高校からも少し離れたけれど、静かで自由な空間だから、幸平はこのバイト先を気に入っている。お客さんがいてもレジの仕事などがなければ、何をしていても構わない。本屋というよりカフェの用途でやってくる客が多く、店内はのんびりとしていた。
幸平はいつもここで、宿題をしたり予習をしたりしている。訪れるお客さん達は、そんな幸平を見て、「熱心ね」と感心した。
「幸平君、お疲れ様」
「うん。時川、今日もよろしく」
同い年のバイト仲間である時川の挨拶は固定だ。始業前に会った時も別れ際も、彼は『お疲れ様』とにこやかに言う。彼は読書が趣味で、暇な時間は本ばかり読んでいる。
この日は幸平がレジとウェイターを担当し、時川は飲み物作りを担当した。売っているお菓子やマフィンは近くのパン屋が宣伝も兼ねて置いているので、幸平達は作っていない。店長は裏で入荷する本を整理していた。
今日はそのうち混むだろう。なぜなら時川が出勤している。彼は美形でスタイルも良く、人気なのだ。幸平はカウンターで英文読解を始めて、時川は店内の棚を眺め始めた。
すると、時川がこちらにやってきて耳打ちする。
「幸平君、あの人また来たよ」
言われて顔を上げ、来客を確認する。店にやってきたのは、陽太だった。
陽太はこちらに目を向けず、真っ先に売り場の棚へ向かった。時川がより小さく囁いた。
「幸平君と同じ学校の人だろ。前に、学生証落として拾ったことある。あ、来た」
時川はサッとカウンターを離れた。陽太が本を一冊手にしてこちらに歩いてくる。幸平も椅子から腰を上げ、彼を見つめた。
「……一点ですね。六百八十円です」
無言で本を差し出してくるので受け取る。冷静を装って相手をするが、内心は乱れていた。
陽太は月に一度程度この店を訪れる。カフェとしての利用ではなく、本屋として利用している。近くに大きな書店はたくさんあるがきっと昔からこの店が行きつけだったのだろう、わざわざここへ来て本を購入してくれる。いつも、陽太が本を購入する時、二人の間に余計な会話はない。そもそもとしてこのお会計のやり取りすら少ない。
普段なら陽太は、幸平がレジを担当していない時にやってくる。バイトとして働き始めた当初は、まさか陽太が来店するとは思わなかったから驚いた。今の彼はポーカーフェイスなのでその心は読み取れないが、陽太もここで働く幸平の姿に驚いたに違いない。驚いて、嫌がったのではないか。
昔は、幸平の親友は陽太だった。だがそれは中学二年までの話。その頃から陽太に冷たく無視されるようになり、幸平は自分が彼に嫌われてしまったのだと悟った。
高校に入ってからも二人の間に交流はない。嫌われているのか確かめる術はない。だからこの店に訪れた陽太の姿を見て、驚きを抱く一方で、焦燥が胸を焦がした。嫌な顔をされて立ち去られたらどうしよう、と。
しかし意外にも陽太は通い続けている。そして今もこうして会計する幸平を疎ましがる気配はない。幸平は彼の穏やかな無表情に見つめられながら、お釣りを数えている。
……話しかけても、良いんじゃないか。と唐突に思った。
それは陽太が、幸平がいるにもかかわらずレジに本を持ってきてくれたからだけでない。
その本が、幸平のお気に入りの小説だったからだ。
「……陽太君」
お釣りをトレーに乗せて返す。小銭を取る長い指が、ぴくっと震えた気がした。
「この本読むんだね」
幸平はできる限り自然体を装って笑いかけた。沈黙が流れる。その静けさも店内に流れる柔らかいオルゴール調BGMで和らぐ。それほど窮屈ではないが、やはり、幸平の心臓はバクバクと鼓動が激しい。それは昔の親友と言葉を交わすことに緊張しているから、だけでない。
今、恋する人物だからだ。幸平は陽太に恋をしていた。もう昔からずっと、片想いは終わらない。
数秒後、低い声が、幸平の張り詰めた心に届いた。
「うん、好き」
それだけの言葉で胸が溶けていく。幸平は嬉しくて泣きたい気持ちを堪え、不器用に微笑んだ。
「俺も好きだよ」
陽太は数秒反応しなかった。やがて軽く頷き、「そうなんだ」と呟く。
意外だったに違いない。そんなこと言われて反応に困ったのかも。幸平は無性に恥ずかしくなり唇を噛み締めた。陽太は大して反応を見せていない。余計なことを言ってしまったと焦りながら、誤魔化すように慌ててショップの紙袋に本を詰め、手前の箱から飴を一つ選んで取り出す。陽太が不思議そうな顔をした。幸平は飴と共に本を差し出した。
「今月はハロウィンだから飴配ってるんだ。この味、美味しいよ。陽太君ミルク好きだったよね。ハロウィンおめでとう。お疲れ様」
「……あのさ、コウちゃん」
すると、二秒ほど遅れて陽太が囁いた。幸平は反射的に口を噤む。
陽太が「しゅ」と言いかけた気がしたが、幻聴だろうか。彼は、小さく微笑んで告げた。
「この味好きだよ。ありがとう。お疲れ」
短い言葉が三つ続く。時間にしたら三秒ほどの言葉達。しかしそれらは、その後、幸平の心に長く続く幸福感を齎した。陽太は商品を受け取り、あっという間に店を出ていってしまう。幸平はその場に突っ立ったままだった。飴や本に対してだが、「好き」という言葉を聴けてしまった……
ぼうっとしていると、時川が声をかけてくる。
「今、幸平君、あの人と話してたね」
そう、少しだけ話した。いつぶりだろう……『会話』を交わせた。胸にあふれかえる喜びを堪えて、幸平はそっと「うん」と呟く。椅子に腰かけると、時川は立ったままカウンターに肘を置いて、陽太が去ったほうへ視線をやった。
「ふぅん。私が思うに、彼と幸平君は案外気が合うんじゃないかな?」
「え?」
同じように陽太が消えた扉を見つめていた幸平は、思わず時川を見上げる。
「タイプが同じなんだろうね。幸平君がポップを書いてる書籍ばかり購入している気がする」
時川はさらりと言って、少し微妙な顔をした。
「私が紹介文を書いた本はなかなか選ばれないな。悔しくなってきた」
「……そのうち買うんじゃないかな」
陽太が幸平好みの本を気に入っているのは、偶然だ。それでも時川の言葉は心を浮かれさせるので、幸平は素直に笑みを見せた。そのタイミングでちょうどお客さんが来店したので、二人は業務を再開する。その後は、いつもより明るく接客することができた。
会話の流れではあるが『好き』という言葉をもらった。もうこれ以上の幸せなんて、今後は訪れないのではないか。本気でそう思うくらい、そのひとときは幸平の心にときめきを齎す。
もう今では、幸平は陽太と接点がない。以前までは家が近いという共通点もあったが、現在はそれすらなくなった。
幸平が二学年に進級し、弟の進が中学へ入学したタイミングで、森良家は以前のアパートから別のアパートへ引っ越した。前まではワンルームだったが、今は二部屋ある。六畳と四畳の和室。後者は弟の部屋だ。幸平は食事をする居間に荷物を置いている。
進の洋服は幸平のお下がりばかりだから、幸平にはあまり荷物がない。中学の制服も私服も中学時代に使っていた勉強道具も、幸平の私物はほぼ進へ流れている。
しかし進は、母や兄に対してなんの文句も言わない。あの子が自分自身の新しい服を好きなだけ買えるように、森良家は精進せねばならない。それに現在中学一年の進は背が高く、そろそろ幸平の身長を越える。ちゃんと服を買えるように、バイトを頑張らないと。
そういうわけで、去年まではすぐ近くに住んでいた陽太と偶然に会う機会は、もうなくなった。
あのアパートの外階段下には、まだあの箱が残っているのだろうか。秘密兵器は眠っているのだろうか。訪ねる機会は得られない。毎日勉強とバイトで大忙しなのだから。
修学旅行当日の集合時間は六時半だ。いつもは登校に自転車を使うが、荷物が多いので電車を使うことにした。駅までは遠いので、四時半に起床し、五時には家を出ることにする。もう四泊五日分の準備は済んだので、バナナを一本腹に入れ、歯を磨いていた。
水を吐き出すと同時に、真っ暗な洗面鏡に黒い人影が入り込む。
「兄ちゃん、おはよ……もう行くの?」
進だった。外はまだ陽も昇っていない。明かりもつけず、できる限り音を立てないように準備していたが、起こしてしまったらしい。母は夜勤で留守にしている。弟は寝ぼけ眼を擦りながら歩いてくると、洗面台の電気を点けた。
「うん、もう少ししたら。起こしてごめん」
「勝手に起きただけ。見送ろうと思ってたし。つーか兄ちゃんさ、ちゃんと小遣い持った?」
脈略ない言葉に内心で首を捻りつつも首を上下に揺する。しかし進は怪訝な顔をすると、踵を返して去っていった。なんだろう、と思う間もなくすぐに乱暴な足取りで戻ってきて、茶封筒を幸平に突きつけた。
「持ってねぇじゃん! 嘘つくな! 母さんが兄ちゃんに小遣いくれたんだよ。一万円!」
「……え、いち、そ、そんなに?」
動揺する幸平に対し、進は頷き、封筒から一万円札を取り出した。
「はい、これ兄ちゃんのだから」
強引に渡されるのでひとまず受け取るが、数秒眺めて万札を封筒に戻す。修学旅行だからって自分だけ一万円もらうのは頷けない。
「これは、いいよ。俺、バイト代あるし。そうだ、進、これあげるからチケット代にしな。いつも俺が作るやつだけじゃ味気ないだろ。七中の弁当美味いらしいからこれ使えばいいよ」
進は以前の幸平と同じく第七中学校に通っている。チケットを購入した生徒は給食代わりの弁当を受け取れるのだ。一食三百円の弁当にはデザートも付いていて、とても美味しいらしく、七中のほとんどの生徒がチケットを購入していた。一万円あれば一ヶ月以上、例の美味しい弁当を食える。あくまで伝聞なのが申し訳ない。すると、進は焦ったように言った。
「味気なくないって! 美味しいよ」
「ありえないおかずの少なさじゃん」
「そんなことないよ。白米があんだから、充分だよ。戦時中の人は粟食べてたんだって」
「戦時中……」
その時代と我が家は比較されているのかと、もの悲しい気分になる。充足した生活への道のりは長い。
「兄ちゃんが使えよ。修学旅行なんだぜ?」
「うん。旅館、良いところなんだって……楽しみ。でもだからって、俺だけ美味しいもの食べるのはダメだろ」
「ダメじゃないよ。ダメって何」
少し早いが学校へ向かうことにした。水道水を汲んだペットボトルをいつものリュックに詰める。
「つうか、修旅代も兄ちゃん自分で払ったらしいじゃん」
「そんなわけないだろ」
バイト代を前借りして学校に支払った後、母が全額を寄越してくれた。それを勝手に生活費へ回しただけだ。もしかして母にバレているのだろうか。不安に思いつつもリュックを背負い、鞄を両手で持ち上げる。百均で買ったプラスチックの鞄だけれど、今更、破けないか心配になった。
「俺らにお土産買ってきてくれるんじゃないの」
「買ってくるよ。でもそれは進にあげる。母さんには内緒な」
「買い食いとかしなって!」
進は、玄関へ向かう幸平に縋るように「八ツ橋でも七橋でも食べてくりゃいいじゃん!」と言った。お土産は八ツ橋にしよう。幸平は靴を履き、「うん、買い食いするから気にしないで」と返した。
弟はまだ不満気だった。幸平はあやすように微笑み、玄関の扉を開ける。空はまだ真っ暗だ。
「じゃあ行ってくる」
「……行ってらっしゃい」
納得はしていないが見送りはしてくれる。幸平は進に笑いかけ、「鍵閉めろよ」と強調し家を出る。自分だけ旅行を楽しむ罪悪感を抱きつつ、それでも浮かれた気持ちで、幸平は暗い住宅街を歩き出した。
一日目はクラスで行動し、二日目と三日目は班ごとの自由行動だ。谷田も同じ班で、京都に着いてからは、「幸平、お前は携帯持ってないから自由行動は危ない。俺についてこい」と頼もしい彼が常にそばにいてくれた。一日目はあっという間にすぎて、二日目の今日も谷田が隣にいる。
谷田は近くの売店に興味があるらしく、店に入っていく。土産コーナーでは試食が配られていた。眺めながら谷田が、「そういえば」と切り出した。
「幸平、昨日大浴場行けなかったじゃん。なんか先生から呼び出し? 受けててさ。今日行けるだろ? 俺ら昨日で分かったんだけど、時間案外ねぇのよ。俺らはドライヤー必要組じゃん? だから、ミヤんとこ行こうぜ。そんでそんまま、ミヤん部屋で遊ぼう」
「あ、俺、今日も風呂行けないかも。温泉アレルギーなんだよ。呼び出しっていうか、先生の部屋のお風呂使ってた。先生のドライヤー使うから気にしないで」
「まじ? 知らなかった。先生んとこにはお風呂あるんだ」
谷田は納得して、幸平の言葉を一切疑わない。ひっそりと安堵しつつ、試食のお菓子を口にした。
「クッキーか? 美味しいか? 食え食え。全部食え」
「試食だからそんなに食っちゃダメだよ」
谷田は上機嫌で笑っていた。以降も彼は、幸平に食べ物を勧め続ける。旅館に帰ってきて、夕食時もそうだった。幸平は黙々と食事をするが、隣にいたクラスメイトが「このプルプルしたやつ、すげぇ美味い。森良君、食べた? 食べてない? 今すぐ食べな」と促してくる。
部屋に戻り、谷田達が温泉へ向かう。幸平は男性教師の部屋のシャワー室を借りた。さっさとシャワーを浴びてドライヤーで髪を乾かしていると、途中で、部屋の主が戻ってきた。
「森良君、このビーフジャーキー超美味い。食ったほうがいい。あとこの饅頭も。美味いぞ」
「ありがとうございます」
たくさんのお菓子をなぜか頂いてしまう。どうして皆、食べ物を寄越してくるのか。
不思議に思いながら礼を言って、その場を後にする。先生の部屋は一階の端だ。廊下からは庭が見えて、途中、外に出られる扉があった。下駄も用意されている。シャワーを浴びて火照った体を鎮めたくなり、幸平はおもむろに扉を開けた。
冷たい風が首元を吹き抜けて、心地好い。庭には東屋が設置されていた。幸平はサンダルを引っかけて歩いていく。木の椅子に腰を下ろしぼんやりと竹林を眺めていると、いきなり声がした。
「コウちゃん」
最初は幻聴かと思った。体だけが反応し、一気に硬直する。
振り向けないでいると、もう一度声をかけられる。
「コウちゃん、何してんの」
振り向くと陽太が立っていた。黒いスウェットに身を包んだ彼はバスタオルを持っている。
「あ、よ、陽太君」
ごくりと唾を飲み込む。凪のように平穏だった心に急激に波が押し寄せてきた。陽太は躊躇いなく近寄ってくると、テーブル越しの椅子に座る。幸平は何を言ったらいいか分からず、声を絞り出す。
「こんばんは」
陽太は淡々と「こんばんは」と返してくれた。動揺する幸平と違って陽太は冷静で、たまたま東屋にやってきただけなのだろう。中にいたのが幸平だったから、とりあえず話しかけてくれたのだ。
陽太は落ち着いた口調で「こんなとこあったんだ」と屋根を見上げた。庭のそこら中に散らばる暖色のライトが陽太の白い首元を照らしている。ピアスがない。温泉に入っていたのだろうか。
「うん、俺もたまたま見つけて……よ、うた君は、温泉帰り?」
「あー……そう」
バスタオルを持っている。温泉は三階にあるので、かなり館内をぶらついていたらしい。
「温泉良かった?」
「うん、まぁ。コウちゃんはもう行ってきた?」
「俺、先生の部屋使った」
「……あ、そっか」
すぐに気付いたらしく、口を噤む。陽太は前髪を指で弄り、俯きがちに「なんかいろいろ持ってんね」とテーブルの上のお菓子に話題を移した。
「先生がくれたんだ。みんなで分けようと思ってて、陽太君も食べる?」
「みんなって谷田とか?」
陽太が彼の名を口にするとは意外だった。少し驚きつつも、「そう。同じ部屋なんだよ」と返す。
「ふぅん……俺も食べよっかな」
「ほんと? どうぞどうぞ。お饅頭あげる」
「ありがと」
幸平は緊張と共に白い饅頭を差し出した。陽太は受け取り、包みを開けながら、「夕食とかちゃんと食べた?」と聞いてきた。まだ会話は続くらしい。持ち帰るのではなくここで食べ始めるので、幸平の心はとんでもなく高揚してしまう。まさかこんなことになるなんて思いもよらなかった。幸平ははやる心を抑えて、「うん。食べたよ。美味しかった」と首を上下に振る。
「そっか。班行動とか、楽しい?」
「うん、楽しい。京都っていろいろあって面白いね」
「コウちゃんさ、中学ん時、修旅いなかったよね」
陽太はそう言って饅頭を一口齧り、「美味い」と小さく呟く。やっぱりまだ甘いものが好きなんだ。幸平はすっかり嬉しくなり、うんと頷いた。
「だから初めて京都来た」
「中学ん時なんでいなかったの? 親父さんがまたなんかした?」
普段、生活しているところまで話題を踏み込まれることはない。だが相手は陽太だ。子供の頃は身内のようなものだった。なんだか久しぶりに、『幼馴染』のような会話を引き出されて、心が自然と緩んでしまう。そのせいか唇が勝手に開いて、素直に答えてしまった。
そして、陽太が言った。
「いや。いい。やめとく」
「……あ、そう、だよね」
その素っ気ない口調に幸平はショックを受けつつも、かろうじて返した。サッと思考が冷えていく感覚に襲われる。指先までも冷たくなり、熱されたように酔っていた頭が嘘みたいに鮮明になる。
アルコールの酔いと、夜道を陽太と歩ける状況で浮かれていたのだ。
浮かれて、吐き出してしまった言葉を後悔しても、後の祭り。断られるのを、なんで想定していなかったのだろう。その確率のほうが断然高いと最初から気付けたはずなのに、どうして俺は……
呆然とした心地のまま歩く。もうすっかり頭は冴えていた。吐いてしまった言葉をなかったことにしたいけれど、そんなこと不可能で、どう会話を続ければいいのか分からなくなる。そしてまたこうして黙ってしまう。陽太の顔が見られなかった。すると唐突に陽太の携帯からバイブ音がした。
「……陽太君、電話出ないの?」
それをきっかけにして、ようやっと幸平は次の言葉を発することができた。
何も傷付いてなんかいない装いをして陽太の顔を見上げる。陽太はこちらを見てから、その画面に浮かんだ文字に視線を落とした。
「あぁ、うん」
歯切れの悪い返事を不思議に思う。思わず画面を盗み見ると、相手の名前を意図せず捉えてしまった。陽太はすぐに携帯を後ろ手に隠したけれど、幸平は見たのだ。あれは……
「……陽太君、電車逆だよね」
背中が熱い。頭のてっぺんも熱い。幸平はその熱を自覚しつつ、呟いた。
陽太は携帯を手に、「コウちゃん?」と眉を顰める。幸平はパーカーを脱いで、陽太へ押し付けた。
「俺もう、一人で帰れそう」
「けど」
「男なんだから送らなくても平気だよ。じゃあ、またね」
「コウちゃんっ」
もうこれ以上話せない。逃げるようにその場を立ち去ろうとするが、その瞬間、腕を掴まれた。
陽太は焦ったように下唇を噛んでいる。片手をポケットに突っ込み、ソレを取り出した。
「今日、先約があったのに時間取ってごめん」
幸平はソレ――一万円札を無理矢理握らされる。
……ああ、まただ、と幸平は頭がぐらぐらする思いだった。
いつもセックスをした後に、陽太は金を渡してくる。
幸平はこれを目にするたび固まってしまって、どうしたら良いか分からなくなるのだ。
「じゃあまた」
陽太は言って、体の向きを変えた。あっという間に通りへ出てタクシーを拾っていってしまう。去り際も彼は携帯を気にしていた。幸平の頭の中にはまだ、あのバイブ音が響いている。
しばらくその場に立ち尽くしていたが、幸平はゆっくりと歩き出す。一万円札はボディバッグの中に突っ込んだ。幸平にはこの金になんの意味があるのか分からない。谷田らに関係がバレた時も、この金に関しては言えなかった。誰にも話していないし、その意味を知るのが怖くて検索すらできない。
金を渡されるなんて異常だとは分かっているけれど……意味を知るのが嫌なのだ。
幸平には陽太の他に恋愛経験がない。照らし合わせる前例はなく、男同士の恋愛は周りを見渡してもおらず、『普通の恋愛』の想像もつかなかった。
陽太には他に恋愛の経験くらいあるはず。けれど、幸平は陽太以外を知らない。何も、何も分からない。
陽太の携帯に表示されていた名前が、脳裏に浮かぶ。
「……すみれ、さん」
画面には『すみれ』と表示されていた。きっとあれが室井の言っていた、花の名前の女性だ。室井が教えてくれた『陽太の好きな女性』。
室井は、陽太が頻繁に彼女と電話をしていると話していた。幸平は、陽太がその人からの着信を受ける様をさっき初めて見たが、室井は高校時代に陽太とかなりの時間を共に過ごしているのだし、彼は陽太が『すみれさん』と電話している姿をよく見かけていたのだろう。
正直に言うと、幸平はその名に覚えがあった。高校時代の秋、体育祭で陽太はタトゥーを隠すために、黒いインナーを着ていた。周りにいた友人達が、彫るの痛くなかった? と親しそうに問いかけると、彼は答えたのだ。『すみれは腕がいいから』と。
「タトゥーの人……」
『すみれさん』は陽太の体にタトゥーを彫った女性だ。陽太がタトゥーを入れたのは中学生の時だから、現在も連絡をとっているなら彼女とは長い付き合いになる。あの体育祭の日、陽太は言った。
『あの人は、憧れみたいな人』
「……室井君の言ってた通りだ」
陽太にとって『すみれさん』は特別な女性だった。あの陽太が憧れるくらいなのだから。
改札の手前でとうとう足が止まる。後ろから来た人が幸平の肩にぶつかり舌打ちした。ハッと頭を下げて謝り、幸平も改札を通る。茫然自失のまま電車に揺られ、いつの間にか最寄り駅にいた。
閑静な夜の住宅街を一人歩く。つい先ほどまでの居酒屋とは打って変わった静けさの中で考える。飲み会で陽太は、女の子達に付き合ってる人がいるのかを聞かれて、なんと答えたのだろう。
好きな人がいるのか聞かれたら、なんと答えただろう。
「ただいま」
乾いた声が淋しい部屋に落ちる。部屋には、隅のほうに陽太が置き忘れていったパンの袋があった。それらは箱の中に入っていて中身は見えない。どんなパンなのか分からない。このパンをどうすべきか、今の幸平では、陽太へ気軽にメッセージで訊ねることもできない。
些細なことすらできない。何も訊けない。箱を開けるのが怖いのだ。
……陽太と没交渉となった十四歳から、ずっとそうだった。
「……ほんと、俺って弱い」
谷田の言った通りだ。俺はずっと『弱っちい』まま。高校の時から、何も変わってない。
あの頃から、ずっと。
第二章 森良幸平 十七歳
「うわ、大奥だ」
放課後。幸平が教室で日誌を書いていると、前の席に座った谷田が緊張感に満ちた声を上げた。
幸平は顔を上げて、谷田の視線の先を追う。廊下にはもう中心人物はいない。複数の男女達の過ぎ去っていく姿が見えるだけだ。
……大奥。この学校でそれが意味するのは歴史上の単語ではない。『溝口陽太』と、彼を取り巻く集団を暗喩しているのだ。
「そういや幸平、溝口さんと同じ中学なんだっけ? 七中だろ?」
二年に上がって仲良くなった友達の谷田がこちらに顔を戻した。幸平も日誌に視線を戻しペンを走らせる。頷きながら、六限の日本史欄に《皆、眠そうでした。》と記述する。五限が体育だったせいで舟を漕いでいる者が複数いた。一日の総合欄には《修学旅行が楽しみです。》とだけ書く。
「溝口さんって昔からあんな怖ぇの?」
日誌を閉じて、机にぶら下げていたリュックを膝の上に置いた。谷田は、幸平の机に肘をひっかけて、『大奥』が去ったほうへ目を向ける。
「見えないけど肩とか腕にタトゥー入ってるんだろ? ピアスもめちゃくちゃ開いてんじゃん。見てるだけで怖いよ。ずっと笑ってるけど、目の奥は笑ってない感じするし……なんと言ってもバチクソにイケメンだし。中学でさ、溝口さんと話したことある?」
幸平は斜め下に、否定とも肯定とも取れる角度で頷いた。谷田は前者の意味で受け取ったらしい。
「まぁ、ないわな。つか、溝口さん、あんま中学来てなかったって聞くし。溝口さんが刺青ゴリゴリの人達と歩いてんの見たって誰かが言ってた。きっと中学ん時からそういう人達と遊んでたんだろうな。世界違うわ。幸平とはタイプが違うし、そりゃ話さないか」
幸平は椅子にかけておいたパーカーを手に取り腕を通した。十月ともなれば肌寒く、今日は朝から空が分厚い雲に覆われていたので特に冷える。シャツにパーカーだけでは足りなくなってきた。
谷田は私服だが、幸平は制服を着ている。この高校は私服校で何を着ようと基本的には自由だ。男子はほとんど私服を着ているが、幸平は違う。アパートに住んでいた大学生が高校の時に使っていたスラックスをお下がりでもらって着用している。上は白シャツを着ていれば制服風になるし、シャツも二枚あれば使い回せるので、幸平の服装は入学してからこの一年と半年間、固定である。
「修学旅行、来週って、やばすぎ」
今月の行事といえばそれだ。谷田は嬉しそうに歯を見せて笑った。
「テンション上がる。それ終わったら体育祭だぜ? 最高だな。幸平、今日もバイトか?」
「うん。その前に花壇寄ってく」
リュックと日誌を持って立ち上がると谷田が「俺も行く」と腰を上げた。職員室に担任の教師はいなかった。日誌だけ机に置いて、二人は校舎の裏にある花壇へと向かった。
花壇は、通称『お花係』と呼ばれている花壇係が管理している。実際にはほとんどの花壇係が仕事をしておらず、同じ二年では、幸平と他クラスの女子二人だけで二学年用花壇の花々を世話している。一年の花壇では野菜と雑草を育てていた。一年には中学からの後輩である室井も属していて、たまに開かれる係会議で顔を合わせたりもする。
幸平は物置から空の二リットルペットボトルを二つ取り、谷田もジョウロを持ってくれた。水道に寄り、水を汲む。水でなみなみになったペットボトルを両手にぶら下げ、花壇へと向かった。
「でさー、長センが言うには宿泊先の旅館、めっちゃ良いとこなんだって。庭とかも立派なんだってさ。そういう侘び寂び? 分かんねぇけどいいよな。てかアレらしいよ! 夜、近くの城のライトアップ見に行っていいって! 希望する班はタクシーで行くんだってさ。俺らどうする?」
「どっちでもいいよ」
「でも幸平、金ねーもんなぁ。タクシー代とか入場料とか、もったいないよなぁ」
「気にしなくていいのに。なんなら俺抜きで行ってきていいよ。部屋で待ってるから楽しんできて」
「幸平マジで気にしてなさそうだからすごいよな」
感心して呟く谷田の横で、幸平は植物に水をやる。本来ならば朝にE組の女子が水をやる予定だったが忘れていたようで、『放課後水やり頼める?』と相談されたのだ。
「幸平に無駄なタクシー代は払わせられん。やっぱ部屋で遊ぼう。トランプとかさ。つーか、飯の後に出かけるの絶対だるいしな」
「気遣わないでいいのに」
「いやいや。俺、お前が京都に『夜行バスでいきたい』って言った時の衝撃忘れらんないんだよ」
幸平は土の湿り具合を確認しながら「ごめんって」と返す。確かにその発言をしたのは事実だ。学校で修学旅行代を支払った際の帰り道、あまりの高額費用に呆然とした心地で、泣きそうになりながら呟いた言葉だった。
「普通に遊ぶか。だって夜だぜ? テンションあがるぅっ」
「あ。そうだ、谷田、修学旅行さ、いくら持ってく?」
せっかく汲んだけれどペットボトル二本も必要なかった。その水で軽く手を洗いながら聞くと、谷田は楽しそうに返した。
「小遣い? 母ちゃんが二万くれるって誓ってくれた」
「へぇ、誓いを……」
二万か……食費一ヶ月分だ。一体五日間で何をそこまで、と幸平は考える。ひとまず一応、それくらいは用意しておこうと決意した。谷田も楽しみにしてくれているのだ。金がないというだけで諸々の誘いを断り、チームの足を引っ張って白けさせるわけにはいかない。
「幸平が修学旅行来れんのほんとラッキー。食べ歩きしようぜ! 幸平さ、夏休み前まで行かないって宣言してたから、すげぇ嬉しい」
「うん、たまたま予定が空いたんだ」
谷田は「嘘つけ!」とケラケラ笑った。確かに嘘だった。母にバレただけだ。欠席の連絡が学校から母に入ったらしい。バレなければ、欠席していたのに。やっぱり隠し事は露呈するものだ。
「美味いもんたくさん食おうなぁ。奈良とか何があんだろ? 鹿せんべい? 食っていいのかな。いいよな。せんべいって言ってるし」
奈良も京都も、行ったことがない。中学時代の修学旅行も行っていないのでよく分からないが、鹿は人間を襲わないのだろうか。と単純な疑問を口にすると、谷田は「は?」と目を丸くした。
「え? 鹿って人間襲うの?」
「襲わねぇよ。そうじゃなくて、中学の修旅も行ってねぇの?」
「あ、うん」
「なんだよ。金か? 可哀想だなぁ。家とかもさ、この間までワンルームで三人暮らしだろ? 信じらんねぇわ。俺なら耐えられん。弟と母親とワンルームって。同棲じゃん。リリコと同棲してるようなもんじゃん」
「俺の母さんを名前で呼ぶな」
「何はともあれ、修学旅行楽しみだな!」
笑い返すと、谷田も嬉しそうに笑ってくれた。が、突如として彼の表情から笑顔が消え去り、幽霊でも見たかのような顔で校舎を見上げた。何かと思ったが、その答えを谷田は指差した。
「あっ、ちょ、見えたっ。見ちまった。幸平、あそこいる!」
谷田は幸平の背後に聳え立つ校舎を見ている。示されたほうへ顔を向けると、三階に人影が見えた。
「溝口さんだ……」
その言葉に幸平は目を凝らした。言われてみると、そうかもしれない。
窓際に陽太らしき人物の後ろ姿が見える。そこまで遠くはないけれど、幸平は目が悪いので判別できなかった。コンタクトをしている谷田には、はっきりと目視できるらしい。
その人影が動き出す。廊下の奥へ消え、ここからでは見えなくなった。
ペットボトルの中身も空になる。「ビビったな」と息を吐く谷田に対し、幸平は曖昧に頷き、二人は物置へ歩き出した。
平日のバイト先はブックカフェで、以前まで住んでいたアパートの最寄り駅付近にある。今の家からも高校からも少し離れたけれど、静かで自由な空間だから、幸平はこのバイト先を気に入っている。お客さんがいてもレジの仕事などがなければ、何をしていても構わない。本屋というよりカフェの用途でやってくる客が多く、店内はのんびりとしていた。
幸平はいつもここで、宿題をしたり予習をしたりしている。訪れるお客さん達は、そんな幸平を見て、「熱心ね」と感心した。
「幸平君、お疲れ様」
「うん。時川、今日もよろしく」
同い年のバイト仲間である時川の挨拶は固定だ。始業前に会った時も別れ際も、彼は『お疲れ様』とにこやかに言う。彼は読書が趣味で、暇な時間は本ばかり読んでいる。
この日は幸平がレジとウェイターを担当し、時川は飲み物作りを担当した。売っているお菓子やマフィンは近くのパン屋が宣伝も兼ねて置いているので、幸平達は作っていない。店長は裏で入荷する本を整理していた。
今日はそのうち混むだろう。なぜなら時川が出勤している。彼は美形でスタイルも良く、人気なのだ。幸平はカウンターで英文読解を始めて、時川は店内の棚を眺め始めた。
すると、時川がこちらにやってきて耳打ちする。
「幸平君、あの人また来たよ」
言われて顔を上げ、来客を確認する。店にやってきたのは、陽太だった。
陽太はこちらに目を向けず、真っ先に売り場の棚へ向かった。時川がより小さく囁いた。
「幸平君と同じ学校の人だろ。前に、学生証落として拾ったことある。あ、来た」
時川はサッとカウンターを離れた。陽太が本を一冊手にしてこちらに歩いてくる。幸平も椅子から腰を上げ、彼を見つめた。
「……一点ですね。六百八十円です」
無言で本を差し出してくるので受け取る。冷静を装って相手をするが、内心は乱れていた。
陽太は月に一度程度この店を訪れる。カフェとしての利用ではなく、本屋として利用している。近くに大きな書店はたくさんあるがきっと昔からこの店が行きつけだったのだろう、わざわざここへ来て本を購入してくれる。いつも、陽太が本を購入する時、二人の間に余計な会話はない。そもそもとしてこのお会計のやり取りすら少ない。
普段なら陽太は、幸平がレジを担当していない時にやってくる。バイトとして働き始めた当初は、まさか陽太が来店するとは思わなかったから驚いた。今の彼はポーカーフェイスなのでその心は読み取れないが、陽太もここで働く幸平の姿に驚いたに違いない。驚いて、嫌がったのではないか。
昔は、幸平の親友は陽太だった。だがそれは中学二年までの話。その頃から陽太に冷たく無視されるようになり、幸平は自分が彼に嫌われてしまったのだと悟った。
高校に入ってからも二人の間に交流はない。嫌われているのか確かめる術はない。だからこの店に訪れた陽太の姿を見て、驚きを抱く一方で、焦燥が胸を焦がした。嫌な顔をされて立ち去られたらどうしよう、と。
しかし意外にも陽太は通い続けている。そして今もこうして会計する幸平を疎ましがる気配はない。幸平は彼の穏やかな無表情に見つめられながら、お釣りを数えている。
……話しかけても、良いんじゃないか。と唐突に思った。
それは陽太が、幸平がいるにもかかわらずレジに本を持ってきてくれたからだけでない。
その本が、幸平のお気に入りの小説だったからだ。
「……陽太君」
お釣りをトレーに乗せて返す。小銭を取る長い指が、ぴくっと震えた気がした。
「この本読むんだね」
幸平はできる限り自然体を装って笑いかけた。沈黙が流れる。その静けさも店内に流れる柔らかいオルゴール調BGMで和らぐ。それほど窮屈ではないが、やはり、幸平の心臓はバクバクと鼓動が激しい。それは昔の親友と言葉を交わすことに緊張しているから、だけでない。
今、恋する人物だからだ。幸平は陽太に恋をしていた。もう昔からずっと、片想いは終わらない。
数秒後、低い声が、幸平の張り詰めた心に届いた。
「うん、好き」
それだけの言葉で胸が溶けていく。幸平は嬉しくて泣きたい気持ちを堪え、不器用に微笑んだ。
「俺も好きだよ」
陽太は数秒反応しなかった。やがて軽く頷き、「そうなんだ」と呟く。
意外だったに違いない。そんなこと言われて反応に困ったのかも。幸平は無性に恥ずかしくなり唇を噛み締めた。陽太は大して反応を見せていない。余計なことを言ってしまったと焦りながら、誤魔化すように慌ててショップの紙袋に本を詰め、手前の箱から飴を一つ選んで取り出す。陽太が不思議そうな顔をした。幸平は飴と共に本を差し出した。
「今月はハロウィンだから飴配ってるんだ。この味、美味しいよ。陽太君ミルク好きだったよね。ハロウィンおめでとう。お疲れ様」
「……あのさ、コウちゃん」
すると、二秒ほど遅れて陽太が囁いた。幸平は反射的に口を噤む。
陽太が「しゅ」と言いかけた気がしたが、幻聴だろうか。彼は、小さく微笑んで告げた。
「この味好きだよ。ありがとう。お疲れ」
短い言葉が三つ続く。時間にしたら三秒ほどの言葉達。しかしそれらは、その後、幸平の心に長く続く幸福感を齎した。陽太は商品を受け取り、あっという間に店を出ていってしまう。幸平はその場に突っ立ったままだった。飴や本に対してだが、「好き」という言葉を聴けてしまった……
ぼうっとしていると、時川が声をかけてくる。
「今、幸平君、あの人と話してたね」
そう、少しだけ話した。いつぶりだろう……『会話』を交わせた。胸にあふれかえる喜びを堪えて、幸平はそっと「うん」と呟く。椅子に腰かけると、時川は立ったままカウンターに肘を置いて、陽太が去ったほうへ視線をやった。
「ふぅん。私が思うに、彼と幸平君は案外気が合うんじゃないかな?」
「え?」
同じように陽太が消えた扉を見つめていた幸平は、思わず時川を見上げる。
「タイプが同じなんだろうね。幸平君がポップを書いてる書籍ばかり購入している気がする」
時川はさらりと言って、少し微妙な顔をした。
「私が紹介文を書いた本はなかなか選ばれないな。悔しくなってきた」
「……そのうち買うんじゃないかな」
陽太が幸平好みの本を気に入っているのは、偶然だ。それでも時川の言葉は心を浮かれさせるので、幸平は素直に笑みを見せた。そのタイミングでちょうどお客さんが来店したので、二人は業務を再開する。その後は、いつもより明るく接客することができた。
会話の流れではあるが『好き』という言葉をもらった。もうこれ以上の幸せなんて、今後は訪れないのではないか。本気でそう思うくらい、そのひとときは幸平の心にときめきを齎す。
もう今では、幸平は陽太と接点がない。以前までは家が近いという共通点もあったが、現在はそれすらなくなった。
幸平が二学年に進級し、弟の進が中学へ入学したタイミングで、森良家は以前のアパートから別のアパートへ引っ越した。前まではワンルームだったが、今は二部屋ある。六畳と四畳の和室。後者は弟の部屋だ。幸平は食事をする居間に荷物を置いている。
進の洋服は幸平のお下がりばかりだから、幸平にはあまり荷物がない。中学の制服も私服も中学時代に使っていた勉強道具も、幸平の私物はほぼ進へ流れている。
しかし進は、母や兄に対してなんの文句も言わない。あの子が自分自身の新しい服を好きなだけ買えるように、森良家は精進せねばならない。それに現在中学一年の進は背が高く、そろそろ幸平の身長を越える。ちゃんと服を買えるように、バイトを頑張らないと。
そういうわけで、去年まではすぐ近くに住んでいた陽太と偶然に会う機会は、もうなくなった。
あのアパートの外階段下には、まだあの箱が残っているのだろうか。秘密兵器は眠っているのだろうか。訪ねる機会は得られない。毎日勉強とバイトで大忙しなのだから。
修学旅行当日の集合時間は六時半だ。いつもは登校に自転車を使うが、荷物が多いので電車を使うことにした。駅までは遠いので、四時半に起床し、五時には家を出ることにする。もう四泊五日分の準備は済んだので、バナナを一本腹に入れ、歯を磨いていた。
水を吐き出すと同時に、真っ暗な洗面鏡に黒い人影が入り込む。
「兄ちゃん、おはよ……もう行くの?」
進だった。外はまだ陽も昇っていない。明かりもつけず、できる限り音を立てないように準備していたが、起こしてしまったらしい。母は夜勤で留守にしている。弟は寝ぼけ眼を擦りながら歩いてくると、洗面台の電気を点けた。
「うん、もう少ししたら。起こしてごめん」
「勝手に起きただけ。見送ろうと思ってたし。つーか兄ちゃんさ、ちゃんと小遣い持った?」
脈略ない言葉に内心で首を捻りつつも首を上下に揺する。しかし進は怪訝な顔をすると、踵を返して去っていった。なんだろう、と思う間もなくすぐに乱暴な足取りで戻ってきて、茶封筒を幸平に突きつけた。
「持ってねぇじゃん! 嘘つくな! 母さんが兄ちゃんに小遣いくれたんだよ。一万円!」
「……え、いち、そ、そんなに?」
動揺する幸平に対し、進は頷き、封筒から一万円札を取り出した。
「はい、これ兄ちゃんのだから」
強引に渡されるのでひとまず受け取るが、数秒眺めて万札を封筒に戻す。修学旅行だからって自分だけ一万円もらうのは頷けない。
「これは、いいよ。俺、バイト代あるし。そうだ、進、これあげるからチケット代にしな。いつも俺が作るやつだけじゃ味気ないだろ。七中の弁当美味いらしいからこれ使えばいいよ」
進は以前の幸平と同じく第七中学校に通っている。チケットを購入した生徒は給食代わりの弁当を受け取れるのだ。一食三百円の弁当にはデザートも付いていて、とても美味しいらしく、七中のほとんどの生徒がチケットを購入していた。一万円あれば一ヶ月以上、例の美味しい弁当を食える。あくまで伝聞なのが申し訳ない。すると、進は焦ったように言った。
「味気なくないって! 美味しいよ」
「ありえないおかずの少なさじゃん」
「そんなことないよ。白米があんだから、充分だよ。戦時中の人は粟食べてたんだって」
「戦時中……」
その時代と我が家は比較されているのかと、もの悲しい気分になる。充足した生活への道のりは長い。
「兄ちゃんが使えよ。修学旅行なんだぜ?」
「うん。旅館、良いところなんだって……楽しみ。でもだからって、俺だけ美味しいもの食べるのはダメだろ」
「ダメじゃないよ。ダメって何」
少し早いが学校へ向かうことにした。水道水を汲んだペットボトルをいつものリュックに詰める。
「つうか、修旅代も兄ちゃん自分で払ったらしいじゃん」
「そんなわけないだろ」
バイト代を前借りして学校に支払った後、母が全額を寄越してくれた。それを勝手に生活費へ回しただけだ。もしかして母にバレているのだろうか。不安に思いつつもリュックを背負い、鞄を両手で持ち上げる。百均で買ったプラスチックの鞄だけれど、今更、破けないか心配になった。
「俺らにお土産買ってきてくれるんじゃないの」
「買ってくるよ。でもそれは進にあげる。母さんには内緒な」
「買い食いとかしなって!」
進は、玄関へ向かう幸平に縋るように「八ツ橋でも七橋でも食べてくりゃいいじゃん!」と言った。お土産は八ツ橋にしよう。幸平は靴を履き、「うん、買い食いするから気にしないで」と返した。
弟はまだ不満気だった。幸平はあやすように微笑み、玄関の扉を開ける。空はまだ真っ暗だ。
「じゃあ行ってくる」
「……行ってらっしゃい」
納得はしていないが見送りはしてくれる。幸平は進に笑いかけ、「鍵閉めろよ」と強調し家を出る。自分だけ旅行を楽しむ罪悪感を抱きつつ、それでも浮かれた気持ちで、幸平は暗い住宅街を歩き出した。
一日目はクラスで行動し、二日目と三日目は班ごとの自由行動だ。谷田も同じ班で、京都に着いてからは、「幸平、お前は携帯持ってないから自由行動は危ない。俺についてこい」と頼もしい彼が常にそばにいてくれた。一日目はあっという間にすぎて、二日目の今日も谷田が隣にいる。
谷田は近くの売店に興味があるらしく、店に入っていく。土産コーナーでは試食が配られていた。眺めながら谷田が、「そういえば」と切り出した。
「幸平、昨日大浴場行けなかったじゃん。なんか先生から呼び出し? 受けててさ。今日行けるだろ? 俺ら昨日で分かったんだけど、時間案外ねぇのよ。俺らはドライヤー必要組じゃん? だから、ミヤんとこ行こうぜ。そんでそんまま、ミヤん部屋で遊ぼう」
「あ、俺、今日も風呂行けないかも。温泉アレルギーなんだよ。呼び出しっていうか、先生の部屋のお風呂使ってた。先生のドライヤー使うから気にしないで」
「まじ? 知らなかった。先生んとこにはお風呂あるんだ」
谷田は納得して、幸平の言葉を一切疑わない。ひっそりと安堵しつつ、試食のお菓子を口にした。
「クッキーか? 美味しいか? 食え食え。全部食え」
「試食だからそんなに食っちゃダメだよ」
谷田は上機嫌で笑っていた。以降も彼は、幸平に食べ物を勧め続ける。旅館に帰ってきて、夕食時もそうだった。幸平は黙々と食事をするが、隣にいたクラスメイトが「このプルプルしたやつ、すげぇ美味い。森良君、食べた? 食べてない? 今すぐ食べな」と促してくる。
部屋に戻り、谷田達が温泉へ向かう。幸平は男性教師の部屋のシャワー室を借りた。さっさとシャワーを浴びてドライヤーで髪を乾かしていると、途中で、部屋の主が戻ってきた。
「森良君、このビーフジャーキー超美味い。食ったほうがいい。あとこの饅頭も。美味いぞ」
「ありがとうございます」
たくさんのお菓子をなぜか頂いてしまう。どうして皆、食べ物を寄越してくるのか。
不思議に思いながら礼を言って、その場を後にする。先生の部屋は一階の端だ。廊下からは庭が見えて、途中、外に出られる扉があった。下駄も用意されている。シャワーを浴びて火照った体を鎮めたくなり、幸平はおもむろに扉を開けた。
冷たい風が首元を吹き抜けて、心地好い。庭には東屋が設置されていた。幸平はサンダルを引っかけて歩いていく。木の椅子に腰を下ろしぼんやりと竹林を眺めていると、いきなり声がした。
「コウちゃん」
最初は幻聴かと思った。体だけが反応し、一気に硬直する。
振り向けないでいると、もう一度声をかけられる。
「コウちゃん、何してんの」
振り向くと陽太が立っていた。黒いスウェットに身を包んだ彼はバスタオルを持っている。
「あ、よ、陽太君」
ごくりと唾を飲み込む。凪のように平穏だった心に急激に波が押し寄せてきた。陽太は躊躇いなく近寄ってくると、テーブル越しの椅子に座る。幸平は何を言ったらいいか分からず、声を絞り出す。
「こんばんは」
陽太は淡々と「こんばんは」と返してくれた。動揺する幸平と違って陽太は冷静で、たまたま東屋にやってきただけなのだろう。中にいたのが幸平だったから、とりあえず話しかけてくれたのだ。
陽太は落ち着いた口調で「こんなとこあったんだ」と屋根を見上げた。庭のそこら中に散らばる暖色のライトが陽太の白い首元を照らしている。ピアスがない。温泉に入っていたのだろうか。
「うん、俺もたまたま見つけて……よ、うた君は、温泉帰り?」
「あー……そう」
バスタオルを持っている。温泉は三階にあるので、かなり館内をぶらついていたらしい。
「温泉良かった?」
「うん、まぁ。コウちゃんはもう行ってきた?」
「俺、先生の部屋使った」
「……あ、そっか」
すぐに気付いたらしく、口を噤む。陽太は前髪を指で弄り、俯きがちに「なんかいろいろ持ってんね」とテーブルの上のお菓子に話題を移した。
「先生がくれたんだ。みんなで分けようと思ってて、陽太君も食べる?」
「みんなって谷田とか?」
陽太が彼の名を口にするとは意外だった。少し驚きつつも、「そう。同じ部屋なんだよ」と返す。
「ふぅん……俺も食べよっかな」
「ほんと? どうぞどうぞ。お饅頭あげる」
「ありがと」
幸平は緊張と共に白い饅頭を差し出した。陽太は受け取り、包みを開けながら、「夕食とかちゃんと食べた?」と聞いてきた。まだ会話は続くらしい。持ち帰るのではなくここで食べ始めるので、幸平の心はとんでもなく高揚してしまう。まさかこんなことになるなんて思いもよらなかった。幸平ははやる心を抑えて、「うん。食べたよ。美味しかった」と首を上下に振る。
「そっか。班行動とか、楽しい?」
「うん、楽しい。京都っていろいろあって面白いね」
「コウちゃんさ、中学ん時、修旅いなかったよね」
陽太はそう言って饅頭を一口齧り、「美味い」と小さく呟く。やっぱりまだ甘いものが好きなんだ。幸平はすっかり嬉しくなり、うんと頷いた。
「だから初めて京都来た」
「中学ん時なんでいなかったの? 親父さんがまたなんかした?」
普段、生活しているところまで話題を踏み込まれることはない。だが相手は陽太だ。子供の頃は身内のようなものだった。なんだか久しぶりに、『幼馴染』のような会話を引き出されて、心が自然と緩んでしまう。そのせいか唇が勝手に開いて、素直に答えてしまった。
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そう思って告白したのが高校三年生の最後の登校日。……あれから5年経ったんだけど…
なんでアイツに馬乗りにされてるわけ!?
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美形×平凡っていいですよね、、、、
【完結】20年後の真実
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