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第二章

34 他人

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 そう言えば、と思い立って一成は席を外す。冷蔵庫に保管しておいた瓶を取り出した。
 土産で送られた果実酒だ。グラスと炭酸を手にして帰ると、玲は「なんですかそれ?」と首を傾ける。
「みかんの酒。酒、好きじゃねぇっつってたの、苦いからだろ。甘い奴だけど飲む?」
「美味しそうですね」
 玲は興味を持ったらしくじっと瓶を見つめている。炭酸と割って差し出してやると、ちまちま飲み始める。
「美味しい」
「だろ」
「このお酒、美味しいです。お酒なのに」
 すっかり気に入ったらしく玲は一気に半分ほど飲み干した。他にも、桃と苺があったなと考えていると、玲は言う。
「五年前だったら、一成さんが二十……」
「二十二だな」
 涼曰く、玲ら兄弟も母親を亡くしている。
 共感もあってか今晩は特に言及してくる。前回は会話の流れで伝えただけで詳しくは言ってなかったのかもしれない。
 玲はまた一度酒を飲んで、一成の言葉を待った。
 一成は告げた。
「アルファ女性だったが身体が弱かった」
 一成の強靭な体力と体格は父譲りだ。母は儚い女性だった。
「お母様、アルファ性だったんですか?」
「あぁ。けど」
 一成はビール缶を手にとる。プルタブを開けながら答える。
「身体的優位と言っても病気には勝てないよな」
「そうですね」
「母は良いとこの家の出だから遺産も多い。あと物も多い」
「へぇ」
「この部屋にも遺品はあるぞ。あまり価値がなくて捨てられそうな物はここにある」
「もしかしてあの辺り?」
 玲は腕を上げて、廊下を指差した。
「たくさん、倉庫みたいになってる部屋。整頓して置いてある。一成さん、綺麗好きですよね」
「かもな」
 玲のグラスが空になる。もう一杯作ってやると、玲はすぐに口をつけた。
 随分気に入っているみたいだ。ピザもチキンも酒も、会話を続けながら進めている。
 最近の玲はよく食べる。一ヶ月前の食の細さは異常だったらしい。
 ピザ一切れを半分ほど食べてから玲は上目遣いでこちらを見つめた。
「お母様のご実家にもたまに行くんですか?」
「たまに。母方の祖父母がとにかく寂しがるから。母が亡くなってから顕著になってる。昔は厳しい人たちって印象だったけど、今は丸くなった。人は老いると柔らかくなるんだ」
 玲は不思議そうな顔をして口を動かしている。一成はビールを傾けた。
「でも一成さんの実家って……大江さんが言ってた魔王の城は、お父様のご生家のことですよね?」
 魔王の城……出会った当初の大江の会話は脳裏を過る。
 ——『一成さんのご実家なんか、普通に城だからね』
 ——『お城……』
 ——『そうそう。魔王が住んでそうなとこ』
 薄らと耳にしていたあの会話。魔王とは言い得て妙だった。
 あの男がいなくなってから、世界に平和が訪れたのだから。
「お父様の遺産は受け取っていないんですか?」
「いらねぇな」
 一成は低い声で断言する。
「俺にとってアイツは父親なんかじゃない。最も卑劣な他人だ」
「え……」
 玲は心底驚いた顔をしていた。
 強い表現に息を呑み、呆然と一成を眺めている。
 一成はまた一度ビールを飲み下した。父を思うと頭の中が黒く濁る。これはいつものこと。今までもずっと、これからも。
「父の家、如月家は父の弟が継いでいる」
 玲は「きさらぎ」と口の中で繰り返した。初めて知ったような反応だ。
「母は父と離婚できないまま死別したから俺もまだ如月姓ではあるし、如月に時折帰ることもあるが、帰るのは父がいないからだ」
 一成にとっての『魔王』は父そのものだった。
 暴力的なその男がもつ権力は強く、逆らえる者はいなかった。手のつけようのない倫理観は人間とは思えない。極悪非道とは奴のことを言う。
 如月家は戦前から資産を受け継ぎ、本家は都心に広大な敷地を有している。政治家も輩出している家系で揺るぎない権勢を誇り続けてきた。
 如月家に嫁入りした母はアルファ性だ。当主だった父は体裁のためアルファ性の母と結婚していた。母も如月家ほどの階層ではないが医者の家系で代々アルファ性が大病院を継いでいる。
 結婚した二人だがその実、父は複数のオメガ女性を番にしていた。
 そこに母の望んだ家族の形はない。父はオメガ性を蔑む一方、オメガ性に執着する卑劣な人間だった。
 そして遂に父は運命の番を見つけたらしい。
 ——『お前がいるせいで彼女を迎えられないんだ!』
 母に怒鳴る父の声が今でも頭の中でこだまする。
 一成に対してもそうだった。子供の頃はまだ、あの人に気に入られようと努力していたこともある。しかし中等学校へ上がる頃にはそうした思いは一切なく、ただ強烈な殺意を押し込めるのに必死なほどだった。
 外面だけは良い男だったので母の味方は一成以外に一人もいなかった。母への暴力に気付いても父を咎められる者は一人もいない。
 母は辛い立場にあった。離婚をして実家に帰ることはできなかったし、何よりも、愛に飢えていた。
 それでも温かな家庭に夢見ていたのだ。一成は母を好きだったけれど、その願望だけは理解できなかった。
 父が複数のオメガ女性との間に子供をもっていると一成が知ったのは中学時代だ。時間が経てば経つほどに父の愚行は加速する。如月家で過ごす全ての時間が地獄だった。オメガの匂いを纏う父を前にすると吐き気がした。
 遂に一成は、高校卒業と同時に如月家を出てアメリカの大学に通い始めた。
 そしてその頃にようやっと母も父と決別する。
 離婚はできなくても距離を取るため……そして一成と穏やかな時間を過ごすため、共に海を渡った。
 その後、父は死んだ。
 呆気なく死んでいったのだ。心臓発作で、たった一人、誰にも看取られないまま。
「父はオメガ性を嫌悪しながら、オメガ性の身体に執着していた。話によるとオメガ女性たちをペットのように扱っていたらしい」
 父の生きている如月家で過ごしていた当時は常に闇の中に沈んでいるようで、その全貌が掴めなかった。
「父は複数のオメガ女性に子供を産ませていた。殆どの母子は叔父が保護して援助してる」
 結果的に一成には異母兄弟がいる。本家へやってきた彼らを遠目に眺めたことはあるが、皆、父や一成と同じく青い目をしていた。
 叔父らによると現在は穏やかに過ごしているらしい。だからと言って父に傷付けられた過去は変わらない。一成が彼らと兄弟のように親しい関係を結ぶことは不可能で、向こうもそれを望んでいない。
 叔父も父の暴力の被害者だ。彼の場合は年月の分悲惨だった。子供の頃から父……兄から暴力と差別を受けていたベータの叔父。当時の如月家当主はアルファ性主義かつ長男優生思考で、叔父が優秀だったにも関わらず一緒になって冷遇していた。そのせいで父が存命時は、叔父も如月から離れていた。
 叔父も一成も、『兄弟』に対する執着は一切ない。
 家族は他人だ。
 いくら血が繋がっていようと、玲と涼のような関係にはならない。
「叔父は、父が囲った女性たちに、父の愚行を誠心誠意謝罪している。一生暮らしているだけの慰謝料を払っていた。だが……、死ぬ気で逃げたオメガ性を俺たちは見つけらんねぇから」
「見つけようとしたんですね」
「そりゃな。けれど無理だった」
 父の愚行は闇の奥底で行われている。だから全てを明かすことはできない。
「今もまだ、叔父や母が見つけられなかった父と血の繋がった子供がどこかにいるのかもしれない」
 それだけ醜悪な人間だったのが父ということ。
 魔王が覇権を振るっていた時代だ。
 玲のグラスがまた空になっている。首筋や耳が赤い。
 酔っているらしく、呆然としていて、少し舌足らずな口調で呟いた。
「お父様のこともあって、一成さんの多くの元恋人たちにはオメガ性の方がいないんですね」
「……あのな、そんなに多くねぇって」
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