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第三章

40 優しさ

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 まだベッドから起き上がる気にはならなかった。横になっていても口にできるように、一成がバナナを持ってきてくれる。
 バナナを齧ってちまちまと食べる玲に、一成は話しを続けた。
「お前のヒートは五日で落ち着くんだな」
「はい。他の人は違うんですか?」
「さぁ。オメガの奴とか周りにいねぇから分からねぇ」
 一成はあっさりと告げる。それは以前に『オメガ性の人と交際したことはあるんですか?』の質問に対する回答と同じようなものだった。 
 あの時も『ないし、身近にもいねぇ』と答えていた。
 それを聞いて玲は、
 ——あぁ、なんだ。
 と胸のうちで呟いたのだった。
「調べたらヒートは七日続くやつもいるって書いてあった」
「そうなんですね」
「お前、他のオメガ性の事情には興味がねぇのか」
 興味がないのではない。『オメガ性』に対しては常に意識していて、考えすぎると鬱々としてくるのだ。
 昔はもっと酷かった。自分がオメガ性であることが嫌で嫌で仕方なくて、必死に目を背けていた。
 番は嫌いだし、運命なんてもっと嫌だ。そんなもの絶対に出会いたくない。
 ヒートの起こるこの身体は不都合で、良いことなんか一つもない。
 そう思っていた。
 けれど……。
 一成はアルファ性だ。
 ……それを知って初めて、オメガ性で良かったと思った。
「他の人のこと考えている暇がなかったので」
「まぁ、知ったところで、って感じだよな」
「……わざわざ調べたんですか?」
「だってお前が苦しそうだから」
 ヒートに入ったオメガ性を見るのは初めてだったのだろう。今になって思い出す。確かに一成はしきりに『大丈夫なのか?』『やっぱり病院……』と呟いていた。
「あれくらい普通ですよ」
「ならいいんだけどよ。よくはないが」
「いつもより」
 と言いかけてやめる。楽だった。と続けようとしたけれど、よくよく考えてみるといつもどおりで、大して楽でもなかったからだ。
 だがヒート後にこれほど気持ちが楽なのは初めてだ。最中だって、定期的に一成が話しかけてくるので落ち込んでる暇はなく、身体は辛くてもいつも以上に辛い気持ちにはならなかった。
 これまでと同じように欲に溺れて、身体の制御は効かない。しかし沼の底に閉じ込められたような恐怖は抱かない。
 心に纏わりつくヘドロもなかった。
 玲の心は一度も沈まず、ただ、ここにいる。
「いつもより、なんだよ?」
 一成が怪訝にする。玲はベッドに横たわったまま、椅子に座って長い足を組んでいる一成を見上げている。
 実際に玲の身体は清潔だ。一成が定期的に拭いてくれたから。ヒートで異常なフェロモンを放つ玲を、アルファ性の一成が面倒を見てくれた。
 一成だって辛かったはずなのに。
「おい、目開けたまま寝てんのか?」
「……言いたかったこと忘れました」
「あっそ」
「一成さんは大丈夫でしたか?」
「何が?」
 玲は小さく息をついてから、小さな声で呟く。
「薬とか、飲んでたでしょ。俺がヒートしてるから。副作用大丈夫ですか?」
「ヒートする、って動詞があるとは。勉強になるわ」
「ないかもしれません」
「造語かよ。文豪みたいでいいな」
「あの……」
「確かに抑制剤は飲んでたけど、薬飲んでもヒートが終わるわけじゃないお前らよりは断然楽だろ」
 玲はぼんやり一成を眺めている。
 不思議と目を逸らす気持ちにならない。
 ヒート中はとにかく身体が疼く。覚えていないけれど、一成をねだるような言葉も口にしてしまったのだろう。
 それでも彼は玲を看護してくれた。
 欲に溺れる情けない姿を晒してしまったのに、玲は一成とこうして目を合わせることが怖くない。元々幾度も性行為をしていたせいだろう。もしくは、一成がひたすら気遣ってくれたから恥じらう心も失せて素直に甘えてしまって、いるような。
 自分の気持ちが分からなくなる。
 観察していると一成がやつれているのも分かった。水分をしきりに摂らせてきたくせに自分は充分でなかったらしい。たった五日で痩せてしまったのかもしれない。
 アルファ性の抑制剤だって楽ではない。
 でも一成は、それを服用し続けてくれた。
「……」
「身体が疼くのも大変そうだけど、普通に五日間も発熱してんのが、とんでもねぇよな。オメガ性は身体が弱いっつうのはヒートのせいで弱くなっていってるってことなんだろ」
「……一成さんはお腹空いてませんか」
「お前が俺を気遣うとは意外だ」
 バナナを食べ終えた玲は両手で皮を持ったまま一成を見上げる。
 一成が玲から皮を取り上げて、ゴミ箱に捨てた。
「まだ腹減ってんなら夕食にするか。もう七時だし」
「……」
「起き上がれる?」
「一成さんは最近ずっと優しいですね」
 立ち上がりかけた一成が、数秒固まり、今一度椅子に腰掛ける。
 肘掛けに頬杖をつき、少し目を細めて玲を見下ろしてきた。
「そうか?」
「そうですよ」
 一成の瞳は青い。目元のほくろは色っぽい。銀色の前髪は少し伸びて、目にかかっている。
 やつれていても綺麗な人だった。
「誰にでもそうなんですか? 一成さんって、友達多いですもんね」
「友達多いか?」
「俺は一人もいないので」
「……」
「動画とか雑誌で見てた一成さんは、クールで厳しい印象だったから。身内には優しいのかな」
「俺のこと見てたのか」
 一成がおかしそうに唇の端を吊り上げる。意地悪な笑い方だった。
「だって、どこにでもいるので」
「俺はいつから優しかったんだ」
 玲は瞬きをした。
 一成は真顔に戻って繰り返す。
「俺が優しかったのはいつからだよ」
「……多分、一ヶ月くらい前から」
「お前がぶっ倒れてからか」
 一成は意外そうに、けれど納得するように頷く。
「そうか。俺はそん時から玲に優しかったか」
「無意識だったんですか?」
「いや、むしろ意識しすぎてたな」
「え?」
 一成はまた無表情で玲を見下ろしてきた。
 発言と一致できない何でもないような顔をしていた。
「お前がいつ倒れるか分からねぇから。玲のことが気になって気になって仕方なかった」
 玲もきっと一成から見れば、何も感じていないような無表情に見えている。
「それが優しさと言うなら、俺は優しさとは思ってなかったんだから確かに無意識だったのかもしれない」
 玲の内心とは裏腹の無表情だ。
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