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第三章

42 これからどうするの?

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 玲はこっそりと深呼吸する。吐息が熱い。初めからそうだった。思い出すのは出会ってすぐの二人の会話だ。
 ――『誰の借金?』
 ――『え?』
 ――『保証人にでもされたんじゃねぇの』
 借金があると知った一成は、玲を軽蔑しなかった。
 これどころか一番に、玲が巻き込まれた被害者であると想像してくれたのだ。
 ――『まぁ、色々あるよな』
 玲は自分で作った借金だと言った。しかし一成は呆れることもしないでそう返して、内情に触れなかった。
 だから玲はあの時もこっそり熱い吐息を吐いていたのだ。
 ……どうしよう。
 玲はまた分からなくなった。自分は、この申し出を手放しで受け入れるような存在ではない。
 その時、一成が言った、
「由良晃の金融事務所に俺から連絡を入れた」
 の言葉に、玲は目を見開いた。
「……え?」
 ……由良に?
「由良本人には繋がらなかったけどな」
「あ……え、事務所に?」
 自分自身の声が遠くに聞こえる。
 思考停止しているのに会話している。そんな気分に陥る。
「そうだ」
「それ……い、いつのことですか?」
「今日だな」
 会話が遠い。
 自分でしていることなのに。
 ずっと感情が表に出ないように生きてきたからきっと玲の動揺は完全には伝わっていなかったのだと思う。
 それが良いのか悪いのかは、判別できない。
「電話、したんですか」
「あぁ」
「な、るほど……」
 玲は呆然としていた。
 一成が「玲」と声を強くする。
「どれだけの金額だろうと俺が払う」
 玲の頭は真っ白になっている。辛うじて言葉を絞り出しているだけ。
 それでも、一成があまりに真剣に向き合ってくれるから心が震えてしまう。
 由良に連絡してしまったという事実で既に揺さぶられている心臓が、一成の真っ直ぐな瞳でまた揺るがされる。その瞳の青さに心が散り散りに乱れそうだ。
 玲の中は、めちゃくちゃだった。
「……一成さん、自分の名前を名乗りましたか」
「あぁ」
「相手はヤクザですよ?」
 玲は消え入りそうな声で呟いた。
 一成は輪郭のくっきりした声で返す。
「ヤクザでも何でも、構うかよ」
 玲は、ベッドに座り込んでいる。
 一成が椅子から立ち上がり、玲の視線に合わせるよう床に膝立ちになった。
「如月一成から連絡した。お前の借金はすぐに無くなる」
 それは一成の本名だった。
 玲は唇の隙間から吐息を吐く。
 そうか……。
 ——本当に、もう終わるんだ。
 玲の目尻はきっと赤くなっている。これまで長い間これに捉われていたけれど、遂に終わりがやってきたのか。
 なぜか涙が溢れそうになった。感情はまだ整理がつかない。いつか終わるとは思っていたけれどこうも突然だと思わなかったから。
 決して『ありがとう』を言える立場ではなかった。どう返そうか迷って、でも言葉が出てこなくて、代わりに一成が言った。
「腹減っただろ。飯食おう」
「……俺が作ります」
 玲は気弱に微笑んだ。一成はそれを目を丸くして見つめた後、「ありがとう」と笑い返してくれた。
 ——どうしようかな。
 沢山悩んで、品目はパスタにした。子供の頃は料理もしていたけれど、施設を出てからはあまり自炊をしてこなかった。だから簡単なものかパスタしか作れないのだ。
 カルボナーラが唯一得意だったのでそれを振る舞う。一成は何でも美味しそうに食べるからいつもと同じ反応ではあったけれど、玲の目には、
「うめぇ。天才だな」
 それがいつもより嬉しそうに見えた。
 食事中も、食後も、一成と話し続けた。これまでと同じようにどうでもいいことを延々と。
 一成は、借金のことにも、『優しさ』や『契約破棄』についても触れないでくれた。玲の困惑を考慮してくれたのだろう。情けないけれど今の玲には有難かった。
 まだヒート明けだからと、早めに就寝することにした。
 玲は一成が眠る前に飲む酒を作ってから、先に自室へと向かった。
 扉の近くまで来てくれた一成へ最後に告げる。
「おやすみなさい」
「あぁ、おやすみ」
 玲はその大きな体と青い瞳を見つめる。それから背を向けて、自室へ入っていく。
 ベッドへ潜り込んでからは、ただジッと夜が深まるのを待った。
 一成は由良に連絡してしまったみたいだ。由良が一成の存在を把握している。あまり時間はない。
 やけに頭は冴えていて、ヒート明けなのが嘘のように思考がはっきりとしていた。
 時刻が深夜0時を回った。玲は不意に起き上がり、部屋を出る。
 リビングに一成の姿はない。玲の用意した酒のグラスは空になっている。
 こっそり一成の寝室を覗き込んだ。いつもはこの時間なら起きているはずの一成が、ベッドで深い眠りについているのが寝息で分かった。
 寝室の扉を閉める。ポケットから、粉薬の睡眠薬を取り出して見下ろす。薬を溶かした酒は全て飲んでくれたみたいだ。どれだけ持続効果があるかは分からない。
 まさかこれを、こんな風に一成に使うなんて考えもしなかった。









 ——ずっと考えていた。
 これからどうなるのだろう、と。


 玲は自分の心が一成を理解し始めているのを分かっている。
 予感がするのだ。
 彼のしたことの全てを受け入れてしまいそうだと。
 一成の優しさが心に染みる。彼の優しさを拒否できない。
 あの人を、好きになってしまうかもしれない。
 出来る限り淡々とした気持ちで一成と過ごしてきたつもりだった。一成と打ち解けるために努力しながらも、決して自分の心は開かないように気を張っていた。
 過ごせば過ごすほど焦りが湧き起こった。一成が、遠くから眺めていた頃に想像した人物とは違ったからだ。
 魔王の城で過ごしたはずの一成は、お喋りが大好きだった。口は悪いし態度もデカいけれど玲を無視せず、語りかけてくる。
 セックスは絶倫でしつこい。こちらの体力を鑑みないから付き合うのは本当に大変だった。けれど、途中からは玲をひどく気遣うようになってしまった。
 仕事に文句を言うが、仕事が大好きな人。孤高の存在ではなく大江など仲間がいて、友達も多い。
 お気に入りのレストランに沢山連れて行ってくれた。玲が作った料理を美味しそうに食べて、不器用ながらに玲へ料理を振る舞ってくれたこともある。
 玲の。
 人生を助けようとしてくれた。
 如月一成なのに。アルファ性なのに。玲とは違って、ずっと明るい場所で生きてきた人なのに。
 ずっと自分勝手に生きてきた人なのに。
 ……その行動に理解を示してしまう自分がいる。
 ———どうしよう。
 一成は、玲と同じで玲とは違う。一成の傍にいると苦しい。
 でも、傍にいるのが心地よい。
 こんな気持ちになるなんて考えもしなかった。








 玲は最低限の荷物だけ持って、夢みたいに豪華な部屋から出た。
 高層ビルだらけの街を歩いていく。ここは深夜でも明るくて、安全で、最初から、玲の居場所ではなかった。
 ……なぁ、これからどうする?
 自分の心に問いかけてみても何も答えが得られない。
 玲は朝が来る前にその街を去った。行く宛もなく。目的も見失ったまま。










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