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最終章
57 誰か見つけて
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【最終章】
《あなたはどこにいるの?》
……それなのに。
魔王の子は魔族なんかではなかった。
魔王に苦しめられていた、玲と同じ人間だったのだ。
――『知らねぇ組織だしな』
嵐海組の名を聞いても一成の顔色は変わらなかった。組長は如月家と取引していたはずなのに。その表情に玲への気遣いはあっても罪悪感はない。一成は本当に、事故を把握していない。
――『俺にとってアイツは父親なんかじゃない。最も卑劣な他人だ』
彼は魔王を憎んでいた。いつも笑っているように見えたけれど、本物の憎しみは心の奥深くに押し込めて、今でも尚憎悪を忘れていなかった。
――『アイツのせいで傷つけられた人間が大勢いる。俺が子供の立場を使ってさっさと殺してりゃ良かったのかもな』
彼は後悔していた。魔王が強大な力をもちすぎて立ち向かえなかった過去を、悔やんでいたのだ。
だから力を振り絞って逃げ出した。自分以上に苦しめられた母を救い出し、魔王から逃げていった。
玲たちと玲の母と一緒だった。
その違いは、俺たちは捕まってしまったということだけ。
……一成さんは何も知らなかっただけだった。
《深山くん?》
《あなたはどこにいるの?》
一度も忘れたことのなかったあの言葉。
彼らは魔王に苦しめられた民を救い出そうとしていたらしい。そのメールは、捉えようとしていたのではなく、探してくれていたのだ……。
メールを送ってくれたのは一成の母だろう。玲がメールを返したとき返信が来なかったのも当然で、彼女が五年前に亡くなってしまっていたらしい。
深山礼矢と深山涼介を見捨てずに、見つけ出そうとしてくれていたのに。
九年前の事件は表に出てこない。玲はあの事故以後の記憶が曖昧で、どう事後処理されていたのか知らず、気付いた時には何もかもなかったことにされていた。
隠蔽したのは如月家と嵐海組だ。組長には表沙汰にしたくないという理由があり、如月家も外聞が悪いからで収めた。
でも今では疑問に思えてしまう。
……本当に?
如月家は、深山花の車に衝突されたと主張して良かったはずなのに。
加害者とは無関係だと言い張り、深山花を表に晒してもよかった。
けれど如月家はそうしていない。
隠してくれたんじゃないか?
あの如月家の人間を殺してしまったなら損害賠償はとても想像つかないほどの額になり、重大な事件になる。嵐海組はドライブレコーダーを持っていたのだからそれを証拠品として如月家が買っていてもよかったはずだ。
如月家は、一成にさえ『心臓麻痺が起きて一人事故で死んだ』と伝えている。
如月家は……。
深山花が犯した事故であることを隠すために、如月成彦が一人で死んだことにしてくれたんじゃないか?
……本当は。
一成の本を読んだことがある。
運命の番であるアルファの男を殺すオメガの男の物語だ。一成は気付いていないだろうけれど、玲はその本を持っていた。
一成の本棚から手に取る必要もなかったのだ。アパートを引き払うときにも捨てられずに、今も手放せずに持っている。
好きだったから。運命を憎むその話が。
憎んでもいいのだと許された心地になった。
一成さんには言えなかったけれど。
本当は、最初から気付いている。
出会って数分で『増田さん』という運転手を庇った一成。
一成は、中学の先輩後輩であるというだけで大江と仕事をしていた。訳ありの大江を雇うのはなぜなのか真剣に訝しんでいたけれど、そこに利害関係なんかなかった。
ただ友達だったから関わっているだけ。一成は人との関係を大切にしている。周りの人たちも横暴な彼の性格を知り、それでも、彼と共に過ごしている。
本当は、出会う前から、頭のどこかで分かっていた。
如月家に保護されたオメガ女性に話を聞いた際に彼女は言った。如月家の現当主と一成の母が援助をしてくれて、今は治療を受けながら無理に働く必要もなく十分に生活できていると。
けれど玲は心の耳を塞いだ。
そして理由を探し続けた。
死んだ母は火葬されている。ハウスの管理人が事故の直後に彼女の遺体を引き取り火葬をしてくれた。先に、如月家というアルファ性の巣窟から玲たちを逃してくれた彼女は、遺骨を送ってくれた。
兄弟を遠くの施設に送る際、管理人のおばさんは言ってくれた。
『あなたたちのせいじゃない』
でも玲の中はめちゃくちゃだった。
それなら、誰のせいだったの?
理由を教えて。
一体何のせいでこうなったのか。どうして俺たちがあんな目に遭ったのか。
……すぐに救急車を呼んでいれば生きていたんじゃないか?
事故に遭ってすぐ、電話を貸してくれれば救急車を呼べた。助かったかもしれない。生きていたかもしれない。
考えるたびにあの人たちの声が浮かぶ。
――『悪かった』
――『お前らを置いて逃げて、すまなかった』
――『大倉玲。あの時は悪かったな……』
――『何か他に俺にできることはあるか?』
……そうだ。
涼が攫われなければよかったんだ。青い瞳を隠しておけばよかった。保育園なんかに行かせず、ハウスの中に閉じ込めておけばよかった。
――『おかあさぁん!』
――『なんか……兄ちゃん、今日は凄い食べるね』
――『俺は覚えてないよ、兄ちゃん』
……あ。
そうだった。
如月成彦の鎖を解かなければよかったんだ。
化け物を解放したのは一成。父親を自由にさせないよう傍にいるべきだった。そうするのが家族なのだから。
――『嫌いだった。心底な』
――『殺してりゃよかったのかもな』
……もう、どうしよう。
玲は背もたれにぐったりと寄りかかり俯いた。視線の先に『ソレ』はある。一成が書いた運命を殺す小説だ。
本の表紙を撫でる。
本当は、分かっている。
恨むべきものはもう見つからない。
一つ一つ理由をつけて憎んでもその先はない。一つ一つ誰かの言葉が返ってくる。しゃがれた老人の声や、悔しげな若い男の声。幼い弟の声や、毅然と憎々しげに告げる一成の言葉。
でも、なら、どうしたらいいのだろう。
今、玲はアジサイレストランにいる。
何時間居ても見逃してくれるこのお店。母が生きていた頃から変わっていない。玲はこの九年間、度々この店に訪れている。店主の女性は九年前に事故現場へ駆けつけてくれた方だ。
玲が何も言わずに店の片隅にいても、店は容認してくれる。いつだって明るい。玲を闇に放ることはない。鞄一つでやってきた玲を、この店は延々と守ってくれる。
分かってるよ。
この世界は悪夢みたいに最悪で、夢みたいに優しくもある。不幸の中の沢山の優しさが、玲の人生にはあったのだ。
玲はもう何をする気も起きなかった。
一成の部屋を出てから既に丸一日経っている。携帯を見ていないので時間は分からない。窓の外は真っ暗闇だ。とうの昔に夜になって、それからずっと、暗闇が終わらないみたい。
まるで目の前でずっと、赤信号が眩く光っているようだ。
玲はちっとも動けずに思い出してばかりいる。
――『まぁ色々あるよな』
出会って二日目に、一成は言った。玲の借金を茶化さず、蔑まず、そう告げてくれたのは一成だけだった。
企みをもってして彼と共にいるのは精神的に疲弊した。遂に倒れてしまった玲を、放っておいてくれたら良かったのに。奉仕を受け入れて欲しかった。病院なんて連れて行かないでほしかった。
三百万なんていらなかった。借金の返済を慮って高額の報酬を上乗せしてくれた一成。どうしてそんなことを、してしまうんだ。玲の体を気遣い、性行為さえ制限されて、玲は、とても安全なお城のような部屋で、穏やかに過ごす日が続いてしまった。
いくら玲が生意気なことを言っても一成は許容してしまう。こんな生活を想定していたんじゃない。あんなに毎日、共に食事するつもりはなかった。くだらない話をして、熱帯魚に餌をやって、無理やりジムのマシンをやらせようとしてくる一成に、玲は怒り、一成は笑う。
こんな生活を想像していたんじゃない。
一成がもっともっと最低で、あの事故のことだって『俺には関係ない』と突っぱねてくれたら良かったのに。
けれど一成はそんな人間ではなかった。
心を開かせて彼の本心を聴くのが目的だった。あの男が何もかも知っていて、『俺には関係ない』と笑っているなら、行動を起こすつもりだった。
やがて一成は玲の願ったように心を開いてくれた。
今ではもう、玲は彼の本当の過去を知っている。今まさに玲が、捉われているのは己の言葉だ。
――『もう、どうしようもないことだったんだなと、今は思えてきました』
どうしよう。
あの時自分は……一成に助けを求めてしまった。
突発的なヒートが来た玲は、迷いなく一成に頼ってしまった。そして彼は何の見返りもなく玲を助け、自分だって辛いのに何日も傍にいてくれた。
もうとっくに体の関係は持っているのにセックスをしなかった。オメガ性のフェロモンにアルファ性が耐えるのはただ苦痛なだけなのに、何度も何度も、熱と発情に苦しむ玲の様子を見に来てくれた。
本当は気付いている。
『怖い』と正直に口にできる相手は一成だけということ。
こんなはずじゃなかった……。
玲は知らなかったのだ。
この感情を。
一成を知りたくなるこの感情。ゲームに勝って大喜びしている姿はじっと見つめてしまうし、一成に話しかけられるのを待っている自分がいる。
中学でも仕事場でも決して心を許さぬよう、慎重に自分の話はせずに過ごしてきた。それなのに、俺は何を言ったかな。お母さんのことだけでなくお父さんの話なんて、初めて口にした。
玲は一成と話したくなっていたのだ。くだらないことも、お互いの心に触れるようなことも。朝起きるとリビングに行って一成が起きるのを黙々と待っている。一成が起きてきたら、作っておいた朝食を差し出して、彼がああだこうだ言いながら食べ始めるのを目の前でジッと見ている。
玲はそれが楽しかった。
こんなつもりじゃなかった。
何も知らなかった。
何も、知らなかった。
けれど、由良が一成の存在を知っている。
金融事務所に『如月一成』が連絡をしてしまった。きっと由良は一成に接触するだろう。……分からないけど。最近の玲は昔とは違って由良に反抗している。勝手に行動して、勝手に如月の人間に接触している。
嵐海組と如月。二人が向かい合えば一成は、玲が何者を知るはずだ。
一成が、涼の正体を知るだろう。
玲はだから逃げ出した。
怖かったからだ。
傷付くに決まっている。玲の目的を知って、一成はきっと衝撃を受ける。
一成がどんな感情を心に秘めて玲に接しているか、玲だって分かっている。『契約のない立場』を望んでくれた一成に対して、こんな仕打ちは惨すぎる。
どうしたらいいのだろう。これからどうしよう。
一成が追いつけない遠く遠くへ逃げ出したい。でも涼を残していけない。
一成の、一番近くでいつもみたいに話を聞いていたい。でもどうやって傍にいたらいいか分からない。
どこからやり直せばよかったのだろう。あのメールに直ぐに気付いて返信していれば良かったのだろうか。
玲は力なく目を閉じた。あのメッセージが心に浮かぶ。
《あなたはどこにいるの?》
もう何も分からないよ。
誰か、見つけて。
――その時、まぶたの裏で何か光った気がして玲は目を開けた。
《あなたはどこにいるの?》
……それなのに。
魔王の子は魔族なんかではなかった。
魔王に苦しめられていた、玲と同じ人間だったのだ。
――『知らねぇ組織だしな』
嵐海組の名を聞いても一成の顔色は変わらなかった。組長は如月家と取引していたはずなのに。その表情に玲への気遣いはあっても罪悪感はない。一成は本当に、事故を把握していない。
――『俺にとってアイツは父親なんかじゃない。最も卑劣な他人だ』
彼は魔王を憎んでいた。いつも笑っているように見えたけれど、本物の憎しみは心の奥深くに押し込めて、今でも尚憎悪を忘れていなかった。
――『アイツのせいで傷つけられた人間が大勢いる。俺が子供の立場を使ってさっさと殺してりゃ良かったのかもな』
彼は後悔していた。魔王が強大な力をもちすぎて立ち向かえなかった過去を、悔やんでいたのだ。
だから力を振り絞って逃げ出した。自分以上に苦しめられた母を救い出し、魔王から逃げていった。
玲たちと玲の母と一緒だった。
その違いは、俺たちは捕まってしまったということだけ。
……一成さんは何も知らなかっただけだった。
《深山くん?》
《あなたはどこにいるの?》
一度も忘れたことのなかったあの言葉。
彼らは魔王に苦しめられた民を救い出そうとしていたらしい。そのメールは、捉えようとしていたのではなく、探してくれていたのだ……。
メールを送ってくれたのは一成の母だろう。玲がメールを返したとき返信が来なかったのも当然で、彼女が五年前に亡くなってしまっていたらしい。
深山礼矢と深山涼介を見捨てずに、見つけ出そうとしてくれていたのに。
九年前の事件は表に出てこない。玲はあの事故以後の記憶が曖昧で、どう事後処理されていたのか知らず、気付いた時には何もかもなかったことにされていた。
隠蔽したのは如月家と嵐海組だ。組長には表沙汰にしたくないという理由があり、如月家も外聞が悪いからで収めた。
でも今では疑問に思えてしまう。
……本当に?
如月家は、深山花の車に衝突されたと主張して良かったはずなのに。
加害者とは無関係だと言い張り、深山花を表に晒してもよかった。
けれど如月家はそうしていない。
隠してくれたんじゃないか?
あの如月家の人間を殺してしまったなら損害賠償はとても想像つかないほどの額になり、重大な事件になる。嵐海組はドライブレコーダーを持っていたのだからそれを証拠品として如月家が買っていてもよかったはずだ。
如月家は、一成にさえ『心臓麻痺が起きて一人事故で死んだ』と伝えている。
如月家は……。
深山花が犯した事故であることを隠すために、如月成彦が一人で死んだことにしてくれたんじゃないか?
……本当は。
一成の本を読んだことがある。
運命の番であるアルファの男を殺すオメガの男の物語だ。一成は気付いていないだろうけれど、玲はその本を持っていた。
一成の本棚から手に取る必要もなかったのだ。アパートを引き払うときにも捨てられずに、今も手放せずに持っている。
好きだったから。運命を憎むその話が。
憎んでもいいのだと許された心地になった。
一成さんには言えなかったけれど。
本当は、最初から気付いている。
出会って数分で『増田さん』という運転手を庇った一成。
一成は、中学の先輩後輩であるというだけで大江と仕事をしていた。訳ありの大江を雇うのはなぜなのか真剣に訝しんでいたけれど、そこに利害関係なんかなかった。
ただ友達だったから関わっているだけ。一成は人との関係を大切にしている。周りの人たちも横暴な彼の性格を知り、それでも、彼と共に過ごしている。
本当は、出会う前から、頭のどこかで分かっていた。
如月家に保護されたオメガ女性に話を聞いた際に彼女は言った。如月家の現当主と一成の母が援助をしてくれて、今は治療を受けながら無理に働く必要もなく十分に生活できていると。
けれど玲は心の耳を塞いだ。
そして理由を探し続けた。
死んだ母は火葬されている。ハウスの管理人が事故の直後に彼女の遺体を引き取り火葬をしてくれた。先に、如月家というアルファ性の巣窟から玲たちを逃してくれた彼女は、遺骨を送ってくれた。
兄弟を遠くの施設に送る際、管理人のおばさんは言ってくれた。
『あなたたちのせいじゃない』
でも玲の中はめちゃくちゃだった。
それなら、誰のせいだったの?
理由を教えて。
一体何のせいでこうなったのか。どうして俺たちがあんな目に遭ったのか。
……すぐに救急車を呼んでいれば生きていたんじゃないか?
事故に遭ってすぐ、電話を貸してくれれば救急車を呼べた。助かったかもしれない。生きていたかもしれない。
考えるたびにあの人たちの声が浮かぶ。
――『悪かった』
――『お前らを置いて逃げて、すまなかった』
――『大倉玲。あの時は悪かったな……』
――『何か他に俺にできることはあるか?』
……そうだ。
涼が攫われなければよかったんだ。青い瞳を隠しておけばよかった。保育園なんかに行かせず、ハウスの中に閉じ込めておけばよかった。
――『おかあさぁん!』
――『なんか……兄ちゃん、今日は凄い食べるね』
――『俺は覚えてないよ、兄ちゃん』
……あ。
そうだった。
如月成彦の鎖を解かなければよかったんだ。
化け物を解放したのは一成。父親を自由にさせないよう傍にいるべきだった。そうするのが家族なのだから。
――『嫌いだった。心底な』
――『殺してりゃよかったのかもな』
……もう、どうしよう。
玲は背もたれにぐったりと寄りかかり俯いた。視線の先に『ソレ』はある。一成が書いた運命を殺す小説だ。
本の表紙を撫でる。
本当は、分かっている。
恨むべきものはもう見つからない。
一つ一つ理由をつけて憎んでもその先はない。一つ一つ誰かの言葉が返ってくる。しゃがれた老人の声や、悔しげな若い男の声。幼い弟の声や、毅然と憎々しげに告げる一成の言葉。
でも、なら、どうしたらいいのだろう。
今、玲はアジサイレストランにいる。
何時間居ても見逃してくれるこのお店。母が生きていた頃から変わっていない。玲はこの九年間、度々この店に訪れている。店主の女性は九年前に事故現場へ駆けつけてくれた方だ。
玲が何も言わずに店の片隅にいても、店は容認してくれる。いつだって明るい。玲を闇に放ることはない。鞄一つでやってきた玲を、この店は延々と守ってくれる。
分かってるよ。
この世界は悪夢みたいに最悪で、夢みたいに優しくもある。不幸の中の沢山の優しさが、玲の人生にはあったのだ。
玲はもう何をする気も起きなかった。
一成の部屋を出てから既に丸一日経っている。携帯を見ていないので時間は分からない。窓の外は真っ暗闇だ。とうの昔に夜になって、それからずっと、暗闇が終わらないみたい。
まるで目の前でずっと、赤信号が眩く光っているようだ。
玲はちっとも動けずに思い出してばかりいる。
――『まぁ色々あるよな』
出会って二日目に、一成は言った。玲の借金を茶化さず、蔑まず、そう告げてくれたのは一成だけだった。
企みをもってして彼と共にいるのは精神的に疲弊した。遂に倒れてしまった玲を、放っておいてくれたら良かったのに。奉仕を受け入れて欲しかった。病院なんて連れて行かないでほしかった。
三百万なんていらなかった。借金の返済を慮って高額の報酬を上乗せしてくれた一成。どうしてそんなことを、してしまうんだ。玲の体を気遣い、性行為さえ制限されて、玲は、とても安全なお城のような部屋で、穏やかに過ごす日が続いてしまった。
いくら玲が生意気なことを言っても一成は許容してしまう。こんな生活を想定していたんじゃない。あんなに毎日、共に食事するつもりはなかった。くだらない話をして、熱帯魚に餌をやって、無理やりジムのマシンをやらせようとしてくる一成に、玲は怒り、一成は笑う。
こんな生活を想像していたんじゃない。
一成がもっともっと最低で、あの事故のことだって『俺には関係ない』と突っぱねてくれたら良かったのに。
けれど一成はそんな人間ではなかった。
心を開かせて彼の本心を聴くのが目的だった。あの男が何もかも知っていて、『俺には関係ない』と笑っているなら、行動を起こすつもりだった。
やがて一成は玲の願ったように心を開いてくれた。
今ではもう、玲は彼の本当の過去を知っている。今まさに玲が、捉われているのは己の言葉だ。
――『もう、どうしようもないことだったんだなと、今は思えてきました』
どうしよう。
あの時自分は……一成に助けを求めてしまった。
突発的なヒートが来た玲は、迷いなく一成に頼ってしまった。そして彼は何の見返りもなく玲を助け、自分だって辛いのに何日も傍にいてくれた。
もうとっくに体の関係は持っているのにセックスをしなかった。オメガ性のフェロモンにアルファ性が耐えるのはただ苦痛なだけなのに、何度も何度も、熱と発情に苦しむ玲の様子を見に来てくれた。
本当は気付いている。
『怖い』と正直に口にできる相手は一成だけということ。
こんなはずじゃなかった……。
玲は知らなかったのだ。
この感情を。
一成を知りたくなるこの感情。ゲームに勝って大喜びしている姿はじっと見つめてしまうし、一成に話しかけられるのを待っている自分がいる。
中学でも仕事場でも決して心を許さぬよう、慎重に自分の話はせずに過ごしてきた。それなのに、俺は何を言ったかな。お母さんのことだけでなくお父さんの話なんて、初めて口にした。
玲は一成と話したくなっていたのだ。くだらないことも、お互いの心に触れるようなことも。朝起きるとリビングに行って一成が起きるのを黙々と待っている。一成が起きてきたら、作っておいた朝食を差し出して、彼がああだこうだ言いながら食べ始めるのを目の前でジッと見ている。
玲はそれが楽しかった。
こんなつもりじゃなかった。
何も知らなかった。
何も、知らなかった。
けれど、由良が一成の存在を知っている。
金融事務所に『如月一成』が連絡をしてしまった。きっと由良は一成に接触するだろう。……分からないけど。最近の玲は昔とは違って由良に反抗している。勝手に行動して、勝手に如月の人間に接触している。
嵐海組と如月。二人が向かい合えば一成は、玲が何者を知るはずだ。
一成が、涼の正体を知るだろう。
玲はだから逃げ出した。
怖かったからだ。
傷付くに決まっている。玲の目的を知って、一成はきっと衝撃を受ける。
一成がどんな感情を心に秘めて玲に接しているか、玲だって分かっている。『契約のない立場』を望んでくれた一成に対して、こんな仕打ちは惨すぎる。
どうしたらいいのだろう。これからどうしよう。
一成が追いつけない遠く遠くへ逃げ出したい。でも涼を残していけない。
一成の、一番近くでいつもみたいに話を聞いていたい。でもどうやって傍にいたらいいか分からない。
どこからやり直せばよかったのだろう。あのメールに直ぐに気付いて返信していれば良かったのだろうか。
玲は力なく目を閉じた。あのメッセージが心に浮かぶ。
《あなたはどこにいるの?》
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