恋愛探偵は堕とされない。

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第3章 あるいは虚堂懸鏡な女神。

第21話 迷いと、戸惑い

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 英国の書斎に似せた紅亜の事務所は、夜になるとより重厚な空気感に包まれる。
彼女の趣味だろうか…薄暗くされた室内は窓から覗く月をより美しく魅せ、訪れた人を外の現実から遠ざける。そうして人はこの不思議めいた空間の一部として、ゆっくりと飲み込まれていく。
それだけなら、きっとここはとても居心地の良い場所になるだろう。
だがもしここで、好きな人が目の前で机に肘をついて、自分のことを上目遣いでじっと見つめているとしたら?
平然としていられる男がいるだろうか。
大抵、心臓ばかり激しく動いて、頭はロクに仕事をしてくれないはずだ。自分だけがおかしいわけじゃない。
けれど今日は、そんな艶めかしい雰囲気に酔う余裕もないほどに、瑞帆の心は沈んでいた。

「なるほど。概ね計画通りとはいえ、悟さんがそこまで過剰な反応を見せたのは少し不自然ね。それ以前に、何か彼の気に障ることをしたわけじゃないんでしょう?」
「それはないと思います…初対面だったので」

瑞帆がたどたどしく報告を終えると、紅亜は目を細めて何やら考え始めた。

あの日…居酒屋で紅亜と別れてから、今日でちょうど1週間。
指示されたことは、概ねやり遂げられたと思う。
梨沙子がどれだけ本気かはわからない。けれど少なからず、好意的には思われているだろう。
萌咲ともバイト先では極力一緒にいるようにして、良い雰囲気に見えるようにも心掛けた。
悟から良く思われていないのも確実だ。むしろ、何故か想像以上に嫌われている。
ゆえに、気落ちすることは何もないはず。
――それなのに。

「報告ありがとう。ひとまず、取り立てて大きな問題はなかったと言って良さそうね。悟さんの件については、萌咲さんにも話を聞いてみるから。それによって見立てや今後の方針を多少変更することはあるかもしれないけど、現状あなたに指示したことはこのまま継続ね。お疲れ様。初めてとは思えない程順調な滑り出しね」

そう言って、紅亜が瑞帆に微笑みかける。
褒められた。少しでも認めてもらえた。
…それなのに、瑞帆は諸手を挙げて喜ぶことができない。

「ありがとうございます。でもその、僕がすることは、このまま変わらず…ですか」
「そうね。今後も、梨沙子さんからはどんどん好かれるように振舞って。萌咲さんとの距離感も変えなくていいから。悟さんの観察も継続してちょうだい。可能な範囲で、また接触してもらうこともOK」
「……わかりました」
「良い返事ね。ただその割には、すごく浮かない顔をしてるけど。『罪悪感でいっぱいだ、自分は良くないことをしているんじゃないか。このまま続けてもいいのだろうか…』っていう感じの」
「えっ…」

突然心中を言い当てられた戸惑いと驚きで、瑞帆は顔を上げた。
紅亜と真正面から目を合わせる。そこで初めて、自分が今まで俯いていたことに気づいた。

「やっぱり。あなた、自分で思っている以上にわかりやすく顔に出てるんだから。今悩んでいることだって、おおよそ『皆を騙しているようで気が引ける』…ってところでしょ。けどそれは、普段のあなたなら絶対しないような振る舞いで生じた周囲の変化に動揺して、不安が高まっているだけ。一時的な感情だから、慣れれば何とも思わなくなるはず」
「そういうもの…なんですか」
「誰だって慣れないことをしたら不安になるでしょ。それと同じこと」

にっこりと、そう言い切った紅亜。
けれど瑞帆はまだ、いまいち腑に落ちていなかった。この数日間、ずっとモヤモヤしたものが胸の中で渦巻いていたのだ。
そのせいだろうか。無意識に、言葉が、弱音が…口から零れ落ちていた。

「どうしても、梨沙子さんを騙しているような気がしてしまって。僕は、本当は梨沙子さんが思っているような人間じゃないのに」
「かっこよくイメチェンして、周囲の女の子に好かれるよう振舞うのは悪いこと?あなたの学校でも、モテたい男子はみんなやってるでしょ」
「でも、まるで思わせぶりみたいな…」
「真面目なのね。なら梨沙子さん以外にも、女の子全員に同じように振舞いなさい。あのね、相手から好かれるような言動をすることと、相手を弄ぶことは同義じゃないの。前者なら誰でもしていること。後者は…例えばあなたに悪意があって、梨沙子さんから色々と搾取するために彼女を本気で自分に夢中にさせたいと思っているなら、そうなるけど」
「そんなことは絶対にないです!」
「ならば全く問題ないことね。それに、『相手が自分のことを本気で好きになったらどうしよう…』、だなんて考えてるのだとしたら、随分と自分に自信のある悩みじゃない?」
「それは……」
「確かにって思ったなら、これ以上悶々とするのはやめておくことね。ついでにその他には?何か引っかかってることがあるんじゃない」
「他…萌咲さんと悟さんのことも。僕のせいで、余計にこじれてしまったんじゃないかって」
「それについては全く気にする必要ないわ。最終的に2人が上手くいかなければ、それは私の責任。あなたは私が命じた通りに動いただけ。まあ何をもって“上手くいった”とするかは、今後の状況と萌咲さんの気持ち次第だけど」

――紅亜に上手く言い含められている気がする。
そう思うのに、瑞帆は反論する言葉が出てこない。

きっとそれは、紅亜の言葉を全部信じた方が楽だからだ。

確かに自分は、何も詳しい話を聞いていない。悟と萌咲が実際、どんな関係かもわからない。梨沙子だって、本当に誰にでも思わせぶりなことを言っているのかもしれない。
ならば、自分が気にすることは何もない。
自分はただ、紅亜に言われたとおりにするだけ。自分もそれを望んでいる。

けど――

「……けど、またこの先、誰か傷つくことになったら」

最後まで、瑞帆の心に引っかかっていたこと。
脳裏に浮かんだのは、萌咲の泣きじゃくる顔と、悟の苦しそうな姿だった。
すると急に、紅亜の雰囲気も変わった。

「なるほど。それは難しい悩みね。だって、誰も傷つかない恋なんてないもの」

諭すような眼差し。揶揄っているかのようで、どこか切なさを感じる声……
何かが、瑞帆の中で湧き上がる。
自分はどうして、彼女のことに関してはこんなにも…気持ちを、焦りを、抑えられないんだろう。

「それは、紅亜さんも…ですか」

――紅亜さんも、誰かに恋して、傷ついたことがあるんですか。

気づいた時には、そう口にしてしまっていた。
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