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第一章 佐川亜紀斗と笹島咲花
第一話 人生はやり直せる
しおりを挟む年明け間もない一月。
外は、辺り一面雪で覆われていた。
昼間の空は曇っていて、雪がチラチラと降っている。
北海道江別市。
市内にあるコンビニエンスストア。
佐川亜紀斗は、銃を持った強盗と対峙していた。
客は逃走し、店内には四人の人間が残っている。
一人は、まだ少年らしさを残した犯人。
もう一人は、このコンビニエンスストアの店長。犯人に羽交い締めにされ、銃を突き付けられている。
残る二人は、犯人と対峙している亜紀斗と、亜紀斗の同僚。
亜紀斗は、刑事部の特殊部隊であるSCPT――Special Crime Prevention Team(特殊防犯部隊)――の隊員である。隣りにいる同僚も、同様に。約二十年前に、警察法の改正により、各都道府県警の刑事部に設立された部隊。
SCPTには、クロマチンという特殊能力を持った者だけが所属している。主に、銃や刃物を所持している犯人を、制圧、捕縛するために出動する部隊。
亜紀斗は、内部型クロマチンと呼ばれる能力者だった。
店内に、犯人が暴れ回った形跡はない。銃を発砲した形跡もない。商品や棚は一切荒らされておらず、綺麗なままだ。犯人の少年には、無闇やたらに人や物を傷付けるつもりなど、ないように見える。
レジカウンターの奥にいる、犯人と店長。亜紀斗との距離は、約五メートルくらいだろうか。一気に踏み込めば、力尽くで制圧することも可能だろう。
しかし亜紀斗は、可能な限り穏便に終わらせたかった。できるだけ、犯人の少年を傷付けずに。
「なあ、犯人の少年」
話しかけると、犯人は、露骨に苛ついた様子を見せた。
「お前、馬鹿にしているのか!? なんだよその呼び方!?」
「あ。いや、馬鹿にするつもりはないけど。ただ、どう呼んでいいか分からなくて。どう呼べばいい?」
「……」
犯人は押し黙った。提案できる呼び方がなかったのだろう。
犯人が喋らないので、亜紀斗は話を続けた。
「分かってるだろ? 抵抗しても無駄だ。君はまだ誰にも怪我を負わせていないし、物も壊していない。まだ罪は軽い。今のうちに投降しないか?」
「ふざけるな! こいつが見えないのか!?」
犯人は、銃口を店長の頭に押し当てた。
店長の口から、ひっ、と甲高い声が漏れた。
「俺はな、こいつのせいで人生が狂ったんだ! だから、こいつの人生を終わりにしてやるんだ!」
犯人は、銃一丁で亜紀斗達に対抗できると思っているらしい。
無理もないか、と思う。亜紀斗にとってはもう身近になっている、クロマチン能力。だが、ほとんどの一般人は、その詳細を知らない。
亜紀斗の能力は、内部型クロマチン。自身の身体能力を飛躍的に向上させ、人間の限界を超えた力を発揮できる能力。また、人間の限界を超えた力を使うために、能力発動時には、頑丈さも向上させる。銃弾程度では、かすり傷を負うのがせいぜいだ。
「なあ、犯人の少年」
「……なんだよ?」
亜紀斗の動きを警戒しているのだろう。犯人は、威嚇するような目で亜紀斗を睨んでいた。
構わず、亜紀斗は続けた。少年がこれ以上罪を犯さないうちに、事件を終わらせたい。
「君がここで捕まったら、留置所で勾留されることになる」
亜紀斗は、昔のことを頭に浮かべた。喧嘩ばかりしていた、十六までの自分。家庭環境は最悪だった。父親は酒浸りの暴力野郎。母親は、そんな父と亜紀斗を捨て、家を出た。
父親の暴力に晒される日々。亜紀斗にとって、暴力は、もっとも身近なものだった。必然的に、亜紀斗も暴力を覚えた。見境なく、どこででも、少しでも癪に障った相手と喧嘩をしていた。
十六のときに、傷害で逮捕された。留置所で勾留された。
「俺にも経験があるけど、留置所で生活するのは大変なんだ」
「なんだよ、あんた。警察のくせに、逮捕歴があるのかよ」
驚いた顔で、犯人が亜紀斗に聞いてきた。
亜紀斗は頷いた。
「まあな。でも、保護観察処分で済んだんだ」
勾留を解かれ、そこから生き直した。生き直させてくれる人がいた。
「まあ、俺が保護観察で済んだことなんて、どうでもいいんだ。問題は、君がこれから経験することになる、留置所生活のことだ」
「なんだよ? 看守にでも苛められるっていうのか?」
「いいや、違う」
亜紀斗は、じっと犯人を見つめた。
「俺が留置所に入ったとき、十六だった。若かった。で、君はいくつだ?」
「十七だけど」
「そうか。じゃあ、俺と同じ地獄を味わうことになる」
「どういうことだよ?」
「留置所に入った最初の日の夜だけどな」
「ああ」
「消灯時間が過ぎて、明りが消されて、真っ暗になったときだ」
「幽霊でも見たってのか?」
「まさか」
ふう、と亜紀斗は息をついた。
「暗くなると、目から入ってくる情報が少なくなるだろ?」
「まあ、そりゃあな」
「そうすると、色んなことを考えて、色んなことを想像するわけだ」
「……? ああ」
「そうしたら、な」
「ああ」
「滅茶苦茶ムラムラしたんだよ」
「……はぁ?」
犯人は、間抜けとしか言いようのない声を上げた。
「まだ十六で、若くて、毎日朝晩とオナニーしてたから、夜になったらムラムラして当然だよな?」
「いや、あの、何言って……」
「だけど、留置所じゃ、エロ動画もエロ画像も見れない。オカズなんて一切ない。もう、妄想は膨らむばかりだ」
「いや、だから……」
「でも、若いからムラムラは募るばかりだ! もう、ムラムラしてムラムラして、止められなかった! だから俺は、つい、オナニーを始めた!」
「おい、ちょっと……」
「でも、オナニーしてるのを、看守に見つかったんだ!」
「うわ」
犯人は呆れた顔になった。
「俺がオナニーしてるのに気付いた看守は、忠告してきた! 『こんなところでオナニーしたら、陰部摩擦罪になるよ』って!!」
「は? 何だよその罪」
「留置所とか刑務所じゃ、オナニーしたら駄目なんだよ! ムラムラしても、ムラムラしたまま我慢しないと駄目なんだよ! もう連日ムラムラが募って、死にそうになるんだよ!」
「マジかよ」
「ああ、マジだ」
力強く、亜紀斗は頷いた。そのまま、じっと少年を見る。
「たぶん君は、現時点であれば、保護観察で済む。オナニーを我慢する期間は、拘留中だけで済む。でも、もし少年院にでも行くことになれば、その期間だけオナニーできないんだ。そんなの、耐えられるか?」
「……いや、何言ってんだよ、あんた。説得の仕方がおかしいだろ」
「……そうか?」
「おかしいだろ、どう考えても」
犯人の表情が変わった。先ほどまでの棘がなくなった。それどころか、彼は、少し笑みを浮かべていた。
「まさか、あんたが更生した理由って、自由にオナニーしたいからなのか?」
犯人に合わせて、亜紀斗も笑顔を見せた。
「さすがに、そんな理由じゃないけどな」
「じゃあ、どういう理由だよ?」
「恩師みたいな人に出会えたんだよ」
「恩師?」
「ああ。少年課の人なんだけどな。その人が、俺の話をよく聞いてくれて、俺のために色々と力を貸してくれたんだ」
「……」
「なあ、少年。お前は、どうしてこんなことをしたんだ? どこで銃なんて手に入れたんだ?」
少年は、少しだけ亜紀斗から目を逸らした。憎々しげに、羽交い締めにした店長を見ていた。
少年に捕らえられた店長は、震えている。
「こいつに、万引き犯にされたんだ」
ポツリと、少年が呟いた。小さな声だったが、亜紀斗の耳には届いていた。
「俺は万引きなんてしてないのに。何も買わないでこの店から出ようとしたら、突然捕まえられて、バックヤードに連れて行かれた」
店長は、万引きの有無を確認もせずに、警察に連絡したという。店長が確認したのは、少年が所持していた生徒手帳のみ。
そのため、少年は、自分がバックヤードに連れて行かれた理由も分からなかった。万引きを否定することもできず、警察署に連れて行かれた。
「警察署で鞄の中とかポケットの中とか、全部見せて。それで、ようやく濡れ衣だって証明できたんだ」
だが、少年が警察署に行っている間に、店長は、少年の高校にも連絡していた。『おたくの生徒が万引きをした』と。『今、警察署に連行されている』と。
「俺は何もしてないのに! 学校側は、俺を停学にした! 停学が明けて学校に行ったら、クラスの奴等に白い目で見られた! 俺は何もしてないって言っても、誰も信じてくれなかった!」
少年は学校に行かなくなった。いや、行けなくなった。無実の罪で捕まり、無実が証明されても、誰も信じてくれない。そんな境遇に耐え切れなくなった。
少年は成績がよかったという。テストでは、いつも学年で十番以内に入っていた。進学したい大学もあった。でも、クラスの雰囲気が恐くて、もう学校には行けない。
「悪かった! 悪かったから! 俺も疲れてたんだ! だから許してくれ!」
「うるせぇ!」
少年は、必死に弁解する店長の頭を、銃口で小突いた。
「お前のせいで、俺の人生は滅茶苦茶だ! お前を殺して、俺も死んでやるんだ!」
涙声で怒鳴る少年を見て、亜紀斗は、昔の自分を思い出した。
自分の人生に希望なんて見い出せなかった。知らなかったのだ。人生はやり直せる、なんて。たとえ理不尽な理由で躓いたとしても、また立ち上がれるなんて。
若いうちは、時間の流れが遅い。遠い未来なんて想像もつかない。だからこそ、今の挫折が人生の全てだと感じる。挫折から立ち上がった未来など、想像もできない。
「なあ、少年」
「なんだよ?」
「そんな方法じゃなくても、お前は店長に仕返しできるんだぞ」
「は?」
「まず、万引きが成立するには、店を出るとき、あるいは出た時点で、商品を鞄や懐なんかに入れている必要がある。占有の条件を満たす必要があるんだ。それに、店長の行為は、私人逮捕に該当する。私人逮捕が許されるのは、犯行を行った時点や直後である必要がある。でも、君は何もしていないわけだから、私人逮捕は許されない。違法な行為に該当する。暴行罪とか傷害罪に問える可能性があるんだ」
「そうなのか?」
「ああ」
亜紀斗は頷いた。
「それに、実際には何もしていないのに停学処分にした学校側の行為も、訴えることができるだろうな」
「……」
「こんなことをした以上、君も罪に問われるだろう。けど、情状酌量の余地は十分過ぎるほどある。新しい人生を歩むことだってできるはずだ」
「でも、こんなことしたら、学校だって退学になるだろうし」
「勉強なんて、どこでもできるだろ。高卒認定だって受けることができる。そうしたら、大学だって目指せる。もしくは、別の目標を見つけられるかも知れない」
少年は、泣きそうな顔で亜紀斗の話を聞いていた。根は真面目な子なのだろう。それでも、理不尽な理由で道を踏み外してしまった。
こんな少年を、一人でも助けたい。亜紀斗が警察官になったのは、そんな理由からだった。かつて自分に手を差し伸べてくれた、恩師と呼べる人。あの人みたいになりたくて。
「とりあえずその男を離して、投降してくれないか? 俺も、できるだけのことはする」
「……本当か?」
亜紀斗は頷いた。
少年は銃をカウンターに置き、亜紀斗のもとへ来た。
彼を連れて、亜紀斗は外に出た。コンビニを取り囲んでいた刑事達に事情を話し、少年を乗せた覆面パトカーに同乗した。
警察署に向かう途中で、亜紀斗は少年に聞いてみた。銃の入手経路。
彼の話によると、学校に行けなくなってデパートなどをフラついているときに、声を掛けられたという。絶世の美女と言える見た目の人物に。けれど、声を聞いて男だと分かった。
その美人は、少年の話を真摯に聞いてくれた。亜紀斗と同じように。話を聞いた上で、復讐を持ちかけてきた。その際に、銃をくれた。本物の銃だと証明するように、信号機を撃って見せた。信号機の青いランプに、正確に命中させていた。
少年の話を聞いて、亜紀斗は黙り込んだ。顎に手を当てて考え込んだ。
最近、銃を使った犯罪が異常なほど多い。この地元だけではない。全国的に、だ。犯人はいずれも、銃は譲り受けた物だと証言している。
犯人達に銃を渡した者の外見は、一致しているようで一致していない。驚くほどの美女。女性と見間違うほどの、でも声を聞くと間違いなく男。この二つのパターン。複数犯だとも考えられる。
「なあ」
亜紀斗が考え込んでいると、少年が声をかけてきた。
「ん? なんだ?」
「この後、俺、取り調べってのを受けるんだろ?」
「まあな」
「あんたがやるのか?」
「いや。俺は、リスキーな現場に出向くのが仕事だから」
「じゃあ、これで今日の仕事は終わりなのか?」
「そうだな。報告書を書いて終わりだな」
「じゃあ、家に帰って何するんだよ? 彼女にでも会うのか? それとも、結婚してるのか?」
「結婚なんてしてないし、彼女もいない。ってか、できないんだよ、彼女も結婚も」
「じゃあ、帰ったら何するんだ?」
「決まってるだろ。オナニーだよ」
「……」
少年は小さく息をついた。
「あんたが更生した理由って、やっぱり、好き勝手にオナニーしたかったからじゃないのか?」
「まあ……それは……多少は、な」
「やっぱりな」
呆れたように言いつつも、少年は、少しだけ楽しそうだった。
――この事件から三ヶ月後の、四月。
亜紀斗は、北海道警察本部に異動となった。
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