罪と罰の天秤

一布

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第一章 佐川亜紀斗と笹島咲花

第三十九話 変わっていないようで少し変わった

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『はい、十分経過。それまでだよぉ』

 スピーカーを通して、藤山の声が届いた。

 道警本部の、SCPT隊員の訓練室。

 月に二回の実戦訓練の日。

 終了の声がかかって、咲花は攻撃の手を止めた。

 目の前――概ね四メートルほど離れた場所には、膝をついた亜紀斗。肩で大きく息をしている。

 かきつばた中学校での事件から、約五ヶ月が経過していた。ゴールデンウィークも過ぎ、世間は日常を取り戻している。

 秀人の弾丸で負った、咲花の左足の負傷。その怪我は、予想していた通りの重傷だった。完全に破壊された皮膚は縫合すら不可能だったため、臀部からの皮膚移植を行った。移植した皮膚を、何カ所も縫合した。さらに、脛の骨を粉砕骨折もしていた。怪我の回復とリハビリに、三ヶ月近くも要した。

 リハビリを終えて職場復帰したのが、つい先月。

 約四ヶ月ぶりとなった先月の実戦訓練で、咲花は、健在ぶりを証明した。相手を圧倒し、わずか二分で戦いを終わらせた。

「ブランクがある人の動きじゃないねぇ」とは、藤山のセリフだ。いつもの胡散臭い笑みの裏に、どこか嬉しさが垣間見えた。

 実戦訓練の組み合わせは、藤山が決める。今回の訓練で咲花と亜紀斗を戦わせたのは、咲花が完全復活していると判断したからだろう。

 藤山の判断通り、咲花の怪我は完治していた。戦う際の感覚も、前回の実戦訓練で取り戻していた。

 だからこそ分かった。亜紀斗は、以前戦ったときよりも強くなっている、と。秀人に圧倒されたことで、何かを学んだのか。もしくは、自分より遙かに強い者を相手にした経験が、戦いの感性を鋭くしたのか。あるいは、秀人に圧倒された悔しさから、より厳しい訓練を自分に課しているのか。

 たぶん、その全てだろう。

 咲花は知っている。亜紀斗が、自分に厳しい人間だと。自分の信念と目標のためなら、苦労も苦痛も厭わない。常人なら逃げ出すような訓練を、自分に課すことができる。それくらい、精神的に強い。

 決して認めたくはないが。

 咲花は、実戦訓練用の防弾ヘルメットを脱いだ。脱いだ拍子に、髪の毛についた汗が滴り落ちた。額に張り付いた髪の毛を掻き上げる。

 小脇にヘルメットを抱えて、膝をついている亜紀斗に近付いた。

 実戦訓練は、あくまで訓練だ。形勢が一方的で危険だと判断されない限り、ストップがかかることはない。十分間戦い抜いた結果として、勝敗が出されるものでもない。

 とはいえ、どちらが優勢だったかは、容易に分かる。戦いを見ていた者にも、実際に戦った者にも。

 亜紀斗もヘルメットを脱いだ。咲花よりも大粒の汗が、彼の顔から床に落ちた。

 亜紀斗のすぐ側まで来て、咲花は足を止めた。

 亜紀斗が、咲花を見上げている。

 咲花は、亜紀斗を見下ろしている。

 突き刺し合う視線。憎しみとは違う敵意。反発し合う心。

 秀人と戦ったときに、咲花は、亜紀斗と共闘した。秀人に勝てたのは、亜紀斗の力があったからだ。彼の協力がなければ、間違いなく、あの場で秀人に殺されていた。

 しかし、だからといって、亜紀斗と親しくなったつもりはない。親しくなる気もない。親しくなることなどできない。

 亜紀斗を見下ろしたまま、咲花は冷たく吐き捨てた。

「あんたが私に勝つなんて、絶対に無理だから。背負ってるものの大きさも、覚悟も、あんたとは違うもの」

 亜紀斗は息を切らしながらも、舌打ちを返してきた。悔しそうな顔をしている。咲花を相手に劣勢だったことが――負けたことが、悔しいのだろう。まして咲花は、ブランク明けなのだから。

「あんたみたいな甘い奴に負けることなんて、絶対にない。どんなにブランクがあってもね」

 亜紀斗の目が鋭くなった。今にも殴りかかってきそうな目付きだ。こんな暴力性を秘めた奴が、あんな甘い信念を持っていることに、なんだか滑稽さを覚えた。

「調子に乗んなよ? すぐに泣かせてやるから」
「せいぜい頑張ってみれば」

 鼻で笑って見せて、咲花は待機室に戻った。

 実戦訓練が終わって、報告書を書いて、他の仕事も片付けて。

 午後六時十分。

 定時を少し回ったところで、咲花は特別課を出た。

 エレベーターの前で、川井が待っていた。

「お疲れ様です」

 ありきたりな挨拶をする。

「お疲れ。待ってたよ」

 言うと、川井は、エレベーターの下向きボタンを押した。

「一緒に帰ろうか。今日も送るよ」
「……」

 暇なの?――と言いかけて、咲花は言葉を飲み込んだ。捜査一課が暇なはずがない。暇なら、川井は、毎日咲花を待っているはずだ。そうできないのは、彼が多忙だからだろう。

 エレベーターに乗り込む。一階について、エレベーターから降りた。

 出入り口付近に、見知った顔を見つけた。警察関係者とは思えない、可愛らしい女性。

 咲花は彼女を見た。
 彼女も、咲花を見ていた。

 あの女性と話したことは、一度もない。けれど咲花は、彼女を知っている。彼女も、咲花を知っているのだろう。

 咲花は彼女から視線を外し、道警本部から出た。隣りでは、当たり前のように川井が歩いている。

「仕事も終わった。職場からも出た。だから、ここからは敬語禁止で頼むよ」

 川井が、先手を打つように言ってきた。
 咲花は溜め息をついた。

「まあ、いいけど。それで、川井さんは何がしたいの?」
「咲花とやり直したい」
「無理」

 あらかじめ用意した回答を、一瞬の間すら置かずに返す。

「もう諦めて、他にいい人探したら?」
「この歳になると、諦めも悪くなるんだよ。咲花以上に結婚したい人なんていない、って分かるから」
「まだ三十代でしょ? 枯れる歳ではないと思うけど」
「枯れてるわけではないんだけどな」

 分かっている。川井は、枯れ果てているから咲花に執着しているのではない。ただの未練というわけでも、もちろんない。

 咲花も、川井が大切だった。大切だから、彼の真意が分かる。でも、彼の気持ちに応えるつもりはない。

 川井の気持ちに応えるつもりはないから、咲花は、彼の言葉をわざと曲解した。

「枯れてないなら、セックスしたいってこと? いいよ、セックスするだけなら。今からホテルにでも行く?」
「そういうことでもないんだけどな」

 川井は苦笑していた。

「じゃあ、昔みたいに、一緒に、食事とか買い物とかに行かないか?」
?」
「そう。
「……」

 川井の言った「これから」の意味。それが「今から」ではないことに、簡単に気付けた。簡単な言葉遊び。

 ――これからずっと、一緒に過ごす。

 だが、川井の望み通りにはなれない。昔の関係に戻るつもりはない。

「このまま家まで送って」

 咲花が突き放すと、川井は、残念そうに「わかった」と返事をした。
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