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第二章 金井秀人と四谷華
第十一話② 役に立ちたい(後編)
しおりを挟む秀人は一旦、部屋から出た。猫達が入り込まないように、部屋の襖を閉めた。周囲に猫がいたら、彼女の集中力が切れてしまう。
華が問題を解いている間に、他の仕事をしてしまおう。朝食で使った食器を洗い、片付けた。昼食の用意もした。秀人自身も勉強をするため、まだ読んでいなかった本に目を通した。
時間が一時間ほど余ったので、クロマチンの訓練も軽く行う。
咲花と戦って、学んだことがある。今認識している常識に縛られてはいけない。外部型の彼女が近距離でも攻撃できたように、まだ未知の使い方がクロマチンにはあるはずだ。
クロマチンは、体内のエネルギーを使い、常人では不可能なことを可能にする力。内部型は身体強化をする。外部型は、体の外で物理作用を起こす。
この外部型の物理作用を、もっと応用できないか。
応用方法について、秀人には、ひとつの構想があった。
せっかくだから、試しにやってみよう。
キッチンに足を運び、秀人は、洗いたての包丁を手に取った。先端を軽く指先に刺した。
プツリという感触と、鋭い痛み。包丁を抜くと、指先から血が流れてきた。
秀人は、外部型クロマチンを発動させた。薄く、皮膜状に形を整えた。一センチメートル四方ほどの、エネルギーの膜。厚さは〇・二ミリ程度。その気になればもっと薄くできるが、とりあえずはこの程度でいい。
クロマチンの膜を、血が出ている指先に張り付けた。絆創膏のように。
傷口が塞がれ、秀人の指先の血が止まった。
クロマチンは、体内のエネルギーを大量に消費する。指先に貼る程度でも、それなりにエネルギーを使用する。貼ったクロマチンを維持するためにも、エネルギーは必要だ。この程度の傷を塞ぐためにエネルギーを消費するのは、コストパフォーマンスが悪すぎる。さらに、縫合が必要なほど深い傷を負った場合、この方法では止血できない。
秀人は集中力を高めた。指先に貼ったクロマチンから、無数の、細い糸状のクロマチンを伸ばしてゆく。傷口の中に。
目的は、完全な止血。傷口を塞ぐだけではなく、クロマチンを体内に入り込ませ、血管を塞いで止血をする。
細く小さな物を操るには、高い集中力が必要になる。針の穴を通す、程度の集中力ではない。トランプで数メートルのタワーを作成するような、繊細で緻密な集中力。
傷口がある左手の指先は、微動だにしない。動くと、上手く血管を塞げない。しかし、膝は震えていた。あまりに高い集中力で。
毛細血管は、肉眼では見えない。傷の痛みと感覚だけで、血の出所を探ってゆく。
ミクロ単位まで細くしたクロマチンを、傷口の中で移動させる。出血している血管を特定し、塞ぐ。血管の切り口から出た血が固まるで、塞ぎ続ける。
血液が固まる時間というのは、一般的に認識されているよりも短い。状況にもよるが、通常は数秒から数分程度で固まる。もちろん、血液の量が多ければ多いほど固まるのは遅くなるし、大量に出血している場合は、固まる前に流れ尽くす。だから、大怪我を負って出血多量で命を落とす人もいる。
今の秀人の傷は小さい。さらに、毛細血管から出ている血液の量は、ほんの少しだ。あっとう間に固まり、出血が止まった。指先に張り付けたクロマチンの膜を消しても、もう血は出てこなかった。
ふう、と秀人は息をついた。気が付くと、額に汗が浮かんでいた。集中していたが故の疲労。
この技術を使えば、たとえ刃物で刺されても、ある程度の止血は可能だろう。もっとも、傷の大きさに応じて止血は難しくなる。刃物で深く刺された場合は、一時的な止血が精一杯だ。訓練する価値のある技術ではあるが。
額の汗を拭って、時計を見た。
時刻は、午前十時四十九分になっていた。
秀人は、華のいる部屋に戻った。
時刻は、午前十時五十分。
「あと二分だよ、華」
「うん」
華は、十枚ある問題の最後の一枚に取りかかっていた。想像以上に進行が早い。一問一問順番に解いていたら、最後の一枚までは到達できなかったはずだ。少なくとも、華の知能では。
――やっぱりね。
胸中で呟く。想像通りだ。
時計が、午前十時五十二分を示した。
「はい、華。そこまで」
秀人が終了の合図をすると、華は、ふぁーと声を出して大きく伸びをした。
秀人は華の頭を撫でた。
「お疲れ様、華。頑張ったね」
「うん。疲れたぁ」
「じゃあ、少し休んで、あのコ達と遊んであげて。俺は、テストの結果を見るから」
「はーい」
疲れた声で返事をすると、華は椅子から腰を上げた。リビングに行く。それぞれ適当なところでくつろいでいる猫達に近付き、様子を見て回る。
秀人はテストに目を通した。
小学校一、二年程度の問題は、全て正解している。小学校三、四年程度の問題も、ほとんど正解していた。
秀人が注目したのは、華のテストの解き方だった。
テストには十数問、難易度が高い問題を混ぜている。一カ所に集中させてではない。簡単な問題の合間合間に混ぜていた。
華は、回答不可能だと思われる問題には、手をつけていなかった。解こうとした形跡もない。これは、秀人の指示を頭に入れ、指示通りにテストを進めたからだ。
『全部できなくてもいい。ただ、できるだけたくさん解けるように頑張って』
できるだけたくさん解くために、難問はすぐに回答不可能だと判断し、次の問題に進んだ。
この状況判断は、簡単なようでいて難しい。少なくとも、先天的に知能が低い者には不可能だ。あらかじめ「分からない問題はとばして」と指示されなければ。
つまり華は、知能は低くても、自身で必要な状況判断ができ、かつ、判断通りに行動できるのだ。
この結果から導き出される回答はひとつ。
華の知能の低さは、やはり後天的な要因によるもの。同時に、先天的な知能は、決して低くない――むしろ高い部類だということ。まともな家庭に生まれ、まともな環境で育てば、一定以上のレベルの大学にも進学できたはずだ。
もっとも、もう二十二歳の華が、そこまで知能を上げることは不可能だ。知能の成長期は、すでに過ぎている。せいぜい、日常生活は問題なくできる、という程度までしか上げられない。
華が回答した問題の数と正解率を算出した。テストの結果から出した彼女の知能は、IQにして、おおむね八十ほど。
ボーダーと呼ばれる知能指数は、概ね八十五以下。今の華が該当する。
華は、先天的には賢い部類だ。しかし、環境により、知能の成長が妨げられた。それならば、知能が成長できなかったぶん、別の能力が特出しているかも知れない。現時点で分かっている華の特出した能力は、一度見た人の顔を忘れないというもの。
その他に、秀でた能力はないか。
午後以降は、そこを探っていくか。
テスト用紙を机の上に戻し、秀人は部屋を出た。
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