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第二章 金井秀人と四谷華
第十三話 思惑通りで何か違う
しおりを挟む華と暮らし始めて、一ヶ月ほど経った。
彼女は料理ができない。掃除や洗濯はできるようになったが、包丁がまるで使えない。ナイフで材料の切り分けはできるが、調理作業自体も不得手だった。
食事の用意は、毎回、秀人が行っている。
どんなに簡単な料理でも、どんなに凝った料理でも、華は旨そうに食べていた。
「秀人のご飯、美味しいね。凄いね」
食事のたびに、華はそう繰り返していた。
華が特にお気に入りだったのは、鶏肉と人参のホイル焼きだった。粒マスタードと醤油を加えて焼く料理。食べたとき、粒マスタードの酸味と醤油の香ばしさが口の中に広がる。味が刺激となって、唾液を大量に分泌させる。繊維質な鶏肉が口の中で解けて、味を不均等に、多方向に散らせる。人参の甘みが、さらに味を引き立てる。
今日の夕食は、華のリクエストに応えた。彼女の一番好きな料理を作った。
「華ね、秀人の料理の中で、これが一番好き」
口の端に醤油をつけたままで、華は幸せそうに微笑んだ。
鶏肉と人参のホイル焼き。
秀人は昔、この料理を、母や姉と一緒に作ったことがある。といっても、当時の秀人は幼く、刃物を使わせてもらえなかった。姉に手伝ってもらいながら、人参を洗い、米をとぎ、鶏肉の筋を取った。まだ背の低かった秀人は、台所に椅子を置き、その上に乗って作業をした。
両親や姉が写った写真は、もうこの世にはない。秀人の家族が惨殺された後、自宅が放火され、全て消失した。
それでも、秀人の優れた頭脳は、家族の顔をはっきりと記憶していた。いつでも思い出せた。一緒に料理をした母や姉の姿を、鮮明に思い出せる。エプロンをして手伝いをする秀人を、誉めてくれた家族。
父が帰ってきて、夕食を囲んだ。
『僕も、作るの手伝ったんだよ』
誇らしげに秀人が言うと、父は頭を撫でてくれた。
温かく、優しく、幸せな思い出。
温かく、優しく、幸せだったからこそ、悲しい思い出。
笑顔で食べる華を見て、秀人は、昔の自分を思い出した。自分も、両親や姉の前で、こんな顔をしていたのだろうか。こんなふうに、楽しそうに食事をしていたのだろうか。
両親や姉の顔は思い出せる。でも、幼い自分がどんな顔をしていたのかなんて、分かるはずがない。
あのときの秀人を見ていた人達は、もうこの世にはいない。
「華は本当に、旨そうに食べるね」
「だって、美味しいもん」
素直に言う華に、秀人は、無意識のうちに手を伸ばした。彼女の頭を撫でた。かつて父が、秀人にそうしたように。
華は撫でられるのが好きな甘ったれだ。撫でられると、いつも、くすぐったそうに微笑む。人に甘える猫のように。
しかし、今回は違った。ポカンと口を開けたまま、ボーッと秀人を見つめてきた。一ヶ月間彼女と暮らして、初めて見る顔だった。
華の顔を見て、秀人は、無意識に撫でた自分に気付いた。甘えてくる猫にするように、自然に撫でてしまった。
自分の行動に少しだけ驚いて、秀人は、華の頭から手を離した。
「美味しいって言ってくれると、嬉しいね。ありがとう」
言い訳のように、礼を言った。
ボーッとしていた華も笑顔に戻った。
「だって、本当に美味しいんだもん」
笑顔だが、華は少し戸惑っているようにも見えた。
食事を終えて、後片付けをして、一緒に風呂に入った。一緒に暮らし始めてからの日課。互いの体を、互いに洗い合う。二人で湯船に入る。
湯船の中で、華が甘えてくる。
「秀人、ギューッってして」
「はい。ギューッ」
効果音を口にしながら、華を抱き締めた。恋人がいながら、他の男の前でも裸になれる。他の男と肌を合わせられる。狂った恋愛観と、貞操観念。
華には、これから、当たり前の恋愛についても教えていこう。恋愛観や貞操観念を学ぶことで、テンマの本心を理解できるようになるはずだ。
風呂から出て、体を拭いて、髪の毛を乾かした。歯を磨いて、二階の寝室に行った。
ひとつのベッドに、二人で入る。
明りを消した。
「おやすみ、秀人」
「うん。おやすみ、華」
目を閉じる。
少しだけ微睡んできたところで、華が声を掛けてきた。
「秀人、もう寝た?」
華の声で目が覚めた。
「いや。まだ起きてるよ」
布の擦れる音。華が体の向きを変え、秀人の方を向いた。
「ねえ、秀人」
「何?」
「秀人は、華とエッチしないの?」
華と出会ったばかりの頃、同じ質問をされた。同じ質問だが、声色が違った。以前は、単なる疑問口調だった。今は、どこか寂しそうだった。
「ゴムしないでエッチすると、病気になるかも知れないんでしょ? 華、まだ病気かも知れないけど。でも、ゴムすれば大丈夫なんでしょ? それでも、エッチしないの?」
「しないよ」
秀人は即答した。
「華は、セックスが好きじゃないんだろ? でも、以前は、お金が必要だから我慢してたんだろ?」
「……うん」
華の返答は、どこか弱々しかった。
「だったらしないよ。華にお金を稼がせるために、今は色んなことをしてもらってる。その中には、華にとってあまり楽しくないこともあると思う。でも、してもらう必要があることに、セックスは含まれてないんだ。だったら、する必要はないだろ」
「そう……だね……」
切なそうな、華の返答。
当然ながら、秀人は、華の気持ちの変化に気付いていた。華の好意は、確実に、秀人に傾いている。確実に、テンマから離れてきている。
思惑通りだ。
思惑通りだが、何か変だ。
少し前まで微睡んでいたのに、秀人の目は、すっかり冴えてしまった。たぶん、しばらくは眠れない。
「華」
「何?」
「ギュッってする?」
布団の中で、秀人は少しだけ手を広げた。
「うん」
間髪入れず、華が抱きついてきた。風呂場のときと同じように、抱き締め合う。
密着した体。華の髪の毛から、シャンプーの匂いがする。
秀人は優しく、華の頭を撫でた。
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