87 / 176
第二章 金井秀人と四谷華
第十四話② 嬉しいことと甘い生活(後編)
しおりを挟む靴を放るように脱ぎ捨てて、亜紀斗は家に上がった。すぐに、麻衣を抱き締めた。
「ああ。俺の彼女が今日も可愛い」
「ありがと。でもね、亜紀斗君」
「何?」
「仕事が終わったときに、連絡欲しかったな。だいたいの目安でご飯作り始めたけど、いつ帰って来るか分からないと、用意するタイミングが難しいんだから」
「うん。ごめん」
「反省してる?」
「してる」
「そう。で、亜紀斗君」
「何?」
「なんでそんなにご機嫌なの? 事件があったんでしょ?」
「そう! それ!」
麻衣から離れて、亜紀斗は、つい大きな声を出してしまった。
「麻衣ちゃん、聞いてくれよ!」
話し始めようとした亜紀斗の口に、麻衣は手を当ててきた。
「まず、ご飯食べよう? もうできてるし。食べながら聞かせて」
「わかった」
「じゃあ、手を洗ってきて」
「おっけー」
自覚できるほど甘ったれた声で応えて、亜紀斗は洗面所に向った。手を洗い、うがいをし、リビングに戻った。
座卓テーブルの上には、すでに夕食が並んでいた。
麻衣と一緒に食卓について、夕食を食べる。
亜紀斗はすぐに、今回の事件のことを話した。死人が出なかったこと。咲花が、犯人を殺さなかったこと。
かつて咲花は、凶悪事件の現場に駆けつけるたびに犯人を殺していた。明かに、意図的に殺していた。
亜紀斗は、咲花の事情を知っている。彼女の姉が、凶悪な事件の被害者であること。被害者遺族である咲花が、遺族の心情に寄り添うために犯人を殺していたこと。
もちろん、咲花の詳しい事情は、麻衣には話していない。いくら大好きな恋人でも、他人のプライバシーを詳しく話していいわけがない。
咲花が犯人を大勢殺していることは、それなりに知られている。警察行政職員である麻衣も、そのことは知っているだろう。彼女の仕事の一つに、犯罪統計資料の作成がある。事件の内容を認識できる立場にいる。
咲花の犯人殺しは、表向きは不可抗力とされている。犯人が激しく抵抗したため、やむなく殺害した。数多くの弾丸を一度に発射したため、手元が狂った。もっともらしい理由が並べられ、彼女には何のペナルティもなかった。
だが、表向きの情報を鵜呑みにしている人間は、それほど多くないはずだ。
麻衣も、間違いなく、表向きの理由を信じていない。咲花の事情を知らないにしても。
「笹島はさ、俺のことが嫌いなんだ。でも、先生のやってきたことに、少しは納得してくれたかも知れないんだ」
亜紀斗が尊敬し、目標にしている先生。
そんな先生に、咲花が、少しは賛同してくれたのかも知れない。咲花のような凄い人が。亜紀斗を嫌っている咲花が。
夕食を食べ終えた。食卓についたまま、麻衣は、嬉しそうに話す亜紀斗をじっと見つめていた。
「亜紀斗君、凄く嬉しそう」
「ああ。すげー嬉しい」
「そうだよね。笹島さんと亜紀斗君の仲の悪さは有名だけど、なんか、こう……好敵手? みたいな感じだもんね」
「そうなの?」
「うん。そんな感じ」
頷くと、麻衣は水を一口飲んだ。
「でも、ね。亜紀斗君」
「何だ?」
「ちょっと、面白くないかなぁ」
「えっと……え?」
わけが分からないと、亜紀斗は首を傾げた。
「だってね、自分の好きな人が、ずっと他の女性の話をしてるんだよ? 凄く嬉しそうに、ずーっと」
麻衣は、ことさら「ずっと」を強調した。
「恋愛感情なんてないのは分かるよ。だって、亜紀斗君と笹島さん、仲悪いし。でも、自分の彼氏が、ずーっと他の女性の話をしてて、しかも、その女性が、すっごい美人ってなったら、ね」
ようやく理解して、亜紀斗は「あ」と声を漏らした。
「もしかして麻衣ちゃん、ヤキモチ」
「うん。ヤキモチ」
麻衣の返答を聞いて、亜紀斗の心がじんわりと温かくなった。でも、少し冷たくもなった。くすぐったいような、照れ臭いような、それでいて申し訳ないような。麻衣に好かれているという、嬉しい温かさ。同時に、好きな人を怒らせたかも知れないという、焦りの冷たさ。
亜紀斗は、麻衣の隣りに移動した。すぐに彼女を抱き締めた。
「麻衣ちゃん、ごめん」
本心からの謝罪。
「反省した?」
「うん。ごめん」
「じゃあ、いいよ。まあ、私も、亜紀斗君が私以外を見てるなんて、思ってないしね」
少しだけ悪戯っぽい、麻衣の声。
「でも、分かってても、少し嫉妬したのは本当」
亜紀斗の心から、冷たさが消えた。温かさだけが残った。
「麻衣ちゃんって、すげー可愛いよな」
亜紀斗の耳元で、麻衣の、クスリという笑い声が聞こえた。
「もしかして、ご機嫌取ってますかー?」
「ご機嫌取りじゃなく、本当に可愛い。もう、可愛過ぎてどうしよう」
「可愛いだけ?」
亜紀斗は鈍い。自覚もしている。けれど、この展開で、麻衣が求めている言葉に気付かないほど馬鹿ではない。
「可愛いだけじゃなく、すげー好き」
「本当に?」
「本当。それに、本当は、付き合い始める前から麻衣ちゃんのこと好きだったし」
「うん」
麻衣も、亜紀斗の背中に腕を回してきた。互いに抱き合う。
夕食直後。一日の終わりで、今日は金曜日。麻衣は明日休み。亜紀斗は、明日は非番。今は夜で、時間はたっぷりある。
抱き合っていると、麻衣が「ん?」と声を漏らした。
「亜紀斗君。好きなのは、下心からじゃないよね?」
からかうような、麻衣の言葉。
「なんか、亜紀斗君の下心に突かれてるんだけど」
亜紀斗ももちろん、それを自覚していた。
「下心だけじゃないけど、下心もあるっていうか。上の心も下の心も、麻衣ちゃんが好きというか」
「ムラムラしてるっていうか?」
「もう、滅茶苦茶ムラムラしてるというか」
また、麻衣がクスリと笑った。チュッと音を立てて、亜紀斗の頬にキスをしてきた。
我慢できず、亜紀斗は麻衣を抱き上げた。そのまま、彼女を寝室に連れ込んだ。シャワーなんて浴びていられない。
ベッドに、二人して倒れ込む。
手を絡めて、キスをした。深い、深いキス。
亜紀斗は、元婚約者のことを忘れたわけではない。守れなかった、大好きな女性。自分のせいで死なせてしまった、大好きだった女性。
罪悪感は、今もある。苦しさも悲しさも、消えることはない。薄れることはあっても。
でも、そんな気持ちと付き合い続けながら、麻衣を大切にしたかった。
自分のせいで、婚約者を死なせてしまったなら。婚約者を守れなかったことを、後悔するくらいなら。
悲しみや苦しみから救い出してくれた麻衣を、どんなことがあっても守り抜きたい。どんなことがあっても、彼女と幸せになりたい。
幸せにする、なんて傲慢なことは言えない。幸せは本人が感じることで、自分以外の心をコントロールなんてできない。
だから。
せめて。
麻衣と幸せになれるように、精一杯生きていたい。
以前のように、人との繋がりを避けたりしないで。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
天才天然天使様こと『三天美女』の汐崎真凜に勝手に婚姻届を出され、いつの間にか天使の旦那になったのだが...。【動画投稿】
田中又雄
恋愛
18の誕生日を迎えたその翌日のこと。
俺は分籍届を出すべく役所に来ていた...のだが。
「えっと...結論から申し上げますと...こちらの手続きは不要ですね」「...え?どういうことですか?」「昨日、婚姻届を出されているので親御様とは別の戸籍が作られていますので...」「...はい?」
そうやら俺は知らないうちに結婚していたようだった。
「あの...相手の人の名前は?」
「...汐崎真凛様...という方ですね」
その名前には心当たりがあった。
天才的な頭脳、マイペースで天然な性格、天使のような見た目から『三天美女』なんて呼ばれているうちの高校のアイドル的存在。
こうして俺は天使との-1日婚がスタートしたのだった。
中1でEカップって巨乳だから熱く甘く生きたいと思う真理(マリー)と小説家を目指す男子、光(みつ)のラブな日常物語
jun( ̄▽ ̄)ノ
大衆娯楽
中1でバスト92cmのブラはEカップというマリーと小説家を目指す男子、光の日常ラブ
★作品はマリーの語り、一人称で進行します。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる