罪と罰の天秤

一布

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第二章 金井秀人と四谷華

第十六話 ただの無駄死に

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 今日は特に大きな事件もなく、パトロールと訓練で仕事を終えた。

 午後六時を少し過ぎて、咲花は、定時で職場を出た。

 エレベーターに乗り、一階に降りて、道警本部を後にする。

 ごくたまに、捜査一課の川井が、咲花を待っていることがある。家まで送る、と言って。咲花の元婚約者。未だに――咲花が何人犯人を殺しても、一緒にいてくれようとする人。

 最近の咲花は、以前と考え方が変わってきている。きっかけは、亜紀斗だった。咲花とまったく気が合わず、顔を合せれば争い、実戦訓練では殺し合いのような戦いをする男。

 亜紀斗も、二年ほど前から少し変わってきた。咲花と激しく言い争った、地下遊歩道の事件くらいから。

 亜紀斗がどう変わってきているのか、上手く言葉にはできない。ただ、咲花の目から見て、彼は前向きになったように感じる。

 もっとも、前向きになりながらも、亜紀斗の本質と信念は変わっていなかった。殺し合いのような実践訓練をするほど凶暴で、殺意を前面に出してくるほど暴力的なくせに、甘い信念を掲げている。忙しい合間を縫って、自分と関わった犯罪者にコンタクトを取っている。罪に対する償いを、説き聞かせている。

 そして、咲花と同じように、自分の身を削るような努力を重ねている。

 本質と信念が、滑稽なほどアンバランスな亜紀斗。

 どうして亜紀斗は、あれほどまでにアンバランスなものを抱えているのか。どうして、あれほどアンバランスなものを、揺るぎなく抱え続けられるのか。

 疑問に答えてくれたのは、藤山だった。亜紀斗の過去を教えてくれた。彼を変えた、少年課の刑事との出会い。人生の恩師と呼べる、尊敬する人。そんな人を、突然失った。

 以前の亜紀斗は、咲花と同じだったのだ。大切な人を失い、自分の幸せを捨てた。自分の幸せを捨てて、信念を貫くためだけに生きていた。亡くした大切な人に、報いるために。

 だとすれば、亜紀斗が変わった――前向きになった理由も、概ね想像がついた。

 大切な人ができたのだ。どんなことがあっても守りたいと思えるほど、大切な人。おそらくそれが、地下遊歩道事件の時期なのだろう。

 一年ほど前から、亜紀斗はさらに変わった。より前向きで、未来に希望を感じているようだった。丁度その頃に、彼と警察行政職員の女性が付き合っているという話を聞いた。職場でも人気の女性。彼女に恋人ができたと聞いて落ち込んだ男性職員は、本部の中に大勢いたという。

 亜紀斗は変わった。変わったが、変わらない。以前と同じように、罪には償いという信念を貫いている。反面、犯罪者に対して厳しく接するようにもなった気がする。

 亜紀斗の過去と、今の彼を知って。

 自分も、もう少し違った生き方ができるのでは――と思い始めた。

 様子見。ものは試し。そんな気分で、咲花は、犯人を殺すことをめてみた。罪に対して償いをさせる、なんて信念は抱けない。そんなもの、遺族や被害者は納得できないだろう。けれど、殺すのではなく、別の方法の罰があるのでないか。遺族や被害者が納得できるような。それが何かは分からないが。

 考えが変わってきたとき、咲花の中で、川井に対する気持ちも変わってきた。一方的に婚約破棄を告げ、別れ、それからは無碍な対応をしてきた。別れた後も何度かセックスはしたが、「よりを戻すことはない」と彼に吐き捨てた。

 でも、少しくらいは考えてもいいかもしれない。彼と一緒になったうえで、姉に報いる方法があるのかも知れない。

 職場から数分歩いて、地下鉄に乗り、自宅に向う。市街地から離れた場所。地下鉄駅の終点。

 地下鉄から降りて十分ほど歩くと、自宅のアパートがある。一Kのアパート。川井と婚約していた頃から、ずっと住んでいる。

 婚約していた当時、本当は引っ越す予定だった。引っ越して、彼と一緒に暮らすつもりだった。実際に、一度、不動産屋に賃貸解約の申し出をしていた。だが、直前になって、解約をキャンセルした。姉の事件の真相を知ったから。川井と別れ、独りで、幸せを捨てて生きる決意をしたから。

 目に映る凶悪犯を、殺し続ける決意をしたから。

 自宅に着いた。アパートの一階。鍵を開けて、咲花は玄関に入った。

 玄関の廊下に、キッチンとトイレ、風呂場がある。廊下にあるドアを開けると、十畳間。

 家の中は殺風景だ。窓際のベッド。壁際のテレビ。数十冊の本が、部屋の隅で、床の上に山積みになっている。クローゼットの中には私服が何着かあるが、まったく生活感のない家。

 川井と別れてから、この家に誰かを招いたことはない。何かを楽しむこともない。壁際に積まれているのは、犯罪学やトレーニング学の本。テレビでは、ニュース以外見ない。

 川井と付き合っていたときには、この家に、もっと色んな物があった。彼と一緒に遊んだゲーム機。トランプ。一緒に動画を見たタブレット。彼から貰ったアクセサリー。少しお洒落な服。髪の毛をセットするヘアアイロン。おめかしをする化粧品。

 楽しむためのものは、全て処分した。楽しかった思い出も、全て捨てた。頬を染める気持ちとともに。幸せな笑顔とともに。好きな人と生きる、未来とともに。

 でも、と思う。今からでも、と思う。

 亜紀斗のように、前向きに生きてみてもいいかも知れない。

 姉を失った悲しみや苦しみは、今も胸に残っている。幸せになることへの罪悪感も、変わらずに存在する。姉に対する心残りは、決して消えることはないだろう。

 ただ、重い気持ちを抱えたままでも、今とは違う生き方ができるかも知れない。

 亜紀斗のように、すさんだ自分を変えられる人間がいるのだから。

 咲花は、床に転がっているテレビのリモコンを拾った。

 たまには、ニュース以外の番組も見てみようか。どんな番組があるのか、さっぱり分からないけれど。

 テレビを点けた。ニュースが放送されていた。凶悪な事件のニュース。

 事件の第一審の判決が、今日、出たのだという。罪状は、監禁、暴行、恐喝。知人の男性を自宅に監禁し、因縁をつけて暴行を加え、「落とし前をつけろ」と恐喝した。

 さらに犯人の男は、自分の前科を被害者の男性に教え、脅しの道具に使った。

『人を殺して刑務所に入っても、看守を騙すのなんて簡単だ。裁判で反省する素振りを見せて、減刑を嘆願することだってできる。お前一人殺しても、数年もすればシャバに戻れるんだ』

 犯人の男は、かつて殺人犯だった。未成年の頃に、仲間と共に人を殺した。

 仲間四人で、仕事帰りの若い女性を連れ去った。自宅で監禁した。強姦し、暴行を加え、あらゆる方法で辱めた。逃げようとした被害者の女性に的外れな怒りを抱き、凄惨なリンチを加えた。女性が「もう殺して」と懇願するほどの苦痛を与え、嘲笑った。

 被害者の人生最後の一ヶ月は、地獄以外の何物でもなかった。

 今テレビに表示されている、犯人の名前。神坂かんざかよう

 咲花は、この名前を知っている。犯人の名前は――苗字は、かつて見た捜査資料とは別のものになっていた。出所前に養子縁組をし、名前を変えたのだ。

 捜査資料に載っていた名前は、大倉おおくら洋。

 かつて、咲花の姉を殺した犯人の一人。準主犯格。

 ニュースを見て、咲花の体がガタガタと震えた。手にしたテレビのリモコンが、ゴトリと床に落ちた。

 体を震わせている感情は、単純な怒りだけではなかった。どうしようもない虚しさ。堪えようもない悲しさ。吐き気がするほどの気持ち悪さ。胸を焼くほどの悔しさ。

 姉の死は、加害者に何の変化も与えなかった。何の教訓ももたらさなかった。姉の死によって変わったものは、何もなかった。

 ――お姉ちゃんは、ただの無駄死にだった!!

 ただ、獣にも劣る下劣な怪物を、数年だけ檻に閉じ込めただけだった。

 何も変わらない現実。何も変わらない世の中。次から次へと湧き出てくる、鬼畜にも劣る犯罪者。

 変えなければならない。姉の死を無駄にしないために。姉に報いるために。

 咲花は思い出した。自分が何をすべきかを。

 復讐には走らない。復讐は、自分の怒りや悲しみを晴らす手段に過ぎない。復讐なんかで自分の手を血に染めても、姉に報いることにはならない。

 報いるためには、変えなければならない。

 こんな鬼畜が、二度と現れないように。

 鬼畜に傷付けられた人達に、寄り添うために。

 咲花の意識が、細く鋭くなってゆく。ひとつの目的に向って。細く鋭くなった意思は、目的の中心を刺し貫いた。的を貫くダーツのように。

 つい先ほどまで、亜紀斗の信念を一部は認めていた。彼の過去を、藤山に聞かされて。彼ほどの凶暴性と暴力性を持つ者でも、その本質をコントロールし、生真面目に生きている。それなら、もしかしたら――と。

 そんな自分に、唾を吐きかけたかった。

 四年前に、姉の死の真相を知った。知ると同時に、決意した。

 咲花の心の中は、四年前と同じ決意に満ちていた。四年前と同じ決意を、四年前よりも強く。

 殺してやる。駆逐してやる。

 鬼畜共を、殺してやるんだ。
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