罪と罰の天秤

一布

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第二章 金井秀人と四谷華

第十五話② 優しい失敗(後編)

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 リビングで、五匹の猫が身構えている。異質なものを警戒するように。

 キッチンにある電子レンジは、扉が開かれていた。焦げ臭さは、電子レンジの中から出ていた。

 扉が開かれた電子レンジの前で、華が、すすり泣いている。

 彼女と自分以外に、人の気配はない。

 秀人はクロマチンを解いた。キッチンにいる華に近付く。

「ただいま、華。何があったんだ?」

 泣いている華は、ハッとして秀人に顔を向けた。目を擦っていた彼女の手は、何かでベタベタになっている。

 華の足元を見ると、燃えた跡のあるアルミホイルが落ちていた。焼けて一部がなくなった、アルミホイル。その隙間から、赤い物が顔を出している。人参と鶏肉だと気付いた。

 華は泣きながら、足元に落ちたアルミホイルを拾った。両手で持ったそれは、明かに、彼女の好きな料理の失敗作だった。

 アルミホイルを持ちながら、華は「うっ、うっ」と嗚咽を漏らした。しばらくすると、大声で泣き出した。

「ごめんなさい! ごめんなさい!」

 謝りながら、わんわんと泣く。

 秀人は華に近付き、彼女の頭を撫でた。

「ほらほら、華。泣いてるだけじゃ分からないよ。何があったんだ?」
「あのね、秀人。華ね、華ね……」

 言葉の合間合間に、華は泣き声を挟んだ。

 彼女の頭を撫でながら、秀人は、辛抱強く次の言葉を待った。もっとも、この状況から、何があったのか概ね想像はつくが。

「あのね、華ね、秀人に美味しいもの作りたかったの」

 やっぱり。秀人は胸中で呟いた。

 途切れ途切れに、華は話し続ける。

 華は、秀人から貰った小遣いを、ほとんど手をつけずに貯めていた。貯めた小遣いで食材を買い、秀人に料理を作ってあげたかった。いつも美味しい料理を作ってくれて、優しくしてくれて、色んなことを教えてくれる秀人。そんな秀人に、お礼と感謝を伝えたかったそうだ。

「でもね、華ね、上手く火を使えないから、レンジで、鶏肉を温めようと思ったの。早くできないかなってレンジの中を見たらね、アルミが燃えてたの」

 燃えてたの、と言った途端に、華はまた大声で泣き出した。わあああああ、と声を上げている。

 アルミホイルを電子レンジで温めると、発火する。割と知られていることだが、華には分からなかったのだろう。

「ごめんなさい、秀人」

 泣きながら、華はまた謝り始めた。

「レンジ、華のせいで壊れちゃった。ごめんなさい」

 嗚咽の中で、必死に謝罪の言葉を繰り返している。止まることなく流れ続ける涙。ズルズルと、何度も鼻をすすっている。

「ごめんなさい。華、馬鹿でごめんなさい」

 馬鹿。華が一番嫌いな言葉。人に言われて、一番傷付く言葉。

 秀人が華と出会った日。つい、華に馬鹿と言ってしまった。次の瞬間、彼女は大泣きした。

 嫌いなはずの言葉を、今、華自身が口にしている。自分を責めて泣いている。

 無意識のうちに、秀人は、華の背中に手を回した。彼女を抱き締めた。

 華が手にした、アルミホイルに包まれた鶏肉と人参。ベチャッと音を立てて、床に落ちた。

 華を抱き締めながら、秀人は、彼女の頭を撫でた。

「謝らなくていいよ。華は悪くない」
「でも……でもぉ……」
「俺のために頑張ったんだろ? ありがとう。いい子だね、華は」

 失敗して、電子レンジを壊して、家の中を汚した。それでも、秀人は華に礼を言った。優しく抱き締めた。

 秀人の言動が、華の罪悪感を刺激したのか。彼女は秀人の腕の中で、また声を上げて泣いた。顔が、涙と鼻水でグシャグシャになっている。涙が秀人の服に染み込んで、少し生温かい。

 秀人は、白猫のミルクを保護したときのことを思い出した。深夜の公園で、木に縄で繋がれて虐待を受けていた。ナイフで体を切り刻まれて、白い毛は真っ赤に染まっていた。

 ミルクを虐待していたのは、中学生くらいの子供だった。

 秀人は迷わず、子供を殺した。破裂型の弾丸で、全身をミンチになるほど吹っ飛ばした。最初は右腕。次に左腕。四肢を吹き飛ばし、正気を失うほどの恐怖と絶望の中で殺した。

 深夜の公園に、大量の血と原型をとどめない肉片が残った。

 ズタズタに切り刻まれたミルクを縄から解き、自宅に連れ帰った。

 明るいところで見たミルクの傷は、致命傷になるほど深くはなかった。しかし、神経を傷付ける程度には深かった。

 秀人の頭の中には、獣医学の知識も詰め込まれている。この国を沈没させるときに、罪のない動物はできるだけ助けたい。そんな気持ちから身に付けた知識だった。

 切り刻まれた体を、できるだけ早く縫合した。ミルクはまだ仔猫だった。成猫ほどの体力はない。大量の出血は、脳に障害を残す可能性がある。治療が遅くなれば、神経を切られた体だけではなく、脳にまで影響が出る。

 幸い、ミルクは、一週間ほどで餌を食べられるようになった。神経がやられて上手く動かない体を、必死に動かしていた。懸命に生きようとしていた。

 完治すると、ミルクは、異常なほど秀人に甘えるようになった。少し離れると慌てて秀人を追い、爪を立てて抱きつくようになった。縛られ、切り刻まれ、想像を絶する恐怖と痛みを味わった。だから、恐かったのだろう。守ってくれる人から、少しでも離れることが恐い。

 幸いなことに、ミルクは、他の猫にもすぐに慣れた。ときに鼻を付け合って挨拶をし、互いに体を舐め合うようになった。ここが安住の地だと気付いて、ようやく、秀人が離れても慌てなくなった。

 今の華が、あのときのミルクと重なった。

 爪を立て、必死に秀人に抱きついていたミルク。

 泣きながら謝罪を繰り返し、秀人に縋る華。

 彼女は、自分自身が一番嫌う言葉で、自分を責めている。自分を責めて、秀人に許しを乞いている。秀人は怒ってなんていないのに。

 華と一緒に暮らし始めて、約二ヶ月。確実に、華の気持ちは変わってきている。テンマよりも、秀人に気持ちが傾いてきている。

 思惑通りに動いている、華の心情。

 思惑通りなのに、秀人は笑えなかった。ただ、泣きながら謝る馬鹿な子を、慰めたかった。笑顔にしたかった。

「華はいい子だよ。俺のために頑張ってくれて、嬉しいよ」

 馬鹿じゃないよ、なんて言わない。心にもない言葉は、口にしない。ただ優しく、華の頭を撫でた。柔らかい口調で、彼女に感謝を伝えた。

 点きっぱなしのテレビで、ニュースが放送されていた。かすかに秀人の耳に届く、アナウンサーの声。監禁と暴行の罪で逮捕された男のことを話している。その事件の、第一審判決のニュース。

 犯人の名は、神坂かんざかよう。三十六歳。知人の男性を監禁し、暴行した罪に問われている。

 神坂という姓は、彼の生家の苗字ではない。十数年前に養子縁組し、神坂となった。

 もともとの苗字は、大倉おおくら。大倉洋。

 十九年前に発生した、美人女性監禁虐殺事件。その犯人の一人。

 準主犯格だった男。
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