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第二章 金井秀人と四谷華
第二十五話 好きなんだ
しおりを挟む四ヶ月ぶりの、テンマとの再開。
彼の姿を見て、華は呆然としてしまった。
テンマが駆け寄ってきて、微笑んできて。
「久し振りだな、華」
テンマの手が、頬に触れてきて。
そこでようやく、華は我に返った。
「うん。久し振りだね、テンマ」
頬に触れたテンマの手が、温かい。でも、彼に触れられて抱く感情は、以前とは違っていた。体温が伝わってくるだけ。触れられた感触があるだけ。
「元気だったか?」
「うん」
「最近、どうなんだ? 頑張って仕事してるのか?」
「うん。華ね、頑張ってるよ」
頑張って勉強している。頑張って運動している。頑張って料理もしている。以前とは違い、仕事でセックスはしていない。
「そうか。華が頑張ってるお陰で、俺も助かってるよ。華が働いた金が、毎月振り込まれてるし」
「そうなんだ。よかった」
「お礼っていったら変だけどさ、少し食事でもしないか? 奢るよ」
少しだけ、華は考え込んだ。これから華は、夕食の買い出しをしなければならない。買い出しをして、家に帰って、料理を作る。一生懸命作って、秀人に食べてもらう。彼に喜んでもらいたいから。
だけど、テンマは自分の恋人だ。久し振りに会えた恋人。それなら、少しくらいは時間を割くべきだ。だって、恋人なんだから。
「うん、いいよ」
華が頷くと、テンマが手を握ってきた。そのまま、二人で並んで歩いた。
少しの時間の、ちょっとしたデート。好きな人と過ごす、二人きりの時間。本来なら、自ら望んでこの時間を求めたはずだ。
嬉しい時間のはずだ。
それなのに、なぜか、華の心は喜んでいなかった。久し振りに、好きな人に会えたのに。久し振りに、テンマと二人で過ごせるのに。
華の頭の中は、今夜のことでいっぱいだった。秀人に喜んで欲しい。秀人に「ありがとう」と言われたい。秀人に、感謝を伝えたい。
秀人のために使う時間を割いて、テンマの誘いを受けた。断るのも悪い気がしたから。
恋人なのに断るなんて、なんだか申し訳ない。
テンマと一緒に、地下二階にあるフードコートに来た。色んな飲食店の店舗が並んでいる。
二人とも、ファーストフード店のセットメニューを注文した。ハンバーガーにポテト。シェイク。渡された商品を持って、空いているテーブル席に座った。
向かい合って座り、食べながら、会話を交わす。ほとんどテンマが話していた。華がいなくて寂しい。それでも華が頑張っているんだから、自分も頑張っている。そんなことを話している気がするが、華は上の空だった。
話しているテンマを、じっと見る。以前は、彼の姿が目に映るだけで幸せだった。一緒のベッドに入ると、彼の体温で心まで温かくなった。彼が口にする「好き」の言葉だけで、どんなに大変なことでも頑張れる気がした。セックスが好きでなくても、誰とでも何度でもできた。
テンマとセックスをしたのは、もうずいぶん前だ。華がソープランドで働き始める前。ソープランドで働き、路上で売春をするようになってからは、テンマとは一切していない。
『色んな奴とセックスして、疲れてるだろ。だから俺はいいよ』
そう言って、テンマは華とセックスをしなくなった。
華はテンマが好きだった。とはいえ、彼が相手でも、やっぱりセックスは好きになれなかった。肌と肌を合わせるだけなら心地好いが、セックスは気持ちよくない。たとえテンマが相手でも。だから、テンマにセックスを求められなくて、正直なところホッとしていた。
だけど。
テンマが相手でも、したくないのに。恋人が相手でも、好きになれないのに。
秀人となら、してみたかった。してほしいと思えた。
「なあ、華」
呼ばれて、華の思考は中断した。
テンマが、じっと華を見つめている。
「どうしたの? テンマ」
シェイクのストローを口にして、華は首を傾げた。考え事をしていたせいか、食べ物には手をつけていなかった。
「たぶん、もう少しだよな? 華が帰って来てくれるの」
「……うん。そうだね」
テンマのところに帰る。つまり、秀人との生活が終わる。
急に、華の胸が痛くなった。ギュッと締め付けられる痛み。好きな人のところに帰る話をしたのに。
「俺、楽しみにしてるから。華が帰って来るの」
華は、胸の痛みのせいで、テンマの動きに気付かなかった。華の手に、テンマの手が伸びてきた。彼の言葉を裏付けるように、その手が、華の手に添えられた。
テンマの手が、自分の手に触れて。彼の体温を感じた瞬間に。
反射的に、華は手を引いてしまった。
反射的に、拒絶してしまった。
――あ。
口の中で声を漏らして。テンマを拒絶した自分に、驚きながら。
ようやく、華は気付いた。自覚した。
自分は、秀人が好きなんだ。秀人が好きで、離れたくないんだ。ずっと一緒にいたいんだ。
テンマのことが嫌いなわけではない。好きか嫌いかで言えば、好きなのだ。でも、その「好き」は、以前までの「好き」とは明らかに違う。
今は、秀人が好き。四ヶ月前までテンマに感じていた「好き」よりも、ずっと大きく、はるかに強く、秀人が好き。
「……どうしたんだよ、華」
華の拒絶に、テンマは驚いた顔をしていた。目を大きく開いて、華を凝視している。彼の瞳の奥に、嫌な気持ちを感じた。
一瞬前にテンマに触れられた手を、華は胸に当てた。
――そっか。そうだよね。
胸中で言い聞かせる。テンマが嫌な気持ちになるのは、当たり前だ。自分の恋人に拒絶されたのだから。
でも、言わなければならない。今の自分の気持ちを。どうしてテンマを拒絶したのかを。正直に伝えて、彼との関係を終わらせなければならない。
「ごめんね、テンマ」
テンマは、路頭に迷っていた自分を助けてくれた。テンマがいなければ、今頃は死んでいたかも知れない。だからこそ、彼には誠実でありたい。
「華ね、テンマの他に好きな人ができたの。だから、テンマとはお別れしたい」
テンマの表情が変った。見開いていた目を、細めた。顔を伏せ、しばらく黙り込んだ。再び顔を上げて、華に微笑みかけてきた。
「そっか。華はもう、俺のことが好きじゃないのか」
「テンマのこと、嫌いじゃないの。感謝もしてるの。でも、もっと好きな人ができたの」
「……そうなんだ」
気のせいだろうか。テンマの微笑みが、歪んで見えた。どこか悪意を感じる歪み。優しい表情なのに、何か嫌な感じがする。
華は、気のせいだと自分に言い聞かせた。優しいテンマが、悪意など抱くはずがない。彼がそんなふうに見えるのは、きっと、自分に後ろめたい気持ちがあるからだ。
「なあ、華」
「何?」
「ひとつ、お願いがあるんだ」
「お願い?」
「ああ」
頷き、テンマは真剣な顔をした。それでもやはり、どこか禍々しい雰囲気を感じるが。
「華の好きな人に、会わせてほしいんだ。俺の家に呼んで、挨拶したい」
「挨拶?」
「そう、挨拶。俺、やっぱり華が好きだし、大切なんだ。だから、華の好きな人に挨拶したいんだ。華をお願いします、って。大切にしてください、って。だから頼むよ」
真摯で真剣な、テンマの言葉。
華の目から、涙がこぼれた。罪悪感の涙。華にとって、テンマは命の恩人だ。少し前まで、大好きだった人だ。それなのに、裏切ってしまった。別れを告げてしまった。だけど、他に好きな人がいる以上、彼と付き合い続けることはできない。それは、別の意味で彼を裏切ることになる。
「……うん……」
涙を流しながら、華は頷いた。
「ありがとう、テンマ」
心からの感謝を口にした。
「ごめんね、テンマ」
心からの謝罪を、言葉にした。
「いいよ。華が幸せになれるなら。じゃあ、行こうか」
華が頷き、二人は席を立った。
これから、約四ヶ月ぶりに、テンマの家に戻る。
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