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第八話 ただただ、沈んでゆく
しおりを挟む美咲が五味の家を出たのは、午後9時頃だった。
しつこく引き留める五味を上手く丸め込み、彼のマンションから出た。
11月下旬の夜。空気はすっかり冷たくなっている。
外に出た途端に、美咲は、自宅に向かって走り出した。
五味の家から美咲の家までは、決して近くない。徒歩で行き来できない距離ではないが、普通に歩けば一時間近くもかかる。
美咲は、ひたすら走り続けた。地下鉄駅にも、最寄りのバス停にも向かわずに。まるで、何かを振り切ろうとするように走り続けた。
美咲の身体能力は決して低くないが、高くもない。中学の頃から、運動部に所属したこともない。言ってしまえば人並みだ。
そんな美咲が、かなり早いペースで走り続けた。普段なら歩かないような距離を。すぐに息が切れてきた。喉の奥から、ヒューヒューと高い音が漏れている。気温はかなり低いのに、額に汗がにじんでいる。呼吸困難で倒れてしまうのではないか――そんなことさえ思わせる走り方だった。
それでも美咲は、走り続けた。何かを振り切るように。何かから逃げるように。
本人にとっては異常とも言えるペースで走り続ければ、当然、肉体的な限界はすぐに訪れる。美咲の足取りは目に見えて重くなり、どんどん速度が落ちていった。足がフラつき、歩いているのと変わらない速度になった。喉から漏れる音が、かすれてきている。
五味の家から3キロメートルほど離れた辺りで、美咲は足を止めた。正確には、止めたのではなく、動けなくなった。
美咲の家までは、まだ1キロメートル以上ある。街灯に照らされた、暗い夜道。閑静な住宅街。100メートルほど先には、コンビニエンスストアの明りが見えていた。
もう立っていることすら辛くなったのだろう。美咲は、その場に膝をついた。あまりの疲労で、体がガクガクと震えている。呼吸をすることすら辛そうだった。
「うっ……ぅあっ……」
呻き声を漏らした後、美咲はその場で吐いた。五味の家で食べた物を全て吐き出し、吐く物がなくなると、胃液を吐いた。胃液すら出なくなった後も、空吐きしていた。
――そんな美咲の様子を、洋平は見ていた。
いや。見ていた、という表現は正確ではない。洋平には、もう何も見えない。ただ、美咲の様子が分かる。見えなくても。聞こえなくても。彼女がどんな様子で、どんな声を漏らしているのかが分かる。
「……洋平……」
美咲は泣いていた。嘔吐し、苦悶の声を漏らしながら、泣いていた。洋平、と繰り返しながら泣いていた。
こんな美咲を、洋平は初めて見た。どんなときも、ほとんど表情が動かない美咲。
美咲は、今、自分の感情を露わにしている。はっきりと。誰が見てもわかるくらいに。
今の美咲を見て、洋平は、自分の思い違いに気付いた。美咲は確かに、自分のことを好きでいてくれたのだ、と。小さな表情の変化で、自分の気持ちを表していたのだ。
洋平から告白されたとき。洋平と一緒に出かけたとき。洋平から誕生日プレゼントを貰ったとき。美咲は、ほんの少しだけ目尻を下がらせ、口角を上げて喜びを見せていた。嬉しくてたまらない。楽しくてたまらない。幸せでたまらない。彼女の気持ちは、確かに、目に見えていたはずだった。
洋平にしか分からない、美咲の表情の変化。透かし絵で見なければ分からないほど、ほんのわずかな表情の変化。そんな彼女の気持ちを見るのが、洋平は好きだった。不器用に喜びを見せる彼女が、誰よりも好きだった。彼女の変化に気付ける自分は、彼女のことを誰よりも知っているつもりだった。
――それなのに、俺は……。
洋平は、美咲を信じられなかった。彼女が五味に言った言葉を、鵜呑みにしてしまった。彼女が、洋平と別れたがっていたのだと思ってしまった。
――俺は馬鹿だ!
洋平は、ようやく気付いた。どうして美咲が、五味などと付き合ったのか。
美咲は、洋平の失踪に五味が関わっていると、気付いていたのだ。今の彼女の様子から、殺されているとまでは思っていなかっただろう。しかし、原因が五味だということには気付いていた。だから、五味と付き合ったのだ。洋平の行方を探るために。
思い起こせば、確かに違和感はあった。五味の前で見せる美咲の表情は、どこか不自然だった。笑顔も照れた顔も、不安そうな顔も。全て芝居だったのだから、当然だ。
美咲は、洋平の行方を探るために、あんなクズと付き合った。底知れぬ嫌悪感に堪えながら。ただひたすら、洋平のことを想って。
それなのに自分は、美咲を信じられなかった。的外れな苦しみを感じていた。
洋平はもう死んでいる。悲しんでいる美咲を支えることも、慰めることもできない。
――できたとしても、俺には、そんな資格はない。
美咲を信じられなかった、自分には。たとえ体があっても、彼女を支える資格はない。手を伸ばす資格はない。
洋平は、もう消えてしまいたかった。自分には、存在している価値なんてない。存在している意味もない。美咲を信じられず、彼女に何もしてやれない自分には。
人は、死ねば完全な無になると思っていた。こんなふうに意識だけが残るなんて、思ってもいなかった。
意識だけの状態がいつまで続くか、分からない。もしかしたら、ずっと続くのかも知れない。あるいは、突如として意識がなくなるのかも知れない。死んだ経験などないから、想像もつかない。
できれば、もう、完全な無になってしまいたい。こんな自分など、消えてしまえばいい。
洋平は、どこまでも卑屈になっていた。卑屈になりながら、それでも、美咲のことだけを考えていた。
美咲は、洋平を殺した犯人を突き止めた。これでもう、彼女が五味と付き合う理由もなくなった。あとは、五味を警察に通報すれば、全てが終わるだろう。
全てが終わったら、美咲には幸せになって欲しい。
自分のことなど忘れて欲しいと、洋平は願っていた。こんな自分なんて忘れて、美咲のことを心から信じてくれる人を探して欲しい。
美咲を想うが故に、卑屈になっていく心。洋平は、今の自分を心底軽蔑し、嫌悪していた。自分なんか、早く消えてしまえばいい、と。この意識だけではなく、美咲の心からも消えてしまえばいい、と。
底のない沼に沈んでゆくような、洋平の心。自分を卑下する言葉しか思い浮かばない。他に何も考えられない。
何も考えられないから、洋平は気付けなかった。思い浮かびもしなかった。
洋平が殺されたことを知った美咲が、どんな行動に出るのか。誰よりも好きな人を殺された彼女が、どれほどの憎悪を抱くのか。
そこまで思考が行き渡らなかった。
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