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第七話② 絶望を知り、闇に堕ちる(後編)
しおりを挟む「あいつが戻って来ることなんて、ないんだよ」
「?」
意味が分からないという表情を、美咲は浮かべた。それは、美咲にとっては、いつもの無表情だった。
五味の顔が近付いてくる。美咲の顔から、5センチ程度の距離。耳に息がかかる距離。
下劣さしか感じない、五味の視線。表情。声。息遣い。
美咲の耳に、五味の息がかかった。言葉を乗せた息。
「あいつは、死んだんだよ」
「おい! 五味!」
美咲は、五味の言葉の意味が理解できなかった。六田の怒鳴り声が、なぜか遠くに聞こえた。
「あいつが、あんまりお前に執着するからさ。半殺しにしてやろうと思ってな。徹底的にやってやったんだ」
美咲の肩を抱く、生理的嫌悪しかない物体。その物体が、何かを話している。
「ボコボコにしたら、死んだんだ」
「……」
頭の中が真っ白になるという感覚を、美咲は、生まれて初めて知った。自分の周囲全体が、真っ白になって見えた。ただの白い空間。そこに、自分ひとりだけ残されたような感覚。真っ白な光景はどこまでも続いていて、終わりが見えない。
果てしない、白い、白い空間。
それでも、五味の声は聞こえてくる。下衆という言葉が誰よりも似合う、男の声。
「だから、安心しろよ。あいつが帰って来ることなんてないんだ。お前は、安心していればいいんだよ」
洋平が死んだ。
殺された。
美咲は、真っ白い空間の中で、五味の言葉を反芻した。何度も、何度も。
洋平が死んだ。
殺された。
つまり、もう、洋平はどこにもいない。二度と帰ってこない。
もう、二度と会えない。
美咲が見ている、真っ白な空間。その色が変わっていった。少しずつ、色が着いていった。真っ黒な色。黒い滴が、一滴一滴落とされる。ポタリ、ポタリと、染みができてゆく。白い空間は、やがて、視界が塞がれるほど真っ黒に染まった。
視界が、絶望の色に包まれた。
六田と五味が何かを言い合っているが、美咲の耳には届かない。
――嘘だ。
嘘だと思いたかった。洋平が死んだなんて、嘘だ。
美咲は、自分に言い聞かせた。意図してではなく、無意識に。嘘だ、と胸中で繰り返した。反面、それが事実だと気付いている自分もいた。
「なあ、美咲」
不快な声。不快な吐息。不快な感触。鳥肌が立つような刺激を受けて、美咲の視界は現実に戻った。黒い空間が、五味の接近によって振り払われた。
五味は、先ほどよりも美咲に近付いていた。美咲を包んでいた黒い空間を、突き抜けてきたかのように。
「だから、な。お前は安心して、俺と一緒にいればいいんだよ」
五味の目は、下劣な光を放っている。薄汚い欲望に満ちた目。彼が何を考えているのかなんて、言わずとも分かった。
「美咲、今夜は泊まっていけよ」
体が震えそうだった。背筋を起点として、全身に鳥肌が立った。この不快感を、どう表現したらいいのか。例える言葉が見つからない。あまりの気持ち悪さに悲鳴を上げ、五味を殴りそうになった。
それでも美咲は堪えた。頭の片隅に残っていた理性で、必死に演技を続けた。どうして演技を続けたのか、自分でも分からない。ただ、五味の信頼を失ってはいけないと思えた。
――こいつは、私に気を許してる。私に対して、何の警戒心も抱いていない。
だからこそ、洋平を殺したことを簡単に口にしたのだ。
「待って。今日は駄目」
今日は、11月17日。
五味は完全に、美咲に気を許している。けれど、それをさらに盤石なものにするんだ。意図的に張り付けた笑顔の奥で、美咲は、冷たく五味を見ていた。
「なんでだよ?」
五味は不服そうだった。下劣な欲望を満たすことしか頭にない、下衆の顔。
「私ね、経験ないの。あんたが、初めての男なの。せっかくの初めてなんだから、思い出に残るようにしたいの。だから、クリスマスまで待って」
「一ヶ月以上もかよ」
五味は露骨に不機嫌な顔になった。
美咲は、甘えるような上目遣いを五味に向けた。これも、鏡の前で散々練習した顔。
「お願い。大切な思い出にしたいの。記念日になるくらいの。いつしたか覚えてないような思い出じゃなく、ずっと忘れられない思い出にしたいの」
美咲の顔を見て、五味の表情が崩れた。口の端が、いやらしく上がった。
「まあ、お前は俺にとって特別だからな。いいよ。その代わり、クリスマスは寝かせないけどな」
「うん」
照れた表情を作り、美咲は微笑んだ。心と表情の連動が脆弱だからこそ可能な、偽りの仮面。
笑顔の奥底で。美咲の心の中に、先ほど見た光景が残っていた。絶望の色。黒く塗り潰された空間。
夜の闇よりも遥かに深く暗い、黒一色。
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