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第十四話 復讐の始りは、幸せの破棄
しおりを挟むシャワーの音が反響している。
ザアアアアアアアアアアァァァ……という水音。
12月24日。クリスマス・イブ。午後9時半。
美咲は、五味の家でシャワーを浴びていた。
今日は、朝から五味とデートだった。
彼はずいぶんと気合いを入れて、今日の準備をしたようだった。連れ回された店は、どこも高級店ばかりだった。
昼食は、ランチメニューにも関わらず会計が3万円を超えていた。
夕食時に渡されたプレゼントのネックレスは、どう安く見積もっても10万円以上はするものだった。
夕食の会計は、2人で5万円を超えていた。
美咲は、五味の行動ひとつひとつに、大袈裟に喜んで見せた。
本当は、彼の顔に唾でも吐きかけてやりたかった。渡されたネックレスを引き千切ってやりたかった。夕食時のナイフで、肉ではなく彼の顔面を切り刻んでやりたかった。
心の奥底から湧き出る衝動を、必死に抑え込んだ。憎悪は顔に出ることなく、作り笑顔を自然に浮かべられた。練習した作り笑顔。
洋平と過ごしていたときは恨めしかった、感情を表に出せない自分。今は、その特徴のお陰で、憎悪も殺意も隠し通すことができる。
このまま五味とセックスをし、彼を満足させる。彼が眠りにつけば、簡単に殺せる。
持ち歩いている鞄には、購入したサバイバルナイフが入っている。鞄の中を覗き込まれたときの対策として、二重底の細工をした。そのおかげで、サバイバルナイフの存在は気付かれていない。
五味を地獄に叩き落としてやりたい。死ぬ寸前の彼に、絶望と落胆を味合わせてやりたい。そのために、最後に吐き捨てる言葉も考えてきた。
もう少しだ。もう少しで、洋平の仇が討てる。
頭からシャワーを浴びながら、美咲は両拳を握り締めた。ブルッと手が震えた。これは、恐怖ではない。初めてのセックスに対する緊張でもない。もちろん、これから人を殺すことへの不安でもない。
気持ちが高ぶっていた。高揚していた。誰よりも何よりも大好きな、自分の命よりも大切だった洋平。彼の仇を討てる。そのことに美咲は、喜びに近い気持ちを抱えていた。
これから人を殺すのに、こんな気持ちになっている。そんな自分は、きっと、もう壊れてしまっているのだろう。心の片隅で、美咲はそう自覚していた。洋平を失ったショックが大き過ぎて、まともではいられないのだ。
でも、それでもいい。洋平のいない世界で、まともな自分を保っていたいとは思わない。狂っていてもいい。むしろ、発狂して自我すら失えたら、どんなに楽だろう。
自我を失うこともできず、平静でいられるはずもない。だから、復讐するしかない。復讐することでしか、もう生きられない。
美咲はシャワーの蛇口を閉め、お湯を止めた。
浴室のドアを開けると、湯気がムアッと外に出た。
浴室を出ると、目の前に洗面所がある。美咲は洗面台に手を置き、鏡を見つめた。少し前にショートボブにした自分が映っている。濡れた髪の毛から、水滴が落ちていた。
鏡の中の自分と、目が合った。やや瞳孔が開いた、ブラウンの瞳。
初めてのセックスは痛いという。まだ経験はないが、誰もがそう言うのだから、もの凄く痛いのだろう。
凄まじい痛みの中でも、五味の信頼を失わないような言葉を口にする。鏡の中の自分を見つめながら、美咲は自分に言い聞かせた。これが最後の詰めだ。ここで五味を満足させ、気分のいい眠りにつかせなければならない。
大丈夫だ。自分ならやれる。どれだけ苦しくても、痛くても、自分なら表情に出ることはない。どこかの官能小説のような、初めてでも悦ぶ女を演じられる。演じる必要がある。演じなければならない。
バスタオルで体を拭いた。そのバスタオルを体に巻いて、美咲は洗面所から出た。五味が待っている寝室へと足を運んだ。
五味の寝室は、常夜灯の薄暗い光に照らされていた。暖房が効いていて、暖かい。
ベッドの上で、五味は美咲を待っていた。羽毛布団から出している上半身は、裸だった。おそらく、羽毛布団で隠れている部分にも、何も着けていないだろう。
美咲がベッドに近付くと、五味に、強引に引き寄せられた。
五味の息が荒くなっている。
彼の呼吸音が、美咲の耳に届いた。暖房が効いているこの部屋でも、鳥肌が立つほどの寒気を覚えた。
引き寄せられた美咲は、そのままベッドに押し倒された。
五味が上に乗ってきた。思っていた通り、彼はすでに全裸だった。
美咲の鞄は、ベッドのすぐ近くに置いてある。サバイバルナイフが入った鞄。
鞄の位置を確かめてから、美咲は、五味の耳元で囁いた。甘えるように。官能的な吐息とともに。
「何度も言ったけど、私、初めてだから。優しくしてね」
優しくしてくれるはずがない。気遣いなど絶対にない。欲望と承認欲求に溺れた五味に、他者を思いやる気持ちなどない。それが分かっていながら、美咲はあえて言った。その言葉が、彼を興奮させると分かっていたから。
「ああ」
頷くと、五味は、自分の思うままに美咲の体を貪り始めた。「こうすることで女は悦ぶ」というマニュアルが、彼の頭の中にあるのだろう。そう容易に想像できるような触り方だった。
もちろん、美咲は悦んでなどいなかった。寒気がするほど気持ち悪く、これ以上ないほどの不快感を覚え、しかも乱暴で痛かった。
感じている痛みも不快さも顔には出さず、美咲は、意図的に甘い声を漏らした。
美咲の声は、五味をさらに興奮させた。
「ねぇ……」
五味に体を貪られながら、美咲は、彼の耳に唇で触れた。吐息のような声でも届く距離。官能に満ちた声で囁いた。
「ゴム、しないでね」
五味の動きが止まった。常夜灯の薄暗い光を背に、驚いた顔で美咲を見ていた。驚きと、それ以上に興奮した顔。
「私、あんたの子を産みたいの」
どこかの本で読んだことがある。上手に嘘をつくコツは、本当のことを織り混ぜるのだと。本当のことが混じっているから、嘘に真実味が出るのだ。
美咲のこの言葉は、これ以上ない上手な嘘だと言えた。
避妊のことをまったく考えなくていい。美咲の発言は、五味の興奮を最高潮にまで高めた。
自分の欲望を抑え切れなくなった五味は、強引に、美咲の中に入ってきた。
「――っ!!」
股が裂けるような、強烈な痛み。美咲は、苦悶の声を漏らしそうになった。想像以上に痛い。それでも、五味を制止させたりしない。
五味は、強引かつ乱暴に動いた。こうすることで女は悦ぶ。そう信じて疑わないように。彼の勘違いを証明するかのように、美咲に聞いてきた。分かり切った答えを確認するような顔で。
「どうだ? 美咲」
――痛い。気持ち悪い。死ね。
本心を胸中で繰り返しながら、美咲は微笑んだ。
「嬉しいよ。あんたとひとつになれて。凄く気持ちいいの」
微笑んで、五味の頬に触れた。美咲の指先に、彼の表情の緩む感触が伝わってきた。満足げに笑っている。
せいぜい、今のうちに楽しんでいればいい。悦んでいればいい。高いところに昇れば昇るほど、落ちたときの衝撃も大きいのだから。
五味が、さらに激しく動いた。
ギシギシとうるさいベッド。興奮で汗ばむ五味の体。次第に荒さを増してゆく、彼の呼吸。
甘く小さな吐息を漏らしながら、美咲は、他人事のように今の状況を見つめていた。感じてる痛みは本物で、全身を包む不快感は確かに自分のものだ。泣きながら拒否しても不思議ではない苦痛に襲われながら、それでも美咲は冷静だった。痛みも不快感も、どうでもよかった。
ただ、美咲は確信していた。
五味はこんなに興奮している。こんなに激しく動いている。最終的に満足すれば、彼はきっと、すぐに眠りにつくだろう。
五味は結局、二回も美咲の中で果てた。一回だけでは満足せず、興奮も収らずに、そのまま二回目に突入した。
二回目が終わると、さすがに、五味の息は切れていた。激しく動いて体が火照ったのだろう。羽毛布団も掛けずに、ベッドの上で大の字になった。大きく呼吸をしながら、満足気な顔をしていた。自分だけが満足し、自分の世界だけで達成感を得ている。
そこに、美咲を気遣う様子は微塵もない。
荒くなっていた呼吸はやがて落ち着き、五味は、冷めた体に羽毛布団を掛けた。口元の笑みは消えていないが、瞼は重くなってきているようだ。美咲の思惑通り、眠気に襲われている。
しばらくすると、五味の寝息が聞こえてきた。スースーと、気持ち良さそうな寝息。幸福の絶頂の中で、落ちた眠り。
これから地獄に落ちるとも知らずに。
五味が眠ったことを確認し、美咲は、そっとベッドから抜け出した。
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