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第三十八話② 闇が晴れて、思い出す(後編)
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「ごめんね。私、早い段階で分かってた。洋平君が殺されてる可能性が高いって」
「!?」
美咲は目を見開いた。
「興信所に洋平君の調査を依頼してから、割とすぐに報告があったの。五味達が、洋平君を殺したようなことを話してた、って」
ふいに、美咲は思い出した。洋平がいなくなってから、それほど日が経っていない頃のこと。五味と付き合うと、決意した日。
あの日、咲子はひどく憔悴していた。
「あの時点で、興信所から受け取った報告を持って、警察に行くべきだった。行こうと思った。でも、行けなかった。言えなかった。美咲や洋ちゃんのことを考えると、洋平君があんなことになってるなんて……」
咲子の声は震えていた。拭いたはずの涙が、こぼれ落ちていた。
彼女は、この3ヶ月の間、ずっと苦しんでいたのだろう。洋平の死を知りながら、誰にも言えなくて。警察に言えば、必ず美咲や洋子の耳にも入る。悲しませ、絶望させてしまう。だから言えなかった。
だから咲子は、不自然にならない程度で可能な限り、家を空けていたのだ。美咲の顔を見るのが、辛かったから。
「謝らないで、お母さん」
母親との間にあるアクリル板に触れようとして、美咲は、自分の両手が拘束されていることを思い出した。
抱き合いながら、思い切り泣きたかった。咲子に甘えたかった。同時に、甘えさせたかった。今は、それもできない。
頭を下げながら、嗚咽を漏らす咲子。彼女の背中を、洋子は優しく撫でていた。
洋子に、咲子を責めるつもりなど微塵もないのだろう。友人の子が殺されたことを、簡単に告げられるはずがない。女手一つで我が子を育てているという、同じ境遇。洋子は、咲子の気持ちが痛いほど分かっているはずだ。
咲子の背中を撫でる、洋子の手。その手を離し、洋子は美咲の方を向いた。膝にある洋平の遺骨を、少しだけ強く抱き締めた。深く、美咲に頭を下げる。咲子と同じように。
「私もね、今日は、美咲ちゃんに謝りに来たの。どうやっても償いようがないけど」
「おばさんが? どうして?」
「だって、本当は――」
洋平を抱き締める洋子の手に、力が込められた。それでも、優しい抱き締め方。
「――本当は、私がやらなきゃいけないことだから。私は、洋平の母親だから。だから本当は、美咲ちゃんがしたことを、私がやらなきゃ駄目だったから。あいつ等は、私が殺すべきだったから」
美咲は、洋子の方に顔を突き出した。アクリル板にぶつかりそうになるくらいに。
「駄目だよ!」
無意識のうちに、美咲の口が開いた。必要以上に大きな声が出た。
「おばさんがそんなことしたら、駄目だよ! そんなことしたら、洋平が――」
言いかけて、言葉に詰まった。この先に吐き出す言葉は、自分自身に返ってくる。言いかけた瞬間に、そう悟った。
『そんなことをしたら、洋平が悲しむよ!』
洋平は優しかった。自分よりも、自分にとって大切な人を優先する人だった。自分が傷付いても、大切な人を守ろうとする人だった。
洋平がボクシングを始めた理由は、美咲を守れる男になりたかったから。そのためだけに努力し、結果を残した。
洋平が成績優秀だったのは、将来、美咲と幸せな家庭を築きたかったから。そのためだけに彼は、努力を惜しまなかった。
洋平が美咲を抱こうとしなかったのは、美咲を傷付けたくなかったから。欲求に任せて美咲を抱き、万が一のことがあったら、美咲を傷付けてしまう。だから、自分の欲求を必死に抑えていた。
そして、洋平の最後のとき。
死に際の洋平。
スタンガンで、体の自由が利かなくなっていた。それでも、気力だけで動き、五味に奪われたスマートフォンを破壊した。五味が、洋平を装って美咲を呼び出せないように。自分が傷付くことなど、一切構わずに。
洋平は、傷付きながらも美咲を守った。
洋平は、命を捨てて美咲の未来を守った。
洋平は、死を賭してまで、美咲の幸せを願った。
死ねば完全な無になると言っていた洋平。
生きているときだけに存在している、自分の意思を。自我を。希望を。願いを。
美咲のために使っていた。
「……あ……」
声が漏れた。涙が、決壊したように溢れ出てきた。
洋平は、感情がすぐ顔に出る。誰のことが好きで、何が大切で、誰の幸せを願っているのか。美咲への気持ちを、常に顔に出していた。
美咲は、そんな洋平のことを、誰よりもよく知っている。誰よりも深く理解している。彼が何を望み、何を願い、何のために生き、何のために死んだか。
世界中の誰よりも分かっている。
――分かっていたのに!
洋平が死んで、悲しかった。苦しかった。耐えられなかった。
だから、怒りに身を任せた。自分の感情を持て余し、振り回され、狂い、誰よりも分かっていたはずの洋平の気持ちに、背を向けた。
洋平の願いとは真逆の道に足を踏み入れ、堕ちていった。
洋平を殺した五味と付き合い、彼を殺すために、体を差し出した。
洋平が守ってくれた幸せを掴む手を、人殺しの手にした。
この世の誰であっても、殺された洋平の代弁者になどなれない。彼の気持ちを語ることなど、誰にもできない。
ただひとりを除いて。
美咲を除いて。
そんな自分が。
洋平の気持ちを語れるはずの自分が、彼を裏切った!
洋平が命がけで守ったものを、滅茶苦茶に壊した!
洋平の死を、ただの無駄死ににしてしまった!
「あ……ああ……」
涙が、美咲の頬を伝う。流れる涙は、止まらなかった。ボロボロとこぼれ、溢れていった。
体中の水分を全て出してしまうくらいに、美咲は涙を流した。逮捕のときは堪え切った涙を、止めることができなかった。
呼吸が苦しい。嗚咽が漏れる。胸の中が、後悔と嫌悪と懺悔で満ちた。
ごめんなさい。
呼吸することすら放棄して、美咲は、洋平に呼び掛けた。必死に唇を動かした。
ごめんね、洋平。ごめんね。ごめんね。ごめんね。ごめんね。
美咲の言葉は声にならず、かき消えた。
涙だけが、美咲の気持ちを語っていた。
「!?」
美咲は目を見開いた。
「興信所に洋平君の調査を依頼してから、割とすぐに報告があったの。五味達が、洋平君を殺したようなことを話してた、って」
ふいに、美咲は思い出した。洋平がいなくなってから、それほど日が経っていない頃のこと。五味と付き合うと、決意した日。
あの日、咲子はひどく憔悴していた。
「あの時点で、興信所から受け取った報告を持って、警察に行くべきだった。行こうと思った。でも、行けなかった。言えなかった。美咲や洋ちゃんのことを考えると、洋平君があんなことになってるなんて……」
咲子の声は震えていた。拭いたはずの涙が、こぼれ落ちていた。
彼女は、この3ヶ月の間、ずっと苦しんでいたのだろう。洋平の死を知りながら、誰にも言えなくて。警察に言えば、必ず美咲や洋子の耳にも入る。悲しませ、絶望させてしまう。だから言えなかった。
だから咲子は、不自然にならない程度で可能な限り、家を空けていたのだ。美咲の顔を見るのが、辛かったから。
「謝らないで、お母さん」
母親との間にあるアクリル板に触れようとして、美咲は、自分の両手が拘束されていることを思い出した。
抱き合いながら、思い切り泣きたかった。咲子に甘えたかった。同時に、甘えさせたかった。今は、それもできない。
頭を下げながら、嗚咽を漏らす咲子。彼女の背中を、洋子は優しく撫でていた。
洋子に、咲子を責めるつもりなど微塵もないのだろう。友人の子が殺されたことを、簡単に告げられるはずがない。女手一つで我が子を育てているという、同じ境遇。洋子は、咲子の気持ちが痛いほど分かっているはずだ。
咲子の背中を撫でる、洋子の手。その手を離し、洋子は美咲の方を向いた。膝にある洋平の遺骨を、少しだけ強く抱き締めた。深く、美咲に頭を下げる。咲子と同じように。
「私もね、今日は、美咲ちゃんに謝りに来たの。どうやっても償いようがないけど」
「おばさんが? どうして?」
「だって、本当は――」
洋平を抱き締める洋子の手に、力が込められた。それでも、優しい抱き締め方。
「――本当は、私がやらなきゃいけないことだから。私は、洋平の母親だから。だから本当は、美咲ちゃんがしたことを、私がやらなきゃ駄目だったから。あいつ等は、私が殺すべきだったから」
美咲は、洋子の方に顔を突き出した。アクリル板にぶつかりそうになるくらいに。
「駄目だよ!」
無意識のうちに、美咲の口が開いた。必要以上に大きな声が出た。
「おばさんがそんなことしたら、駄目だよ! そんなことしたら、洋平が――」
言いかけて、言葉に詰まった。この先に吐き出す言葉は、自分自身に返ってくる。言いかけた瞬間に、そう悟った。
『そんなことをしたら、洋平が悲しむよ!』
洋平は優しかった。自分よりも、自分にとって大切な人を優先する人だった。自分が傷付いても、大切な人を守ろうとする人だった。
洋平がボクシングを始めた理由は、美咲を守れる男になりたかったから。そのためだけに努力し、結果を残した。
洋平が成績優秀だったのは、将来、美咲と幸せな家庭を築きたかったから。そのためだけに彼は、努力を惜しまなかった。
洋平が美咲を抱こうとしなかったのは、美咲を傷付けたくなかったから。欲求に任せて美咲を抱き、万が一のことがあったら、美咲を傷付けてしまう。だから、自分の欲求を必死に抑えていた。
そして、洋平の最後のとき。
死に際の洋平。
スタンガンで、体の自由が利かなくなっていた。それでも、気力だけで動き、五味に奪われたスマートフォンを破壊した。五味が、洋平を装って美咲を呼び出せないように。自分が傷付くことなど、一切構わずに。
洋平は、傷付きながらも美咲を守った。
洋平は、命を捨てて美咲の未来を守った。
洋平は、死を賭してまで、美咲の幸せを願った。
死ねば完全な無になると言っていた洋平。
生きているときだけに存在している、自分の意思を。自我を。希望を。願いを。
美咲のために使っていた。
「……あ……」
声が漏れた。涙が、決壊したように溢れ出てきた。
洋平は、感情がすぐ顔に出る。誰のことが好きで、何が大切で、誰の幸せを願っているのか。美咲への気持ちを、常に顔に出していた。
美咲は、そんな洋平のことを、誰よりもよく知っている。誰よりも深く理解している。彼が何を望み、何を願い、何のために生き、何のために死んだか。
世界中の誰よりも分かっている。
――分かっていたのに!
洋平が死んで、悲しかった。苦しかった。耐えられなかった。
だから、怒りに身を任せた。自分の感情を持て余し、振り回され、狂い、誰よりも分かっていたはずの洋平の気持ちに、背を向けた。
洋平の願いとは真逆の道に足を踏み入れ、堕ちていった。
洋平を殺した五味と付き合い、彼を殺すために、体を差し出した。
洋平が守ってくれた幸せを掴む手を、人殺しの手にした。
この世の誰であっても、殺された洋平の代弁者になどなれない。彼の気持ちを語ることなど、誰にもできない。
ただひとりを除いて。
美咲を除いて。
そんな自分が。
洋平の気持ちを語れるはずの自分が、彼を裏切った!
洋平が命がけで守ったものを、滅茶苦茶に壊した!
洋平の死を、ただの無駄死ににしてしまった!
「あ……ああ……」
涙が、美咲の頬を伝う。流れる涙は、止まらなかった。ボロボロとこぼれ、溢れていった。
体中の水分を全て出してしまうくらいに、美咲は涙を流した。逮捕のときは堪え切った涙を、止めることができなかった。
呼吸が苦しい。嗚咽が漏れる。胸の中が、後悔と嫌悪と懺悔で満ちた。
ごめんなさい。
呼吸することすら放棄して、美咲は、洋平に呼び掛けた。必死に唇を動かした。
ごめんね、洋平。ごめんね。ごめんね。ごめんね。ごめんね。
美咲の言葉は声にならず、かき消えた。
涙だけが、美咲の気持ちを語っていた。
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