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第一章
第15話
しおりを挟むノアリスは自身でも少し驚いていた。
カイゼルに触れることを許したのは自分だが、しかし、あたたかいと感じるとは思っていなかったのだ。
卵を産まされてから、心を象っていた縁が崩れてしまった音が聞こえた気がした。
もう疲れて、話すことも、何かを感じることも億劫で。
出産でボロボロになった体は回復しきっておらず、その中でルイゼン国に受け渡される。
国を出られることは、あの塔から離れられることには有り難さを感じるが、如何せん身体中が軋んでいるような感覚で。
「飲み物も、果物も用意させよう。だが、無理に食べなくていい。……少しでも、食べてくれるのなら、俺は嬉しいが」
「……カイゼル、陛下」
「カイゼルでいい。それから──あそこにいるのは、俺の側近のイリエントだ。俺が居ない時に何かがあれば、あいつに言ってくれ」
「……」
チラリ、カイゼルが指さした方を見る。
するとそこには、物腰柔らかそうな人がいて、にこやかに微笑みヒラヒラと手を振っていた。
ノアリスはカイゼルに顔を向け、小さく頷く。
「かい、カイゼル、様」
名前を呼ぶことの緊張で、喉が震える。
「ああ、なんだ」
しかし、彼は太陽のように明るく微笑んで返事をしてくれた。
その優しさが、ノアリスには不思議だった。
「……国王様に、私のようなものが、このように扱っていただいて、いいのでしょうか」
こちらを気遣うような言葉に、傷つけまいとそっと触れてくれる手。
無機質なそれとは、全く違う。
「私は、ただの、道具です。卵を産むための……道具。それなのに、こんなにも、良くしていただいて──」
「馬鹿なことを言うな。俺はそなたを、一度たりとも道具だと思ったことは無い」
わずかに、カイゼルの手が震えている。
それに気がついたノアリスは、その声にも怒りが含まれていることに気がついた。
「ノアリス。俺はそなたの心が少しでも癒えて、体が回復し、いつかは──笑顔を見せてくれたのなら、それでいいんだ」
「……っ」
「今は、何も感じられないかもしれない。体も心も、疲れ切って、朝に目を覚ますことも嫌になる日々かもしれない」
「は……」
「だが、俺は太陽の下を歩くぞ。いつか、笑顔のそなたと」
目元が、濡れていた。
その実感は無かったのだが、カイゼルの指先が伸びてきて、優しく拭われる。
彼の言葉に、月に一度だけでも外で感じられたあたたかさを思い出す。
鳥のさえずりも、頬を掠める風も。
「か、いぜる、様」
「歩けるようになるまで、俺が支えよう」
「……ふ、」
「泣き方も下手くそだな」
苦笑するカイゼル。
ノアリスは涙の止め方も分からず、しかし声を押し殺すように泣いて、柔く手を握り返した。
ノアリスが泣き止んだ頃、いつの間にかイリエントが指示を出していたらしく、飲み物と果物が運ばれてきた。
目の前に並ぶ新鮮で美味しそうな果物を、ノアリスは少し興味深そうに見つめている。
「苺が気になるか?」
「いちご……昔、食べました。あまくて、美味しかったような、気がします」
「ああ。一つ取ってやろうな」
起き上がるのが億劫で寝転んだままの体勢を、カイゼルは叱らない。
口元に運ばれてきた真っ赤なそれに、そっと口付けた。
ジュワッと口の中で広がる果汁。
おそらく、甘いのだろう。
しかし、ノアリスは何も感じなかった。
昔食べた物とは、全く別物のようで、果汁はただの水みたい。
「美味いか?」
「……はい」
ノアリスは嘘をついた。
美味しいと言わなければ、申し訳ないと思ったのだ。
「──無理をしなくていい」
「っ、」
「極度のストレス状態になると、味を感じられなくなる場合がある」
「……」
「もしかすると、そうじゃないか?」
ノアリスはカイゼルの問いに躊躇いながらも、静かに頷いた。
失望させたくないと思ったのだが、嘘を重ねて怒られるのも怖い。
しかし、食べなくては。きっとこれまで過ごした塔の時と同じで、粗末にするなと叱責される。
「そうか……」
「った、食べます……」
「? 食べたいのなら、食べればいい。しかし、無理はしなくていい。ゆっくりで構わないから、無理せずに、回復していこう」
「ぁ……」
「水分だけはとってくれると嬉しい」
カイゼルの声は、いつだって穏やかだった。
怒鳴られるのではないかという恐怖に身を固くしたノアリスは、次の言葉を聞いて、ふと肩の力が抜けるのを感じた。
「無理しなくていい」という言葉が、こんなにも救いになるとは。
「……ありがとう、ございます」
掠れる声は、か細く、頼りない。
しかし、ノアリスは確かに感謝をしていた。
イリエントがそっと白いカップを差し出す。
受けとったカイゼルは、それが薄く色づいた果実水だとわかると、そっとノアリスの口元に持っていく。
「一気に飲まなくてもいい。少しずつで構わない。飲めるか?」
ノアリスはイリエントに支えられながら、そっと体を起こした。
小さく震える両手でカップを持ち、口をつける。
味は……やはり、ほとんどしない。
それでも、喉を潤す感覚は確かにそこにあって、ほんの少しだけ体が軽くなったような気がした。
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