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第二章
第32話
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カイゼルの部屋で、彼と共に朝の支度をする。
そんなことは初めてで、ノアリスはひどく緊張していた。
そもそも彼には従者がおらず、これまでの朝の支度といえば、用意された湯と布で簡単に顔を洗い、髪も衣装も自分の手で整えてきた。
──従者という存在そのものが、彼にとっては恐怖の対象だったからだ。
けれど、ここは王の部屋。
当然ながら従者が控えており、カイゼルの身支度をテキパキと整えている。
その光景を見ているだけで、ノアリスの胸はぎゅっと縮こまった。
「ノアリス」
振り返ったカイゼルが、穏やかに声をかける。
「もし嫌でなかったら……朝の支度を、彼らに任せてみないか」
「!」
驚きで目を瞬くノアリスに、カイゼルは柔らかく微笑んだ。
「大丈夫だ。俺が傍にいる。誰にも、何もさせない。そなたに触れるのは……俺が信頼する者だけだ」
その言葉は、不思議なほど真っ直ぐ胸に届いた。
嘘などひとつもない。
揺れる心を無視して、ノアリスは小さく頷いた。
「ありがとう。怖くなったら、すぐに教えてくれ。俺の名前を呼ぶだけでいい」
「……でも、咄嗟に呼んでしまったら、どうしよう……」
「なら、別の合図を決めようか。何かいい案はあるか?」
「え、っと……」
ノアリスは少し考えて、不安げに提案した。
「お、おしまい、は?」
「『おしまい』?」
「ぁ……だめ、でしょうか」
「いや……それでいいさ。可愛らしい言葉だと思ってな」
「か……っ、そ、そうでしょうか」
「ああ。ノアリスらしい」
ふっと笑みを零した彼に、ノアリスは少し恥ずかしく思えた。
けれど合図はそれで決まり、ノアリスはふーっと気合を入れる。
「がんばります……!」
「無理はしなくていいからな」
「はい……でも、がんばります」
小さく拳を握るノアリスに、カイゼルは目を細めて微笑んだ。
その微笑みだけで、胸の奥の不安が少しずつ溶けていく気がした。
◇
カイゼルは侍従長であり、自身の身の回りの世話を任せているコンラッドを呼んだ。
彼は先王からも厚い信頼を得ていた優秀な人物である。
「彼はコンラッドだ」
「コンラッドと申します」
深く礼をする彼の前で、ノアリスは緊張から表情を固くして立っていた。
手をキュッと握り、透き通るような瞳が揺れている。
「今日は私がお支度のお手伝いをさせていただきます。少しでも嫌だと思われましたら、遠慮なく仰ってくださいね」
「ぁ……っ、は、い……。ノアリス、です。よろしくお願いします……」
ノアリスもぎこちなく礼をすると、コンラッドは眉を八の字にして微笑んだ。
初めて他人の手で髪を整えられる感触。
普段なら自分の指先で確かめながら整えるのに、今は誰かの手が優しく触れる。
そのぬくもりに、ノアリスの心はほんの少し乱れた。
隣に立つカイゼルが、そっと肩に手を置き、柔らかく微笑む。
「怖くなったら、すぐに教えてくれ。『おしまい』と言えばいい」
「……はい……」
その言葉に、胸の奥が少し落ち着く。
そして、コンラッドへとおずおずと身を委ねた。
手際よく整えられていく間、緊張と、ほんのわずかな心地よさが混ざる。
初めての体験に戸惑いながらも、傍にある彼の視線と声が支えになり、恐怖はまだ襲ってこなかった。
けれど、髪を整えられ、衣装が整った瞬間――ふと、あの塔での記憶が蘇る。
胸が詰まり、ひくっと喉が鳴った。
手が震え、呼吸が乱れはじめる。
「ノアリス?」
「っ、ぁ、お、おしまい……!」
その声に、空気が一瞬止まった。
カイゼルはすぐに手を挙げ、コンラッドを下がらせる。
「よく頑張った」
「ふ……っ」
震える手を、大きな掌が包み込む。
次の瞬間には、温かな腕の中に収められていた。
乱れた呼吸を整えるように、背をトントンと撫でられる。
深く息を吐いたとき、ようやく体が少し軽くなった。
やがて呼吸が落ち着き、ノアリスはゆっくりと顔を上げる。
視線が絡んだ瞬間、思わず逸らそうとするが、顎に触れた指が静かに顔を戻させた。
「よくできたな」
その声は穏やかで、どこか特別に優しく響く。
胸の奥で、恐怖と緊張が少しずつ溶けていく。
自分の小さな合図を、こんなふうに受け止めてくれる人がいる――その事実に、胸がぎゅっと温かくなる。
距離の近さに戸惑いながらも、どこか安心している自分がいた。
その気持ちを、まだうまく言葉にはできなかった。
落ち着いてから鏡を見る。
そこには金色の髪が複雑に編まれ、綺麗に整えられた姿があった。
「す、すごい、です……。こんな……あんな短時間で、こんなことが……?」
「伝えておこう。きっと喜ぶ」
ノアリスはハッとしてカイゼルを見上げる。
そして両手を揉みながらモジモジとして、「あのぅ……」と小さく言葉を落とす。
「じ、自分で、伝えて、みます」
「そうか……? 無理はしなくていいんだぞ」
「いえ……折角、こんなに綺麗にしてもらえたから……。やっぱり、お礼を伝えないと」
扉の方に視線を向けたノアリスの気持ちを察して、カイゼルは「コンラッド」とその名前を呼んだ。
ビクッと震えた小さな体は、それでも現れた彼を見るとゆっくりぎこちなく頭を下げる。
「か、髪、整えてくださって、ありがとうございます。とても、綺麗で……あの、すごい、です」
「なんと。とても光栄にございます。ノアリス様がお望みであれば、また髪を結わせてくださいね」
「! は、はい!」
一度『おしまい』と言ってしまったから、嫌な気分にさせてしまったのではないかと少し不安だった。
けれど彼は穏やかにそう言って微笑んでくれる。
その姿に胸がほどけて、ノアリスもまた安心したように、そっと微笑んだのだった。
そんなことは初めてで、ノアリスはひどく緊張していた。
そもそも彼には従者がおらず、これまでの朝の支度といえば、用意された湯と布で簡単に顔を洗い、髪も衣装も自分の手で整えてきた。
──従者という存在そのものが、彼にとっては恐怖の対象だったからだ。
けれど、ここは王の部屋。
当然ながら従者が控えており、カイゼルの身支度をテキパキと整えている。
その光景を見ているだけで、ノアリスの胸はぎゅっと縮こまった。
「ノアリス」
振り返ったカイゼルが、穏やかに声をかける。
「もし嫌でなかったら……朝の支度を、彼らに任せてみないか」
「!」
驚きで目を瞬くノアリスに、カイゼルは柔らかく微笑んだ。
「大丈夫だ。俺が傍にいる。誰にも、何もさせない。そなたに触れるのは……俺が信頼する者だけだ」
その言葉は、不思議なほど真っ直ぐ胸に届いた。
嘘などひとつもない。
揺れる心を無視して、ノアリスは小さく頷いた。
「ありがとう。怖くなったら、すぐに教えてくれ。俺の名前を呼ぶだけでいい」
「……でも、咄嗟に呼んでしまったら、どうしよう……」
「なら、別の合図を決めようか。何かいい案はあるか?」
「え、っと……」
ノアリスは少し考えて、不安げに提案した。
「お、おしまい、は?」
「『おしまい』?」
「ぁ……だめ、でしょうか」
「いや……それでいいさ。可愛らしい言葉だと思ってな」
「か……っ、そ、そうでしょうか」
「ああ。ノアリスらしい」
ふっと笑みを零した彼に、ノアリスは少し恥ずかしく思えた。
けれど合図はそれで決まり、ノアリスはふーっと気合を入れる。
「がんばります……!」
「無理はしなくていいからな」
「はい……でも、がんばります」
小さく拳を握るノアリスに、カイゼルは目を細めて微笑んだ。
その微笑みだけで、胸の奥の不安が少しずつ溶けていく気がした。
◇
カイゼルは侍従長であり、自身の身の回りの世話を任せているコンラッドを呼んだ。
彼は先王からも厚い信頼を得ていた優秀な人物である。
「彼はコンラッドだ」
「コンラッドと申します」
深く礼をする彼の前で、ノアリスは緊張から表情を固くして立っていた。
手をキュッと握り、透き通るような瞳が揺れている。
「今日は私がお支度のお手伝いをさせていただきます。少しでも嫌だと思われましたら、遠慮なく仰ってくださいね」
「ぁ……っ、は、い……。ノアリス、です。よろしくお願いします……」
ノアリスもぎこちなく礼をすると、コンラッドは眉を八の字にして微笑んだ。
初めて他人の手で髪を整えられる感触。
普段なら自分の指先で確かめながら整えるのに、今は誰かの手が優しく触れる。
そのぬくもりに、ノアリスの心はほんの少し乱れた。
隣に立つカイゼルが、そっと肩に手を置き、柔らかく微笑む。
「怖くなったら、すぐに教えてくれ。『おしまい』と言えばいい」
「……はい……」
その言葉に、胸の奥が少し落ち着く。
そして、コンラッドへとおずおずと身を委ねた。
手際よく整えられていく間、緊張と、ほんのわずかな心地よさが混ざる。
初めての体験に戸惑いながらも、傍にある彼の視線と声が支えになり、恐怖はまだ襲ってこなかった。
けれど、髪を整えられ、衣装が整った瞬間――ふと、あの塔での記憶が蘇る。
胸が詰まり、ひくっと喉が鳴った。
手が震え、呼吸が乱れはじめる。
「ノアリス?」
「っ、ぁ、お、おしまい……!」
その声に、空気が一瞬止まった。
カイゼルはすぐに手を挙げ、コンラッドを下がらせる。
「よく頑張った」
「ふ……っ」
震える手を、大きな掌が包み込む。
次の瞬間には、温かな腕の中に収められていた。
乱れた呼吸を整えるように、背をトントンと撫でられる。
深く息を吐いたとき、ようやく体が少し軽くなった。
やがて呼吸が落ち着き、ノアリスはゆっくりと顔を上げる。
視線が絡んだ瞬間、思わず逸らそうとするが、顎に触れた指が静かに顔を戻させた。
「よくできたな」
その声は穏やかで、どこか特別に優しく響く。
胸の奥で、恐怖と緊張が少しずつ溶けていく。
自分の小さな合図を、こんなふうに受け止めてくれる人がいる――その事実に、胸がぎゅっと温かくなる。
距離の近さに戸惑いながらも、どこか安心している自分がいた。
その気持ちを、まだうまく言葉にはできなかった。
落ち着いてから鏡を見る。
そこには金色の髪が複雑に編まれ、綺麗に整えられた姿があった。
「す、すごい、です……。こんな……あんな短時間で、こんなことが……?」
「伝えておこう。きっと喜ぶ」
ノアリスはハッとしてカイゼルを見上げる。
そして両手を揉みながらモジモジとして、「あのぅ……」と小さく言葉を落とす。
「じ、自分で、伝えて、みます」
「そうか……? 無理はしなくていいんだぞ」
「いえ……折角、こんなに綺麗にしてもらえたから……。やっぱり、お礼を伝えないと」
扉の方に視線を向けたノアリスの気持ちを察して、カイゼルは「コンラッド」とその名前を呼んだ。
ビクッと震えた小さな体は、それでも現れた彼を見るとゆっくりぎこちなく頭を下げる。
「か、髪、整えてくださって、ありがとうございます。とても、綺麗で……あの、すごい、です」
「なんと。とても光栄にございます。ノアリス様がお望みであれば、また髪を結わせてくださいね」
「! は、はい!」
一度『おしまい』と言ってしまったから、嫌な気分にさせてしまったのではないかと少し不安だった。
けれど彼は穏やかにそう言って微笑んでくれる。
その姿に胸がほどけて、ノアリスもまた安心したように、そっと微笑んだのだった。
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