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第二章
第38話
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ノアリスは部屋で一人、ロルフの毛並みを手櫛で梳かしながら、ぼんやりとしていた。
『好き』と言われた。そんな言葉を向けられたのは、生まれて初めてだ。
これまでの人生を思えば当然だ。ろくに誰かに愛されることもなく、ただ利用されて生きてきた。
だから――どう受け取ればいいのか、わからなかった。
好き。
それは一体、どういう感情なのだろうか。
イリエントから妾妃の話を聞かされたときに胸が痛かったのは、関係あるのだろうか。
カイゼルが遠くへ行ってしまうような気がして、嫌だった。
――それも、もしかして好きだから、なのか?
ノアリスは小さく首を振る。
そんな資格が自分にあるのだろうか。
傷だらけで汚れた自分が、誰かに愛されるなんて。ましてや、国王に。
妻としてこの国にやってきた。
けれどそれは形だけで、まさか心までそうなるとは思ってもみなかった。
不安が胸を締めつける。
不意に、膝に顔を寄せてきたロルフの温もりが、その苦しさをほんの少し和らげた。
指先で柔らかな毛並みをなぞりながら、ノアリスはかすかに微笑む。
――わからない。でも。
「……うれしい、なぁ」
大きな手に撫でられることも。
大切に触れてくれる指先も。
逞しい体に包まれることも。
どれも、どれも安心できる。
それを与えてくれる人は、彼だけ。
そう感じさせてくれるのは、彼だけなのだ。
けれど、卵は産めても、子供は産めない。
結局は彼のためにならない。
――それでも。
許されるなら、そばに居たいと思った。
しばらくそうしてぐるぐると考えていたのだが、それを一度やめて、ノアリスは部屋に置いてあった麦わら帽子を手に取った。
カイゼルからもらったそれを頭にちょこんと被ると、じっと待っていたロルフがぱっと尻尾を振る。
「……庭に、行こうか」
小さく呟き、一緒に外へ出る。
やわらかな風が吹く庭で、ロルフとボールを投げ合って遊ぶ。ころころと転がるボールを追いかけるロルフの姿を見て、ようやく心が軽くなりかけた、その時。
ふいに自分の体に影が落ちた。
「……カイゼル、さま?」
振り返ったノアリスの視線の先にあったのは、鎧をまとった屈強な騎士の姿だった。鋭い黒の瞳が真っ直ぐにこちらを見下ろしている。
びくりと体を震わせ、小さな悲鳴が漏れる。
ロルフがすぐに駆け寄ってきて守ってくれるのかと思ったが、意外にもその騎士の足元で尻尾をぶんぶん振って懐いてしまっている。
「ロ、ロルフ……だめ、こっち……」
泣きそうになりながら名を呼ぶが、ロルフは嬉しそうに騎士の手に頭を擦り寄せるばかりだ。
逃げ出したい。でもロルフを置いてはいけない。足に力が入らず、腰が抜けて座り込むノアリスは震えながら小さく名を呼んだ。
「……カイゼル、さま……」
当然、届くはずもない声。
「――貴方様が、ノアリス様でしょうか」
低く落ち着いた声が響いた。ノアリスはびくりと僅かに顔を上げ、怯えたままこくりと頷く。
「失礼しました。私はルイゼン国第一騎士団団長、ブラッドリー・ルイスです。どうかブラッドリーとお呼びください」
そこでようやく、ノアリスはしっかりとその顔を見た。肩にかかるほどの黒髪はわずかにカールし、鋭い黒の瞳は冷たい光を宿している。息が詰まり、声が出ない。ただ唇がわななくだけで、空気が漏れる。
「ブラッドリー!」
不意に響いた声に、ノアリスははっと振り返った。
「……カイゼルさま……!」
彼はノアリスを見ると安心させるように微笑んで、ブラッドリーに視線を戻す。
「帰ったか」
「ええ、陛下。お元気そうで安心しましたよ」
「お前もな。――ノアリス、おいで。怖かったな、ブラッドリーはデカいから余計に」
「陛下と大して変わりませんが」
二人の軽口めいたやりとりが耳に入るが、ノアリスにはそれを受け止める余裕がない。
腰が抜けたまま、這うようにしてカイゼルのもとへ向かおうとする。
それに気づいたカイゼルが慌てて駆け寄り、ひょいと抱き上げた。
「大丈夫か」
その胸元にしがみつきながら、ノアリスは首を横に振る。
「いやはや、申し訳ありません。そこまで怖がらせてしまうとは……。せめて鎧を脱いでからにすべきでしたな」
「……いや、大丈夫だ。ノアリスはまだこの国に慣れていないから。――また後でお前のもとを訪ねよう」
「承知しました」
そうしてカイゼルの腕に抱かれたまま部屋へ戻る。ノアリスは自分の情けなさに胸が締めつけられた。やはりこんな自分では、カイゼルに愛されるのはもったいないのではないか。
ソファーに下ろされたノアリスがぽつりとそれを口にすると、カイゼルは目を細めて言った。
「俺はノアリスがいいんだ。怖いなら一目散に逃げてもいいのに、ロルフがいるからそうしなかったんだろう? 見捨てない優しさを持ってる。――そういうところも、好きだ」
その言葉に、ノアリスは小さく体を縮こまらせる。顔を真っ赤にして、視線を逸らした。
『好き』と言われた。そんな言葉を向けられたのは、生まれて初めてだ。
これまでの人生を思えば当然だ。ろくに誰かに愛されることもなく、ただ利用されて生きてきた。
だから――どう受け取ればいいのか、わからなかった。
好き。
それは一体、どういう感情なのだろうか。
イリエントから妾妃の話を聞かされたときに胸が痛かったのは、関係あるのだろうか。
カイゼルが遠くへ行ってしまうような気がして、嫌だった。
――それも、もしかして好きだから、なのか?
ノアリスは小さく首を振る。
そんな資格が自分にあるのだろうか。
傷だらけで汚れた自分が、誰かに愛されるなんて。ましてや、国王に。
妻としてこの国にやってきた。
けれどそれは形だけで、まさか心までそうなるとは思ってもみなかった。
不安が胸を締めつける。
不意に、膝に顔を寄せてきたロルフの温もりが、その苦しさをほんの少し和らげた。
指先で柔らかな毛並みをなぞりながら、ノアリスはかすかに微笑む。
――わからない。でも。
「……うれしい、なぁ」
大きな手に撫でられることも。
大切に触れてくれる指先も。
逞しい体に包まれることも。
どれも、どれも安心できる。
それを与えてくれる人は、彼だけ。
そう感じさせてくれるのは、彼だけなのだ。
けれど、卵は産めても、子供は産めない。
結局は彼のためにならない。
――それでも。
許されるなら、そばに居たいと思った。
しばらくそうしてぐるぐると考えていたのだが、それを一度やめて、ノアリスは部屋に置いてあった麦わら帽子を手に取った。
カイゼルからもらったそれを頭にちょこんと被ると、じっと待っていたロルフがぱっと尻尾を振る。
「……庭に、行こうか」
小さく呟き、一緒に外へ出る。
やわらかな風が吹く庭で、ロルフとボールを投げ合って遊ぶ。ころころと転がるボールを追いかけるロルフの姿を見て、ようやく心が軽くなりかけた、その時。
ふいに自分の体に影が落ちた。
「……カイゼル、さま?」
振り返ったノアリスの視線の先にあったのは、鎧をまとった屈強な騎士の姿だった。鋭い黒の瞳が真っ直ぐにこちらを見下ろしている。
びくりと体を震わせ、小さな悲鳴が漏れる。
ロルフがすぐに駆け寄ってきて守ってくれるのかと思ったが、意外にもその騎士の足元で尻尾をぶんぶん振って懐いてしまっている。
「ロ、ロルフ……だめ、こっち……」
泣きそうになりながら名を呼ぶが、ロルフは嬉しそうに騎士の手に頭を擦り寄せるばかりだ。
逃げ出したい。でもロルフを置いてはいけない。足に力が入らず、腰が抜けて座り込むノアリスは震えながら小さく名を呼んだ。
「……カイゼル、さま……」
当然、届くはずもない声。
「――貴方様が、ノアリス様でしょうか」
低く落ち着いた声が響いた。ノアリスはびくりと僅かに顔を上げ、怯えたままこくりと頷く。
「失礼しました。私はルイゼン国第一騎士団団長、ブラッドリー・ルイスです。どうかブラッドリーとお呼びください」
そこでようやく、ノアリスはしっかりとその顔を見た。肩にかかるほどの黒髪はわずかにカールし、鋭い黒の瞳は冷たい光を宿している。息が詰まり、声が出ない。ただ唇がわななくだけで、空気が漏れる。
「ブラッドリー!」
不意に響いた声に、ノアリスははっと振り返った。
「……カイゼルさま……!」
彼はノアリスを見ると安心させるように微笑んで、ブラッドリーに視線を戻す。
「帰ったか」
「ええ、陛下。お元気そうで安心しましたよ」
「お前もな。――ノアリス、おいで。怖かったな、ブラッドリーはデカいから余計に」
「陛下と大して変わりませんが」
二人の軽口めいたやりとりが耳に入るが、ノアリスにはそれを受け止める余裕がない。
腰が抜けたまま、這うようにしてカイゼルのもとへ向かおうとする。
それに気づいたカイゼルが慌てて駆け寄り、ひょいと抱き上げた。
「大丈夫か」
その胸元にしがみつきながら、ノアリスは首を横に振る。
「いやはや、申し訳ありません。そこまで怖がらせてしまうとは……。せめて鎧を脱いでからにすべきでしたな」
「……いや、大丈夫だ。ノアリスはまだこの国に慣れていないから。――また後でお前のもとを訪ねよう」
「承知しました」
そうしてカイゼルの腕に抱かれたまま部屋へ戻る。ノアリスは自分の情けなさに胸が締めつけられた。やはりこんな自分では、カイゼルに愛されるのはもったいないのではないか。
ソファーに下ろされたノアリスがぽつりとそれを口にすると、カイゼルは目を細めて言った。
「俺はノアリスがいいんだ。怖いなら一目散に逃げてもいいのに、ロルフがいるからそうしなかったんだろう? 見捨てない優しさを持ってる。――そういうところも、好きだ」
その言葉に、ノアリスは小さく体を縮こまらせる。顔を真っ赤にして、視線を逸らした。
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