白黒リスタート(2/24更新)

狂言巡

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困惑パシフィスト

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 真実だと思っていたものが端から崩されてしまう事は、本当に恐ろしい事だ。

「可哀想って、いってもらいたいもんね」

 現役の女子学生のように華やかではないものの、静かな艶を持った声が聞こえた。あまやかな声は男を誘うように柔らかく恭造の鼓膜を叩いて、脳を甘ったるい蜜に沈められた思考が上手く纏まらない。ぐわんぐわんと姦しい耳鳴りの中で、きゅうと蟀谷を締め付けられるような痛覚が気持ち悪かった。
 血溜まりのような夕焼けが教室を囲っている。昼間の喧騒を取り払った正方形の部屋は、リノリウムの冷たさだけを空気に移して、無機質に教師と生徒を閉じ込めていた。
 不気味な程きちんと並べられた机を観衆として、中央に二人。先生は笑っている。この年代の女人に等しく与えられた優しい微笑で、だけどそれは無邪気に蟻の巣を踏み潰す残酷な色も持っていた。
 恭造の頭一つ分低い場所にある、細かに整った顔のパーツが笑みの形に歪んで恭造をジッと見上げてくる。その視線を浴びるだけで、首を絞められる心地になった。恭造は、知っている。この柔らかい微笑みが、この人の唇が、いつか必ず恭造の世界に噛みついて、そうして腐った蜜のような絶望の世界で全てをぺろりと平らげてしまう事を。だけど逃げられない。助けを求める声が出ない。呼吸が苦しい。目の前の女人を、ただ凝り固まった石造のように見つめている事しかできなかった。

「可愛そうなのが良いんだ、恭君」

 先生の舌が濡れて、赤い唇をぺろりと舐めるのを呆然と見つめた。見てはいけないのに、恭造は目をそらす事ができない。可憐な花みたいなそれが、言葉をどんどん零していく。

「可愛そうだったら、皆君の傍にいてくれるもの」

 淫靡に伸ばされた言葉の端を揶揄する事もできない。それどころか土家恭造の喉は下賎な唾を嚥下した。動いた自分の喉仏を女が、笑う。哀れむように、嘲るように、笑ったまま見つめてくる。

「一緒にいてくれっていえないんだ、否定されたら怖いから」

 残酷に告げられる言葉は、全て真実なのだから。恭造の心臓に刃を突きつけて、後ろへにじり下がる事もできない。哀れにこの場から遁走するも。ただ女人を見つめるだけだった。恭造を哀れみ蔑む彼女を。

(可哀想な子)

 ふっくらとした唇が恭造を笑いかけてくる。夜に怯えて眠れない子供を慈しむ母親のように。無垢の優しさを騙りながら、恭造が最も目を背けるべきモノを、塗り固めて見せつけてくる。恭造の中で理性が警鐘を鳴らし始めた。駄目だ。これ以上、彼女と居ては、壊れてしまう。大切なモノが、外界の間に土家恭造が必死で引いたラインが。取り払われていってしまう。もっとも度し難い形で。しかし無様に高い心拍が恭造のこの先を騙りかける。

(ろくしょうくん)

 声も出せない恭造に、女の声が鼓膜に響く。それは、男を陥落させるにはどうしていいか、きちんと解っている声だった。耳を劈く無様な心拍が、恭造を世界に取り残す。彼女と二人きりの世界。若い女の唇が、開いた。同時に、恭造が大事にしていた世界を閉ざす。

「緑青君、私ならそんな事しなくとも一緒にいてあげる」
「ちゃんと方法やりかた、わかるよね?」

 恭造を堕とす、拙い舌使いは意図的なものなのか、そうでないのか、恭造には解らない。しかし解っても仕様がない。普段から教卓で聞いている声に、切り捨てられない淫靡を見つけてしまった。そうしてそれに追い詰められて捕らえられた自分には、嘲るように開いた唇を食らってしまいたいと……。
 駄目だ駄目だ。男は、やっぱり駄目な存在なのだ。いや、恭造独りだけが駄目なのかもしれない。もう何も解らないが、それでも此れだけは理解できる。自分はつくづく駄目な人間なのだ。先生の掌が蔓のように伸びてきて、恭造の頬を優しく撫でた。その心地よい冷たさに恭造は、目を閉じる。もっと触れていたいと無意識にその柔らかい掌を掴んで、僕は、僕は、僕は!

「何にも考えなくていい」

 机の上に押し倒され手も尚、先生のお優しい声が恭造の躰の中を飛んで跳ね返って、操られたみたい動いた。その襟に手をかけた時、先生がニイイと、笑みを濃くするのが判った。彼女の瞳はとても深くて、いつの間にか視線が吸い込まれてしまう。昏いのに、目が離せない光が瞬いていた。

「恭君、かわいそうな子」

 子供を攫って喰ってしまう化け物が哂って、恭造を追い立てる。逃げなくてはいけない。けどもう何もできない。自分を自分でとめられない、どうしよう。

「恭君、愛しているよ」

 先生の声が耳元で聞こえる。蜜のような声に足首を捕らえられ浸かってしまった恭造を呼んでいる。誰か助けて、何処へ逃げたらいいのだろう。どうしよう、先生の、唇が、

(きょうぞうくん)

 囁かれる吐息にもう何も解らない。目の前が霞んでいく。
 ――俺は今、何をしているのだ。

 土家恭造の世界に降り注ぐのは、
 握りしめられた拳でもなく、
 引き裂かれた上着でもなく、
 雑巾玉露でもなく、
 ペンダントライトの光でもなく、
 先生の愛だった。
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