折り目の世界〜異世界に折りたたまれた数学者〜

アクナキユメ

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第4話:地下の研究室

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マエストロとオリは学院の廊下を慎重に進んでいた。昼間だというのに、学院内は異様な静けさに包まれていた。クリスの失踪により、多くの教員と上級生は捜索活動に出ており、通常の授業は中止されていたのだ。

「先生、地下研究室はどこにあるのですか?」オリは小声で尋ねた。

マエストロは周囲を警戒しながら答えた。「本館の最も古い区画の下じゃ。かつては形状術の実験場として使われておったが、三十年ほど前に封鎖されたはずじゃった」

彼らは中央広場を横切り、本館へと向かった。本館は学院の中で最も大きな建物で、多くの教室や研究室がある。

「なぜ封鎖されたのですか?」オリはさらに尋ねた。

「危険な事故があったからじゃよ」マエストロは声を低くして言った。「形状術の実験が制御を失い、次元の皺が発生したのじゃ。多くの研究者が命を落とし、それ以来、地下区画は立ち入り禁止となっておる」

オリは身震いした。形状術の危険性を改めて認識したようだった。

本館に入ると、彼らはまず人気のない場所を探した。マエストロは一つの古い壁画の前で立ち止まり、周囲を確認してから、壁画の一部に手を当てた。

「音の振動で隠された扉を開くのじゃ」彼は静かに言った。

マエストロは指先から微かな音を発し、壁に伝えた。音の振動が壁の中に広がり、突然、壁の一部がスライドして開いた。そこには暗い階段が下へと続いていた。

「行くぞ」マエストロはオリに目配せし、先に立って階段を下り始めた。

階段は予想以上に深く続いていた。壁に取り付けられた古い光石が弱々しく光を放ち、彼らの道を照らしていた。空気は湿っぽく、かび臭い匂いがした。

「この下にはかつて大規模な研究施設があったのじゃ」マエストロは説明した。「形状術の本質を探求する実験が行われておった。特に次元操作に関する研究じゃ」

オリはその言葉に興味を示した。「次元操作…それは私の『折り』の能力と関係があるのですか?」

「深い関係があるのじゃよ」マエストロは頷いた。「『折り手』の能力は、次元の境界を超える可能性を秘めておる。だからこそ、多くの研究者が興味を持つのじゃ」

階段を下りきると、彼らは広い通路に出た。両側には多くの扉があり、かつての研究室や実験室のようだった。ほとんどの扉は閉ざされ、中には封印されたものもあった。

「どの部屋にクリスがいるのでしょう?」オリは不安そうに周囲を見回した。

マエストロは考え込んだ。「共鳴結晶をもう一度使ってみるのじゃ。ここでは、より正確な位置が分かるかもしれん」

オリはポケットから結晶を取り出し、再び集中した。彼女は結晶に「折り」の能力を注入し、クリスとの繋がりを強めようとした。

結晶が再び光り始め、今度はより強く輝いた。そして、ある方向を指すように光が伸びていった。

「あっちです」オリは結晶の示す方向を指さした。

彼らは結晶の導きに従って通路を進んだ。いくつかの分岐を曲がり、より古い区画へと入っていった。壁には奇妙な記号や図形が刻まれ、所々で空間が歪んでいるように見えた。

「ここは不安定じゃ」マエストロは警告した。「かつての実験の影響で、空間に折り目の乱れが残っておる。注意せねばならん」

オリはマエストロの言葉に頷きながらも、不思議な感覚に襲われていた。この場所の「折り目」は他の場所と違っていた。より活発で、まるで生きているかのようだった。

彼らがさらに進むと、突然、通路が二つに分かれた。結晶の光も分裂し、二方向を同時に指し示すようになった。

「おかしいな…」オリは混乱して言った。

マエストロは眉をひそめた。「空間の歪みによって、実際の位置と認識される位置がずれているのかもしれんな」

彼は二つの通路を慎重に観察し、右側の通路を選んだ。「こちらの折り目の状態が、より自然じゃ。あちらは何か不自然な操作が加えられておるようじゃ」

彼らが右の通路に進むと、結晶の光はさらに強くなった。そして突然、通路の先に大きな金属の扉が見えてきた。扉には「特殊次元研究室」と書かれていた。

「ここじゃ」マエストロは小声で言った。

彼らは慎重に扉に近づいた。扉は固く閉ざされていたが、鍵はかかっていないようだった。

マエストロはオリに目配せし、静かに扉を開けた。中は薄暗く、大型の実験装置や計器が並んでいた。部屋の中央には透明な円柱状の容器があり、その中にクリスがいた。

「クリス!」オリは思わず声を上げようとしたが、マエストロが彼女の口を手で塞いだ。

「静かに」彼は囁いた。「他に誰かいるかもしれんぞ」

彼らは慎重に部屋の中に入り、周囲を確認した。他に人影は見当たらなかったが、装置の一部が稼働しており、誰かが最近まで使っていた形跡があった。

クリスのいる容器に近づくと、彼女が目を開けた。クリスはオリとマエストロを見て、驚いた表情を見せた後、安堵の色を浮かべた。彼女は口を動かしたが、声は聞こえなかった。

「容器は音を遮断しているようじゃな」マエストロは言った。「彼女を出さねばならん」

彼は容器の周りにある制御パネルを調べた。「複雑な形状術のロックがかかっておる。開けるには特殊な鍵か、相応の能力が必要じゃ」

「私の『折り』の能力で開けられるでしょうか?」オリは尋ねた。

「試してみる価値はあるのう」マエストロは容器の一部を指さした。「ここに見える折り目に集中してみるのじゃ。しかし、慎重にな。強すぎる力を加えれば、クリスを傷つける恐れもある」

オリは容器に近づき、集中した。彼女は容器の表面に見える微かな折り目を探し、それを「読む」ように意識を向けた。折り目の一つ一つが、ロックの仕組みを表しているようだった。

彼女は最も弱そうな折り目を見つけ、それを「解く」ことをイメージした。彼女の能力が折り目に流れ込み、慎重に操作を進めた。

すると、微かな音と共に、容器の一部が開いた。まだ完全には開いていなかったが、クリスの声が聞こえるようになった。

「オリ!マエストロ先生!」クリスは急いで言った。「危険です!ここから早く出て!」

「何があったのじゃ?」マエストロが尋ねた。「誰がお前をここに?」

「ヘリックス教授です」クリスは顔を強張らせて言った。「彼は『観察者』のリーダーなんです。私が東塔で何をしているか知って…」

彼女の言葉は、突然背後から聞こえた声によって遮られた。

「なんて感動的な再会だろう」

振り返ると、ヘリックス教授が入口に立っていた。彼の背後には、ノックスと数人の学生が控えていた。彼らの目は冷たく、敵意に満ちていた。

「ヘリックス…」マエストロは深いため息をついた。「やはりお前だったか」

「マエストロ先生」ヘリックスは皮肉めいた敬意を込めて言った。「まさかあなたが『塡』の活動に協力しているとは思いませんでした。あなたのような賢明な方が」

「わしは単に真実を求めておるだけじゃ」マエストロは毅然と答えた。「世界の『折り目』が危機に瀕しておることは、お前も知っておろう」

「だからこそ、干渉してはならないのです」ヘリックスは厳しい口調で言った。「『観察者』の使命は、自然の摂理を守ること。人為的な操作で次元の流れを変えれば、さらなる災厄を招くだけです」

彼はオリの方に視線を向けた。「そして、あなたはまさにその危険の象徴。別の世界から来た『折り手』」

オリは身を固くした。「私は何も悪いことをしていません」

「まだね」ヘリックスは冷たく笑った。「しかし、あなたの能力が完全に目覚めれば、世界の構造そのものを破壊しかねない。特に、『塡』の影響下で」

彼は手を前に出し、空中に複雑な螺旋模様を描いた。「残念ですが、あなたたちをここで止めねばなりません」

マエストロが即座に対応し、彼の前に立ちはだかった。「オリ、容器を開けてクリスを助けるのじゃ!わしがヘリックスを食い止める!」

「だめよ!」クリスは叫んだ。「一人では無理!」

しかし、マエストロは既に行動を起こしていた。彼は手に持っていた楽器型の武器を響かせ、強力な音波を放った。音波がヘリックスの螺旋攻撃と衝突し、空間に波紋が広がった。

「急いで!」マエストロはオリに呼びかけた。

オリは迷うことなく、再び容器の折り目に集中した。今度は全ての折り目を一度に操作しようと試みた。彼女の力が容器全体に広がり、複雑なロックを次々と解いていった。

ヘリックスはそれに気づき、「止めろ!」とノックスに命じた。

ノックスが素早くオリに向かって走り寄ってきた。彼の手は黒く輝き、「消去」の能力を発動させる準備ができていた。

「オリ、危ない!」クリスが警告したとき、突然部屋の空気が変化した。

オリの周りの空間が微かに折れ曲がり、ノックスの動きが遅くなったように見えた。彼女自身も驚いたが、これは彼女の能力が無意識のうちに発動したようだった。彼女は空間の「折り目」を操作して、自分を守っていたのだ。

この瞬間的な猶予を利用して、オリは最後の折り目を解いた。容器が完全に開き、クリスが自由になった。

「早く!」クリスはオリの手を取り、彼女を引っ張った。

ヘリックスとマエストロの戦いは激しさを増していた。螺旋と音波の衝突が部屋中に波紋を広げ、実験装置の一部が破壊され始めていた。

「マエストロ先生!」オリは心配そうに叫んだ。

「心配するな!お前たちは先に逃げるのじゃ!」マエストロは応戦しながら叫んだ。「別の出口がある!そこから脱出するのじゃ!」

クリスはオリを引っ張り、部屋の奥にある小さな扉に向かった。

「でも、先生を置いていくなんて…」オリは躊躇した。

「大丈夫よ」クリスは彼女を安心させようとした。「マエストロ先生はそう簡単にやられない。私たちが安全になれば、彼も後に続くわ」

彼女たちが奥の扉に向かう間、ノックスが再び追ってきた。クリスは振り返り、手を前に出した。彼女の指先から結晶が発生し、床全体を覆い始めた。結晶が急速に成長し、ノックスの足を捕らえた。

「行くわよ!」クリスはオリを連れて扉を開け、別の通路に出た。

彼らの背後からは、マエストロとヘリックスの戦いの音が聞こえ続けていた。爆発音と共に、建物全体が揺れた。

「大丈夫かな…」オリは心配そうに振り返った。

「信じましょう」クリスは言った。「今は自分たちの安全が最優先よ」

彼女たちは暗い通路を走った。クリスは道を知っているようで、迷うことなく曲がり角を選んでいった。

「どこに向かっているの?」オリは息を切らしながら尋ねた。

「非常出口よ」クリスは答えた。「地下研究室から直接外に出られる通路があるの」

彼女たちがさらに走っていると、突然通路が左右に分岐した。クリスは立ち止まり、混乱した表情を見せた。

「おかしいわ…ここは一本道のはずなのに」

「空間が歪んでいるんじゃない?」オリは提案した。「さっきの戦いの影響で」

クリスは唇を噛んだ。「どちらが正しい道か分からないわ」

オリは深呼吸をして、周囲の「折り目」を感じようとした。彼女は両方の通路の空間構造を観察した。

「右の通路」彼女は確信を持って言った。「左は偽の通路みたい。空間が折りたたまれて作られた錯覚よ」

クリスは彼女の判断を信じ、右の通路に進んだ。彼女たちはさらに数分間走り続け、ついに金属の階段に到達した。階段は上に伸び、天井に小さな出口があった。

「あそこよ!」クリスは安堵の表情を見せた。

彼女たちは急いで階段を上り、出口のハッチを押し開けた。新鮮な空気が流れ込み、彼女たちは地上に出た。

彼女たちが出てきたのは、学院の裏手にある小さな丘の上だった。ここからは学院全体が見渡せ、東塔も遠くに見えた。

「やった…」クリスは息を整えながら言った。「無事に脱出できたわ」

オリは振り返り、地下の入り口を見つめた。「マエストロ先生は?」

「きっとすぐに来るわ」クリスは言ったが、彼女の声には不安が混じっていた。

オリは学院の建物を見つめながら、マエストロの安全を祈った。彼は自分たちを守るために戦っている。彼が無事であることを願うしかなかった。

「クリス、あなたは大丈夫?」オリは友人の状態を確認した。「あの容器に閉じ込められて…」

「ヘリックス教授は私に危害を加えるつもりはなかったわ」クリスは説明した。「私を『塡』の活動から遠ざけておきたかっただけ。彼は私が王族の血を引いていることを知っている」

「でも、なぜ彼はそんなことを?」

「『観察者』と『塡』の対立は長い歴史があるの」クリスは遠くを見つめながら話し始めた。「両者は世界の『折り目』をどう扱うべきかで意見が分かれている」

彼女の説明によれば、『観察者』は世界の自然な流れを重視し、人為的な干渉を避けるべきだと考えていた。対して『塡』は積極的に「次元の皺」を修復し、世界のバランスを取り戻すべきだと主張していた。

「そして私たち王族は、古くから『塡』の側についてきたの」クリスは静かに言った。「だからこそ、ヘリックス教授は私を危険視している」

オリはこの新しい情報を消化しようとした。「じゃあ、私の役割は?」

「あなたは『折り手』」クリスは真剣な面持ちでオリを見た。「世界の危機が訪れるとき、『折り手』が現れるという予言がある。あなたは両者の間に立ち、最終的な選択をする存在なのよ」

オリは圧倒された。「そんな大きな責任…」

「心配しないで」クリスは彼女の手を取った。「一人ではないわ」

突然、彼女たちの背後で爆発音がした。振り返ると、学院の一部から煙が上がっていた。地下研究室のある区画だった。

「マエストロ先生!」オリは叫んだ。

クリスの表情も強張った。「行かなきゃ!」

彼女たちは急いで丘を下り、学院に向かって走り始めた。マエストロの身に何が起きたのか。彼は無事なのか。それとも…

オリの胸に不安が広がった。彼らの冒険は、予想以上に危険なものになってきていた。

オリとクリスは学院に向かって全力で走っていた。煙は次第に濃くなり、学生たちが混乱して校舎から出てくる様子が見えた。

「何が起きたんだ?」
「爆発音がしたぞ!」
「本館の西側から煙が!」

学生たちの声が飛び交う中、二人は人ごみをかき分けて進んだ。

「あまり目立たないようにしましょう」クリスはオリの腕を引いた。「ヘリックス教授の仲間がいるかもしれない」

彼女たちは人目を避け、裏路地から本館へと近づいた。本館の西側からは確かに煙が上がっており、教職員たちが消火活動を始めていた。

「地下研究室への入口は?」オリは小声で尋ねた。

「壁画のある廊下は危険よ」クリスは頭を振った。「別の入口を使いましょう」

クリスはオリを図書館の方へ導いた。図書館の裏側には、あまり使われていない小さな中庭があった。そこに着くと、クリスは古い井戸のような構造物の前で立ち止まった。

「ここから入れるわ」

彼女は井戸の縁に手を置き、結晶化の能力を使って特殊な模様を形成した。すると、井戸の底が開き、下へと続く梯子が現れた。

「さあ、行くわよ」

二人は梯子を降り、再び地下研究施設の一部に入った。ここは先ほどとは別の区画で、より古く、埃が積もっていた。

「ここはめったに使われない区画ね」クリスは説明した。「でも、メイン研究室にはつながっているはず」

彼女たちは暗い通路を慎重に進んだ。オリはポケットから「宇宙の花」の折り紙を取り出し、それを少し開いた。すると、折り紙から微かな光が放たれ、彼女たちの道を照らした。

「素敵ね」クリスは驚いた様子で言った。「マエストロ先生から貰ったの?」

「うん、レッスンの時に」オリは頷いた。「『星の紙』で作られているんだって」

彼女たちが歩いていると、遠くから声が聞こえてきた。二人は即座に身を隠し、声の主が通り過ぎるのを待った。それは学院の警備員らしく、爆発の原因を調査している様子だった。

「原因は不明だが、禁止区域で何らかの形状術の暴走があったようだ」
「負傷者はいるのか?」
「まだ確認中だ。ヘリックス教授が指揮を執っている」

その言葉を聞いて、オリとクリスは顔を見合わせた。ヘリックス教授が無事だということは…マエストロは?

警備員たちが去った後、二人は再び動き出した。クリスは記憶を頼りに、メイン研究室への近道を探していた。

「ここを右に…それから…」

彼女は途中で立ち止まり、混乱した表情を見せた。

「おかしいわ。この通路はこんなに長くなかったはず」

オリは周囲の空間を注意深く観察した。確かに何かがおかしい。通路が通常よりも引き伸ばされているように見える。

「空間が操作されているわ」オリは気づいた。「誰かが通路を伸ばして、私たちを迷わせようとしているの」

彼女は手を前に出し、空間の「折り目」を探った。複雑に折りたたまれた空間構造が見えた。これは意図的なものだ。

「試してみるね」オリは集中し、空間の折り目を「解く」ことをイメージした。

彼女の力が通路全体に広がり、折り目が一つずつ解かれていった。すると通路が縮み、元の長さに戻った。その先には扉が見え、そこからは微かな光が漏れていた。

「すごい…」クリスは感嘆の声を上げた。「あなたの能力、どんどん成長しているわ」

二人は慎重に扉に近づいた。クリスが耳を扉に当て、内側の様子を窺った。

「誰かいる…話し声が聞こえるわ」

オリも耳を当てた。確かに中から声が聞こえてきた。そして、その一つはマエストロの声だった!

「捕まったの?」オリは心配そうに囁いた。

クリスは頷いた。「そう聞こえるわ。でも生きている。それだけでも安心ね」

彼女たちは扉をどうするか相談した。突入するには危険すぎるが、マエストロを助けなければならない。

「私に考えがあるわ」クリスは突然言った。「私が正面から入って気を引く。その間にあなたはマエストロ先生を助けるの」

「危険すぎるよ!」オリは反対した。

「大丈夫」クリスは自信を持って言った。「私は王族の血を引いているわ。ヘリックス教授も簡単には手出しできない。それに…」

彼女は微笑んだ。「『塡』の一員として、基本的な防御術は心得ているわ」

オリはまだ不安だったが、より良い案はなかった。彼女は頷き、クリスのプランに同意した。

「私が入って30秒後に、あなたも入って」クリスは最終確認をした。「マエストロ先生を見つけたら、すぐに連れ出して」

オリは深呼吸をし、準備を整えた。クリスは自分の服を整え、王族らしい威厳のある姿勢を取った。そして、彼女は扉を開け、堂々と中に入っていった。

「こんにちは、皆さん」クリスの声が響いた。「お探しものですか?」

オリは扉の隙間から中を覗いた。それは先ほどとは別の研究室で、より広く、多くの実験装置が設置されていた。ヘリックス教授と数人の「観察者」メンバーが中央にいて、マエストロは椅子に縛られていた。彼は疲れた様子だったが、怪我はないようだった。

「クリス!」ヘリックス教授は驚いた声を上げた。「どうやって脱出した?」

「私を甘く見ないでください、教授」クリスは冷静に言った。「私は王家の血を引いているのですよ」

彼女はゆっくりと部屋の中央に歩み寄った。全員の注目が彼女に集まっている。これがオリのチャンスだ。

オリは30秒を数え、静かに部屋に忍び込んだ。彼女は影に身を隠しながら、マエストロのいる場所へと近づいた。

「何が目的だ、クリス?」ヘリックス教授は厳しい口調で尋ねた。「あなたのような高貴な血筋の者が、なぜ『塡』などに加担する?」

「それは私が聞きたいくらいです」クリスは堂々と言い返した。「なぜ教授のような賢明な方が、世界の危機を見て見ぬふりをするのですか?」

彼女はさらに一歩前に出た。「次元の皺は広がり続けています。放置すれば、世界は崩壊するでしょう」

彼らの論争が続く中、オリはマエストロの後ろに忍び寄った。彼は縛られていたが、意識はあり、オリに気づくと小さく頷いた。

「大丈夫ですか?」オリは小声で尋ねた。

「わしは無事じゃ」マエストロも小声で答えた。「縄を解いてくれんか」

オリはマエストロを縛っている縄に目を向けた。それは通常の縄ではなく、特殊な形状術で強化されていた。彼女は縄の折り目を観察し、それを「解く」イメージを描いた。

前方では、クリスとヘリックス教授の議論が白熱していた。

「観察することが我々の使命だ」教授は主張した。「自然の摂理に反する干渉は、さらなる混乱を招く」

「でも、次元の皺は自然現象ではありません」クリスは反論した。「何者かの意図的な干渉によって生じたものです」

「何者かだと?」教授は眉を上げた。「そんな証拠があるのか?」

クリスは自信を持って言った。「古文書の研究から、私たちは『折り手』の予言を知りました。世界が危機に瀕したとき、『折り手』が現れる。彼らは世界の裂け目を修復する役割を担うのです」

「古い言い伝えを信じているのか」教授は嘲笑した。「それが『塡』の根拠か」

彼らの会話に気を取られている間に、オリはマエストロの縄を解くことに成功した。老教授はゆっくりと立ち上がり、オリに感謝の目配せをした。

「さて、どう抜け出すかのう」マエストロは周囲を観察した。

オリも部屋を見回した。直接の出口は一つだけで、そこにはノックスともう一人の学生が立っていた。窓もなく、他に逃げ道はなさそうだった。

「私に考えがあります」オリは小声で言った。「空間を『折る』ことで、一時的な通路を作れるかもしれません」

マエストロは驚きの表情を見せた。「それは高度な技じゃ。できるのかい?」

「やってみます」オリは決意を固めた。

彼女は部屋の壁に集中した。壁の向こう側には別の通路があるはずだ。彼女は壁の空間を「折る」ことで、両側をつなげることをイメージした。

オリの能力が壁に向かって広がり、空間が徐々に歪み始めた。壁の一部が半透明になり、向こう側の通路が見えるようになった。

「驚いたな…」マエストロは感嘆の声を上げた。「本当にできるとは」

しかし、この空間操作は大きなエネルギーを放出し、部屋中の「折り目」が反応し始めた。装置が震え、警報音が鳴り始めた。

ヘリックス教授が即座に振り返った。「何が…!?」

彼はオリとマエストロを発見し、怒りの表情を見せた。「止めろ!彼女の能力を止めろ!」

ノックスが二人に向かって駆け寄ってきた。クリスが迅速に動き、彼の進路を結晶の壁で塞いだ。

「今よ!」クリスは叫んだ。

オリは最後の力を振り絞り、空間の折り目を完全に「開いた」。壁の一部が完全に透明になり、通路への入口が形成された。

「急ぐのじゃ!」マエストロはオリを促した。

オリが最初に通路に入り、マエストロが続いた。クリスは結晶の壁を強化し、追手を遅らせてから、彼らの後を追った。

三人が通路に入ると、オリは振り返り、入口を「閉じる」ことに集中した。空間が元に戻り始め、壁が再び不透明になっていった。

「走るぞ!」マエストロが言った。

彼らは通路を全力で走った。背後からは怒号と爆発音が聞こえ、ヘリックス教授たちが追ってくる気配がした。

「どこに向かうの?」オリは息を切らしながら尋ねた。

「地上じゃ」マエストロは応えた。「ここにいては危険すぎる」

クリスが先頭に立ち、彼らを導いた。「この先に非常階段があるわ。そこから中庭に出られる」

しかし、彼らが角を曲がると、通路が突然途切れていた。先は深い穴になっており、向こう側には続きの通路が見えた。かつての事故で崩壊したままなのだろう。

「まずいのう…」マエストロは立ち止まった。

オリは深呼吸をし、穴を見つめた。「私が橋を作ります」

彼女は先ほどよりも自信を持って能力を使った。空間を「折る」というよりも、空間そのものを「織る」ようなイメージだ。彼女の力が広がり、穴の上に半透明の道が形成されていった。

「素晴らしい…」マエストロは感嘆した。

「急いで!」クリスが促した。「彼らが来るわ!」

マエストロが最初に渡り、クリスが続いた。オリは最後に渡り始めたが、途中で背後から声が聞こえた。

「そこまでだ!」

振り返ると、ヘリックスとノックスが通路の端に立っていた。ヘリックスは手を前に出し、螺旋状の力を放った。オリの作った空間の橋が揺れ始めた。

「オリ、急いで!」クリスが叫んだ。

オリは必死で前に進んだが、橋が急速に崩れ始めていた。彼女の足元が消え始め、彼女は落ちかけた。

「オリ!」マエストロが彼女に手を伸ばした。

オリは思わず「宇宙の花」の折り紙を握りしめた。すると、折り紙が強く光り始め、彼女の周りの空間が安定した。彼女は最後の力を振り絞って跳躍し、マエストロの手を掴んだ。

「つかまえたぞ!」マエストロは彼女を引き上げた。

彼らの後ろで橋が完全に崩壊し、ヘリックスたちは一時的に足止めされた。

「先を急ぐのじゃ」マエストロは言った。「彼らも別の道を探すじゃろう」

三人は再び走り始めた。オリは体力を消耗していたが、友人たちの助けを借りて前進した。折り紙はまだ彼女の手の中で光を放っていた。

「あの折り紙…」クリスは走りながら言った。「特別なものね」

「マエストロ先生からもらったの」オリは息を切らしながら答えた。「『宇宙の花』って」

「『宇宙の花』!?」クリスは驚いた表情を見せた。「伝説の形状術のシンボルよ。マエストロ先生がそれをあなたに…」

彼女の言葉は途切れた。前方に光が見え、階段が上に伸びているのが見えた。

「あそこだ!」マエストロが指さした。「地上への出口じゃ!」

彼らは階段に向かって駆け上がった。扉を開けると、眩しい日光が彼らを包んだ。彼らは中庭に出ていた。周囲には混乱した学生たちがおり、爆発の余波でまだ騒然としていた。

「ここなら安全か?」オリは周囲を見回した。

「一時的にはな」マエストロは言った。「しかし、ヘリックスは諦めないじゃろう」

クリスは周囲を確認し、二人を人気のない場所へと導いた。古い木立の陰で、彼らはようやく休息をとった。

「私たちはどうすればいいの?」オリは不安げに尋ねた。

マエストロは深く考え込んだ。「もはや学院に留まるのは危険じゃ。少なくとも、状況が落ち着くまでは」

「でも、どこに行けばいいの?」オリはさらに不安になった。

クリスが決意を込めた表情で言った。「私には考えがあるわ。安全な場所を知っている」

「どこじゃ?」マエストロが尋ねた。

「王都」クリスはきっぱりと言った。「私の家族の下に行くの。そこなら『観察者』も簡単には手出しできないわ」

オリとマエストロは驚いた顔を見合わせた。

「本当に王族なの?」オリは尋ねた。

クリスは微笑んだ。「完全な王族ではないけど、血筋は確かよ。エティア王国の王族の一族なの」

マエストロは頷いた。「確かに王都なら安全かもしれんな。しかし、どうやって行く?」

「私に任せて」クリスは自信たっぷりに言った。「まずは学院を出ないと。荷物を取りに行かなければ」

「危険すぎるじゃろう」マエストロは反対した。「寮には見張りがいるはずじゃ」

「そうね…」クリスは考え込んだ。「じゃあ、最低限必要なものだけを集めましょう」

オリは「宇宙の花」の折り紙をポケットにしまいながら言った。「私は、この折り紙と結晶さえあれば大丈夫。他に必要なものは特にないよ」

マエストロも頷いた。「わしも同じじゃ。すぐに出発できる」

クリスは考え込んだ後、決断した。「よし、私の特別寮に行きましょう。そこなら必要なものが揃っているわ。それに、王都への交通手段も手配できる」

三人は周囲の様子を窺いながら、人目を避けて移動し始めた。学院全体がまだ混乱しており、それが彼らの行動を隠す助けになった。

クリスは彼らを小さな裏庭を通って、特別寮の裏口へと導いた。特別寮は普通の学生寮よりも立派な建物で、個室も広かった。

「ここよ」クリスは小さな扉を開けた。

彼らが中に入ると、クリスは素早く部屋を確認した。彼女の部屋は広く、優雅な家具が置かれていた。壁には王国の紋章が飾られ、高貴な出自を物語っていた。

「本当に王族…」オリは部屋を見回した。

「言ったでしょ?」クリスは笑顔を見せた。彼女は素早く動き、小さな鞄に必要なものを詰め始めた。「お金、交通手段の手配に必要な印章、そして…」

彼女は壁の隠し引き出しを開け、小さな箱を取り出した。「これが最も大切なもの」

「それは?」オリは好奇心を抱いた。

クリスは箱を開け、一枚の紙を取り出した。一見すると普通の紙だったが、近づくと複雑な模様が描かれているのが分かった。

「『世界図』よ」クリスは説明した。「世界の主要な『折り目』が記された地図。『塡』の活動に不可欠なものなの」

マエストロはその地図を見て、驚きの表情を見せた。「これは…貴重じゃ。どうやって手に入れた?」

「家族から受け継いだの」クリスは地図を鞄に入れた。「何世代にもわたって王族が守ってきたものよ」

彼女は準備を終え、二人に向き直った。「これで出発できるわ。王都までは半日の旅になる」

「どうやって行くのじゃ?」マエストロが尋ねた。

「馬車を手配するわ」クリスは窓の外を見た。「王族の紋章があれば、質問されることなく通してもらえる」

彼女は部屋の隅にある小さな装置に近づき、それを操作した。「これで連絡が届くわ。一時間もすれば、馬車が学院の東門に来るはず」

「その間、どうする?」オリは不安そうに尋ねた。

「ここで待つのは危険すぎる」マエストロは言った。「ヘリックスたちがすぐに探し始めるじゃろう」

クリスは頷いた。「そうね。学院を出て、東門の近くで待ちましょう。森の中なら見つかりにくいわ」

三人は再び周囲を確認し、特別寮を後にした。彼らは人目を避け、学院の東側へと向かった。森の入り口に近づいたとき、オリは突然立ち止まった。

「待って」彼女は声を潜めた。「誰かいる」

彼らは茂みに身を隠し、前方を見た。東門の近くに、リーフが立っていた。彼は何かを探すように周囲を見回していた。

「リーフ先生…」オリは小声で言った。「彼も『観察者』なの?」

クリスは首を傾げた。「分からないわ。彼はどちらの側にも属していないと思っていたけど…」

「いずれにせよ、用心せねばならん」マエストロは慎重に言った。「別の道を探すのじゃ」

彼らは森の中を迂回し、東門への別の近道を探し始めた。しかし、オリの心には疑問が残っていた。リーフは味方なのか敵なのか。そして、この先、彼らを何が待ち受けているのか。

森の中を迂回しながら、オリたちは慎重に東門を目指していた。木々の間から漏れる夕日の光が、彼らの足元を照らしていた。学院の騒ぎは少し落ち着いたようだが、警戒を解くことはできなかった。

「あと少しじゃ」マエストロは小声で言った。「東門まではこの先を曲がるだけ」

彼らが森の縁に近づいたとき、突然、木の陰から人影が現れた。オリたちは即座に身構えた。

「そこまでだ」

その声を聞いて、オリは驚いた。「メロディ?」

確かにそれは、オリが食堂で会った音変化の能力を持つ少女だった。しかし、彼女の表情は先日の親しげなものとは全く違っていた。冷たく、敵意に満ちていた。

「よく覚えていたわね」メロディは皮肉めいた笑みを浮かべた。「残念だけど、ここで終わりよ」

彼女は手を前に出し、空気中に音の波紋を広げ始めた。

「メロディも『観察者』なの?」オリは動揺した表情で尋ねた。

「賢いじゃない」メロディは答えた。「私たちはあなたがここに来た時から監視していたの。『折り手』の出現は予言されていたものだから」

クリスが前に出た。「メロディ、私たちは敵じゃない。世界を救おうとしているだけよ」

「『塡』の言うことを信じているの?」メロディは冷笑した。「彼らは世界の秩序を乱すだけ。干渉は事態を悪化させるだけよ」

彼女は両手を広げ、さらに強い音波を生み出そうとした。しかし、その瞬間、別の方向から声が聞こえた。

「やめろ、メロディ」

振り返ると、リーフが立っていた。彼は真剣な表情でメロディを見つめていた。

「リーフ…」メロディは少し驚いた様子を見せた。「あなたまで彼らを庇うの?」

「私は誰も庇っていない」リーフは静かに言った。「ただ、真実を知りたいだけだ」

彼はオリの方を見た。「君に聞きたいことがある。君は本当に別の世界から来たのか?そして、なぜここにいるのか?」

オリは一瞬躊躇ったが、正直に答えることにした。「私は転生者よ。前世の記憶はあまり残っていないけど、観測の間で一部を見た。そして…私には使命があるみたい。世界の『折り目』を直すことだって」

リーフはじっと彼女を見つめた。まるで彼女の魂の奥底まで見透かすように。

「信じるわ」彼は最終的に言った。「そして、君を止めるつもりはない」

「何を言ってるの?」メロディは動揺した。「彼女は危険よ!ヘリックス教授が言っていたじゃない」

「ヘリックス教授が常に正しいとは限らない」リーフは反論した。「私は自分の目で確かめた。オリは悪意を持っていない。彼女には特別な役割があるんだ」

彼はメロディに近づき、静かに言った。「思い出して。私たちが『観察者』になった理由を。世界の真実を知るためだったはずだ。盲目的に従うためじゃない」

メロディは混乱した表情を見せ、手を下げた。「でも…」

「あなたたちの議論は後にしたらどうじゃ?」マエストロが割り込んだ。「今は逃げることが先決だ」

リーフは頷き、オリたちに向き直った。「東門には警備が厳重についている。別の出口を使うべきだ」

「でも、馬車は東門に来ることになっているわ」クリスが心配そうに言った。

「馬車を呼び直せばいい」リーフは言った。「北門ならまだ監視が薄い」

「それなら、私が馬車に連絡を」メロディは突然言った。彼女はまだ完全に納得してはいないようだったが、リーフを信頼していることは明らかだった。

クリスは彼女に印章を渡した。「これを見せれば、疑問を持たれることはないわ」

メロディは頷き、素早く去っていった。

「彼女は大丈夫?」オリは心配そうに尋ねた。

「大丈夫だ」リーフは安心させた。「メロディは正義感が強いだけで、根は優しい。彼女なら約束を守る」

彼は北側を指さした。「さあ、こっちだ。人目につかないように行こう」

彼らは森の中を通り、学院の北側へと向かった。オリはリーフに近づき、小声で尋ねた。

「なぜ私たちを助けてくれるの?」

リーフは少し考えてから答えた。「私はどちらの側にも完全には属していない。『観察者』でありながら、彼らの全ての見解に同意しているわけではない」

彼はオリをじっと見た。「それに、君に対する興味もある。君が本当に『折り手』なら、世界の未来を変えるかもしれない」

途中、彼らは何度か学院の警備を避けねばならなかった。ヘリックスの命令で、全学院が警戒態勢に入っていたようだ。

「学院長はこの状況を知っているのかしら?」クリスが疑問を投げかけた。

「エティア学院長は出張中だ」リーフは答えた。「彼女が不在の間、ヘリックス教授が権限を持っている」

「都合がよすぎるのう」マエストロは眉をひそめた。「罠の可能性もあるのではないか」

「確かに…」リーフも同意した。「学院長がいればこんな事態にはならなかっただろう」

彼らが北門に近づくと、メロディが待っていた。彼女は少し落ち着かない様子だった。

「馬車は十分後に来るわ」彼女は報告した。「でも、ヘリックス教授が全ての門に監視を強化するよう命令を出したわ。時間がないかも」

「なんとかせねばならん」マエストロは周囲を見回した。

リーフは考え込んだ後、言った。「私とメロディで注意を引きつける。その間に、君たちは馬車に乗って」

「危険すぎるわ」クリスは反対した。「あなたたちが捕まったら…」

「大丈夫」リーフは自信を持って言った。「私たちは『観察者』の一員だ。最悪でも軽い処罰で済む」

メロディも頷いた。「リーフの言う通りよ。私たちなら言い訳を考えられる」

彼らは作戦を練った後、リーフとメロディは警備員たちの気を引くために別の方向へ向かった。オリたちは北門の近くの茂みに隠れ、馬車を待った。

間もなく、白い馬に引かれた優雅な馬車が見えてきた。車体には王家の紋章が描かれていた。警備員たちは最初、馬車を怪訝そうに見ていたが、メロディとリーフが何か騒ぎを起こし始めると、そちらに注意を向けた。

「今よ!」クリスが囁いた。

三人は素早く茂みから飛び出し、馬車に向かって走った。御者は彼らを見ると、すぐに彼らを乗せる準備をした。クリスが印章を見せると、御者は深く頭を下げた。

「お待ちしておりました、お嬢様」

彼らが馬車に乗り込んだ瞬間、警備員の一人が気づき、叫んだ。

「おい!そこの馬車!止まれ!」

御者はすぐに手綱を引き、馬車は勢いよく動き出した。追ってくる警備員たちの姿が小さくなっていく中、オリはリーフとメロディの姿を最後まで見ようとした。彼らは警備員たちに取り囲まれていたが、冷静に対応しているように見えた。

「彼らは大丈夫?」オリは心配そうに尋ねた。

「大丈夫だろう」マエストロは安心させた。「リーフは賢い青年じゃ。上手く対処するじゃろう」

馬車は学院を遠く離れ、王都へと続く街道に出た。夕日が地平線に沈み始め、空は赤く染まっていた。

「王都までどれくらいかかる?」オリは窓の外を見ながら尋ねた。

「通常なら半日の旅だけど、この馬車なら早いわ」クリスは答えた。「明日の朝には着くでしょう」

オリはポケットから「宇宙の花」の折り紙を取り出し、見つめた。折り紙は月明かりの下で静かに光っていた。

「あなたの能力は驚くべきものね」クリスは感心した様子で言った。「あんな風に空間を折るなんて、見たことがなかった」

「私自身もびっくりしたよ」オリは正直に答えた。「体が勝手に動いたみたい」

「前世の記憶が体に残っているのじゃろう」マエストロは説明した。「『折り手』の能力は単なる形状術ではない。世界の根幹に関わる力じゃ」

彼は窓の外を見やった。「私たちの逃亡はヘリックスたちをより激しく動かすことになるじゃろう。気を抜くことはできんな」

クリスは頷いた。「そのためにも、王都で味方を増やさなければ。王宮には『塡』の協力者がいるわ」

オリは自分の役割について考え込んだ。彼女が本当に世界を救うことができるのか?自分の能力をコントロールできるのか?そして、前世の記憶はどこまで取り戻せるのだろうか?

夜が深まるにつれ、馬車は街道を進み続けた。マエストロはすでに眠りについており、年齢を考えれば当然のことだった。クリスは窓の外を見つめ、警戒を解かない様子だった。

「少し休んだら?」オリはクリスに優しく言った。「交代で見張りをしようか」

クリスは微笑んだ。「大丈夫よ。この馬車には防御魔法が施されているから。簡単には追いつかれないわ」

彼女はポケットから小さな結晶を取り出した。「これを見て」

クリスが結晶に触れると、それは光り始め、小さな映像を映し出した。彼らの後ろの道が見えた。追手はいない。

「すごい」オリは感心した。「結晶の能力も奥が深いのね」

「『結晶変化』は単に物質を結晶化するだけじゃないの」クリスは説明した。「結晶構造を通じて、情報を保存したり伝達したりすることもできるわ」

彼女は結晶をしまい、オリの方を見た。「あなたも少し休んだ方がいいわ。今日は大変な一日だったもの」

オリは確かに疲れを感じていた。彼女は窓辺に頭を預け、揺れる馬車の中で少しずつ眠りに落ちていった。

夢の中で、オリは再び前世の姿を見た。佐藤みどりは研究室で複雑な折り紙を手にしていた。それは「宇宙の花」に似ていたが、さらに複雑だった。みどりは何かを書き留め、「四次元折りたたみモデル完成」と囁いた。

その後、場面は変わり、みどりは別の場所にいた。彼女は大きな装置の前に立ち、同僚らしき人々と話していた。「この実験が成功すれば、空間の折りたたみが実証されます」と彼女は言った。

しかし、次の瞬間、何かがおかしくなった。装置が明るく光り始め、制御不能になったようだった。「停止してください!」誰かが叫んだ。しかし、遅すぎた。爆発が起き、光が部屋中を覆った。

その光の中で、みどりの体が紙のように折りたたまれていく。しかし、完全に消えるのではなく、別の光の中に流れ込んでいくようだった。その光は「折り目」のようにも見え、別の世界へとつながっているようだった。

「オリ、起きて」

クリスの声でオリは目を覚ました。外は明るくなり始めていた。

「もうすぐ王都よ」クリスは窓の外を指さした。

オリは窓から身を乗り出し、遠くに見える巨大な城壁と高い尖塔を見た。朝日に照らされた王都は、まるで絵画のように美しかった。

「あれが王都…」オリは感嘆の声を上げた。

「フォルディア王国の中心、エティア・ロイヤルよ」クリスは誇らしげに言った。「世界で最も進んだ形状術の研究が行われている場所でもあるわ」

マエストロも目を覚まし、窓の外を見た。「久しぶりじゃな、王都は」

「来たことあるんですか?」オリは驚いた。

「若い頃、研究のために数年過ごしたことがあるのじゃ」マエストロは懐かしむように言った。「あれは五十年以上前のことじゃがな」

馬車は王都の大通りに入り、多くの人々が行き交う街並みを進んでいった。建物は学院よりもさらに壮麗で、形状術が随所に使われているようだった。壁が波打ったり、屋根が空中に浮かんでいたりと、不思議な光景が広がっていた。

「すごい…」オリは目を見開いた。「建物が動いてるように見える」

「形状術が日常生活に溶け込んでいるのじゃ」マエストロは説明した。「王都では、形状術は特別なものではなく、生活の一部じゃ」

馬車は中央広場を通り過ぎ、城に向かって進んだ。巨大な城は山の上に建ち、まるで自然の一部のように見えた。

「あの城は…」

「エティア城よ」クリスは答えた。「王家の居城であり、『塡』の活動の中心でもあるわ」

彼らが城の入口に近づくと、警備の騎士たちが馬車を止めた。クリスが窓から顔を出し、印章を見せると、騎士たちは驚いた様子で頭を下げた。

「クリスタル様、お帰りなさいませ」

馬車は城内へと入った。広大な中庭を通り過ぎ、城の東側にある別館の前で止まった。

「ここよ」クリスは馬車から降りた。「私の家族の住まい」

オリとマエストロも馬車から降り、別館の豪華さに圧倒された。それは小さな城のようで、全体が結晶の輝きを放っていた。

「クリスタル…それがあなたの本当の名前?」オリは尋ねた。

クリスは微笑んだ。「正確には、クリスタリア・エティア・ローズ。でも長いから、みんなクリスって呼ぶのよ」

彼女は二人を中に招き入れた。内部はさらに豪華で、壁や天井には美しい結晶の装飾が施されていた。

「まるで宝石箱の中にいるみたい」オリは感嘆した。

クリスは侍女たちに指示を出し、客室の準備をさせた。「少し休んで、それから会議があるわ」彼女は説明した。「『塡』のメンバーたちと会うの」

オリは少し緊張した。「私たちも参加するの?」

「もちろん」クリスは頷いた。「あなたは『折り手』よ。みんなあなたに会いたがっているわ」

彼らは豪華な客室に案内され、侍女たちが新しい衣装や食事を用意してくれた。マエストロは別の部屋に案内され、オリはクリスの隣の部屋に通された。

「こんな豪華な部屋、初めて…」オリは広い部屋を見回した。

ベッドは柔らかく、窓からは城下町の素晴らしい景色が見えた。彼女はベッドに腰を下ろし、ポケットから「宇宙の花」の折り紙を取り出した。折り紙は部屋の光の中でさらに鮮やかに輝いていた。

「佐藤みどり…」オリは小さく呟いた。「私は本当にあなたなの?」

彼女は夢で見た光景を思い出した。実験の失敗、そして別の世界への転生。それが自分の運命だとしたら、何のために?

考え込んでいると、ドアがノックされた。

「オリ、準備はいい?」クリスの声だった。

オリはドアを開けた。クリスは学院の制服から、美しい正装に着替えていた。青と銀の刺繍が施された優雅なドレスで、彼女の高貴さがより引き立っていた。

「これを着てみて」クリスは侍女に持たせた衣装をオリに渡した。「会議には正装が必要なの」

オリは衣装を受け取り、驚いた。それは青と金の色合いの美しいドレスで、胸元には「折り手」を象徴する模様が刺繍されていた。

「こんな素敵な服、私が着ていいの?」

「もちろん」クリスは微笑んだ。「『折り手』にふさわしい衣装よ」

オリは着替えを済ませ、クリスと共に大広間へと向かった。マエストロも新しい服装で待っており、若々しく見えた。

「いよいよじゃな」マエストロはオリに小声で言った。「緊張することはない。わしたちがついておる」

大広間に入ると、数十人の人々が円卓を囲んで座っていた。老若男女様々で、衣装も多様だったが、全員が何らかの形状術師のように見えた。

彼らが入ると、全員が立ち上がり、特にオリに注目した。

「いらっしゃい、『折り手』よ」円卓の上座に座る年配の女性が言った。「私たちはあなたの到着を長い間待っていました」

クリスが前に出て、説明した。「こちらが『塡』の長、祖母のクリスタリア・エティア・サファイア様です」

老女はオリに微笑みかけた。彼女からは威厳と知性が溢れていた。

「座りなさい、若き『折り手』よ」彼女は招き入れた。「そして、あなたの物語を聞かせてください」

オリはクリスとマエストロに導かれ、円卓に着席した。全員の視線が彼女に向けられる中、彼女は自分の経験を話し始めた。森での目覚め、アルトとの出会い、学院での生活、そして能力の発見について。

彼女が話し終えると、クリスタリア長老が静かに言った。「予言通りだ。世界が危機に瀕したとき、『折り手』が現れる」

「危機とは何ですか?」オリは尋ねた。

長老は立ち上がり、部屋の中央に歩み出た。彼女が手をかざすと、空中に複雑な立体的な地図が現れた。それはフォルディア世界の全体像のようだった。

「世界の『折り目』が崩れている」長老は説明した。「約三十年前から、世界各地で『次元の皺』と呼ばれる現象が発生し始めた。空間が歪み、現実が混乱する現象だ」

地図上には赤い点が複数表示され、それは徐々に広がりつつあるように見えた。

「これが『次元の皺』か…」オリは地図を見つめた。

「そう」長老は頷いた。「そして、それは自然現象ではない。誰かが意図的に引き起こしているのだ」

「誰が?」マエストロが尋ねた。

「それが、私たちが解明したいことだ」長老は答えた。「しかし、一つだけ確かなことがある。この危機を止められるのは『折り手』だけだということだ」

彼女はオリをじっと見つめた。「あなたには、世界の『折り目』を修復する力がある。しかし、その前に、あなたの能力を完全に目覚めさせる必要がある」

オリは不安と決意が入り混じった気持ちになった。「どうすればいいですか?」

「特別な訓練を施そう」長老は言った。「そして、あなたの前世の記憶を完全に取り戻させる。佐藤みどりの知識と技術が、この世界を救う鍵となるだろう」

会議はさらに続き、様々な報告や議論が行われた。「観察者」の動きや、次の行動計画などが話し合われた。オリは全てを理解することはできなかったが、事態の重大さは感じ取れた。

会議が終わると、クリスはオリを彼女の部屋へと連れ戻した。

「どう思った?」クリスは尋ねた。

「圧倒されたよ」オリは正直に答えた。「こんなに大きな責任を担うなんて…」

「あなた一人で全てを背負う必要はないわ」クリスは彼女を安心させた。「私たちがいるもの」

夜が訪れ、オリは自分の部屋に戻った。窓からは満月が美しく輝いていた。彼女は窓辺に立ち、王都の夜景を眺めながら思いを巡らせた。

これが彼女の使命なのか。世界の危機を救うために、前世から転生してきたのか。そして、彼女には本当にそれができるのか?

「佐藤みどり…私の前世」オリは空を見上げた。「あなたの知識と記憶が、この世界を救う鍵なら…私はそれを取り戻す」

彼女は「宇宙の花」の折り紙を手に取り、月明かりに照らした。折り紙は鮮やかに輝き、まるで彼女の決意に応えるかのようだった。

「明日から始まる訓練、頑張るよ」オリは小さく呟いた。

彼女は窓を閉め、ベッドに向かった。しかし、完全に眠りにつく前に、彼女の手が一瞬透明になった。今回は恐れるのではなく、オリはその現象を観察した。

「これが私の本質…」

彼女は自分の体と魂の繋がりを感じ取ろうとした。そして、よく見ると、彼女の周りには微かな「折り目」が見えた。それは彼女自身から放射されているようだった。

「私自身が『折り目』の一部…」

その発見とともに、オリはようやく安らかな眠りに落ちた。彼女の新しい冒険は、ここから始まるのだ。
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