折り目の世界〜異世界に折りたたまれた数学者〜

アクナキユメ

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第3話:学院の秘密

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翌朝、オリは不思議な夢から目覚めた。夢の中で彼女は高い塔の上にいて、世界全体が一枚の紙のように広がっていた。そして彼女は自分の手でその世界を折りたたみ始めていた。山は谷になり、海は空と重なり、ありとあらゆるものが折り目に沿って変形していった。

「何の夢だったんだろう…」

オリはベッドから起き上がり、窓辺に目をやった。昨夜置いた折り紙の鍵はそこにあった。「東の塔の最上階へ」というメッセージを思い出す。誰があのメッセージを残したのだろう?「C」とは誰なのか?

彼女は急いで身支度を整え、朝食のために食堂へ向かった。学院の生活も少しずつ慣れてきて、廊下を迷わずに歩けるようになってきた。

食堂ではいつものように多くの学生が食事をとっていた。オリはクリスの姿を探したが、見当たらなかった。代わりにリーフが彼女に手を振っていた。

「おはよう、オリ!」リーフは明るく挨拶した。「一緒に食べよう」

オリは彼の隣に座り、朝食を取り始めた。

「今日の予定は?」リーフが尋ねた。

「午前中は『形状応用理論』で、午後は個別実習…」オリは予定表を確認した。

「そうそう、今日からあなた専用の実習プログラムが始まるんだ」リーフは嬉しそうに言った。「『折り手』の能力は特殊だから、個別指導が必要なんだ」

オリは頷いた。「誰が指導してくれるんですか?」

「それがね、マエストロ教授が志願してくれたんだ」リーフは少し驚いた様子で言った。「彼はめったに個別指導をしないのに、特別にあなたの担当を買って出たんだよ」

オリはマエストロのことを思い出した。昨日の特別レッスンのこと、彼女が「転生者」かもしれないという話。彼はすでに彼女の指導を志願していたのか。

「あの…リーフ先生」オリは少し躊躇いながら尋ねた。「東の塔の最上階って何があるんですか?」

リーフは少し驚いた表情を見せた。「東の塔?あそこはほとんど使われていないよ。一部は古文書保管庫になっているけど…なぜ?」

「いえ、ちょっと気になって」オリは視線を逸らした。

リーフは彼女をじっと見たが、それ以上は追及しなかった。「そういえば、クリスを見なかった?昨日の夕方から姿を見ていないんだ」

「えっ?」オリは驚いた。「私も今日はまだ会っていません」

「そうか…」リーフは眉をひそめた。「彼女、たまに特別な任務で学院を離れることがあるんだ。王族の血筋だから」

オリは思わず窓辺のメッセージを思い出した。「C」とは本当にクリスのことなのだろうか?

食事を終えると、オリは「形状応用理論」の教室へ向かった。この授業は上級生向けのもので、リーフの特別な計らいで参加することになっていた。

教室に入ると、彼女よりも明らかに年上の学生たちばかりだった。彼らはオリを見て興味深そうに眺め、小声で話し合った。

「あれが『折り手』か?」
「かわいいじゃないか」
「本当に空間を折れるのか?」

オリは少し緊張しながら空いている席に座った。すると、隣の席から声がかけられた。

「ねえ、本当に『折り手』なの?」

振り向くと、鋭い目をした少年がオリを見つめていた。彼は黒い髪を後ろで束ね、眉間にうっすらと傷跡があった。

「は、はい…一応」オリは小さな声で答えた。

「へえ、すごいな」少年は彼女を興味深そうに見つめた。「俺はノックス。『消去』の能力者だ」

「消去?」

「ああ、触れたものの一部を消し去ることができるんだ」少年は手を上げ、指先が黒く輝くのを見せた。

オリは少し身を引いた。その能力は危険に思えた。

「怖がることはないさ」ノックスは笑った。「学院内では能力の悪用は禁止されているんだ」

授業が始まる前に、ノックスはオリに質問を続けた。

「君はどこの出身?青い髪は珍しいな」

「私…覚えていないんです」オリは正直に答えた。「記憶があいまいで」

「そうか、記憶喪失か」ノックスは興味深そうに眉を上げた。「それとも、『転生者』とか?」

オリは息を呑んだ。彼がなぜそんな言葉を?

「なに?そんな言葉、どこで…」

「おやおや、当たりか?」ノックスは意地悪く笑った。「この世界には色々な噂があるんだよ。他の世界から来た魂とかさ」

彼がさらに何かを言う前に、教授が入ってきた。彼は厳格な表情の中年男性で、シャープな眼鏡をかけていた。

「静かに」彼は言った。「今日の『形状応用理論』を始める」

教授はオリの方を見て、一瞬瞳孔が開いたように見えた。「新しい学生がいるようだね。『折り手』のオリさん」

オリは少し頭を下げた。教授は続けた。

「私はヘリックス教授だ。王国の首席顧問形状術師でもある」

彼は自己紹介すると、すぐに授業を始めた。今日のテーマは「形状術の次元操作」だった。

「形状術は単に物の形を変えるだけのものではない」ヘリックス教授は説明した。「それは空間そのものに働きかけ、次元を操る可能性を秘めている」

彼は手を前に出し、空中に螺旋状の模様を描いた。すると、彼の前の空間が歪み始め、小さな渦が形成された。

「これは『螺旋変化』の基本形だ」教授は説明した。「空間を螺旋状に変形させることで、物質の流れを制御する」

渦の中に小さな石を投げ入れると、石は螺旋に沿って回転し、最終的に別の場所に出現した。まるでワームホールのようだった。

学生たちは感嘆の声を上げた。オリも魅了されて見つめていた。

「これが『次元操作』の基本だ」教授は続けた。「空間そのものの形を変える」

彼は授業の途中でオリに質問を投げかけた。

「オリさん、君の『折り』の能力は、空間にも適用できるか?」

オリは緊張して答えた。「はい…少しだけ試したことがあります。空気を折ることはできました」

「空気ではなく、空間そのものだ」教授は厳しく言った。「両者は全く異なる」

オリは困惑した表情を見せた。空間そのものを折るとはどういうことだろう?

「難しいことを聞いてすまない」教授は少し口調を和らげた。「『折り手』の能力は、理論上は空間操作に最も適している。歴史上の記録からも、それは明らかだ」

授業の後半、教授は学生たちに簡単な次元操作の練習をさせた。それぞれの能力を使って、目の前の小さな球体の動きを変えるというものだった。

ノックスは自分の番になると、球体に触れ、その一部を「消去」した。するとバランスが崩れた球体は、予測不可能な軌道で動き始めた。

「見事だ、ノックス」教授は評価した。「『消去』を使った空間の非対称化。効果的だ」

そしてオリの番が回ってきた。

「さあ、オリさん」教授は期待を込めて言った。「君の『折り』を試してみなさい」

オリは緊張しながら球体に集中した。彼女は心の中で空間を「折る」ことをイメージしようとした。球体の周りの空間が折り紙のように折れ曲がり、球体の動きを変えるイメージ。

彼女が手を前に出すと、不思議なことが起こった。球体の周りの空気が歪み始め、光の屈折が変わった。そして球体が徐々に変形し始めた。まるで四次元空間から見た三次元物体のように、理解しがたい形になっていった。

教室が静まり返った。教授さえも言葉を失ったように見えた。

「素晴らしい…」彼はついに言った。「これは単なる形の変化ではない。次元の操作だ」

オリは自分でも何が起きたのか理解できなかった。彼女は力を解放し、球体は元の形に戻った。しかし、何かが変わっていた。球体の内部には、微かに折り目のような模様が残っていた。

「オリさん、授業の後で少し話がある」教授は静かに言った。

授業が終わると、他の学生たちは教室を後にした。ノックスはオリに意味深な視線を送り、「また会おう、『折り手』さん」と言って去っていった。

残されたのはオリとヘリックス教授だけだった。

「素晴らしい能力だ」教授は正面から彼女を見つめた。「予想以上だよ」

「ありがとうございます…でも、何が起きたのかよくわかりません」オリは正直に言った。

「君は空間の『折り目』を見ることができるようだね」教授は静かに言った。「それは非常に稀な才能だ」

彼は机に近づき、引き出しから小さな箱を取り出した。箱を開けると、中には奇妙な形をした結晶があった。それは常に形を変えているように見え、目を惑わせた。

「これは『次元結晶』と呼ばれるものだ」教授は説明した。「世界の『折り目』から生まれた特殊な物質だよ」

オリは不思議な結晶を見つめた。なぜか懐かしい感覚があった。まるで以前にも見たことがあるかのように。

「世界の折り目…」オリは無意識に呟いた。

「そう、この世界には『折り目』がある」教授は頷いた。「通常の人間には見えないが、特定の能力者には感知できる。特に『折り手』にとっては顕著だろうね」

彼はオリをじっと見つめた。「君の能力を研究させてもらえないだろうか?王国の形状術研究において、非常に価値があるのだ」

オリは少し躊躇した。「研究…ですか?」

「もちろん、君の自由意志を尊重する」教授は穏やかに微笑んだ。「放課後に、私の研究室に来てくれないだろうか?東棟の中層階にある」

「東棟…」オリは息を呑んだ。昨夜のメッセージを思い出す。「東の塔の最上階へ」

「何か?」教授は彼女の反応に気づいた。

「いえ、何でもありません」オリは急いで答えた。「考えておきます」

「そうか」教授は少し残念そうにしたが、強要はしなかった。「いつでも歓迎するよ」

教室を出ると、オリは深い思考に沈んだ。東棟には何があるのか?そして「C」は何を伝えようとしているのか?

昼食時、オリは一人で食堂の隅に座っていた。クリスの姿はまだ見えなかった。彼女が食事を取っていると、突然隣に誰かが座った。

「ひとりなの?」

振り向くと、昨日マエストロの研究室で見た楽器の一つのように見える形の髪飾りをつけた少女がいた。彼女は年齢がオリと同じくらいで、優しそうな笑顔を持っていた。

「私はメロディ。『音変化』の学部よ」彼女は自己紹介した。「あなたが噂の『折り手』ね」

「はい…オリです」

「知ってるわ」メロディは笑った。「学院中があなたの話題でもちきりなのよ」

彼女はオリの横に座り、親しげに話しかけてきた。オリは緊張がほぐれ、メロディと会話を楽しみ始めた。

「マエストロ教授のレッスン、どうだった?」メロディが突然尋ねた。

オリは驚いた。「どうして知ってるの?」

「私はマエストロの助手をしているの」メロディは説明した。「あなたが特別レッスンを受けると聞いていたわ」

「そうなんだ…」オリはホッとした。「レッスンは…興味深かったです。でも、少し怖いこともあって」

「怖い?」

「はい、私が『転生者』かもしれないという話で…」

メロディの顔が一瞬引きつった。しかし、すぐに笑顔に戻った。「マエストロはときどき奇妙なことを言うから、気にしないで」

彼女は話題を変え、学院の日常や授業について話し始めた。オリは少し不思議に思ったが、メロディの親しみやすさに安心感を覚えた。

「そういえば」オリはついに勇気を出して尋ねた。「東の塔の最上階って何があるの?」

メロディの動きが一瞬止まった。「どうして?」

「ちょっと気になって…」

メロディは左右を見回し、声を低くした。「東塔の最上階は『観測の間』と呼ばれているわ。通常は立ち入り禁止よ」

「観測の間?」

「世界の『折り目』を観測する特殊な部屋だと言われているわ」メロディは神秘的に言った。「でも、噂だけよ。私も行ったことはないから」

オリはますます興味を持った。東塔の最上階、観測の間、そして姿を消したクリス。すべてがつながっているような気がした。

「あなた、行く気?」メロディが不思議そうに尋ねた。

「いえ、ただの好奇心」オリは誤魔化した。

メロディはオリをじっと見た後、立ち上がった。「午後の授業、遅れるわよ。一緒に行かない?」

オリは頷き、彼女と共に食堂を出た。午後は個別実習の時間だった。マエストロとの特別レッスンだ。

彼女は考えた。放課後、東の塔に行くべきだろうか?メッセージの「C」は本当にクリスなのか?そして、ヘリックス教授の研究の誘いはどうするべきか?

疑問は次々と浮かんできたが、答えは見つからなかった。唯一確かなのは、学院には彼女がまだ知らない多くの秘密があるということだった。

午後の特別レッスンのために、オリはマエストロの研究室へと向かった。昨日のレッスンの記憶が鮮明によみがえる。「転生者」という言葉と、前世の断片的な記憶。今日はどんなことを学ぶのだろうか。

研究室のドアをノックすると、中からマエストロの声が聞こえた。「どうぞ」

部屋に入ると、マエストロはピアノの前に座っていた。昨日と同じように、部屋中の楽器が壁に掛けられ、床には複雑な幾何学模様が描かれていた。しかし今日は、部屋の中央に小さなテーブルが置かれ、その上には様々な紙が並べられていた。

「いらっしゃい、オリさん」マエストロは微笑んだ。「昨日の夜はよく眠れましたかの?」

「はい…でも、不思議な夢を見ました」オリは答えた。

「どんな夢か聞いても?」マエストロは興味を示した。

オリは朝方見た夢について話した。高い塔から世界全体を紙のように折りたたむ夢。マエストロは深く頷いた。

「夢は時に、魂の記憶を映し出す鏡となる」老教授は言った。「特に『転生者』の場合は顕著じゃろう」

彼はテーブルへとオリを案内した。「今日は、『折り』の能力の本質について探求しましょう」

テーブルの上には様々な種類の紙が並べられていた。普通の紙、厚紙、和紙、そして見たことのない素材で作られた特殊な紙まで。

「形状術の中でも、『折り』の能力は最も繊細かつ奥深いものなのじゃ」マエストロは説明を始めた。「それは単に物質を変形させるだけでなく、空間の構造そのものに働きかける可能性を秘めておる」

彼はオリに一枚の特殊な紙を渡した。それは銀色に輝き、手に取ると不思議な軽さがあった。

「これは『星の紙』と呼ばれる特殊な素材じゃ」マエストロは説明した。「夜空に輝く星の光を集めて作られると言われておる」

オリは紙を慎重に手に取った。その感触は通常の紙とは全く異なり、まるで液体と固体の中間のような不思議な質感だった。

「この紙を使って折ってみてくだされ」マエストロは静かに言った。「心を開いて、紙が望む形を感じてもらえるかの」

オリは紙に集中した。通常、彼女は頭の中でイメージした形に紙を折るが、今回は紙自体に語りかけるように意識を向けた。「あなたはどんな形になりたいの?」

すると、不思議なことが起きた。紙が彼女の手の中で自ら動き始めたのだ。折り目が自然についていき、複雑な形へと変わっていった。オリは驚きながらも手を添え、紙の動きを助けた。

最終的に紙は、オリが見たこともないような複雑な立体構造になった。それは花のようでもあり、結晶のようでもあり、そして宇宙の一部のようでもあった。

「素晴らしい…」マエストロは息を呑んだ。「これは『宇宙の花』と呼ばれる形じゃ。古代の『折り手』たちが残した伝説の形なのじゃが、実際に見たのは初めてになる」

オリは自分の作品を不思議そうに見つめた。「私…これを作ったの?」

「あなたではなく、紙自身が望んだ形」マエストロは説明した。「あなたはただ、その願いを感じ取り、手助けしただけじゃ」

彼は立ち上がり、壁の方へ歩いた。棚から古い本を取り出し、ページをめくった。

「ここに記録がある」彼は一ページを指さした。「『宇宙の花』は世界の構造を象徴する形じゃと言われておる。この形を理解することで、『折り手』は世界の秘密に近づくことができると」

オリは「宇宙の花」をじっと見つめていた。不思議なことに、折り紙の中心から微かな光が漏れているように見えた。

「これは…光っているの?」

マエストロは彼女の側に戻ってきた。「ええ、『星の紙』には特殊な特性がある。正しい形に折られると、紙に封じ込められた星の光が解放されるのじゃ」

オリは感動して見つめていた。彼女の作品が本当に光を放っている。それは微かだが、確かに存在する光だった。

「さて、次の段階に進もうかの」マエストロは言った。「今度は、紙だけでなく、空間そのものを『折る』練習をしてもらう」

彼は部屋の中央へオリを導いた。床の幾何学模様の中心に立つように指示した。

「空間を折るためには、まず空間を『見る』必要があある」マエストロは説明した。「通常の人間には見えんが、『折り手』には見えるはずじゃ。空間の『折り目』が」

オリは集中した。彼女は今朝の夢のことを思い出し、世界が紙のように見える感覚を呼び覚ました。

最初は何も見えなかったが、しばらくすると、彼女の視界が変わり始めた。空気中に微かな線が見え始めたのだ。それは光の屈折のようでもあり、空気の流れのようでもあった。

「見える…」オリはささやいた。「空気の中に線が…」

「それが『折り目』じゃ」マエストロは嬉しそうに言った。「世界の構造を支える基本的な線じゃ」

オリは部屋中に走る無数の折り目に驚いた。それは三次元空間を超えた、何か別の次元につながっているようだった。

「次は、その折り目に働きかけてみようかの」マエストロは指示した。「一つの折り目を選び、それを『強調』してみるのじゃ」

オリは目の前に見える一本の折り目に集中した。それは他よりも少し太く、鮮明に見えた。彼女はその線を頭の中でなぞり、「強調」することをイメージした。

すると、驚くべきことが起きた。その折り目が実際に光り始め、空間が少し歪むのが見えた。まるで布地に折り目をつけるように、空間そのものが折れ曲がったのだ。

「素晴らしい!」マエストロは興奮した様子で言った。「あなたは本当に才能がある。わずか二日目のレッスンで空間操作ができるなんての」

オリは自分でも驚いていた。彼女は折り目を解放し、空間は元に戻った。しかし、わずかに痕跡が残っているのが見えた。

「これが『折り手』の本当の力じゃ」マエストロは静かに言った。「物質だけでなく、空間そのものを操作する能力」

彼はオリに近づき、真剣な表情で言った。「しかし、この能力には大きな責任が伴う。空間を不適切に操作すると、危険な結果を招くことがあるのじゃ」

「危険?」オリは不安になった。

「んむ。歴史上、『折り手』の暴走によって空間が不安定になり、『次元の皺』と呼ばれる現象が発生したことがある」マエストロは説明した。「それは空間と時間の歪みを引き起こし、多くの災害をもたらしたのじゃ」

オリは身震いした。自分の能力がそんなに危険なものだとは思っていなかった。

「恐れる必要はないぞ」マエストロは彼女の肩に手を置いた。「だからこそ、適切な訓練が必要なのじゃ。あなたの能力をコントロールし、正しく使えるようになるために」

彼はピアノの方に戻り、静かな旋律を奏で始めた。音色が部屋に広がると、オリは不思議と心が落ち着くのを感じた。

「音と形は深く結びついておる」マエストロは弾きながら言った。「私の『振動変化』と、あなたの『折り』は、実は遠い親戚のようなものなのじゃ」

オリは音楽に身を委ね、再び空間の折り目を見つめた。音楽に合わせて、折り目が微妙に振動しているように見えた。

「音楽は空間の振動じゃ」マエストロは説明を続けた。「そして、折り目もまた振動しておる。両者を調和させることで、より洗練された操作が可能になるのじゃ」

彼は演奏を続けながら、オリに指示した。「音楽に合わせて、空間を折ってみてくだされ。優しく、強制せずに」

オリは音楽のリズムを感じながら、再び折り目に集中した。今度は一本ではなく、複数の折り目を同時にイメージした。それらが音楽に合わせて動き、新たなパターンを形成する様子を思い描いた。

するとゆっくりと、部屋の空間が変化し始めた。壁が遠ざかり、天井が高くなり、部屋全体が広がっていった。しかし、それは物理的に広がったわけではなく、空間そのものが「折りたたまれて」新しい構造になったのだ。

室内は今や、星空のドームのようになっていた。オリの周りには小さな光の点が無数に浮かび、彼女の「宇宙の花」折り紙から放たれた光が増幅されたかのようだった。

マエストロは演奏を続けながら、微笑んだ。「素晴らしい…あなたは本当に特別な才能を持っておる」

オリは自分が作り出した空間の変化に息を呑んだ。美しかった。しかし同時に、圧倒的な力の感覚もあった。彼女は少し怖くなり、集中を解いた。

すると、空間はゆっくりと元の状態に戻り始めた。光の点は消え、壁と天井は通常の位置に戻った。

「大丈夫かの?」マエストロは演奏を止め、オリの表情を見た。

「はい…ただ、少し怖くなって」オリは正直に答えた。「こんな力が私に本当にあるなんて…」

「それは自然な反応じゃ」マエストロは優しく言った。「大きな力には大きな責任が伴います。あなたがその重みを感じるのは、良いことじゃ」

彼はピアノから立ち上がり、オリの前に立った。

「今日の成果は期待以上」彼は言った。「あなたは『折り手』として素晴らしい才能を持っておる。しかし、まだ学ぶことはたくさんある」

オリは頷いた。確かに、彼女はまだ自分の能力の表面しか理解していなかった。

「マエストロ先生」彼女は勇気を出して尋ねた。「東の塔の最上階には何があるのですか?」

老教授の表情が一瞬硬くなった。「なぜそのような質問を?」

「聞いたことがあって…」オリは正直に言った。「『観測の間』とかいう場所があると」

マエストロは深いため息をついた。「東塔の最上階には確かに『観測の間』がある。それは世界の『折り目』を観測するための特殊な部屋じゃ」

「行ったことがありますか?」

「ええ、何度かの」マエストロは窓の外を見た。「しかし、あそこは一般の学生には立ち入り禁止なのじゃ。非常に危険な場所でもあるからの」

「危険?」

「世界の折り目が集中する場所なのじゃ」マエストロは説明した。「空間が不安定で、準備なく入ると迷子になる可能性もある」

彼はオリをじっと見た。「なぜそこに興味を?」

オリは迷った。メッセージのことを話すべきだろうか?しかし、彼女はまだ完全にマエストロを信頼していいのか確信が持てなかった。

「ただの好奇心です」彼女は言った。

マエストロはしばらく彼女を見つめていたが、それ以上は追及しなかった。

「今日のレッスンはここまでじゃ」彼は話題を変えた。「明日も同じ時間に」

オリは頷き、「宇宙の花」の折り紙を手に取った。

「それはあなたのものじゃ」マエストロは言った。「『星の紙』で作られた折り紙は、作り手と特別な繋がりを持つ。大切にしてあげてほしい」

オリは感謝の言葉を述べ、研究室を後にした。廊下に出ると、彼女はしばらく立ち止まって考え込んだ。

東の塔に行くべきか?クリスはどこにいるのか?そしてヘリックス教授の研究の誘いは?

彼女はまず図書館に向かうことにした。東塔について、もっと情報を集める必要があった。

図書館に着くと、オリは「東塔」や「観測の間」に関する書籍を探し始めた。しかし、具体的な情報を見つけるのは難しかった。

「何をお探しですか?」

振り返ると、図書館の司書らしき年配の女性が立っていた。彼女は優しい笑顔で、オリを見ていた。

「あの、東塔について知りたいと思って…」

司書は少し驚いた表情を見せたが、すぐに微笑んだ。「東塔についての資料なら、古文書セクションにありますよ。ついてきてください」

オリは司書について図書館の奥へと進んだ。彼らは何層もの書架を通り過ぎ、ついに「禁書区域」と書かれた扉の前に来た。

「通常、このセクションは上級学生と教授陣のみ入室可能です」司書は言った。「しかし、あなたは『折り手』のオリさんですね?特別に許可しましょう」

オリは驚いたが、礼を言って扉の中に入った。部屋の中は薄暗く、古い本や羊皮紙が整然と並んでいた。空気も違っていて、何世紀もの知識が凝縮されているかのようだった。

「東塔に関する資料はこちらです」司書は一つの書架を指した。「何か特定の情報をお探しですか?」

「観測の間について知りたいんです」オリは正直に言った。

司書の表情が一瞬曇ったが、彼女は頷いた。「この本をご覧ください」

彼女は古い革表紙の本を取り出し、オリに渡した。タイトルは「フォルディア世界の折り目と次元構造」だった。

「ありがとうございます」オリは感謝した。

「どういたしまして」司書は微笑んだ。「必要なだけ読んでください。ただし、本は持ち出せませんのでご注意を」

司書が去った後、オリは本を開き、目次で「観測の間」の項を探した。それは本の後半、「次元の交差点」という章にあった。

ページをめくると、オリは驚くべき情報を目にした。

「観測の間は、世界の折り目が交差する特殊な場所である。そこでは次元の境界が薄く、通常では見えない世界の構造を観測することができる。しかし、それは同時に危険も伴う。不用意に折り目を操作すれば、『次元の皺』を引き起こし、現実を歪める可能性がある」

本にはさらに「観測の間」の歴史が記されていた。それは学院の創立時から存在し、歴代の形状術師長が管理してきたという。しかし、約100年前に起きた「次元の危機」以降、立ち入りが厳しく制限されるようになった。

「次元の危機」の詳細については別の章に記載があるとのことで、オリはそのページを探した。しかし不思議なことに、その章は本から切り取られていたのだ。

「切り取られている…?」オリはページの切れ端を見つめた。誰かが意図的に情報を隠したのだろうか?

さらにページをめくると、「折り手の役割」という項があった。

「『折り手』は世界の折り目を直接操作できる唯一の存在である。彼らは次元の安定を守る役割を担い、時に『次元の皺』を修復する使命を持つ。歴史上の記録によれば、『折り手』は常に世界の危機に現れ、その能力で均衡を取り戻してきた」

オリは読みながら、自分の役割について考えた。もし自分が「折り手」として世界の危機に対応する使命を持っているとしたら?そして、その「危機」とは何なのか?

彼女が読み進めていると、突然背後から声がした。

「興味深い読み物ですね」

振り返ると、ヘリックス教授が立っていた。彼は微笑んでいたが、その目は鋭く光っていた。

「教授…」オリは少し驚いた。

「東塔と観測の間について調べているようですね」教授は本を覗き込んだ。「なぜ突然そのような興味を?」

オリは正直に答えることにした。「世界の折り目について、もっと知りたかったんです。マエストロ先生のレッスンで少し触れたので」

「なるほど」教授は頷いた。「マエストロはあなたに多くを教えているようですね」

彼はオリの隣に座った。「私も東塔について、多くの知識を持っていますよ。特に観測の間については」

「本当ですか?」オリは興味を示した。

「ええ、私は定期的に観測の間で研究を行っています」教授は言った。「世界の折り目の研究は、私の専門分野の一つですから」

彼はオリをじっと見た。「あなたが東塔に興味があるなら、案内することもできますよ」

オリは心臓が早鐘を打つのを感じた。これは絶好の機会だが、同時に警戒心も感じた。

「ありがとうございます」彼女は慎重に言った。「でも、いきなりそんな特別な場所に行っても大丈夫なんですか?」

「あなたは『折り手』です」教授は静かに言った。「観測の間はあなたのような人のためにあるのです」

オリはまだ迷っていた。メッセージでは「東の塔の最上階へ」と指示されていたが、このタイミングでヘリックス教授と行くべきなのだろうか?

「少し考えさせてください」彼女は最終的に言った。

「もちろん」教授は理解を示した。「急ぐ必要はありません。準備ができたら、いつでも私の研究室に来てください」

彼は立ち上がり、去る前に一言付け加えた。「ただ、東塔は危険な場所でもあります。一人で行くのは避けた方がいいでしょう」

教授が去った後、オリは本を閉じ、深く考え込んだ。今夜、東塔に行くべきか?ヘリックス教授に案内してもらうべきか?それとも、クリスからの応答を待つべきか?

彼女は窓の外を見ると、すでに夕方になっていた。太陽が西に傾き、学院の尖塔に長い影を落としていた。その中で、東塔だけが夕日に照らされ、金色に輝いていた。

「決めた」オリは静かに言った。「夜になったら、東塔に行こう」

夜が訪れ、学院は静寂に包まれていた。ほとんどの学生が自分の部屋に引き上げ、廊下の灯りも落とされていた。オリは部屋で緊張しながら時間を待っていた。

彼女は窓から外を見た。満月が空に浮かび、学院の建物を銀色に照らしていた。東塔はひときわ存在感があり、月明かりに照らされて幻想的な姿を見せていた。

「行くべきかどうか…」

オリはまだ迷っていた。メッセージで指示された東塔。クリスの失踪。ヘリックス教授の警告。すべてが彼女の中で渦巻いていた。

彼女はポケットから「宇宙の花」の折り紙を取り出した。マエストロから贈られたそれは、月明かりの下で静かに光を放っていた。

「決めた」オリは最終的に立ち上がった。「行ってみよう」

彼女は学院の制服の上に暖かいショールを羽織り、静かに部屋を出た。廊下は薄暗く、月の光だけが窓から差し込んでいた。オリはできるだけ音を立てないように気をつけながら、東塔への道を進んだ。

学院の中央広場を横切るとき、彼女は一瞬立ち止まった。誰かに見られていないか確認するためだ。しかし、広場は静まり返っており、彼女以外の気配はなかった。

東塔の入り口に着くと、オリは大きな扉の前で躊躇った。扉には「関係者以外立入禁止」という札が掛けられていた。しかし、意外なことに扉は少し開いていた。誰かが先に入ったのだろうか?

オリは深呼吸をし、慎重に扉を押し開けた。中は予想以上に明るく、壁に取り付けられた小さな光石が淡い光を放っていた。

塔の内部は螺旋状の階段が中心にあり、上へと続いていた。壁には奇妙な記号や図形が刻まれており、オリには見覚えのあるような、ないような不思議な感覚があった。

彼女は階段を上り始めた。階段を上るにつれ、空気が変わっていくのを感じた。より薄く、より澄んでいくような感覚。そして、微かに「折り目」が見えるようになってきた。空間に浮かぶ細い線が、階段を上るにつれて増えていった。

「これが世界の折り目…」

オリは階段の途中で休憩のために立ち止まった。ここからは学院全体が見渡せた。月明かりに照らされた建物群は、まるで別の世界のようだった。

彼女が再び歩き始めると、突然階段の一部が透明になったように見えた。驚いて立ち止まり、慎重に足元を確認する。実際には階段はそこにあったのだが、一瞬見えなくなっていた。

「空間が不安定なのね…」

オリは警戒しながら進んだ。上層階に近づくにつれ、このような空間の歪みが増えていった。壁が波打ったり、階段が湾曲したり、時には天井と床が反転したように見えることもあった。

最終的に、オリは最上階に到達した。そこには大きな銀色の扉があり、「観測の間」と刻まれていた。扉の周りには複雑な幾何学模様が描かれ、中心には「折り目」を象徴すると思われる特殊な記号があった。

扉の前で、オリは最終的な決断を迫られた。本当に中に入るべきか?しかし、ここまで来て引き返すのも無意味だった。彼女は勇気を出して、扉に手を触れた。

扉が静かに開くと、息を呑むような光景が彼女の目の前に広がった。

部屋は円形で、天井はドーム状になっていた。しかし、それは普通の部屋ではなかった。壁も床も天井も、すべてが透明で、まるで宇宙空間に浮かんでいるかのような錯覚を覚えた。

そして最も驚くべきことに、部屋全体に無数の「折り目」が見えた。それらは光の糸のように空間を走り、複雑な網目を形成していた。まるで世界の構造そのものが可視化されたかのようだった。

「美しい…」オリは思わず声に出した。

「そう思ってくれて嬉しいわ」

声がしたので振り返ると、部屋の反対側にクリスが立っていた。彼女はいつもの学院の制服ではなく、より豪華な衣装を身につけていた。それは王族の正装のようだった。

「クリス!」オリは驚いて叫んだ。「あなたがここにいたの?」

「ええ」クリスは微笑んだ。「あなたが来るのを待っていたわ」

彼女はゆっくりとオリに近づいてきた。「メッセージは受け取った?」

オリは頷いた。「『C』はあなただったのね」

「そうよ」クリスは部屋の中央を指した。「ここは特別な場所。世界の『折り目』が最も濃密に交差する場所なの」

オリは周囲を見回した。確かに、部屋の中央には特に多くの折り目が集まっていた。それは巨大な結び目のようで、光のエネルギーが渦巻いているように見えた。

「なぜ私をここに?」オリは尋ねた。

クリスは深呼吸をした。「あなたに見せたいものがあるの」

彼女は部屋の中央に向かって歩き始めた。オリはそれに従った。中央に近づくにつれ、光の強さが増し、折り目の密度も高くなっていった。

中央には小さな台座があり、その上に奇妙な装置が置かれていた。それは水晶のような素材で作られ、内部で光が脈動していた。

「これは『次元鏡』」クリスは説明した。「世界の別の側面を覗くことができる装置よ」

「別の側面?」

「ええ。異なる『折り目』の向こう側を見ることができるわ」クリスは装置に手を置いた。「特に、あなたの来た世界を」

オリの心臓が跳ねた。「私の…世界?」

「あなたは『転生者』よね?」クリスはオリをじっと見た。「別の世界から来た魂」

オリは驚いた。「どうしてそれを?」

「私にも特別な能力があるの」クリスは静かに言った。「『結晶変化』だけじゃない。私は人の本質を見ることができるわ。あなたの魂が別の場所から来たことが分かったの」

クリスは装置を操作し始めた。「この装置を使えば、あなたの前世の世界を垣間見ることができるわ」

オリは混乱と期待が入り混じった気持ちになった。自分の前世の世界を見ることができるなんて。それは彼女の謎を解く鍵になるかもしれない。

「準備はいい?」クリスが尋ねた。

オリは緊張しながらも頷いた。

クリスが装置の中心にある結晶を回すと、突然部屋全体が明るく光り始めた。空間が歪み、折り目がすべて一点に集中していくように見えた。

そして、彼女たちの前に別の空間への「窓」が開いたかのように、映像が浮かび上がった。

それは高層ビルの立ち並ぶ都市の風景だった。車が行き交い、人々が忙しく歩いている。そして、その風景の中に一人の女性が見えた。彼女は青い服を着て、大学らしき建物から出てきたところだった。

「あれが…私?」オリは息を呑んだ。

「佐藤みどり」クリスは静かに言った。「あなたの前世の姿よ」

オリは映像に映る女性をじっと見つめた。彼女は30代前半くらいで、知的な印象を与える眼鏡をかけていた。腕にはファイルを抱え、何か考え事をしているようだった。

「彼女は…私は何をしていたの?」オリは小さな声で尋ねた。

「折り紙数学の研究よ」クリスは言った。「特に、四次元空間における折りたたみの理論」

オリの頭に断片的な記憶が蘇った。数式、複雑な図形、そして「四次元折りたたみモデル」という言葉。

映像は変わり、研究室の中のシーンになった。みどりは複雑な折り紙を手に取り、何かをメモしている。彼女の机の上には、オリがレッスンで作った「宇宙の花」に似た形の折り紙があった。

「彼女の研究は、世界を理解する新しい方法を提供していたわ」クリスは説明した。「折り紙を通じて、高次元空間の構造を解明しようとしていたの」

そして映像は再び変わり、雨の夜の交差点が映し出された。みどりが横断歩道を渡っているとき、突然の光と共に車が彼女に向かって走ってきた。

オリは思わず目を閉じた。しかし、衝突の瞬間の映像は表示されなかった。代わりに、奇妙な光景が映し出された。

みどりの体が紙のように折りたたまれ、小さな点へと収束していく。そして、光の中でその点が消えていく。直後、別の光が広がり、フォルディアの森の中に少女の姿が現れた。オリの姿だ。

「私は…折りたたまれて…ここに来たの?」オリは混乱していた。

「ええ、あなたの魂は世界の『折り目』を通って、この世界に転生したのよ」クリスは装置の操作を止めた。映像が消え、部屋は元の状態に戻った。

「でも、なぜ?」オリは問いかけた。「なぜ私はここに来たの?」

クリスは彼女をじっと見つめた。「それが重要な質問ね」

彼女は窓の方に歩み寄り、外を見た。「この世界は危機に瀕しているわ」

「危機?」

「ええ。世界の『折り目』が不安定になっているの」クリスは説明した。「数年前から、『次元の皺』と呼ばれる現象が各地で発生し始めた。現実が歪み、時空が混乱する現象よ」

彼女はオリの方を振り返った。「そして歴史的に見て、そのような危機の時に『折り手』が現れるの」

オリは全身に電流が走るような感覚を覚えた。「つまり、私がその『折り手』?」

「そう思うわ」クリスは頷いた。「あなたの能力は特別。通常の形状術とは次元が違う」

オリは圧倒される思いだった。自分が世界の危機を救うために転生してきたなんて。それは重すぎる運命ではないか?

「でも、私にそんなことができるの?」彼女は不安に駆られて尋ねた。

「一人でする必要はないわ」クリスは彼女の手を取った。「私が手伝う。そして他にも協力者がいるはず」

オリはクリスの手を握り返した。不思議と彼女の言葉に安心感を覚えた。たしかに、この数日間で出会った人々—アルト、リーフ、マエストロ—彼らは皆、彼女を導き、助けてくれる存在だった。

「学院は知っているの?」オリは尋ねた。「私が転生者で、世界を救う使命があることを」

クリスは少し表情を曇らせた。「学院の中には知っている人もいるわ。でも、全員がそれを望ましいと思っているわけではないの」

「どういう意味?」

「学院の中には『観察者』と呼ばれるグループがいるわ」クリスは声を低くした。「彼らは自然の摂理を重んじ、次元の介入を禁じている。あなたのような『折り手』は危険だと考えているの」

オリは身震いした。「私を排除しようとする?」

「可能性はあるわ」クリスは正直に答えた。「だから私たちは慎重に行動する必要があるの」

彼女は部屋の中央に戻った。「今夜はこれくらいにしましょう。あまり長く滞在すると、空間の歪みが強くなるわ」

オリは頷いた。確かに、部屋の空気が変わってきているのを感じた。折り目がより活発に動き、時には激しく振動しているように見えた。

「また来ていい?」オリはクリスに尋ねた。

「もちろん」クリスは微笑んだ。「だけど、次回は私と一緒に来て。一人で来るのは危険よ」

彼女はポケットから小さな結晶を取り出し、オリに渡した。「これを持っていて。私を呼びたい時は、これを握りしめて。私に信号が届くわ」

オリは結晶を受け取った。それは冷たく、内部で微かに光が脈動していた。

「ありがとう」彼女は言った。「でも、あなたは本当に王族なの?」

クリスは少し笑った。「複雑な話よ。いつか詳しく話すわ」

彼女は扉の方に向かい、オリにも続くよう促した。「さあ、帰りましょう。朝になる前に」

二人は階段を下り始めた。下る途中、オリは不思議に思った。実は、上るときよりも下りる方が容易に感じられたのだ。空間の歪みも少なく、折り目の干渉も穏やかだった。

「下りる方が簡単ね」オリは小声で言った。

「当然よ」クリスは微笑んだ。「塔は『上昇する折り目』で構成されているの。下りる時は自然な流れに乗っているだけだから」

彼らが塔の入り口に近づくと、クリスは突然立ち止まり、オリの腕を掴んだ。

「誰かいる」彼女は警戒するように囁いた。

オリも足を止め、耳を澄ました。確かに、入り口の方から足音が聞こえてきた。

クリスは素早く判断し、オリを壁の窪みに押し込んだ。「ここで待って」

彼女は壁に触れ、その一部を結晶化させた。結晶はオリを映すように透明だが、外からは壁の一部に見えるようになった。

ちょうどその時、階段を上ってくる人影が見えた。それはヘリックス教授だった。彼は周囲を警戒するように見回しながら、ゆっくりと上へと進んでいった。

教授が彼らの隠れた場所を通り過ぎた後、クリスは結晶を元に戻し、オリを連れ出した。

「ヘリックス教授…」オリは小声で言った。「彼も観測の間に?」

「おそらくね」クリスは眉をひそめた。「でも今は考えることじゃないわ。早く外に出ましょう」

二人は急いで塔を後にし、学院の中央広場を横切った。月はすでに西に傾き、夜も更けていた。

クリスはオリを自分の部屋まで送った。「今夜見たこと、聞いたことは秘密にしておいて」彼女は真剣な表情で言った。「誰にも話してはだめよ」

「リーフ先生にも?マエストロにも?」

クリスは少し考えた後、答えた。「マエストロは信頼できるかもしれないわ。でも、今はまだ控えた方がいいと思う」

彼女はオリの肩に手を置いた。「明日、詳しく話しましょう。ちゃんと説明することがたくさんあるわ」

オリは頷いた。今夜の出来事は彼女の想像を超えるものだった。自分が前世では折り紙数学者で、この世界に転生してきたこと。そして、世界の危機を救うという使命があること。

「おやすみ、クリス」オリは言った。「今日は…ありがとう」

「おやすみ」クリスも微笑んだ。「明日、また会いましょう」

クリスが去った後、オリは自分の部屋に入り、窓辺に座った。月の光が部屋を銀色に照らしていた。彼女はポケットから「宇宙の花」の折り紙と、クリスからもらった結晶を取り出した。両方とも月明かりの下で静かに光を放っていた。

「私が『折り手』…」

彼女は自分の手を見つめた。今は透明になっていなかったが、その理由が少しずつ理解できるようになってきた。彼女の魂と体の結合が完全でないこと。彼女が別の世界から来たこと。

オリはベッドに横になりながら、今夜の出来事を思い返した。観測の間で見た前世の映像。佐藤みどりという女性。彼女の研究と事故。そして、この世界への転生。

「私にはこの世界を救う使命があるのね…」

その考えは重い責任を感じさせると同時に、不思議な安心感ももたらした。彼女の能力には意味があった。彼女がここにいることには理由があった。

オリは窓から見える東塔を見つめながら、眠りに落ちていった。その夜、彼女は再び世界が折りたたまれる夢を見た。しかし今回は、恐怖ではなく、希望を感じていた。

翌朝、オリはいつもより早く目覚めた。朝日が窓から差し込み、部屋を明るく照らしていた。彼女はすぐに身支度を整え、クリスに会いに行こうと思った。

しかし、部屋を出ようとした瞬間、ドアをノックする音がした。

「誰?」オリは尋ねた。

「オリ、僕だよ」リーフの声だった。「ちょっと話があるんだ」

オリは躊躇いながらもドアを開けた。リーフは普段より硬い表情をしていた。

「おはよう、リーフ先生」オリは挨拶した。「どうしたの?」

「クリスを見なかった?」リーフはいきなり尋ねた。

オリの心臓が飛び跳ねた。「え?いいえ…昨日から会っていません」彼女は嘘をついた。

リーフはオリをじっと見つめた。「そう…」彼は少し考え込んだ後、続けた。「実は、クリスが行方不明になったんだ。昨夜から彼女の部屋に戻っていないらしい」

「えっ?」オリは本物の驚きを見せた。昨夜、クリスと別れた後、彼女は自分の部屋に戻らなかったのだろうか?

「何か心当たりはない?」リーフは尋ねた。「昨日、彼女と会ったのは最後にいつ?」

「一昨日の朝…食堂で」オリは答えた。それ以降の出会いについては話さないことにした。

リーフは深いため息をついた。「そうか…学院長が緊急会議を開いている。クリスは王族の血を引いているから、彼女の失踪は重大事なんだ」

オリは動揺していた。昨夜別れた後、クリスに何が起きたのだろう?東塔から出た後、彼女はどこへ行ったのか?

「私、何か手伝えることある?」オリはリーフに尋ねた。

「今のところは」リーフは首を振った。「ただ、何か情報があれば教えてほしい」

彼はオリの肩に手を置いた。「今日の授業は中止になった。全教員がクリスの捜索に当たるからね」

リーフが去った後、オリは部屋の中を歩き回った。彼女はクリスからもらった結晶を取り出し、握りしめた。

「クリス、どこにいるの?」

結晶は冷たく、何の反応もなかった。オリはどうすべきか迷った。クリスの失踪とヘリックス教授が東塔に向かっていたことは関係あるのだろうか?

彼女は決断して、マエストロの研究室へ向かうことにした。マエストロなら何か知っているかもしれない。クリスも「マエストロは信頼できるかもしれない」と言っていた。

研究室に着くと、オリは慎重にドアをノックした。

「どうぞ」中から声が聞こえた。

部屋に入ると、マエストロはピアノの前に座っていたが、演奏はしていなかった。彼は憂いに満ちた表情をしていた。

「オリさん」彼は少し驚いた様子で言った。「今日はレッスンがないはずじゃが…」

「クリスのことで来ました」オリは率直に言った。「彼女が行方不明だと聞いて…」

マエストロの表情が変わった。「クリスか…」

オリは彼に近づいた。「先生は何か知っていますか?彼女について、そして『観察者』について」

マエストロは驚いたように彼女を見た。「『観察者』?その名前をどこで?」

「クリスから聞きました」オリは正直に言った。

マエストロは立ち上がり、部屋の窓を閉め、ドアが確実に閉まっていることを確認した。

「ここでなら、少しは話せるかもしれん」彼は声を低くした。「しかし、外の世界には『耳』があることを忘れないでほしい」

オリは頷いた。

「『観察者』は学院内の秘密結社じゃ」マエストロは説明を始めた。「彼らは世界の『折り目』を守り、不適切な干渉を防ぐことを使命としておる」

「クリスは彼らと関係があるの?」

「いいや」マエストロは首を横に振った。「むしろ逆じゃ。クリスは『塡』と呼ばれる別のグループに属していると思われる」

「『塡』?」

「世界の『折り目』を修復しようとするグループじゃ」マエストロは説明した。「彼らは『次元の皺』が増加していることを憂慮し、積極的に介入しようとしておる」

オリはこの新しい情報を消化しようとした。「そして、私は?」

「あなたは『折り手』」マエストロは静かに言った。「どちらのグループにも属ささぬ、独立した存在じゃ。しかし、両方のグループがあなたを必要としておる」

彼はオリをじっと見つめた。「クリスがあなたに何を見せたのか知らないが、彼女はおそらくあなたを『塡』に引き込もうとしているのじゃろう」

「彼女は私の前世を見せてくれました」オリは言った。「観測の間で」

マエストロは驚いた様子だった。「観測の間に行ったのかの?」

「はい、昨夜」

「危険な行動じゃ」マエストロは眉をひそめた。「観測の間は空間が不安定で、特に昨夜は『折り目』の活動が活発じゃった」

オリは不安になった。「クリスの失踪と関係があるかも?」

「可能性はある」マエストロは考え込んだ。「クリスが本当に『塡』のメンバーなら、彼女は危険な立場におる。『観察者』は彼らの活動を快く思っていないからの」

「彼女を助けなきゃ」オリは決意を固めた。

「焦ってはいかん」マエストロは彼女を制した。「まず、状況を正確に把握する必要があるの」

彼はオリに尋ねた。「クリスは何か、あなたに残したものはないのかの?」

オリはポケットから結晶を取り出した。「これをくれました。彼女を呼びたい時は、これを握りしめてと」

マエストロは結晶を見て、目を見開いた。「これは『共鳴結晶』…」

「共鳴結晶?」

「二つの場所、あるいは二人の人間を繋ぐ特殊な結晶じゃ」マエストロは説明した。「クリスがその片割れを持っているなら、これを使って彼女の居場所を特定できるかもしれないの」

彼はオリに結晶の使い方を教えてくれた。単に握りしめるだけでなく、自分の「折り」の能力を少し注入する必要があるという。

「結晶を折り目に合わせて『折る』のじゃ」マエストロは言った。「そうすれば、クリスとの共鳴が強まるはずじゃ」

オリは結晶を手に取り、集中した。彼女は結晶の内部に見える微かな折り目に意識を向け、それを「強調」するイメージを思い描いた。

結晶が徐々に明るく光り始め、内部の模様が変化し始めた。それはまるで何かを映し出そうとしているようだった。

「できとる!」マエストロが励ました。

やがて、結晶の中に小さな映像が現れた。それは暗い部屋のようで、わずかに人影が見えた。

「クリス?」オリは結晶に向かって呼びかけた。

映像はぼやけていたが、確かにクリスのようだった。彼女は何かに拘束されているようで、動きが制限されていた。

「どこにいるの?」オリは焦って聞いた。

映像の中のクリスが口を動かしたが、音声は聞こえなかった。しかし、オリには彼女が何を言おうとしているか分かるような気がした。

「地下…研究室…気をつけて…」

そして、映像が突然消えた。結晶は元の状態に戻り、光も失せた。

「地下の研究室?」オリは困惑して言った。

「学院の地下には古い研究施設がある」マエストロは説明した。「かつては形状術の実験が行われていたのじゃが、今は使われていないはずじゃ」

「行かなきゃ」オリは立ち上がった。

「待ちなさい」マエストロは彼女を止めた。「一人で行くのは危険すぎる。私も一緒に行くぞ」

オリは驚いた。「先生も?でも…」

「私にも責任がある」マエストロは静かに言った。「昔、私も『塡』のメンバーじゃった。クリスは私の教え子でもあるのじゃよ」

彼は立ち上がり、壁の楽器の一つを取り外した。それは実は楽器ではなく、何かの武器のようだった。

「さあ、行くぞ」マエストロは決意を固めた。「しかし、用心しなければならん。誰にも気づかれてはいかんのじゃ」

オリは頷いた。彼女の心には決意と不安が入り混じっていた。クリスを救出し、学院の秘密を明らかにする時が来たのだ。

マエストロと共に、彼女は研究室を後にした。新たな冒険が始まろうとしていた。
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