異世界働き方改革~エナドリ自販機で社畜を卒業します~

ゼニ平

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第2部 港町の黒焔鬼編

【第10話】「影を追う者」

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 ギルドには、消火作業から戻った冒険者たちの荒い息づかいと、焦げた木材の匂いがまだ残っていた。
 仮眠用のベッドには数人が横たわり、うわ言のように何かを呟いている者もいる。

 知久はその横に立ち、静かに様子を見守っていた。

「……まだ落ち着かないな」

 わずかだが、自身の手足が震えているのを感じていた。
 低く呟いた声に、背後から応える影がある。

「黒焔に焼かれた者は、そうなるのさ。身体じゃなくて、精神にダメージがくる」

 ルネだった。
 濡らしたタオルを肩に掛けたまま、疲れ切った目で患者たちを見ている。
 その目は、体力よりも心が消耗している証だった。

 ルネは視線を一度だけ天井に向け、遠い記憶を探るようにゆっくり口を開く。

「十年前の火事のときも、同じだった」

「十年前って……」

 その言葉だけで、何が語られようとしているのか、知久は察した。

「当時の支部長だったリヴェラと、副長のダリオン……セファの両親が殺された時さ」

 知久の胸に、冷たいものが落ちる。
 ルネは、ゆっくり続けた。

「黒焔は、ただ燃やすだけじゃない。炎を浴びた者の心を抉る。まるで精神を乗っ取られたみたいになっちまうんだ」

 ルネの声は震えていない。
 でもその奥にあるものは、十年経っても消えていなかった。

「それからだ。支部長が変わるたびに黒焔鬼が現れて、支部長が死ぬ。そんな悪夢みたいなな事件が起きるようになったのは。このままだと、次に狙われるのは——」

「セファ……」

 知久は思わず強く息を吐いた。
 怒りでも恐怖でもなく、胸が締め付けられるような焦燥だった。

「な、なんで周りは止めなかったんですか?」

 ルネは、知久をまっすぐに見る。

「止めなかったと思うかい?」

 その一言は、責める言葉ではなかった。
 けれど、その重さは深く沈んだ。

「なんで……セファは支部長になったんですか?」

 ルネは少しだけ目を細め、懐かしむように笑った。

「あの子は、両親を亡くしてから、あたしがここで育てたんだよ」

 知久は驚きに息を呑む。

「あ、あなたが?」

「ああ。あの子にとっちゃ、このギルドは家。あたしたちは家族みたいなもんだ」

 ルネは医務室の皆を見渡す。

「だからね。支部長が不在で、この支部が解散させられそうになった時……あの子は言ったんだ」

——『だったら、私が支部長になります』ってね。

「……」

「泣きもせず、震える声で、それだけ言った。必死だったよ。あの子は、居場所を守りたかったんだ」

 知久の胸の奥に、黒焔とは別の熱が広がる。

「なら……なおさら守らないとな」

 ルネは小さく笑った。
 それは強い人間が、何度折れても立ち上がる中で得た笑いだった。

「あの子を頼むよ、先生。あの子を守ってやってくれ」

「先生ってガラじゃないんですけどね」

「言ってみただけさ。悪い気はしないだろ?」

「……まぁ」

 二人は、ほんのわずかだけ笑った。
 その背後で、眠る冒険者の寝息が、不安の夜を静かに揺らしていた。

☆ ☆ ☆

 ギルド中庭は、まだ夜の気配をわずかに残していた。
 朝の濃い風が、草木の葉を揺らしている。
 火事のときの、肌を焼くような熱とはまるで違う。

 石造りのベンチにセファは腰掛け、膝の上に槍を置いていた。
 その金属の光沢は水面のように静かで、どこまでも澄んでいる。
 けれど、セファの目はそこを見てはいなかった。

(……私、何もできなかった)

 黒い炎を見た瞬間、胸が締めつけられ、足が動かなくなった。
 あの夜の光景——父と母の叫び、黒い影、焼ける音——
 全てが戻ってきて、ただ怖くて、どうしようもなかった。

(支部長なのに……ギルドを守らなきゃいけないのに)

 小さな肩が、かすかに震える。
 自分の呼吸音だけが耳に残っていた。

「セファ」

 落ち着いた声が、その震えをそっと撫でるように届いた。

 セファが顔を上げると、知久がいつもの調子で歩いてくる。
 無理に明るくしようとしたわけではない、自然な、でも気遣いを含んだ微笑みだった。

「……先生」

 知久は横に腰を下ろし、しばらく何も言わなかった。
 セファが話し出すまで待つように。

「昨日は……すみませんでした。私、何もできなくて……支部長失格です」

 声は小さく、消えてしまいそうだった。
 知久は少しだけ目を細め——それから、笑った。

「そんなこと言うなよ。あの火を前に、まともに動けたやつなんて、ほとんどいなかった」

 セファはきょとんと顔を上げる。
 知久は内心で苦笑する。

(俺、人を叱るのほんと向いてないな……)

「……でも、私は支部長で……みんなを守らなきゃいけないのに、怖くて……」

「怖くて当然だろ」

 知久は淡々と、けれどやわらかく言う。

「あんな黒い炎、普通じゃない。あれを前に怖がらない方がおかしい」

 セファは唇を強く噛んだ。
 それでも、不安は消えない。

 だから——知久は核心に触れた。

「でも、逃げなかったじゃないか」

 セファの呼吸が止まる。

「動けなかっただけじゃ……」

「それでも、逃げなかった。背を向けなかった。
それはなかなかできることじゃない。俺はそれをちゃんと見てた」

 小さい肩が、また揺れた。
 今度は震えではなく、涙を堪える動き。

 しばらくして、セファは小さな声で言った。

「……先生。私、《黒焔鬼》を捕まえたいんです」

「……は?」

 本気で言っている顔だった。

「昨日の火事で、町の人も、ギルドの人も、不安になってると思うんです。
でも、私が黒焔鬼を捕まえられたら……きっと、みんな……」

「支部長として、認めてくれると思ったのか?」

「……はい」

 子供らしい考えだ。でも、まっすぐで、嘘のない気持ち。
 知久は静かに息を吐いた。

「セファ。黒焔鬼は歴代の支部長を——」

「わかってます!!」

 セファの声は震えていた。
 けれど、その瞳には、ほんの少しの炎が戻っていた。

 逃げたい。
 でも逃げたら、きっと後悔する。
 それを知っている子の目だった。

 知久は空を見上げ、大きく息を吐く。

「……わかったよ」

 セファが弾かれたように顔を上げる。

「俺も協力する。一緒に黒焔鬼を追おう」

 セファの顔が、ぱっと明るくなる。
 ただ嬉しいだけじゃない。
 救われた顔だった。

「まずは昨日の火の跡だ。痕跡があるかもしれない」

「はい……! 行きます!」

 まだ不安は残っている。
 けれど、昨日よりも前を向いていた。

 その姿を見て、知久は胸の奥に静かに思う。

(……この子を守って、一人前の支部長に育ててみせる)

 ギルドは、動き出す。

 黒い炎。
 港に広がる影。
 十年前から続く“何か”。

——それらが、ゆっくりと二人の前に姿を現し始めていた。
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