実践的擬態 Practical disguise

黒遠

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「っあー……発注ミスった。足りないかも」

 カナエが発注書を覗き込んだ。最近こんなミスばかりだ。カナエに申し訳ない。

「んー、足りる……かも。もっかい計算してみて。足りないならまた追加切るしかないよ」

 カナエは何も言わない。余計に申し訳ない。
 泣きたくなりながらもう一度計算してみる。逆にさっきの計算に勘違いがあって、どうやら足りそうだとわかる。バカみたい。バカだな。

「大丈夫だったわ……」
「エンマ、お前大丈夫か? すごく疲れてるみたいに見える」

 疲れてるみたいに見える。疲れている。くおんとソーマと住み始めて、疲れている。家でもなんとなく休まらない。俺の家なのにめったに帰ってない。

 最近ではカナエがいた企業の下請けだけじゃなくて、ありがたいことに直接の仕事も貰えるようになってきた。その分忙しくなってきて、事務所に泊まることが増えている。シャワーもあるし気は楽だけど、環境が悪い。デスクに突っ伏すか来客用のソファで寝るしかない。街中だから夜もうるさい。

 だけど先日、うっかりくおんとキスしてしまった。いつもの夢だと思ったら現実だった。おかげで三倍増しで家に帰りづらくなった。

「家に帰ってないよな? 忙しいのはわかってる。でもそこはちゃんとして。仕事が好きでたまらない、一番リラックスできるっていうならほっとくよ、でもそうじゃないだろ? お前は家で少し休むべきだと思う。エンマ、you must be happyだよ。you must be happy all the time. そうできないんなら、今の生活は意味ないでしょ。頼むから無理しないでくれ」

 カナエ。すまん。仕事のせいばかりじゃないんだよ。くおんと暮らすのを決めたのは俺なのに、やっぱりいろんなことが整理できなくて逃げてる。その気になれば家でだってできる仕事も、ちゃんとすれば一日に収まるアポイントも、ずるずる引き伸ばしている。ごめん。

「今日は必ず帰って。休んで明日にして。明日、施工確認だろ」
「うん」
「元気出しなバディ」

 you must be happy all the time.いつも幸せでいなくちゃ。くおんと話をしなきゃいけない。俺のこのぐしゃぐしゃで収拾のつかない気持ちを片付けないと。でも何を話せばいいんだろう。
 


 久々に早い時間に家に帰ると、ソーマがキャーと叫びながら足に抱きついてきた。いつ見てもくおんにそっくり。くおんも小さい頃こんな感じだったんだろうな。頭を撫でてやる。一生懸命今日保育園であったことを話してくれる。

「おかえり」

 くおんはまだワイシャツとネクタイだった。帰ってきたばかりだったらしい。この前のキス以来だから、ものすごく気まずい。

「今日俺が作る」
「エンマくんのごはん? カレー? ハンバーグ?」
「うーん、冷蔵庫の中身と相談かなあ」

 冷蔵庫を開けてみると、ろくなものがなかった。まあ、やむなく作るようになったと言ってもくおんだからな。たまご。たまねぎ。ひき肉。

「オムライスだな」

 ソーマがまた歓声をあげた。オムライスは簡単。冷蔵庫にあった野菜の切れ端でコンソメスープも作って出来上がり。料理作るのも久しぶり。

「いただきまーす」

 ソーマがニコニコでほおばる。おいしそうに食べてもらえると嬉しい。

「こいつ、俺が作ったのはイヤイヤ食べるくせに」

 くおんがソーマの頬を優しくつねる。ソーマはいい子だ。見ていて飽きないし……。くおんもよく頑張ってると思う。俺は家というか、部屋を提供した以外は何も協力してない。部屋代ももらってるし。くおんはソーマのために、今は一切残業しない。会社で肩身が狭い時もあるだろうな。

 ご馳走さまをしてソーマを風呂に入れる。俺と入りたがったから。久々だもんなあ。ボディソープでシャボン玉を作ってあげたら、ソーマはすごい勢いで割りまくった。お風呂から上がっても体を拭かせてくれずにリビングに走っていってしまう。まあいいや。くおんがキャッチするだろ。

 部屋着でリビングに戻ると、ソーマはもうパジャマになっていた。一緒に歯磨き。なんでも一緒にやりたがる。仕上げ磨き。9時、くおんがソーマをソーマの部屋に連れて行く。就寝。

 俺が落ち着かなくて嫌になるのはこれからの時間だ。くおんと二人きりの時間。意識的にずっと避けていた。

「ありがとな。ソーマの面倒見てくれて。今日は楽だったわ」
「そう? いつもどうやってんの」
「もう、運動会だよ。わーって保育園から拾ってきて、適当にメシ食わせて、洗濯機回しながら風呂入れて。寝不足にさせられないから」
「パパやってんだね」
「俺しかいないからな。それでも前よりマシになったよ。おまえは忙しいんか? 全然帰ってこないから、二人暮らしみたいだ」
「仕事が増えてきてさ。ありがたいんだけど少し調整しないとだめかも。もう一人入れようかって話してる」
「そっか。自分たちでやってんだもんな。なんか飲む?」
「何があるの?」
「うーん、ビール、ウィスキー、焼酎」
「はは。炭酸ある?」
「ハイボール? 作るよ」

 今日は珍しく普通に話せている。くおんがトントンと二つグラスを置く。

「濃いね」
「そうかな。いつもこのくらいは入れる」
「最近飲んでないからかな……」
「……」

 黙るなよ。

「そういえば……」
「ん?」

 しまった。気まずくて話を振った割に何も考えていなかった。

「カナエが……よくyou must be  happyて言うんだけど、なんだろうなと思ってさ。どういうことなんだろうって。you must be  happy all the timeて言うんだ。いつも幸せじゃないとって。でもそんなにいつも幸せでいられるもんなのかな?」
「おまえは幸せじゃないのか?」
「そ……ういうわけじゃないけど」

 カランと手の中で氷が鳴る。幸せ……とは言えない。感情がからまったものの他にも、心の中にずっと変な黒くてごつごつした石のようなものがあって、何かあるといつもそれに触れる。それは俺を疲れさせ、苛立たせる。いつからだろう。

 くおんが結婚するって言った時から。

 バカだな。4年ちかくも前の話……

「こないだはごめん」

 くおんがだしぬけに言った。

「こないだ?」
「日曜日の」
「ああ……。あれはやめて。もうそんなんじゃないだろ」

 お前がやめたんだろ? 終わらせたのはくおん。今は「ともだち」。

 ちらっと目を上げると、くおんが真っ黒な瞳で俺を見ていた。心臓を掴まれたような気分になる。

「どうしても?」
「どうしても。そういうのは終わったんじゃねえの? お前の望み通りだろ?」

 だから結婚したんだろ? 俺はお前のただの寄り道なんだよ。寄り道するのが楽しかっただけのことだろ。ここに来てまた寄り道するのか? もうやめてくれ。またお前が正気に戻った時に傷つくのはもう嫌だ。

 そのとき、くおんが意外なことを言った。

「俺はおまえが好きなんだよ」

 は?

「だからなんだよ。今それ言うなよ。今更だろ」

 酔いが回る。零れる。心にあった黒いものの中身が。

「恋人だった時もそんなん言わなかったくせに……。やりたいだけだろ? おまえは女でも抱いてろよ! 連れ込んだって文句は言わねえ! 俺を便利に使おうとすんなよ…」
「エンマ」

 くおんがテーブルごしに俺の肩を掴んだ。触んなよ。泣く気はぜんぜんなかったのに、涙がぼろっと出てきた。自分が情けない。

「それは違う」
「触んじゃねえ! おまえなんか嫌いだ!」

 涙が止められない。こんな感情だったのか。俺の中にずっと食い込んで、長いことドス黒く心を汚していたのは。

「!」

 くおんがキスしてきた。目眩がするくらい腹が立つ。大っ嫌いだ。

「やめ……」

 また口を塞がれる。大きな手で後髪を掴まれる。前もこうだった。もうずっとずっと前。唇が離れる。息をついた瞬間、腕をすごい力で引っ張られてリビングから引き摺り出される。そのままくおんの部屋へ。ベッドに放り投げられる。

「やめろって!」
「大声出すな。ソーマが起きる」

 じゃあやめろよ! なんだよ!

「ふざけんな…」

 くおんはもう俺の着ていた部屋着のボトムを引きずり下ろした。手が早いんだよバカ。そのまま覆いかぶさってくる。首に噛みつかれる。体をまさぐられる。

「おまえなんか嫌いだ!」
「ごめん。俺は好きだ」

 慣らされて入れられる。頭がぐちゃぐちゃなのに、体が喜んでしまっている。もう嫌だ。情けない。くおんに触れられた皮膚が泡立って上気して感触を楽しんでいる。くおんの皮膚と重なるのを、くおんの手や舌が撫でていくのを全身が求めている。くおんにわからないはずはない。彼は俺の体を知り尽くしている。

 俺にだってわかる。くおんが今どんなに焦っているか。どれほどこの時を待っていたのか。繰り返される口づけ。俺の体の隅々まで確かめるように触れていく指。こんなに俺のこと好きなままなのになんで? こんなに俺を待ってたくせになんで? また腹が立ってくる。こぼれた涙をくおんが舐め取る。熱い……。くおんの熱で、頭の中のもやもやが溶かされてしまう。俺だって、俺だってお前がずっと好きだったのに勝手に終わらせてんじゃねえよ。

「……!あっ…」
「……っは」

 俺がいくとくおんも追いかけるようにいく。前もそうだった。昔のことを思い出して切なくなる。ともかく、終わった。俺は首筋に鼻先をつけて息を弾ませているくおんが体を離すのを待った。くおんは呼吸を整え、顔を上げて涙でぐちゃぐちゃの俺の目を覗き込んだ。

「……もっと」
「…え!?ちょ……」

 着たままだった服を剥ぎ取られる。背中を押さえられて後ろから入れられる。なんなんだこいつ……強姦じゃん。一言断れよ。断ったつもりなのか……。

 三回目以降は抵抗するにしろ受け入れるにしろ体力も気力も尽きて、なすがままだった。何度も何度もいかされた。何度も何度も、耳元で好きだと言われた。もうめちゃくちゃ。夜中、やっとくおんが止まった。時計をみたら2時だった。

「……どうしてくれんだよ、明日だって仕事あんだよ」
「ごめん」

 ごめんと思うんなら最初っからやるなよ!

「謝って済むと思ってんじゃねえ! なんでもそうだ! お前はいつも勝手なんだよ! 自分のことばっかりだ……俺の気持ちなんて考えたことねーだろアホ! お前はいつも一言足りねーんだよクソが! 今更俺のこと好きだとか言ってんじゃねーよ、おせえんだよバカ! だいたいな、誰かと結婚すんならまず俺とちゃんと別れてからにすんのが筋だろ! めんどくせえからって逃げやがって最低なんだよ! 許さない! 許さないからな!」

 一度乾いた涙がまた目尻からこぼれ落ちる。珍しくくおんが目を逸らす。

「ほんと、悪かったと思ってる。何を言っても言い訳だ。今すぐ許してくれとは言わない。ただそばにいさせてくれ」
「おまえ…」
「頼む」

 普段はたいていのことに顔色を変えないくおんが、おびえた犬みたいになっている。あーあ……。いつもしれっとしてるくおんにそんな顔されると俺も困る。ほんとバカなやつ。

「あんだけめちゃくちゃやるやつがただそばに居たいとか言っても全く説得力ねえ」
「ごめん。どうしても嫌だって言うなら出て行く。それも仕方ないと思う」
「バッカじゃねーの。ソーマのこともっと考えろよ。出てけとは言わないよ。ソーマがかわいそうだろ……せっかくこの生活に慣れてきたころなんだろ?」

 だから自己中だって言ってんだよ。

「あとさ、もうこういうのはやめて。殺す気かよ。どうしてもって言うんなら事前に合意を取れよな」
「いいの?」
「合意が取れると思うなよ! 今日はもういいな?」
「なに、まだ足りないって言ったら」
「アホか! 話は終わりでいいかって言ってんだよ! もう寝るっつーの!」

 ベッドと床に散らばった服を適当に拾って自分のベッドに入ると、意識がなくなるように眠ってしまった。


 起きて7時だった。寝た気がしなかった。例によって体中が痛んだ。無茶しやがるからこうなる。だから思いやりがないってんだよ。シャワーを浴びて台所に行くと、ソーマだけがリビングにいた。

「どうしたソーマ?」
「パパまだ寝てる。おなかすいた」

 ダイニングテーブルには昨日のハイボールのグラスが残っている。片づけて見回すとぱさぱさしてきた食パンがあったので、タマゴと牛乳と砂糖を溶いてつけてフレンチトーストにする。昨日のスープのあまりもつける。ソーマはおいしそうにたいらげた。

 そうやっているとくおんがのっそりと起きてきた。

「しんど……もう若くねぇな」
「ハッ! バッカじゃねーの」
「エンマくん、どうしたの? パパどうしたの? お顔、赤くなってるよ」

 くおんの左の口元に、赤黒いあざができていた。

「……え。俺?」
「覚えてねーの? 部屋に連れてった時におもっくそ殴って来たじゃん」
「……」
「けんかしちゃったのー? けんかしたらだめなんだよ」
「もう仲直りしたよ」

 くおんがポンポンとソーマの頭を撫でた。え? そうなの? 仲直りしたの? まあ、言いたいことは言ったけど……。

「エンマくんも怪我してるよ? くびのとこ」

 ちらっとくおんを見るとばつが悪そうな顔をしている。はっとして慌てて洗面所に行ってみる。首にかなりくっきりと歯形が残っていた。






「はい。杭打ち、問題ないです」
「じゃ、これでコンクリ流しますんで。乾くまで一週間くらいですかね。天気にもよりますけど」
「書類は今週中に送りますので」

 身体中がたがただったけど、とりあえず仕事は終わらせた。平気な顔をするのが一番つらかった。ヨボヨボな感じで事務所に帰った。

「ただいま……」
「おかえり! どうだった? 問題なかった?」
「大丈夫だった。てか、ちょっと具合悪いんで帰っていい? 書類は家で作るから」
「うん、それで間に合うんならいいよ。具合悪いの?」
「うん、昨日の今日で悪いんだけど」

 カナエは俺の顔をしばらくしげしげと見て言った。

「でもyou look  happier than yesterday. 何かあった?」
 
 







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