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第一部 復讐編
#01-08.安寧
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「西河さん。三番にクレーム来てる。納品が遅れた件で。明日再送するけど、対応お願いしていい?」
「分かりました」
電話機を操作し、回線を繋げる。「お電話替わりました。担当の西河と申します。この度は、名取(なとり)さまにご不便をおかけし、大変申し訳ございませんでした。
早速ですが、明日、新しい商品を、発送させて頂きたく思います。関東ですので、最短で明日の夜には名取様のお手元に到着すると思います。名取様のご都合はいかがでしょう。ええ。ええ……」
いつも通り、虹子がクレーム対応を行い、トイレに向かうと、ドアを開いたところで、石田(いしだ)に出くわした。
「西河さん。お疲れ様」
「……お疲れ様です」
年齢は、明らかに石田のほうが下だ。けれども、彼は、上司だ。中途採用で採用された石田は、営業職を二年経験したのちに、去年の四月から、虹子の働くテレフォンサポートセンターのスーパーバイザーを任されている。
アポインターを経験せぬ者が上司に? という虹子の当惑もなんのその。石田は、経験豊富で、どんな事態も余裕で打開する、頼もしい存在である。
経験年数は虹子のほうが上だ。石田はそんな虹子のベテランぶりを尊重したうえで、きちんと評価し、仕事を任せてくれる。その意味でもありがたい。石田はにこやかにドアを押さえたまま、
「……西河さんは、どんな嫌なこともにこにこと引き受けてくれるからありがたいよ。本当に助かってる。……ねえ、たまには外でランチ食べない? いいでしょう? さっきのお礼も兼ねて奢るよ」
「……本当に、いいんですか、こんなところ……」
恐縮する虹子は周囲を見回す。ビジネス街に突如現れたオアシス。観葉植物などがふんだんに置かれており、オアシスというか、原生林にでも迷い込んだ感覚だ。
「みんなには言ってあるから。ちょっとくらい遅れたって平気さ。ゆっくり食べよう」
メニューを手渡すと石田は微笑んだ。――綺麗な笑い方をする男だと虹子は思った。
石田は、バツイチだと聞いている。それで、虹子の境遇に同情しているのかもしれない。
思い切って、虹子は確認を入れる。「あの……。聞いてもいいですか。石田さんは、部下を評価するたびに、こんなふうに、しょっちゅう、お食事に誘っているのですか……?」
持っていたメニュー表をテーブルに置いた石田が目配せをして笑った。
「まさか。……気に入った女の子だけだよ」
(……!)
『気に入った女の子』『気に入った女の子』……パワーワードが虹子の脳内で炸裂する。
元夫と違って、脂っこさのない、三十代男子。三十五歳という年齢もまさに、男として油の乗り切ったいい頃合いで、少年のような爽やかさと、人生経験が豊富なことによる、自信とを兼ねそろえた、虹子にとっては、実に魅力的な男である。
そんな魅力的な男に『気に入った女の子』と評されては。
たまらず虹子は口を覆う。
(ああ……もう、一生分の運をわたし、使い果たしてしまったかも……!)
パワハラとかセクハラとか、この際そんな単語はどうだっていい。石田のようないい男に『女の子』認定されることが、たまらなく嬉しかったのである。
「石田さんって……誰に対してもそんなふうに言うかたなんですか?」
メニュー表をめくりながら虹子が問うてみれば、
「――気に入った女の子だけにだよ」
「女の子とか。わたし、もう、そんな年齢じゃ……」
「いつも綺麗にしてるじゃん」砕けた口調で石田が言う。「化粧もファッションもほどよく流行を取り入れているしなんかシュっとしててさ。二人もお子さんがいるなんて信じらんないよ。前情報がなければ、ぼくはきみを独身女性だと……思っていたよ。
ぼくこそ、聞いていい?」
――なんでもどうぞ。
と、虹子が目を向けたところ何故か石田が「ははっ」と笑った。綺麗な歯並びを見せて。
「あなたって職場だとガードが固いくせして、プライベートだと、思考がダダ漏れなんだね。面白い。
ぼくは、きみのことがもっと知りたいよ……虹ちゃん。
前向きに、ぼくとのことを、考えてみてくれないかな……?」
ランチタイムにまさかの告白。
どうしよう。こんな展開、予想だにしていなかったというのに。
「石田さんは、……失礼ですが、離婚された原因をお聞きしても?」
「ああ……うん」なんでも明瞭に話す石田にしては歯切れが悪い。「その、まあ……彼女が原因っていうより、お母さまがね……」
予想外の返答に、虹子は率直な疑問を口にする。「お母さまがどうかされたんですか」
「浪費癖があるの。親戚一同から借金しまくってて……。結果的にはそれが原因。
頑張ろうとは思ったんだけど。頑張ったつもりなんだけどね。現実は残酷だよね。本人たちの頑張りではどうしようも出来ないことって世の中にはあるからさ……どうしても」
「では、わたしが浪費癖の親がいないとも限らないのに、どうして石田さんは、わたしに交際を持ちかけたんです? それも、バツイチ。二人の子持ちの……。どう考えたってリスキーですよ」
「虹ちゃん、ぼくの歓迎会のときにしてたじゃん。親の話……」
「でしたっけ」
「時間限られてるしぼちぼち頼もっか」
「あ……そうですね。じゃ、わたしは鴨料理のコースで」
「じゃ、ぼくは、牛ヒレ肉の。がっつり行くよ」てきぱきと店員を呼び、オーダーを通す。いちいちスマートな男だ、と虹子は感心する。
「それで、虹ちゃんの話。親が地元で飲食業営んでいて、元引きこもりだったお兄さんが家業を手伝っていて。バブルも氷河期も経験している親は、財布の紐を締めろいつなんどきあるかもしれない災害及び人生の荒波に備えろー、って口ずっぱく言ってたって話、してたんだよ……」
確か、石田の歓迎会の夜は、滅多に行けない飲み会ということもあり、いつもより飲んでしまったような。恥ずかしながら子どもたちは自分たちで眠るよう、頼んでおいたのだ。
「……でしたっけ」
「それ聞いたとき、率直にね。なんかこの子可愛いなあ、って思ったんだ……。先入観抜きでね。
たぶん、それ聞いたときに、ぼくは恋に落ちたんだと思う……」
虹子は、石田の目を見た。めくるめく愛の炎が瞳の奥に燃え盛っているようで、そのなかで愛しこまれる自分を想像した。
たまらず、目を逸らす。直情的な男の目線に、虹子は、弱い。
「……い、一緒の職場じゃ、やりにくくありません……?」
「ぼくテレセン来てもうすぐ一年経つからさー。配置換えの希望出すならぼくが出すよ。全然構わない。どんな経験も財産にあると思ってるからさぁ」
「……子どもが、います。想像もしない事態が巻き起こらないとも……」
「二人の気持ちさえ、しっかりしてればどうにかなるんじゃないの? もし、受け入れられなくってもそれはそのとき。焦らず、時間をかけてゆっくりと……過ごしていけばいいんじゃないかなあ?
もし、子どもたちが、ママに彼氏が出来るのに抵抗があるようであれば、たまに一緒にご飯食べるだけの関係でもぼかぁ構わないよ。あくまで、虹ちゃんが大切にするものを、最優先して欲しいと、ぼくは思っている」
「ええと……わたしは」
思い切って顔をあげてみた。真摯に、ひとを愛そうとする、強い眼差しがそこにはあった。
「わたしは……」
次に、どんな言葉を発するべきか。母親として。わたしは――
「……子どもたちのことを最優先したいと思います。わたしは、母親ですから」
「そうだね」と石田。「でも、そんな虹ちゃんの支えになりたいと思っているんだけど、それじゃ駄目かな? 例えば、時々電話をするとか。食事をするとか。――友達でもそれはありでしょう? そういう、負担にならない関係からスタートさせるんじゃ、駄目かな……?」
虹子は、石田を見た。――そんなことを言ってくれたひとは、いままでにいなかった。虹子のすべてをまるごと包み込み、すべてを受け入れてくれる男――。
流されてしまいそうな自己を感じる。虹子のなかで別の虹子が叫ぶ。――なにを迷っているの! あなたは母親でしょう! 自分の勝手で子どもを作っておいて――自分だけ幸せになろうだなんて、そんなこと、許されるはずがないでしょう!?
虹子は、その自分の声に、従った。「ごめんなさい。わたし、やっぱり……」
「因みに虹ちゃん、知ってる? ノクチの『葉桜(はざくら)』って」
思わぬ発言に虹子の目が見開かれた。「……勿論知ってますけど。近所ですので。うちの子どもたちは、和菓子は『葉桜』のしか許せないってくらい、『葉桜』フリークなんです」
じっくりと、虹子の反応を待ったうえで、石田が言い放った。
「……『葉桜』。ぼくの実家」
虹子は顎が外れるかと思った。「――嘘。でしょう」
驚愕の虹子を見て、石田が満足げに笑った。
「ぼくたちやっぱり――運命なんだね」
*
「分かりました」
電話機を操作し、回線を繋げる。「お電話替わりました。担当の西河と申します。この度は、名取(なとり)さまにご不便をおかけし、大変申し訳ございませんでした。
早速ですが、明日、新しい商品を、発送させて頂きたく思います。関東ですので、最短で明日の夜には名取様のお手元に到着すると思います。名取様のご都合はいかがでしょう。ええ。ええ……」
いつも通り、虹子がクレーム対応を行い、トイレに向かうと、ドアを開いたところで、石田(いしだ)に出くわした。
「西河さん。お疲れ様」
「……お疲れ様です」
年齢は、明らかに石田のほうが下だ。けれども、彼は、上司だ。中途採用で採用された石田は、営業職を二年経験したのちに、去年の四月から、虹子の働くテレフォンサポートセンターのスーパーバイザーを任されている。
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経験年数は虹子のほうが上だ。石田はそんな虹子のベテランぶりを尊重したうえで、きちんと評価し、仕事を任せてくれる。その意味でもありがたい。石田はにこやかにドアを押さえたまま、
「……西河さんは、どんな嫌なこともにこにこと引き受けてくれるからありがたいよ。本当に助かってる。……ねえ、たまには外でランチ食べない? いいでしょう? さっきのお礼も兼ねて奢るよ」
「……本当に、いいんですか、こんなところ……」
恐縮する虹子は周囲を見回す。ビジネス街に突如現れたオアシス。観葉植物などがふんだんに置かれており、オアシスというか、原生林にでも迷い込んだ感覚だ。
「みんなには言ってあるから。ちょっとくらい遅れたって平気さ。ゆっくり食べよう」
メニューを手渡すと石田は微笑んだ。――綺麗な笑い方をする男だと虹子は思った。
石田は、バツイチだと聞いている。それで、虹子の境遇に同情しているのかもしれない。
思い切って、虹子は確認を入れる。「あの……。聞いてもいいですか。石田さんは、部下を評価するたびに、こんなふうに、しょっちゅう、お食事に誘っているのですか……?」
持っていたメニュー表をテーブルに置いた石田が目配せをして笑った。
「まさか。……気に入った女の子だけだよ」
(……!)
『気に入った女の子』『気に入った女の子』……パワーワードが虹子の脳内で炸裂する。
元夫と違って、脂っこさのない、三十代男子。三十五歳という年齢もまさに、男として油の乗り切ったいい頃合いで、少年のような爽やかさと、人生経験が豊富なことによる、自信とを兼ねそろえた、虹子にとっては、実に魅力的な男である。
そんな魅力的な男に『気に入った女の子』と評されては。
たまらず虹子は口を覆う。
(ああ……もう、一生分の運をわたし、使い果たしてしまったかも……!)
パワハラとかセクハラとか、この際そんな単語はどうだっていい。石田のようないい男に『女の子』認定されることが、たまらなく嬉しかったのである。
「石田さんって……誰に対してもそんなふうに言うかたなんですか?」
メニュー表をめくりながら虹子が問うてみれば、
「――気に入った女の子だけにだよ」
「女の子とか。わたし、もう、そんな年齢じゃ……」
「いつも綺麗にしてるじゃん」砕けた口調で石田が言う。「化粧もファッションもほどよく流行を取り入れているしなんかシュっとしててさ。二人もお子さんがいるなんて信じらんないよ。前情報がなければ、ぼくはきみを独身女性だと……思っていたよ。
ぼくこそ、聞いていい?」
――なんでもどうぞ。
と、虹子が目を向けたところ何故か石田が「ははっ」と笑った。綺麗な歯並びを見せて。
「あなたって職場だとガードが固いくせして、プライベートだと、思考がダダ漏れなんだね。面白い。
ぼくは、きみのことがもっと知りたいよ……虹ちゃん。
前向きに、ぼくとのことを、考えてみてくれないかな……?」
ランチタイムにまさかの告白。
どうしよう。こんな展開、予想だにしていなかったというのに。
「石田さんは、……失礼ですが、離婚された原因をお聞きしても?」
「ああ……うん」なんでも明瞭に話す石田にしては歯切れが悪い。「その、まあ……彼女が原因っていうより、お母さまがね……」
予想外の返答に、虹子は率直な疑問を口にする。「お母さまがどうかされたんですか」
「浪費癖があるの。親戚一同から借金しまくってて……。結果的にはそれが原因。
頑張ろうとは思ったんだけど。頑張ったつもりなんだけどね。現実は残酷だよね。本人たちの頑張りではどうしようも出来ないことって世の中にはあるからさ……どうしても」
「では、わたしが浪費癖の親がいないとも限らないのに、どうして石田さんは、わたしに交際を持ちかけたんです? それも、バツイチ。二人の子持ちの……。どう考えたってリスキーですよ」
「虹ちゃん、ぼくの歓迎会のときにしてたじゃん。親の話……」
「でしたっけ」
「時間限られてるしぼちぼち頼もっか」
「あ……そうですね。じゃ、わたしは鴨料理のコースで」
「じゃ、ぼくは、牛ヒレ肉の。がっつり行くよ」てきぱきと店員を呼び、オーダーを通す。いちいちスマートな男だ、と虹子は感心する。
「それで、虹ちゃんの話。親が地元で飲食業営んでいて、元引きこもりだったお兄さんが家業を手伝っていて。バブルも氷河期も経験している親は、財布の紐を締めろいつなんどきあるかもしれない災害及び人生の荒波に備えろー、って口ずっぱく言ってたって話、してたんだよ……」
確か、石田の歓迎会の夜は、滅多に行けない飲み会ということもあり、いつもより飲んでしまったような。恥ずかしながら子どもたちは自分たちで眠るよう、頼んでおいたのだ。
「……でしたっけ」
「それ聞いたとき、率直にね。なんかこの子可愛いなあ、って思ったんだ……。先入観抜きでね。
たぶん、それ聞いたときに、ぼくは恋に落ちたんだと思う……」
虹子は、石田の目を見た。めくるめく愛の炎が瞳の奥に燃え盛っているようで、そのなかで愛しこまれる自分を想像した。
たまらず、目を逸らす。直情的な男の目線に、虹子は、弱い。
「……い、一緒の職場じゃ、やりにくくありません……?」
「ぼくテレセン来てもうすぐ一年経つからさー。配置換えの希望出すならぼくが出すよ。全然構わない。どんな経験も財産にあると思ってるからさぁ」
「……子どもが、います。想像もしない事態が巻き起こらないとも……」
「二人の気持ちさえ、しっかりしてればどうにかなるんじゃないの? もし、受け入れられなくってもそれはそのとき。焦らず、時間をかけてゆっくりと……過ごしていけばいいんじゃないかなあ?
もし、子どもたちが、ママに彼氏が出来るのに抵抗があるようであれば、たまに一緒にご飯食べるだけの関係でもぼかぁ構わないよ。あくまで、虹ちゃんが大切にするものを、最優先して欲しいと、ぼくは思っている」
「ええと……わたしは」
思い切って顔をあげてみた。真摯に、ひとを愛そうとする、強い眼差しがそこにはあった。
「わたしは……」
次に、どんな言葉を発するべきか。母親として。わたしは――
「……子どもたちのことを最優先したいと思います。わたしは、母親ですから」
「そうだね」と石田。「でも、そんな虹ちゃんの支えになりたいと思っているんだけど、それじゃ駄目かな? 例えば、時々電話をするとか。食事をするとか。――友達でもそれはありでしょう? そういう、負担にならない関係からスタートさせるんじゃ、駄目かな……?」
虹子は、石田を見た。――そんなことを言ってくれたひとは、いままでにいなかった。虹子のすべてをまるごと包み込み、すべてを受け入れてくれる男――。
流されてしまいそうな自己を感じる。虹子のなかで別の虹子が叫ぶ。――なにを迷っているの! あなたは母親でしょう! 自分の勝手で子どもを作っておいて――自分だけ幸せになろうだなんて、そんなこと、許されるはずがないでしょう!?
虹子は、その自分の声に、従った。「ごめんなさい。わたし、やっぱり……」
「因みに虹ちゃん、知ってる? ノクチの『葉桜(はざくら)』って」
思わぬ発言に虹子の目が見開かれた。「……勿論知ってますけど。近所ですので。うちの子どもたちは、和菓子は『葉桜』のしか許せないってくらい、『葉桜』フリークなんです」
じっくりと、虹子の反応を待ったうえで、石田が言い放った。
「……『葉桜』。ぼくの実家」
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「ぼくたちやっぱり――運命なんだね」
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