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番外編3 「直後」のふたり――敏感な莉子SIDE
#EX03-17.愛おしいひと
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駅を降りるとひとの多さに驚かされる。連休中ということも手伝って、家族連れや恋人同士も目立つ。女性だけで固まって談笑するグループも。そういえば、……男性が怖い割りには、女性グループもなんだか苦手で。いじめとか。仲間外れとか……怖かった。嫌われたくなくて愛想笑いばかり浮かべて。真の友達と呼べる人間が、わたしにはいない。
――あのひとたちも、あのひとたちも、誰かと一緒。わたしの知らない、幸福を知っている。家族のぬくもり。友達からの共感。子どもと繋ぐ手の感触。……こんなにも満たされているのにも関わらず、不可思議とわたしの腹の底からは、嫉妬のような感情が湧いてくる。
「莉子。どうした?」
自分が酷い顔をしていないかが心配になった。けど、なんだか取り繕う余裕がなかった。課長の前でははだかでいたい……こころもからだも。
わたしは、周囲に目を向けた。――このなかの、誰が自分と同じくらいに孤独なのだろう。休日に特有の喧騒に満ちた大通りを行き交う人間のうちの誰が。――共感者が。共鳴者が欲しいと望むのは贅沢な話なのだろうか。
わたしは言葉を選んで発言した。「課長は、……こころの友、っています?」
「ジャイアンかよ」一瞬課長は笑うのだが、シリアスな顔に戻り、「うぅーん。そうだなあ。強いていえば自分かなあ?」
「……自分」
「そ」
差し出される課長の手を握り、大きな時計が掲げられたショッピングビルの谷間を抜ける。こうして巨大な建物に囲まれると、自分の威力の小ささをまざまざと感じる。……自分なんて、ちっぽけな、小石みたいな存在なのだと。
課長も魅せられたらしい。眩しそうに時計を見上げる課長は、
「……他人は、結局、裏切るじゃん?」
どきりとする。まるで自分のこころを読まれたかのようで。
課長は、……こんなにもわたしにはやさしいけれど。他の誰にも出来ないほどにめいっぱい愛してくれるけれど。ひょっとしたら彼も、なにかしらの、手痛い裏切りを経験しているのかもしれないと、直感した。だからこその会社でのあのポーカーフェイス。
「自分だけは自分を裏切らないから。……まあな。確かに、『なんでおれこんなことやっちまったんだ!』って頭抱え込みたくなることなんか腐るほどあるよ。
でもさ。
自分が自分であることを諦めたらそれで終わりじゃん。だからおれは決めてんの。
自分がどんななにをやらかしても、自分だけは自分の味方でいよう……と」
歩き出していた課長は、時計の前で足を止め、
「おれは……いまのきみにとって、そんな人間でありたい。
このひとだけは絶対に裏切らない。安心と、希望を……与えられる人間になりたい、と」
たまらず、その胸に飛び込んでいた。このひとは――どうして、このひとはこんなことを言えるのだろう。苦しくて。悲しくて。いろんな切実さを知っているこのひとは。
分かる。このひとは――絶望と煩悶を知っているから、他人を救えるのだ。他人でしかないわたしのことを。懸命に――愛しぬいているからこそ。
課長が、やさしくわたしを引き寄せる。いつもの手つきでわたしの頭を撫で、
「……苦しかったんだな。莉子……。大丈夫。おれは、どこにもいかないから。……きみのこころの一番深いところにいる。どんなときも……」
泣きじゃくるわたしを、責めることも、叱ることもなく、抱き締めてくれる。わたしにとって課長は、世界を照らす太陽そのものだった。――あなたは、わたしの、祈り。希望という種を蒔いて大きな花を咲かせてくれる、そんな存在……。
言いたいことは、言えなかった。でも、満足だった。
課長は、そんなわたしが泣き終わるまで、ずっと待ってくれていた。
* * *
「色々、劣等コンプレックスがあって……」近くの、緑の豊かな公園のなかのベンチで休んでいる。とても、いますぐにはショッピング! という心境にはなれなくて。課長の差し出す缶コーヒーを、礼を言って受け取る。「友達がいないこと。恋人がいないこと。本当に、好きになれるひとがいなかったこと……全部、全部、コンプレックスで……」
ふぅと息を吐きだし、冷たい缶コーヒーで喉を潤す。ちょっぴり伝わる苦みが、甘党派のいまのわたしにはありがたい。喉を通り抜ける感覚がすっきりとして心地よく、誰にも相談出来なかった苦しみをも吐き出している。
「まあ、あれだよね」と前を向いた課長は、通り過ぎるひとびとを見ている。幸せそうに闊歩する平和なひとびとを。「日本だと特に、ものすごく仲がいい子がいないとダメ人間! って風潮がすごいじゃん。
小学校入る前とか、『友達百人出来るかな』って歌、あんじゃん。
おれ、あれ、すげえ嫌いで。
友達百人出来ねえと人でなしなのかよ。ひとりとか、十人とかじゃ、駄目なのかよ。……ってあの歌聞くたび思うんだ。同じことを思う人間は世の中にたくさんいるのかな。最近あんましあの歌聞かないね……。
人数が。数字が、そのひとの価値を決めるなんて考え、おれは馬鹿げていると思う」
かん、と一息に飲み干した課長は缶コーヒーを置く。いまのは、ゴングが鳴った音に聞こえた。わたしは武者震いを感じた。課長の、プレゼンテーションが始まろうとしている、そのことが分かったからだ。
「確かに、勤労は大人の義務だからな。金を稼いで生計を立てる――必要がある。生きていく以上はな。
しかし、数字に囚われて目の前の人間の大切さを見逃していては、――本末転倒だ。
ビジネスの世界では確かに、数字が命だ。高い売り上げを叩き出さなくては、他社に食われちまうからな。
が、プライベートの世界においては、数字はナシだ。そんなものを忘れてただ……目の前に広がる幸せだとか、喜びだとか、ひとつひとつ、自分のなかから生まれる素直な感情に従っていたい。
友達がひとりだって0人だって。あなたという存在は誰よりも特別なんだ。何故なら、あなたは、他人とは違う考え方が出来る。他人にはない感性を持っている。他人とはまた違う――物の見方が出来る。
前に、テレビで見たのよ。女子高生に、ある寸劇を見せて、んで、感想述べて貰ったら、二人ともな、ボードに三文字、『ヤバい!』って感想書いたの。ヤバいヤバいばっか言っててさ。
でディレクターがもうちょっと突っ込んで、その女子高生二人に、『実際どこがヤバいと思ったの?』って聞いたら、二人とも、どこがどうヤバかったか具体的に語るの。……全然、違う。全然違うポイントで、それぞれがヤバさを感じていた。
その番組見たときにおれは思ったの。……ああ、考え方はひとそれぞれなんだなと。あれこれ他人は知ったような顔でまたよくも知らない他人のことをどうこう言うけれども、所詮は他人だ。おれが母親のお腹から生まれてじーさんになって棺桶に入るまでを付き添ってくれるわけではないんだからな。
その時々を一緒に過ごす他人のことを大切に思う気持ちは無論大切だと思う。……が、他人も、自分がそうするのと同じように過ちを犯す。そのたびに、責めまくっていたら、世の中成り立たないじゃん? 悲しくなっちゃうよ。
だから、おれは、思うんだ。――信じて。信じまくって。最終的には裏切るのは自分だけでありたい、と。
こんなにも強く深く誰かを信じてそれで――裏切られたらそれは本望だ、と」
何故か、深く、……課長の言葉はわたしの胸に響いた。いままでこの手の悩みを相談すると、『そんなことないよ』と誤魔化されたり……空気が悪くなるのを恐れてか。或いは、関係が悪化して被害が及ぶのを恐れてか。或いは――『もうちょっと莉子が努力すべきじゃない?』『それは明らかに莉子が悪いよ』――一方的に決めつけられたり……。
ハンカチで目元を押さえると、背中に伝わるぬくもり。わたしの背中を課長が擦ってくれている。「あのな。莉子。……きっと、いままでは単に、理解者に恵まれなかったんだ。きみという、稀有な才能を持つ、素晴らしい女の子を、根底から理解してくれる存在に、巡り合えなかった、それだけの話なんだ。
それは、きみが悪いんじゃない。……うぅーんそうだな。相性の問題。カレーライスに日本酒って合わないでしょう?」
わたしはちょっと笑って彼に尋ねた。「……課長がカレーライスならわたしはなんなんです?」
「ビール」
コンマ三秒で即答。思いもよらぬ答えに、わたしは顔を起こした。「……ビール?」
「そ。リキュール入りのビール。飲んだことない?」顔を近づけた課長は、わたしを見てあまやかに笑い、「しゅわっしゅわで……あまくって美味しくって、一度味わったらもう病みつきさ。死んでも離れられない……ベッドに潜り込んでも思い出してもだもだしちまう。決して逃れられない、強烈な個性を放つ女の子。それが、きみさ」
ごくん、と喉を鳴らした。自分のことを言われているのにも関わらず、強烈にそれが飲みたい。飲みたくなった。
ぽんぽん、とわたしの頭を撫でると課長は、
「心配しなくっても。これからどんどんいいほうに向かうと思うよ」彼は、わたしの涙を指で拭い、「……莉子ちゃん。きみが、誰かに信用されなかったのは、自分が、相手を信じなかったから。それも、あるんだよ……」
「あ……」更には、『あの一件』が降りかかったから、なおのこと、わたしは自己を閉ざしていた。中野さんにも言われたではないか。――心配していた。けれど、課長に任せようと思っていた、と……。
課長の、そうやって自分で考えさせて待ってくれるところが好き。勝手に結論を押しつけず、自分で答えを導き出す、それを促すところが。
課長は、わたしが答えを弾き出すのを待ったタイミングで、
「きみは――愛情という強力な武器を得たんだ」
やさしく、わたしの髪を撫で、
「ぼくとの愛情が、基盤になって、そこから、どんどん……興味のなかったはずの他人に興味が湧いてくる。愛情は、武器なんだよ。誰にも絶対に壊せない、強力な盾さ。
それを得たきみは、これから、もっともっと強くなれる。
ぼくに愛されたことがきっかけで。世界が変わって見えたと――きみは言っていたよね? 花に水を与えれば自然と大きく育つようにね、女のひとは――愛情を与えられれば劇的に変わる。変わりうる。それが、女のひとに特有のしなやかさであり――美しさだと、おれは思うね。
莉子ちゃん。大丈夫。……もしかしたら、感情の豊かさに、戸惑ってしまうこともあるかもしれないけれど、それは、いいことなんだ。自分を閉ざしていた反動が来たんだね。だから、安心して素直になるといいよ。
人前で泣くのは恥ずかしい? 言いたいやつには、言わせておけ。
TPOを弁えるのはそれなりに大切だけれど、そんなものは、愛情の前では、糞くらえだ。おれは、世界で百人が百人、『愛情を捨てよ!』『武器を持て! 戦え!』なんて叫んだとて、おれは――。
最後の最後まできみを愛しぬくよ」
「課長……」わたしはあふれるものが止まらない。「ねえ、どうして、そんなことが言えるんですか? 課長はどうしてそんなにも……わたしを……」
「理由なんかない。きみが、きみであるから、好きなんだ」
「遼一さぁん……」
その胸のなかに抱かれるとこころから安心する。自分のこころが、帰るべきところへ帰ってきた気がする。安心して――委ねられる。
課長の、声が好き。喋るときに動くその喉仏も。声の響きも。……たまに、自分のことを『ぼく』というところも。いまみたいに、真剣な話をするときだけ……その癖も、よく知っている。
組み合わせたときの指の長さも。ごつごつとした指の関節も。ねえ……ねえ、課長、わたし……あなたが好き。この世界に、あなたしかいらないって思えるくらいに。
これまでのことはもう昔。苦しんだ過去も、ひとり、眠れぬくらいに嘆いた夜も――全部全部、過去のもの。いまは、課長という大切な存在と一緒に歩む、彩りの豊かな未来に想いを馳せていたい――。
不安は、いつしか安堵へと変わっていた。課長のぬくもりを感じ――受け止める彼の包容力を感じ、安心してわたしは、感情の荒ぶった高波が、穏やかな波へと変わるそのときを待った。
*
――あのひとたちも、あのひとたちも、誰かと一緒。わたしの知らない、幸福を知っている。家族のぬくもり。友達からの共感。子どもと繋ぐ手の感触。……こんなにも満たされているのにも関わらず、不可思議とわたしの腹の底からは、嫉妬のような感情が湧いてくる。
「莉子。どうした?」
自分が酷い顔をしていないかが心配になった。けど、なんだか取り繕う余裕がなかった。課長の前でははだかでいたい……こころもからだも。
わたしは、周囲に目を向けた。――このなかの、誰が自分と同じくらいに孤独なのだろう。休日に特有の喧騒に満ちた大通りを行き交う人間のうちの誰が。――共感者が。共鳴者が欲しいと望むのは贅沢な話なのだろうか。
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「ジャイアンかよ」一瞬課長は笑うのだが、シリアスな顔に戻り、「うぅーん。そうだなあ。強いていえば自分かなあ?」
「……自分」
「そ」
差し出される課長の手を握り、大きな時計が掲げられたショッピングビルの谷間を抜ける。こうして巨大な建物に囲まれると、自分の威力の小ささをまざまざと感じる。……自分なんて、ちっぽけな、小石みたいな存在なのだと。
課長も魅せられたらしい。眩しそうに時計を見上げる課長は、
「……他人は、結局、裏切るじゃん?」
どきりとする。まるで自分のこころを読まれたかのようで。
課長は、……こんなにもわたしにはやさしいけれど。他の誰にも出来ないほどにめいっぱい愛してくれるけれど。ひょっとしたら彼も、なにかしらの、手痛い裏切りを経験しているのかもしれないと、直感した。だからこその会社でのあのポーカーフェイス。
「自分だけは自分を裏切らないから。……まあな。確かに、『なんでおれこんなことやっちまったんだ!』って頭抱え込みたくなることなんか腐るほどあるよ。
でもさ。
自分が自分であることを諦めたらそれで終わりじゃん。だからおれは決めてんの。
自分がどんななにをやらかしても、自分だけは自分の味方でいよう……と」
歩き出していた課長は、時計の前で足を止め、
「おれは……いまのきみにとって、そんな人間でありたい。
このひとだけは絶対に裏切らない。安心と、希望を……与えられる人間になりたい、と」
たまらず、その胸に飛び込んでいた。このひとは――どうして、このひとはこんなことを言えるのだろう。苦しくて。悲しくて。いろんな切実さを知っているこのひとは。
分かる。このひとは――絶望と煩悶を知っているから、他人を救えるのだ。他人でしかないわたしのことを。懸命に――愛しぬいているからこそ。
課長が、やさしくわたしを引き寄せる。いつもの手つきでわたしの頭を撫で、
「……苦しかったんだな。莉子……。大丈夫。おれは、どこにもいかないから。……きみのこころの一番深いところにいる。どんなときも……」
泣きじゃくるわたしを、責めることも、叱ることもなく、抱き締めてくれる。わたしにとって課長は、世界を照らす太陽そのものだった。――あなたは、わたしの、祈り。希望という種を蒔いて大きな花を咲かせてくれる、そんな存在……。
言いたいことは、言えなかった。でも、満足だった。
課長は、そんなわたしが泣き終わるまで、ずっと待ってくれていた。
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「色々、劣等コンプレックスがあって……」近くの、緑の豊かな公園のなかのベンチで休んでいる。とても、いますぐにはショッピング! という心境にはなれなくて。課長の差し出す缶コーヒーを、礼を言って受け取る。「友達がいないこと。恋人がいないこと。本当に、好きになれるひとがいなかったこと……全部、全部、コンプレックスで……」
ふぅと息を吐きだし、冷たい缶コーヒーで喉を潤す。ちょっぴり伝わる苦みが、甘党派のいまのわたしにはありがたい。喉を通り抜ける感覚がすっきりとして心地よく、誰にも相談出来なかった苦しみをも吐き出している。
「まあ、あれだよね」と前を向いた課長は、通り過ぎるひとびとを見ている。幸せそうに闊歩する平和なひとびとを。「日本だと特に、ものすごく仲がいい子がいないとダメ人間! って風潮がすごいじゃん。
小学校入る前とか、『友達百人出来るかな』って歌、あんじゃん。
おれ、あれ、すげえ嫌いで。
友達百人出来ねえと人でなしなのかよ。ひとりとか、十人とかじゃ、駄目なのかよ。……ってあの歌聞くたび思うんだ。同じことを思う人間は世の中にたくさんいるのかな。最近あんましあの歌聞かないね……。
人数が。数字が、そのひとの価値を決めるなんて考え、おれは馬鹿げていると思う」
かん、と一息に飲み干した課長は缶コーヒーを置く。いまのは、ゴングが鳴った音に聞こえた。わたしは武者震いを感じた。課長の、プレゼンテーションが始まろうとしている、そのことが分かったからだ。
「確かに、勤労は大人の義務だからな。金を稼いで生計を立てる――必要がある。生きていく以上はな。
しかし、数字に囚われて目の前の人間の大切さを見逃していては、――本末転倒だ。
ビジネスの世界では確かに、数字が命だ。高い売り上げを叩き出さなくては、他社に食われちまうからな。
が、プライベートの世界においては、数字はナシだ。そんなものを忘れてただ……目の前に広がる幸せだとか、喜びだとか、ひとつひとつ、自分のなかから生まれる素直な感情に従っていたい。
友達がひとりだって0人だって。あなたという存在は誰よりも特別なんだ。何故なら、あなたは、他人とは違う考え方が出来る。他人にはない感性を持っている。他人とはまた違う――物の見方が出来る。
前に、テレビで見たのよ。女子高生に、ある寸劇を見せて、んで、感想述べて貰ったら、二人ともな、ボードに三文字、『ヤバい!』って感想書いたの。ヤバいヤバいばっか言っててさ。
でディレクターがもうちょっと突っ込んで、その女子高生二人に、『実際どこがヤバいと思ったの?』って聞いたら、二人とも、どこがどうヤバかったか具体的に語るの。……全然、違う。全然違うポイントで、それぞれがヤバさを感じていた。
その番組見たときにおれは思ったの。……ああ、考え方はひとそれぞれなんだなと。あれこれ他人は知ったような顔でまたよくも知らない他人のことをどうこう言うけれども、所詮は他人だ。おれが母親のお腹から生まれてじーさんになって棺桶に入るまでを付き添ってくれるわけではないんだからな。
その時々を一緒に過ごす他人のことを大切に思う気持ちは無論大切だと思う。……が、他人も、自分がそうするのと同じように過ちを犯す。そのたびに、責めまくっていたら、世の中成り立たないじゃん? 悲しくなっちゃうよ。
だから、おれは、思うんだ。――信じて。信じまくって。最終的には裏切るのは自分だけでありたい、と。
こんなにも強く深く誰かを信じてそれで――裏切られたらそれは本望だ、と」
何故か、深く、……課長の言葉はわたしの胸に響いた。いままでこの手の悩みを相談すると、『そんなことないよ』と誤魔化されたり……空気が悪くなるのを恐れてか。或いは、関係が悪化して被害が及ぶのを恐れてか。或いは――『もうちょっと莉子が努力すべきじゃない?』『それは明らかに莉子が悪いよ』――一方的に決めつけられたり……。
ハンカチで目元を押さえると、背中に伝わるぬくもり。わたしの背中を課長が擦ってくれている。「あのな。莉子。……きっと、いままでは単に、理解者に恵まれなかったんだ。きみという、稀有な才能を持つ、素晴らしい女の子を、根底から理解してくれる存在に、巡り合えなかった、それだけの話なんだ。
それは、きみが悪いんじゃない。……うぅーんそうだな。相性の問題。カレーライスに日本酒って合わないでしょう?」
わたしはちょっと笑って彼に尋ねた。「……課長がカレーライスならわたしはなんなんです?」
「ビール」
コンマ三秒で即答。思いもよらぬ答えに、わたしは顔を起こした。「……ビール?」
「そ。リキュール入りのビール。飲んだことない?」顔を近づけた課長は、わたしを見てあまやかに笑い、「しゅわっしゅわで……あまくって美味しくって、一度味わったらもう病みつきさ。死んでも離れられない……ベッドに潜り込んでも思い出してもだもだしちまう。決して逃れられない、強烈な個性を放つ女の子。それが、きみさ」
ごくん、と喉を鳴らした。自分のことを言われているのにも関わらず、強烈にそれが飲みたい。飲みたくなった。
ぽんぽん、とわたしの頭を撫でると課長は、
「心配しなくっても。これからどんどんいいほうに向かうと思うよ」彼は、わたしの涙を指で拭い、「……莉子ちゃん。きみが、誰かに信用されなかったのは、自分が、相手を信じなかったから。それも、あるんだよ……」
「あ……」更には、『あの一件』が降りかかったから、なおのこと、わたしは自己を閉ざしていた。中野さんにも言われたではないか。――心配していた。けれど、課長に任せようと思っていた、と……。
課長の、そうやって自分で考えさせて待ってくれるところが好き。勝手に結論を押しつけず、自分で答えを導き出す、それを促すところが。
課長は、わたしが答えを弾き出すのを待ったタイミングで、
「きみは――愛情という強力な武器を得たんだ」
やさしく、わたしの髪を撫で、
「ぼくとの愛情が、基盤になって、そこから、どんどん……興味のなかったはずの他人に興味が湧いてくる。愛情は、武器なんだよ。誰にも絶対に壊せない、強力な盾さ。
それを得たきみは、これから、もっともっと強くなれる。
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莉子ちゃん。大丈夫。……もしかしたら、感情の豊かさに、戸惑ってしまうこともあるかもしれないけれど、それは、いいことなんだ。自分を閉ざしていた反動が来たんだね。だから、安心して素直になるといいよ。
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「課長……」わたしはあふれるものが止まらない。「ねえ、どうして、そんなことが言えるんですか? 課長はどうしてそんなにも……わたしを……」
「理由なんかない。きみが、きみであるから、好きなんだ」
「遼一さぁん……」
その胸のなかに抱かれるとこころから安心する。自分のこころが、帰るべきところへ帰ってきた気がする。安心して――委ねられる。
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組み合わせたときの指の長さも。ごつごつとした指の関節も。ねえ……ねえ、課長、わたし……あなたが好き。この世界に、あなたしかいらないって思えるくらいに。
これまでのことはもう昔。苦しんだ過去も、ひとり、眠れぬくらいに嘆いた夜も――全部全部、過去のもの。いまは、課長という大切な存在と一緒に歩む、彩りの豊かな未来に想いを馳せていたい――。
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――2000年代初頭、IT系企業で懸命に働く新卒女子×厳しめの俺様男子との恋物語。
**2026.01.02start~2026.01.17end**
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