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番外編3 「直後」のふたり――敏感な莉子SIDE
#EX03-18.開花するそのとき
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「こちらとこちらを比べると分かりやすいと思います。……緑の布を当てたときにこう、顔色がくすんで見えますね。一方、こちらのピンクの布を当ててみると……桐島さまの頬に紅が射し、全体に顔が明るく、華やかに見えるのがお分かりになりますか」
「あっ本当……ですね」
彼女は、全身鏡の前に座るわたしの背後から手を回し、縦横30cmくらいの、緑と、ピンクの正方形の布をそれぞれ交互にわたしの顔の下に当てて、首の後ろから回したワイヤーつきのピンで固定し、比べて見せる。……確かに、彼女の言う通りだ。すごい。自分では全然気づかなかった。緑の布を当てたときはどんより暗い顔に、ピンクだと元気に見える。
顔の下に合わせるトップスの色程度で、こんなにも顔色が変わって見えるとは。顔色がよく見えるとかそんなこと……考えたことはなかった。気に入った服をいつもなんとなく買っていた。
「でも、わたし……パーソナルカラー診断ってネットで何回かやったことありますけど。大概冬タイプに分類されるんですよね。だから、冬だと思い込んでました……」
「ええ。桐島さまは肌が白く、髪の毛が美しい黒髪ですから、そういった判断が下されてもなんら不思議はありません。ただ、ネットでの診断は万能ではありません。例外もございます。では実際にこうして黒の布を当ててみると……」彼女が黒の四角い布をわたしの顔の下に当てると、悪い魔法をかけられたかのように顔色が変わった。「どうでしょう。違いは明らかにございましょう」
「わぁ……」
「桐島さまはサマータイプにございますね。それでは、サマータイプのなかでもどの色が似合うのか、ひとつひとつ検証して参ります」
それから、サマータイプの色合いを何度も当てて見せるのだが。気になることが。「あの課長……退屈してません?」
隣で課長は、座って一緒に鏡を覗き込んでいるのだが。
男の人は基本的に女の人のショッピングとか、おしゃれ関係の趣味に付き合わされるのは退屈なはずだ。女の趣味に男性が犠牲になるイメージ。テーマパークで母子が遊ぶあいだ健気にも大行列に並ぶ、大荷物のお父さんたちの姿を思い浮かべながらわたしが聞けば、
「まさか」と課長は首を振る。――現代人らしからず、暇潰しに携帯をいじることもなく、ただ、傾聴の体の課長は、「聞いていて楽しいし。おれもね。きみをプロデュースする人間のひとりとして、きみの魅力を最大限に引き出したいと思っている。だから、おれも聞きたいんだ」
そして、サマータイプのカラーシートを見せられ、そのなか特に得意な色を、顔の下に色を当てて、導き出していく。たっぷりと三十分ほどかけただろうか。彼女は一通りの検証を終えると、
「それでは、お二人とも、こちらへおかけになってください」誘導する彼女に促され、アンティーク調のテーブルを挟んで彼女の正面のソファーに座る。……それにしても、高級ホテルの一室に、こうしてビジネスが展開されているなどとは、思いもしなかった。外に面する三方の壁は一面ガラス窓で銀座のきらびやかな景色が一望出来る。いまはやや薄暗い程度だけれど、夜が深まれば夜景になって最高だろう。
課長の提案で――いや、課長の計らいで、自分に似合う色を知るためのパーソナルカラー診断を受けている。事前に課長は予約済みで……もう、このひとったら、わたしのためにあれやこれやもしてくれるんだから……それもあっての銀座だ。余裕を持たせた十八時に予約をしていたのはひょっとしたら、お昼の後、わたしがああなる事態を見越してなのかもしれない……と思うと、わたしは課長が恐ろしい。
さて、服を買う前に、自分に似合う色を知っておこう、と課長は語った。聞けば、彼は、知人の勧めでパーソナルカラー診断を受け、その効果に驚いたらしく……それで、わたしに勧めてくれたのだ。
先ず、高級ホテルの最上階の一室というのが、またすごい。きらびやかで荘厳な内装――きびきびとしたホテルマンが勤務するロビー、にこやかな応対……品のいい人々。自分がこんなところに紛れていていいのかな、と思うくらい。
『堂々としてな。莉子ちゃん。きみはおれのファム・ファタールなんだから……』
それで部屋に辿り着けば、もう、内装も調度品もすごいの。ヴェルサイユ宮殿ですか! 出迎えた飯岡(いいおか)さんという女性は、きちんとしたフォーマルなスーツを着こなしており、おそらく五十代と思われる。実に、美しいひとだ。
豪奢なホテルルームに通され、香りのいい紅茶を頂き、ざっくりパーソナルカラー診断の説明を受ける。カラータイプは概ね、春、夏、秋、冬の四つがあり、いわゆるブルベ――青みがかった色が得意なのがブルーベース。イエベが黄色みがかった色が得意なタイプ。それを、飯岡さんはカラーパネルを時折用いながら説明してくれて。
で、実際全身鏡の前で、これまたきらびやかな中世風の薔薇模様の肘掛けソファーに座らされ、で、飯岡さんが、これ何百色あるんですか! って突っ込みたくなるくらいの布のなかから次々、わたしに合う色、合わない色を手際よくセレクトする。……まさに、お姫様気分。こうして誰かにいたせりつくせりの扱いを受けるなんていつぶりだったろう……おっとこの発言は、課長に失礼だ。
でも、課長のそれは……おもてなしというより、わたしのため。そして自分のためのような……。
しかも、飯岡さんは、特に似合う色、似合わない色の写真をデジカメで撮って、見せてくれる。写真で見てもなるほど確かに違いは明白だ。この写真も後で指定したアドレスに送るという。
さて、自分がどのタイプに分類するのかを知った後は、テーブルにて、改めて自分の映った写真を――それから、飯岡さんの用意した資料を見ながら、どんどん色彩への理解を深めていく。ざっくり言えば、サマータイプはブルベ、パステルカラーが得意。ピンク系ならなんでもいける、ただし、黄色系が苦手。ピンクでも黄色みがかったピンクや、特にマスタードやオレンジが駄目。黒など強すぎる色を持ってきても顔が負けてしまう。顔立ちのやさしさを活かす色合いを選ぶのがポイント。
最後にはアロマオイルを炊いた別室のベッドでマッサージを受けたりなんかして、終わった頃には一時間半が経過していた。空はとっぷりと暗くなっている。――おお、久々に詰め込み教育を受け、なんだか脳が痺れるような興奮を覚える。受験勉強とか、こんなだったな……。
紙袋に入った資料は課長が手に持っている。電子媒体を送っても頂いているが、希望すれば、こうして紙媒体での資料も頂けるとのこと……にしても、課長、重たそうだ。
出口まで見送りを受け、わたしたちはホテルを後にする。振り返れば飯岡さんがまだお辞儀をしていた。どこの世界も、仕事って厳しいんだな。当たり前のこととはいえど、あのひとたちにもそれぞれの人生があって。守り抜くべき正義があって。
「課長。……ありがとうございました」
ホテルから店に向かう途中でわたしは課長に頭を下げた。今夜は軽めに、テラス席のあるオープンカフェで食事を済ませる予定らしい。「あの。……知らないことばっかりで驚かされました。お姫様気分で楽しかったです。ありがとうございました」
「礼を言われるのは嬉しいけれど」課長は繋いだわたしの手を持ち上げると、手首を回転させ、この手の甲に口づけ、「他人行儀だなあ。きみはおれのもの。だからね、きみのためになんだってするのは当たり前なんだよ」
……本当にいいのかなあ。思えばわたしは課長のなにを知っているのだろう。と考えたときに、わたしは、課長に関する情報をなにひとつ握っていないことに気づいた。
自分のことしか見えていなかった。愚か者はわたしだ。課長はこんなにも……潤沢なる愛情を与えてくれているというのに。
「どうした。莉子……」
「課長わたし……」思考が悪い方に向かうと下を向くのはわたしの悪い癖。だが、顔をあげ、「わたし、課長のこと、なんにも知らなかったな、って思って。自分が溺れるばかり。あまえるばかりで……なにもしてこなかったな、って。
だからわたしは変わります」
――もう、反省とか、不安とか、そんなものに惑わされるのはまっぴらだ。わたしはわたしが思う通りの人生を――生きてやる。
言葉を待つ課長に、わたしは、
「綺麗になって。美しくなって。課長の与える愛を養分として育つ、しなやかな女性になりたいです。それで、今度は。与えられる愛を誰かに分け与えることの出来る……人間になります。
自分を愛してくれる他者だけではなく。ひょっとしたらわたしのことが嫌いで憎くてたまらない人間にも……この潤沢なる愛情を、分け与えられることの出来る人間に、生まれ変わります」
言い切った。……他人の前でこんなにも自分の考えを述べたのはこれが初めてかもしれない。ばくばくと心臓が鼓動を打つ。いったいどんな反応を返すだろう。わたしが、少々不安混じりで言葉を待てば、――
ほろり。課長の目から涙がこぼれ落ちた。……課長。
見れば、課長はぐずぐずと鼻をすすり、「いや、なんかすまん。ごめん。なんか止めらんねーわ」
バッグからティッシュを取り出す課長は、道の往来で、ちーん! と盛大に鼻をかむ。……男のひとの泣き顔ってなにげにそそられる。
ちょっと時間をかけて、気持ちを落ち着かせたふうに見える課長は、シャツの襟を掴むと、ぱたぱたと自分の胸に風を送り、
「や……なんかすまなかった。実はおれ、泣き上戸なもんで……」
「知ってますけど」
「うあ」と、わたしの前で何回も泣いたはずの課長がそんなふうに驚くものだから、わたしはくすくすと笑ってしまう。
「笑うなよ……莉子」
「でも、わたし、課長の泣いてる顔も好きですよ。母性本能をくすぐられる。ぱふぱふ、ってしたくなる」
「うああ莉子!」顔を覆うと課長が腰を曲げてわめいた。「ぱふぱふとか……ぱふぱふとか、銀座のど真ん中で、そんな刺激的な言葉使っちゃだーめ!」
しゅんとわたしはしょげてしまう。「……駄目ですかぱふぱふ。そうですよね。わたしのこの程度のおっぱいなんかでは課長を満足にぱふぱふ――」
げふげふ、と激しく課長がむせた。わたしにはその理由がいまひとつ分からない。しかし、わたしは言葉を続けた。勇気を――勇気を持たねばならない。
「わたし……もし、ぱふぱふするには力不足だって言われても、遠慮なく、容赦なく。ぱふぱふ出来る人間に生まれ変わる所存でおります。今後ともご指導ご鞭撻のほどを――」
「新人の挨拶じゃないんだから」いまだ鼻を赤くした課長は、わたしを人差し指で小突き、「あのさあ。莉子。おれは常にきみに恋をしている。次に、きみがなにをしてくるのか――なにを言いだすのか、ぼくには予想がつかない。
新鮮で、斬新で。
頭でっかちなのかな、と思えば急に、核心を突く発言をする。
繊細で、大胆なきみが――おれは、いつも大好きだよ……」
歩き出す課長にわたしは従った。ずんずんと先を行く課長にも、たまには照れることがあるのか。耳の後ろが真っ赤だ。……こんなにも、一生懸命で、ひたむきなひとを、わたしは他に知らない。
「課長。……大好きです」
「知ってる」と課長。「ねえ莉子……。きみへの気持ちはとても一言では言い表せない。いったいどうしたら、正確に伝えられるんだろうか……いつも、悩んでいる……」
「一緒にいるだけで。ちょっとした態度の変化で、……分かりますから。課長、わたしを信じてください」
「……ん」珍しくも、なんだか悩んでいるかのように見える課長だったが、見るにパリのカフェっぽい、素敵な店の前に辿り着くと、「疲れたでしょう。遅くまでごめんね。ちょっと急だったから、この時間しか取れなかったんだ。……飯岡さん、見ての通りの仕事ぶりだったでしょう?」
「聞いて……よかったです。世界は広いんですね課長。わたし、ますます自分の知らない世界に興味が湧いてきました!」
「よし。ディナーは軽く済ませて、帰ったらあまったるいデザートを貪ろう」
「んもう、課長ったら……」このときのわたしは知りもしなかったのだ。まさか、自分と課長のあいだに、思いもよらない亀裂が入ろうことなど。
*
「あっ本当……ですね」
彼女は、全身鏡の前に座るわたしの背後から手を回し、縦横30cmくらいの、緑と、ピンクの正方形の布をそれぞれ交互にわたしの顔の下に当てて、首の後ろから回したワイヤーつきのピンで固定し、比べて見せる。……確かに、彼女の言う通りだ。すごい。自分では全然気づかなかった。緑の布を当てたときはどんより暗い顔に、ピンクだと元気に見える。
顔の下に合わせるトップスの色程度で、こんなにも顔色が変わって見えるとは。顔色がよく見えるとかそんなこと……考えたことはなかった。気に入った服をいつもなんとなく買っていた。
「でも、わたし……パーソナルカラー診断ってネットで何回かやったことありますけど。大概冬タイプに分類されるんですよね。だから、冬だと思い込んでました……」
「ええ。桐島さまは肌が白く、髪の毛が美しい黒髪ですから、そういった判断が下されてもなんら不思議はありません。ただ、ネットでの診断は万能ではありません。例外もございます。では実際にこうして黒の布を当ててみると……」彼女が黒の四角い布をわたしの顔の下に当てると、悪い魔法をかけられたかのように顔色が変わった。「どうでしょう。違いは明らかにございましょう」
「わぁ……」
「桐島さまはサマータイプにございますね。それでは、サマータイプのなかでもどの色が似合うのか、ひとつひとつ検証して参ります」
それから、サマータイプの色合いを何度も当てて見せるのだが。気になることが。「あの課長……退屈してません?」
隣で課長は、座って一緒に鏡を覗き込んでいるのだが。
男の人は基本的に女の人のショッピングとか、おしゃれ関係の趣味に付き合わされるのは退屈なはずだ。女の趣味に男性が犠牲になるイメージ。テーマパークで母子が遊ぶあいだ健気にも大行列に並ぶ、大荷物のお父さんたちの姿を思い浮かべながらわたしが聞けば、
「まさか」と課長は首を振る。――現代人らしからず、暇潰しに携帯をいじることもなく、ただ、傾聴の体の課長は、「聞いていて楽しいし。おれもね。きみをプロデュースする人間のひとりとして、きみの魅力を最大限に引き出したいと思っている。だから、おれも聞きたいんだ」
そして、サマータイプのカラーシートを見せられ、そのなか特に得意な色を、顔の下に色を当てて、導き出していく。たっぷりと三十分ほどかけただろうか。彼女は一通りの検証を終えると、
「それでは、お二人とも、こちらへおかけになってください」誘導する彼女に促され、アンティーク調のテーブルを挟んで彼女の正面のソファーに座る。……それにしても、高級ホテルの一室に、こうしてビジネスが展開されているなどとは、思いもしなかった。外に面する三方の壁は一面ガラス窓で銀座のきらびやかな景色が一望出来る。いまはやや薄暗い程度だけれど、夜が深まれば夜景になって最高だろう。
課長の提案で――いや、課長の計らいで、自分に似合う色を知るためのパーソナルカラー診断を受けている。事前に課長は予約済みで……もう、このひとったら、わたしのためにあれやこれやもしてくれるんだから……それもあっての銀座だ。余裕を持たせた十八時に予約をしていたのはひょっとしたら、お昼の後、わたしがああなる事態を見越してなのかもしれない……と思うと、わたしは課長が恐ろしい。
さて、服を買う前に、自分に似合う色を知っておこう、と課長は語った。聞けば、彼は、知人の勧めでパーソナルカラー診断を受け、その効果に驚いたらしく……それで、わたしに勧めてくれたのだ。
先ず、高級ホテルの最上階の一室というのが、またすごい。きらびやかで荘厳な内装――きびきびとしたホテルマンが勤務するロビー、にこやかな応対……品のいい人々。自分がこんなところに紛れていていいのかな、と思うくらい。
『堂々としてな。莉子ちゃん。きみはおれのファム・ファタールなんだから……』
それで部屋に辿り着けば、もう、内装も調度品もすごいの。ヴェルサイユ宮殿ですか! 出迎えた飯岡(いいおか)さんという女性は、きちんとしたフォーマルなスーツを着こなしており、おそらく五十代と思われる。実に、美しいひとだ。
豪奢なホテルルームに通され、香りのいい紅茶を頂き、ざっくりパーソナルカラー診断の説明を受ける。カラータイプは概ね、春、夏、秋、冬の四つがあり、いわゆるブルベ――青みがかった色が得意なのがブルーベース。イエベが黄色みがかった色が得意なタイプ。それを、飯岡さんはカラーパネルを時折用いながら説明してくれて。
で、実際全身鏡の前で、これまたきらびやかな中世風の薔薇模様の肘掛けソファーに座らされ、で、飯岡さんが、これ何百色あるんですか! って突っ込みたくなるくらいの布のなかから次々、わたしに合う色、合わない色を手際よくセレクトする。……まさに、お姫様気分。こうして誰かにいたせりつくせりの扱いを受けるなんていつぶりだったろう……おっとこの発言は、課長に失礼だ。
でも、課長のそれは……おもてなしというより、わたしのため。そして自分のためのような……。
しかも、飯岡さんは、特に似合う色、似合わない色の写真をデジカメで撮って、見せてくれる。写真で見てもなるほど確かに違いは明白だ。この写真も後で指定したアドレスに送るという。
さて、自分がどのタイプに分類するのかを知った後は、テーブルにて、改めて自分の映った写真を――それから、飯岡さんの用意した資料を見ながら、どんどん色彩への理解を深めていく。ざっくり言えば、サマータイプはブルベ、パステルカラーが得意。ピンク系ならなんでもいける、ただし、黄色系が苦手。ピンクでも黄色みがかったピンクや、特にマスタードやオレンジが駄目。黒など強すぎる色を持ってきても顔が負けてしまう。顔立ちのやさしさを活かす色合いを選ぶのがポイント。
最後にはアロマオイルを炊いた別室のベッドでマッサージを受けたりなんかして、終わった頃には一時間半が経過していた。空はとっぷりと暗くなっている。――おお、久々に詰め込み教育を受け、なんだか脳が痺れるような興奮を覚える。受験勉強とか、こんなだったな……。
紙袋に入った資料は課長が手に持っている。電子媒体を送っても頂いているが、希望すれば、こうして紙媒体での資料も頂けるとのこと……にしても、課長、重たそうだ。
出口まで見送りを受け、わたしたちはホテルを後にする。振り返れば飯岡さんがまだお辞儀をしていた。どこの世界も、仕事って厳しいんだな。当たり前のこととはいえど、あのひとたちにもそれぞれの人生があって。守り抜くべき正義があって。
「課長。……ありがとうございました」
ホテルから店に向かう途中でわたしは課長に頭を下げた。今夜は軽めに、テラス席のあるオープンカフェで食事を済ませる予定らしい。「あの。……知らないことばっかりで驚かされました。お姫様気分で楽しかったです。ありがとうございました」
「礼を言われるのは嬉しいけれど」課長は繋いだわたしの手を持ち上げると、手首を回転させ、この手の甲に口づけ、「他人行儀だなあ。きみはおれのもの。だからね、きみのためになんだってするのは当たり前なんだよ」
……本当にいいのかなあ。思えばわたしは課長のなにを知っているのだろう。と考えたときに、わたしは、課長に関する情報をなにひとつ握っていないことに気づいた。
自分のことしか見えていなかった。愚か者はわたしだ。課長はこんなにも……潤沢なる愛情を与えてくれているというのに。
「どうした。莉子……」
「課長わたし……」思考が悪い方に向かうと下を向くのはわたしの悪い癖。だが、顔をあげ、「わたし、課長のこと、なんにも知らなかったな、って思って。自分が溺れるばかり。あまえるばかりで……なにもしてこなかったな、って。
だからわたしは変わります」
――もう、反省とか、不安とか、そんなものに惑わされるのはまっぴらだ。わたしはわたしが思う通りの人生を――生きてやる。
言葉を待つ課長に、わたしは、
「綺麗になって。美しくなって。課長の与える愛を養分として育つ、しなやかな女性になりたいです。それで、今度は。与えられる愛を誰かに分け与えることの出来る……人間になります。
自分を愛してくれる他者だけではなく。ひょっとしたらわたしのことが嫌いで憎くてたまらない人間にも……この潤沢なる愛情を、分け与えられることの出来る人間に、生まれ変わります」
言い切った。……他人の前でこんなにも自分の考えを述べたのはこれが初めてかもしれない。ばくばくと心臓が鼓動を打つ。いったいどんな反応を返すだろう。わたしが、少々不安混じりで言葉を待てば、――
ほろり。課長の目から涙がこぼれ落ちた。……課長。
見れば、課長はぐずぐずと鼻をすすり、「いや、なんかすまん。ごめん。なんか止めらんねーわ」
バッグからティッシュを取り出す課長は、道の往来で、ちーん! と盛大に鼻をかむ。……男のひとの泣き顔ってなにげにそそられる。
ちょっと時間をかけて、気持ちを落ち着かせたふうに見える課長は、シャツの襟を掴むと、ぱたぱたと自分の胸に風を送り、
「や……なんかすまなかった。実はおれ、泣き上戸なもんで……」
「知ってますけど」
「うあ」と、わたしの前で何回も泣いたはずの課長がそんなふうに驚くものだから、わたしはくすくすと笑ってしまう。
「笑うなよ……莉子」
「でも、わたし、課長の泣いてる顔も好きですよ。母性本能をくすぐられる。ぱふぱふ、ってしたくなる」
「うああ莉子!」顔を覆うと課長が腰を曲げてわめいた。「ぱふぱふとか……ぱふぱふとか、銀座のど真ん中で、そんな刺激的な言葉使っちゃだーめ!」
しゅんとわたしはしょげてしまう。「……駄目ですかぱふぱふ。そうですよね。わたしのこの程度のおっぱいなんかでは課長を満足にぱふぱふ――」
げふげふ、と激しく課長がむせた。わたしにはその理由がいまひとつ分からない。しかし、わたしは言葉を続けた。勇気を――勇気を持たねばならない。
「わたし……もし、ぱふぱふするには力不足だって言われても、遠慮なく、容赦なく。ぱふぱふ出来る人間に生まれ変わる所存でおります。今後ともご指導ご鞭撻のほどを――」
「新人の挨拶じゃないんだから」いまだ鼻を赤くした課長は、わたしを人差し指で小突き、「あのさあ。莉子。おれは常にきみに恋をしている。次に、きみがなにをしてくるのか――なにを言いだすのか、ぼくには予想がつかない。
新鮮で、斬新で。
頭でっかちなのかな、と思えば急に、核心を突く発言をする。
繊細で、大胆なきみが――おれは、いつも大好きだよ……」
歩き出す課長にわたしは従った。ずんずんと先を行く課長にも、たまには照れることがあるのか。耳の後ろが真っ赤だ。……こんなにも、一生懸命で、ひたむきなひとを、わたしは他に知らない。
「課長。……大好きです」
「知ってる」と課長。「ねえ莉子……。きみへの気持ちはとても一言では言い表せない。いったいどうしたら、正確に伝えられるんだろうか……いつも、悩んでいる……」
「一緒にいるだけで。ちょっとした態度の変化で、……分かりますから。課長、わたしを信じてください」
「……ん」珍しくも、なんだか悩んでいるかのように見える課長だったが、見るにパリのカフェっぽい、素敵な店の前に辿り着くと、「疲れたでしょう。遅くまでごめんね。ちょっと急だったから、この時間しか取れなかったんだ。……飯岡さん、見ての通りの仕事ぶりだったでしょう?」
「聞いて……よかったです。世界は広いんですね課長。わたし、ますます自分の知らない世界に興味が湧いてきました!」
「よし。ディナーは軽く済ませて、帰ったらあまったるいデザートを貪ろう」
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