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閑話休題――価値観の変化
しおりを挟む彼女とつきあい始めて以来、彼女のことばかり考えている。
スーパーに行くとき。ああ、これなら彼女も食べられそうだなとか。
トイレに行くとき。彼女は、いまごろ仕事で忙しくしているだろうなとか。
ランチを摂るとき。いまごろ、道林とうまいもんでも食ってるんだろうなとか。
恋愛は、恐ろしい勢いで日常を侵食する。
それこそが、恋愛を避け続けてきた原因でもあったのだが。それにしても、溺れるのは、あっというまだ。気づいたときには感情のまっただなかで溺れまくっていた。
その想いを正直に、素直に、彼女にぶつけている。
彼女は、微笑んで、受け入れてくれている。そのことに喜びを感じる。
誰かを愛し愛されるというのはこういうことなのかと。これは一方通行の想いでは成し得なかった偉業だ。彼女に、感謝したい。
こんな脆弱な自分を受け止めてくれるという事実に。
幻滅されるのではないかと、正直、不安だ。この不安は言えば、彼女を苦しめるだけだろうから、いや自分のプライドがゆるさないのだから、勿論、明かすつもりは無いが。
コーヒーを淹れるとき。今度彼女に旨いコーヒーを淹れてやりたい。
週末、家に彼女を呼ぼう。と、また週末が楽しみになる。
外で自分がとんでもない表情をしてやしないかと不安になる。
仕事中に唐突に彼女の裸体が思い浮かぶことも暫しだ。ああ愛したいなと強く思う。
欲望を溜め込んだまま週末を迎え、正直にそれを爆発させても彼女は嫌な顔などしない。聖女のように、受け入れてくれる。
どこに魅力を感じたのだろう?
しつこいだけの男なのに。そうだ、今度。
和貴や祐に相談してみるか。と、恋愛は。
それまでの対人関係の在り方すらも変える。何故なら自分は繋がりたいからだ。どんなふうにあっても、他人と。
あるがままの自分を認めてもらうことで自信が増す。不安は増幅しまた別の他人に確かめたくなるのだ。自分の存在意義を。そうしてまた別の他者に認められることで回復し繋がりたくなる。
正直に言うと、彼女なしの人生など考えられない。
しかしまだ彼女は若い。性急に答えを出すべきではない。考える時間が、必要だ。しかし週末を迎えるごとに愛しあうばかりで、彼女の本当の姿を見ているのだろうかと、彼は不安になる。
恋とは、不安ばかりだ。不確かで不確定。未来のことなど誰にも分かりやしないのに、確実で確かななにかを誰もが欲しがっているのだ。
信頼と、愛情。
永続と、誓いを。
コーヒーを淹れながら蒔田一臣は思う。とびきり旨いのを、週末に淹れてやろう。
そしてまためいっぱい、愛してやろう。
その欲望の炎が尽きない限り、愛さないことは無い。
過去の恋を悔やむのではなく、新たな変化を受け入れる榎原紘花との恋は、新たな自分を開花させた。開花したと思っているのはおそらく彼女のほうだろうが、実際、変わったのは、蒔田のほうも同じだ。
彼女のために、合わせたくなる。彼女の肉親。大切にしている人間に、好印象を与えたいと思う。
素直に、向き合いたいと思う。彼女が答えてくれるぶん、返したい。
生きている時間の隙間を、彼女と分かち合いたい。喜びも悲しみも、全部。そういえば自分には。
自分にも、肉親が、いたのだった。
蒔田一臣はそのことを思い出す。自分でさえ受けいれていない現実。彼女に伝えるには時間が、かかりそうだ。
母は、自分のことを、受け入れていない。
その悲しい現実から、蒔田一臣は、目を逸らすために、なにかに没頭し続けた。実家を避け、実家に帰ったときですら、家族とろくろく会話をせず、友人との交流に逃げた。
それでいいのか、と彼は思う。
これでいいのだ、と彼は思う。家族や人間の在り方はひとそれぞれ。これが蒔田家のやりかただった。兄が望まれて生まれ、自分は、望まれなかった。
認めてくれぬ肉親の存在が自分の性格形成に多少の影響を及ぼしたとは思うが、それを恨み続けるほど自分は幼稚でも幼くもない。悩む時分はとっくに過ぎた。しかし。
榎原紘花と向き合う以上、避けては通れない道だ。彼女はどう思うだろう。
(涙を流す、だろうな……)
彼女はそういう人間だ。他人の痛みを自分の痛みのように感じられる人間だ。彼にはその感覚が欠落している。だから羨ましいとも思う。そのセンシティブな性格が。まあ、
「なるようになるさ……」
声に出して言ってみる。先のことを考えるのも大切だけど、それで現状を楽しめないのなら本末転倒だ。いまは彼女が好きだ。その想いにずぶずぶに浸ってみるのもいいのではないか。
恋に溺れる蒔田は、煙草を吸う。煙草を吸いながらまたも彼女のことを思い浮かべるのだった。
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