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act42. 情愛の坩堝
初めて彼氏を部屋に呼ぶときというのはどうしてこうも緊張するのだろう。
普通にお茶をいれればいいだけなのに、あろうことか彼女の手は震えている。そもそも『彼氏』という概念に蒔田が該当するのかどうか。
彼氏というより、いまだ上司という感じが抜けない。彼女は敬語が抜けない。タメ口でいいと彼には言われているが、元々上司と部下という関係から始まった間柄であり、年齢差も手伝って、やや丁寧語を交えて彼女は彼に接する。
出したお茶を、まずいと言われたらどうしよう。
緊張しつつも、彼女は急須から湯のみにお茶を注いでいたのだが。
背後から抱き寄せる影がひとつ。
「どうした。なにを緊張している」
「……蒔田さん」彼女は顔をあげられない。「あぶないです。ちょっといま話しかけないでください」
「抱きしめるのは構わないのか」
「もっと駄目です。とにかくちょっと待ってください」彼女は、ようやく、茶を注ぎ終えた。「まったく。なんてときに話しかけてくれるんです。こぼしちゃったらどうするんですか。やけどとかしちゃったら」
「すまない」彼女の剣幕に気圧されてか、殊勝に蒔田が頭をさげる。「が。邪魔しなきゃ駄目な空気を感じた」
「そんな空気あたし醸しだしてないですよ」
「失敗を恐れている雰囲気を感じた。だから変えようと思った」
「ほんとはお茶がまずいと思われたらどうしようかと思って、ちょっとびびってました」
「ちょっとどころじゃなかったぞ、さっきの顔は」
「どんな顔してました? あたし」
「圧迫面接受けてるときの大学生の顔」
「そんなひどかったです?」
「すこしは信用しろ。おれを」と、蒔田が、二人分の湯のみをトレイに乗せ、テーブルへと運ぶ。彼女は慌てて蒔田についていく。熱いものを運ぶというのに、この上司は、身のこなしが素早い。
「出した茶が口に合わなかったくらいでおれがおまえを嫌うとでも思うのか」
「……弱いですよね、ひとって。ひとを好きになると」蒔田に続き、彼女は座布団のうえに座った。「嫌われなくないって恐怖しちゃうんです」
「もうすこしおれを信用しろ」と蒔田は言う。「おれは決断をくだすまでに、時間をかけた。悩みぬいた。あの行動は突発的で衝動的なものだったが、考えぬいた末のものだった。だから、簡単に嫌うなんて思うな」
「そうですね」確かに、信頼できる人間の顔がそこにはあった。
彼が茶を口に含む。「あち」と舌を出した。
その仕草を見て、彼女はすこし笑った。表情がほぐれたのを、彼女は自覚する。
このひとにはあたしが必要と、唐突に彼女は思ったのだった。
(変なの。あたしに蒔田さんが必要と思うならまだしも……)
「どうした」と彼が訊く。
「え? ううん、なんでもない、ちょっと考えごとです……」
「茶はまだ熱いからまだ飲むなよ。ちなみに、非常に重要なことだが、旨かった」
「……嬉しい」
「うん」
「これからどこか出掛けますか」
「行きたいところでもあるのか」
「ううんべつに。ねえ、今度、旅行とか行きたいです」
「うんいい考えだな」
「箱根とかどうですか。温泉でゆっくりしたいな。ああでも……」
「どうした」
「温泉って女友達と行くほうが楽しいんだよね。だって蒔田さんとじゃあお風呂一緒に入れないし」
「なら違うところにすればいい」
「でも。行きたいな……」
「どっちなんだよ」彼が苦笑いをする。
「やっぱり。行きたいです」彼女が断言する。
「分かった。休みを合わせて、今度行こう」
「やった」と彼女は喜んだ。「ねえでも今日これから、どうする」
「おいで」
やっぱりそうなる。
彼女を絡めとる彼の手はいつも冷たい。
なのに肌はやけどしそうなくらいに熱い。情欲。研ぎ澄まされた本能。その渦のなかで彼女はいつも忘我の境地に至る。
(つきあい始めてから、セックスばかりしてる……)
彼を包み込むことの幸せ。
受け入れられることへの喜び。
どうしようもないほどに自分を出しきっても、彼はいつも微笑みかけてくれるのだ。天使のように。
彼と、こうなるために産まれてきたのかもしれないとすら思える。
例え実母に見放された命でも。救われた気がする。
* * *
「蒔田さん。あたしそんなに、単純な育ちじゃないんです」
体内にいまだ彼を受け入れながら、ふと彼女は言ってみた。「父から話があったとおりで結構暗い性格してます」
「明るい人間よりも暗い人間のほうが信頼できる。明るすぎる人間は、物事の良い面しか見ようとしないからな」
「ひとを恨んだり、とか、そういう、根っこの暗い部分も」
「うん」
「許せない人間がいたり、それでも、ひとを愛することが――」
「できているから、いまこうしているんじゃないか」
憑き物が落ちたようだった。
頬を挟み込み、覗きこむ真摯な瞳がそこにはあった。
「答えろ。おれのことをどう思っている」
「好き、じゃ、足りない……」彼女の声は震えた。「愛して、る……」
答えは、喉の奥が焼けつくような深いキスだった。
正も負も。
可も不可も。
ないまぜにした熱い感情をぶつけ、受け入れ。
自分という存在が、飲み込まれていくようだった。
自分という存在に、大した価値など感じていなかった。
どこにでもいる、平々凡々な人間で。むしろ、父親やその他大勢の人間の人生を狂わせてしまった過失つきの、望まれない存在だと思ったこともあった。だけれども。
こうして認められるのなら、ちょっとは、自分という人間の存在価値を信じてみてもいい。
料理は不得意だし、プログラマとしては未成熟。ドキュメント作りがちょっと得意な程度の人間だけど。
認められたぶんだけ、彼を愛してあげたい。
そう望む自分に気づき、彼女の人生は、きらめき始めるのだった。
*
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