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Smile Abroad(1)
「成瀬さん、先日はありがとうございました。みなさん熱心に成瀬さんのお話に聞き入っておられました」
「こちらこそありがとうございます。……ぼくは、『Smile Abroad』の留学システムのお陰で人生が変わりましたので、すこしでも貢献できればと思っております」
「この度はありがとうございました。それではまた近いうちにお話ししましょう」
「はい。こちらこそありがとうございました。失礼致します」
「失礼致します」とZoomを切る。と後ろから声をかけられた。同僚の成川さんだ。「川瀬さんお疲れ様。スマイラーの成瀬くんの講演、評判だったみたいだね。ぼくのところにも感想が来ているよ」
「ありがとうございます。それを聞くと成瀬さん、喜ぶと思います。お礼のメールに書き添えておきますね」
「川瀬さん、だいぶ慣れた?」
別の部署に所属するメンバーもこうして声をかけてくれる、有難い環境だ。「はい。もう半年経ちますので」
「おおもうそんなになるのか。川瀬さん、なんか二年くらい在籍しているイメージあるよ」
「ふふふ。もしかしたら本当にそうかもしれませんよ?」
「うん。困ったことがなくてもまた気軽に話しかけて? ぼくあんま席いないけど」
フリーアドレスの快適なオフィス。各々が、好きな場所で働く。
――Smile Abroad。恋生が育て上げた大切な会社に働き始めて半年が経った。毎朝出勤するたびに、このオフィスが外国のカフェやオフィスの素敵な形態のようで満ち足りた気持ちになるし、出社してすぐの場所にはカウンターがあって、気軽にドリンクが頼める。勿論フリーだ。
広々としたオフィスにはカフェのようにカウンター席やテーブル席、ソファーの席や、打ち合わせルームなどがあって、各々が気軽に使える。働く場所が快適だとここまで快適なのかと驚いた。
リモートワークは自宅に限り、一ヶ月につき八回まで許可されている。だいたいみな週二回リモートで働く。私は今回の職場で初めてリモートワークを経験した。自宅で働くのも、細かいデータの業務に集中出来るし、好きな音楽を流せたり、休憩時間にちょっとベランダに出て外の空気を吸ったり、鏡の間で運動をしたり、通勤電車のストレスから解放されてありがたい。リモートで働くのがこんなに快適だとは。
なので週三回出社する。出社するとしたでちゃんとメンバーと顔を合わせて話したり、雑談なんかも出来てかえってリラックス出来る。オフィスには緑が豊かであり、その意味でも癒される。カウンター席には花が飾られていたりと、インテリアにおいてもこだわりのあるオフィスだ。
ビデオ会議を開くには専用のブースがあるが、今回はカウンター席でワイヤレスイヤホンをしてささっと済ませた。勿論守秘義務のある会話は専用のブースで行う。
周りを見回して、テーブル席にチームメンバーを見かけたので一度挨拶に行く。「川本さん。おはようございます。その後体調いかがですか?」
川本さんは感染して初の出社だ。体調はどうなのか気になるところである。まだマスクをしている川本さんは、
「ありがとうございます。もう、だいぶよくなりました」
「味覚や嗅覚は大丈夫ですか? 私、かかったことがないので分からなくて……」
「ああ、もう、全然大丈夫。喉が痛かったり体調が悪かったりする程度で」
私はちょっと笑った。「……それ、かなり辛いじゃないですか。大変でしたね……」
「もう感染するの四回目だから慣れちゃっているのよ。逆に聞きたいんだけど川瀬さんなんでそんなにかからないの?」
「免疫力をあげるよう努力していますので。……後でちょっと話しましょうか」
「いいよ。お昼一緒にしようか。川瀬さん今日はお弁当?」
「はい。じゃあ、十二時五分に窓際の席にしましょうか」
「おっけ。じゃ、今日仕事頑張るわ」
「お疲れ様です。じゃあ、また後で」
それから席に戻る最中も様々なひとに声をかけられる。……あったかい会社だ。
私がSmile Abroadに入社して驚いたこと。みな、士気が高い。人柄がいい。環境がよい。
正直、会社をすぐ辞める人間なんてあまえていると思い込んでいたし、会社も彼女も二週間で捨てた同期のトヨには呆れていた。
……が、単純に、環境を変えればうまくいくこともあるのだ。今回の転職で私は思い知った。
前職では顧客の会社に常駐ということもあり、よそもの感が否めなかったし、いろいろと不自由なこともあった。顧客常駐ということで、自社のメンバーでの会議が決まった場所でしか行えなかったり、あとは、プロパー正社員が入ってくるのが新卒入社後のタイミングで、以外はパートナーさん、協力企業の社員ばかりで、プロパーは半期に一度上長との目標設定面談やフィードバックはあるが、一般に企業はBPを育てる方針がないので、優れたBPさんが入っても環境が合わず辞めてしまったり、或いは、スキル不足のBPさんが多く入る問題に相当悩まされた。
プロパーであれば自社でしっかり育てる方向性があるが、BPは結局教えるのは仕事のやり方のみで、以外の、人間関係構築の方法、ちょっとした電話対応、会社での処世術や、感じのいい対応の仕方など、教えきれないたくさんの部分があったのに教えられない。また、向こうも、安い給与で雇われているパートナーさんの立場なので下手なことは出来ない。従ってプロパーが入ってこないことには、これまで培ったノウハウを教えられないが、プロパーも結構な頻度で結構辞めていく……負の連鎖だった。
Smile Abroadは違う。植栽やカウンターカフェ、カフェテリアなど出入りする外部のかたを除けば、自社で働くのは全員が正社員。入社して半年はメンターという、別部署の先輩が定期的に、だいたいは一ヶ月に一度面談の機会をくださり、また、入社後三ヶ月の使用期間を過ぎれば、評価制度に基づき、目標設定をするための面談を上長と行い、どんな自分になりたいか、仕事においてなにを大切にしていきたいかを徹底的に詰める。
目標設定制度は前職にもあったがSmile Abroadでは中身が違う。具体的な売り上げや数値の目標以外に、会社にどのようなかたちで貢献するのか。お客さま第一の方針として具体的にどんなマインドで働くのか。一緒に働くメンバーのことを本当に尊重出来ているのか。しっかりと詰めてまた……ただの留学ではなく、笑顔でそれを行う、それがSmile Abroadのスタンスだから。ちょっと微笑むために自分はいったいなにをしているのか。公私問わず書く。
単に、それを行うだけでは足らない。機械的にやっても味気ない。せっかくやるならちょっとしたゆとりや余白を持って微笑んで……それが、Smile Abroadのスタンス。
流石は愛する恋人である恋生の作った会社なだけあって変なひとがひとりもいない。これも驚きだ。だいたいどこか新しい環境に入ればひとりくらいは嫌なひとがいるものだが、本当に、ひとりもいない。多少強烈なひとはいれど別段害を与えないし、まぁ寝ているひととか少々さぼっている程度のかたなら見たことはあるけど、彼はこう言っていたのだ。
――組織というものは、多少緩んでいるくらいじゃないと、窮屈なものになってしまうからね。
私が毎回同じ席で決まった時間に居眠りをしているひとのことを名を伏せて愚痴るとあっさり、恋生は、「――病気の関係で眠たくなる薬を処方されているから。それも含めて彼の個性なんだよ」と認めていた。
逆に、既に会長職を退き、現場から離れたはずの恋生が、そこまで記憶していることに驚いた。事件は会議室で起きているのではない。現場で起きているのだ。自分のなかの彼が叫ぶ。
――恋生は、一緒に過ごしてみて、また、こうして、彼のビジョンを織り込んで作り上げた会社で働いてみてよく分かるが、本当に、ひとを大切にするひとだ。彼が表立って悪口を言うのを見たことがない。誰かが多少誰かのことを悪く言おうとも絶対に加わらずに曖昧に微笑みで流す。そういえば、同期のあいだで浮きまくっているわたしについても言及することがなく。しかも、誰もが知る一流の財閥である神宮寺財閥の御曹司であるにも拘わらず、気さくに話すし、みんなと同じ安酒を飲む。別段彼が偉ぶっているところを見たことがないし、スーパーのレジのおばちゃんに対しても丁寧に応じる。
一流の人間は一流のマインドを持つ。人間に貴賤がないことを知っている。
そういえば、常に彼のメンタルは安定している。睡眠、食事、運動。プライベートや仕事の忙しさで多少崩れることはあれど、基本的には予定外のことで仕事を休むことがない。
自分の父親のことに対して、あれこれ言う世間に対して、怒りを感じていた部分はあるが、パフォーマンスの部分で劣っていたことは確かだ。あれだけ酒浸りであればクオリティの高いものを安定して供給することは難しい。実際に恋生の会社で働いてみて、みなさん、新参者のわたしにすごくよくしてくださって、違う部署の直接かかわりのないかたであってもわたしの名前と顔を覚えてくださって、挨拶に来てくれたり。お菓子を渡してくださって、そうしたみなさんのやさしさにわたしは支えられている。
入社して一ヶ月目は気が張り詰めていて、なかなか睡眠が安定しない。緊張して夜遅くまで起きていてしまう、と打ち明けると、上司は次の日にはカモミールティーを差し出してくれた。分かっていても、実際すぐに実行出来るひとはなかなかいない。
三ヶ月ほどでだいぶ会社のシステムや雰囲気に慣れてきて、でちょっと、ひとの欠点なんかが目について気になりだした頃に、きちんとわたしのことを見てくれて気にかけてくれるひとがいた。
――川瀬さん、なんか悩んでいる? 相談あったら乗るよ?
数回話した程度の別チームの方はその場ですぐに会議室を押さえてくれて、話を聞いてくださった。
風通しのよさに、逆に、少々参ってしまう時期があった。常に監視されているみたいで落ち着かない。ちょっと、リモートで逃げたい。誰からも見られない自分が欲しい、なんて思うことはあった。
これは誰しも経験する現象で、そういうときは、周りは空気を読んで、比較的ひとりの時間を与えてくださっていたように思う。
無事、半年が過ぎ、ちゃんと、自分の目標を組み立てて、どんな自分が理想なのか。どういう点で成長していきたいのかを明確に言語化して、上長とすり合わせをして、より、考えがクリアになった。
前の会社とやり方が違う部分で多く戸惑い、小さな失敗を繰り返す。みなさん、それを見ると、いいんですよ、最初は誰だってそうなんですから。今日覚えたってことでプラスになりますよ、と明るく励ましてくださる。
――いいな。ここ……。
ふと自分がオフィスで働いているときに、そう思えるようになった。社会人になって初めての感覚だ。
最初は新しい環境に慣れるのが大変だからと、仕事の量を少なめに調整してくださった。
舐められているのかな。見くびられているのかなと、怒りを感じる場面もあった。……けど。
ちゃんと、見ていてくださるひとがいる。
分かっていて、見守っていてくださる。そういう安心感がある。
思えば、前職でのわたしのBPさんへの態度は酷かった。見下していることが前提で、明確に区別していて、来たばかりのBPさんの個性やスキルを見ようともせず、教えるだけ教えて。業務時間の八割を引継ぎに埋めて。信頼しないで、どんどん振って。相手の意見を聞かないで……。浅はかだったと思う。
最初の一ヶ月間くらいは、業務で埋まる時間が全体の半分行くか行かないか。あれ、こんな暇でいいのかな。みなさん忙しそうにされているのに……と思っていたけど、振り返ると最初はそのくらいの業務量がちょうどいいのだと分かった。
二ヶ月もすればなにも考えずにパスワードもIDも打ち込めるようになり、アプリケーションの操作になれ、なにも見ずに業務を行えるようになる。すると、ケアレスミスをする。そしてまた覚える。
うちの会社はしたいひとには自由にやらせる社風があって、それはたとえばスマイラーという制度に現れている。
留学を経験した卒業生のことを我々はスマイラーと呼ぶ。
そもそもなにか新しいことにチャレンジするときに、しかめっ面をしていてはいけない。微笑むくらいがちょうどいい。
そういう恋生の信念がSmile Abroadの根底にある。
スマイラーのみなさんはこれから留学する学生や親御さんに向けて講演を開いたり、アドバイスをくださったりと、Smile Abroadの留学はプロセスなのだと教えてくれる。留学は目的ではない、通過点なのだと。
さて――。成瀬さんにお礼のメールを打っていたらチャットが溜まっていた。すぐに目を通す。午前中に片付けられるものを片付けなくては。
「こちらこそありがとうございます。……ぼくは、『Smile Abroad』の留学システムのお陰で人生が変わりましたので、すこしでも貢献できればと思っております」
「この度はありがとうございました。それではまた近いうちにお話ししましょう」
「はい。こちらこそありがとうございました。失礼致します」
「失礼致します」とZoomを切る。と後ろから声をかけられた。同僚の成川さんだ。「川瀬さんお疲れ様。スマイラーの成瀬くんの講演、評判だったみたいだね。ぼくのところにも感想が来ているよ」
「ありがとうございます。それを聞くと成瀬さん、喜ぶと思います。お礼のメールに書き添えておきますね」
「川瀬さん、だいぶ慣れた?」
別の部署に所属するメンバーもこうして声をかけてくれる、有難い環境だ。「はい。もう半年経ちますので」
「おおもうそんなになるのか。川瀬さん、なんか二年くらい在籍しているイメージあるよ」
「ふふふ。もしかしたら本当にそうかもしれませんよ?」
「うん。困ったことがなくてもまた気軽に話しかけて? ぼくあんま席いないけど」
フリーアドレスの快適なオフィス。各々が、好きな場所で働く。
――Smile Abroad。恋生が育て上げた大切な会社に働き始めて半年が経った。毎朝出勤するたびに、このオフィスが外国のカフェやオフィスの素敵な形態のようで満ち足りた気持ちになるし、出社してすぐの場所にはカウンターがあって、気軽にドリンクが頼める。勿論フリーだ。
広々としたオフィスにはカフェのようにカウンター席やテーブル席、ソファーの席や、打ち合わせルームなどがあって、各々が気軽に使える。働く場所が快適だとここまで快適なのかと驚いた。
リモートワークは自宅に限り、一ヶ月につき八回まで許可されている。だいたいみな週二回リモートで働く。私は今回の職場で初めてリモートワークを経験した。自宅で働くのも、細かいデータの業務に集中出来るし、好きな音楽を流せたり、休憩時間にちょっとベランダに出て外の空気を吸ったり、鏡の間で運動をしたり、通勤電車のストレスから解放されてありがたい。リモートで働くのがこんなに快適だとは。
なので週三回出社する。出社するとしたでちゃんとメンバーと顔を合わせて話したり、雑談なんかも出来てかえってリラックス出来る。オフィスには緑が豊かであり、その意味でも癒される。カウンター席には花が飾られていたりと、インテリアにおいてもこだわりのあるオフィスだ。
ビデオ会議を開くには専用のブースがあるが、今回はカウンター席でワイヤレスイヤホンをしてささっと済ませた。勿論守秘義務のある会話は専用のブースで行う。
周りを見回して、テーブル席にチームメンバーを見かけたので一度挨拶に行く。「川本さん。おはようございます。その後体調いかがですか?」
川本さんは感染して初の出社だ。体調はどうなのか気になるところである。まだマスクをしている川本さんは、
「ありがとうございます。もう、だいぶよくなりました」
「味覚や嗅覚は大丈夫ですか? 私、かかったことがないので分からなくて……」
「ああ、もう、全然大丈夫。喉が痛かったり体調が悪かったりする程度で」
私はちょっと笑った。「……それ、かなり辛いじゃないですか。大変でしたね……」
「もう感染するの四回目だから慣れちゃっているのよ。逆に聞きたいんだけど川瀬さんなんでそんなにかからないの?」
「免疫力をあげるよう努力していますので。……後でちょっと話しましょうか」
「いいよ。お昼一緒にしようか。川瀬さん今日はお弁当?」
「はい。じゃあ、十二時五分に窓際の席にしましょうか」
「おっけ。じゃ、今日仕事頑張るわ」
「お疲れ様です。じゃあ、また後で」
それから席に戻る最中も様々なひとに声をかけられる。……あったかい会社だ。
私がSmile Abroadに入社して驚いたこと。みな、士気が高い。人柄がいい。環境がよい。
正直、会社をすぐ辞める人間なんてあまえていると思い込んでいたし、会社も彼女も二週間で捨てた同期のトヨには呆れていた。
……が、単純に、環境を変えればうまくいくこともあるのだ。今回の転職で私は思い知った。
前職では顧客の会社に常駐ということもあり、よそもの感が否めなかったし、いろいろと不自由なこともあった。顧客常駐ということで、自社のメンバーでの会議が決まった場所でしか行えなかったり、あとは、プロパー正社員が入ってくるのが新卒入社後のタイミングで、以外はパートナーさん、協力企業の社員ばかりで、プロパーは半期に一度上長との目標設定面談やフィードバックはあるが、一般に企業はBPを育てる方針がないので、優れたBPさんが入っても環境が合わず辞めてしまったり、或いは、スキル不足のBPさんが多く入る問題に相当悩まされた。
プロパーであれば自社でしっかり育てる方向性があるが、BPは結局教えるのは仕事のやり方のみで、以外の、人間関係構築の方法、ちょっとした電話対応、会社での処世術や、感じのいい対応の仕方など、教えきれないたくさんの部分があったのに教えられない。また、向こうも、安い給与で雇われているパートナーさんの立場なので下手なことは出来ない。従ってプロパーが入ってこないことには、これまで培ったノウハウを教えられないが、プロパーも結構な頻度で結構辞めていく……負の連鎖だった。
Smile Abroadは違う。植栽やカウンターカフェ、カフェテリアなど出入りする外部のかたを除けば、自社で働くのは全員が正社員。入社して半年はメンターという、別部署の先輩が定期的に、だいたいは一ヶ月に一度面談の機会をくださり、また、入社後三ヶ月の使用期間を過ぎれば、評価制度に基づき、目標設定をするための面談を上長と行い、どんな自分になりたいか、仕事においてなにを大切にしていきたいかを徹底的に詰める。
目標設定制度は前職にもあったがSmile Abroadでは中身が違う。具体的な売り上げや数値の目標以外に、会社にどのようなかたちで貢献するのか。お客さま第一の方針として具体的にどんなマインドで働くのか。一緒に働くメンバーのことを本当に尊重出来ているのか。しっかりと詰めてまた……ただの留学ではなく、笑顔でそれを行う、それがSmile Abroadのスタンスだから。ちょっと微笑むために自分はいったいなにをしているのか。公私問わず書く。
単に、それを行うだけでは足らない。機械的にやっても味気ない。せっかくやるならちょっとしたゆとりや余白を持って微笑んで……それが、Smile Abroadのスタンス。
流石は愛する恋人である恋生の作った会社なだけあって変なひとがひとりもいない。これも驚きだ。だいたいどこか新しい環境に入ればひとりくらいは嫌なひとがいるものだが、本当に、ひとりもいない。多少強烈なひとはいれど別段害を与えないし、まぁ寝ているひととか少々さぼっている程度のかたなら見たことはあるけど、彼はこう言っていたのだ。
――組織というものは、多少緩んでいるくらいじゃないと、窮屈なものになってしまうからね。
私が毎回同じ席で決まった時間に居眠りをしているひとのことを名を伏せて愚痴るとあっさり、恋生は、「――病気の関係で眠たくなる薬を処方されているから。それも含めて彼の個性なんだよ」と認めていた。
逆に、既に会長職を退き、現場から離れたはずの恋生が、そこまで記憶していることに驚いた。事件は会議室で起きているのではない。現場で起きているのだ。自分のなかの彼が叫ぶ。
――恋生は、一緒に過ごしてみて、また、こうして、彼のビジョンを織り込んで作り上げた会社で働いてみてよく分かるが、本当に、ひとを大切にするひとだ。彼が表立って悪口を言うのを見たことがない。誰かが多少誰かのことを悪く言おうとも絶対に加わらずに曖昧に微笑みで流す。そういえば、同期のあいだで浮きまくっているわたしについても言及することがなく。しかも、誰もが知る一流の財閥である神宮寺財閥の御曹司であるにも拘わらず、気さくに話すし、みんなと同じ安酒を飲む。別段彼が偉ぶっているところを見たことがないし、スーパーのレジのおばちゃんに対しても丁寧に応じる。
一流の人間は一流のマインドを持つ。人間に貴賤がないことを知っている。
そういえば、常に彼のメンタルは安定している。睡眠、食事、運動。プライベートや仕事の忙しさで多少崩れることはあれど、基本的には予定外のことで仕事を休むことがない。
自分の父親のことに対して、あれこれ言う世間に対して、怒りを感じていた部分はあるが、パフォーマンスの部分で劣っていたことは確かだ。あれだけ酒浸りであればクオリティの高いものを安定して供給することは難しい。実際に恋生の会社で働いてみて、みなさん、新参者のわたしにすごくよくしてくださって、違う部署の直接かかわりのないかたであってもわたしの名前と顔を覚えてくださって、挨拶に来てくれたり。お菓子を渡してくださって、そうしたみなさんのやさしさにわたしは支えられている。
入社して一ヶ月目は気が張り詰めていて、なかなか睡眠が安定しない。緊張して夜遅くまで起きていてしまう、と打ち明けると、上司は次の日にはカモミールティーを差し出してくれた。分かっていても、実際すぐに実行出来るひとはなかなかいない。
三ヶ月ほどでだいぶ会社のシステムや雰囲気に慣れてきて、でちょっと、ひとの欠点なんかが目について気になりだした頃に、きちんとわたしのことを見てくれて気にかけてくれるひとがいた。
――川瀬さん、なんか悩んでいる? 相談あったら乗るよ?
数回話した程度の別チームの方はその場ですぐに会議室を押さえてくれて、話を聞いてくださった。
風通しのよさに、逆に、少々参ってしまう時期があった。常に監視されているみたいで落ち着かない。ちょっと、リモートで逃げたい。誰からも見られない自分が欲しい、なんて思うことはあった。
これは誰しも経験する現象で、そういうときは、周りは空気を読んで、比較的ひとりの時間を与えてくださっていたように思う。
無事、半年が過ぎ、ちゃんと、自分の目標を組み立てて、どんな自分が理想なのか。どういう点で成長していきたいのかを明確に言語化して、上長とすり合わせをして、より、考えがクリアになった。
前の会社とやり方が違う部分で多く戸惑い、小さな失敗を繰り返す。みなさん、それを見ると、いいんですよ、最初は誰だってそうなんですから。今日覚えたってことでプラスになりますよ、と明るく励ましてくださる。
――いいな。ここ……。
ふと自分がオフィスで働いているときに、そう思えるようになった。社会人になって初めての感覚だ。
最初は新しい環境に慣れるのが大変だからと、仕事の量を少なめに調整してくださった。
舐められているのかな。見くびられているのかなと、怒りを感じる場面もあった。……けど。
ちゃんと、見ていてくださるひとがいる。
分かっていて、見守っていてくださる。そういう安心感がある。
思えば、前職でのわたしのBPさんへの態度は酷かった。見下していることが前提で、明確に区別していて、来たばかりのBPさんの個性やスキルを見ようともせず、教えるだけ教えて。業務時間の八割を引継ぎに埋めて。信頼しないで、どんどん振って。相手の意見を聞かないで……。浅はかだったと思う。
最初の一ヶ月間くらいは、業務で埋まる時間が全体の半分行くか行かないか。あれ、こんな暇でいいのかな。みなさん忙しそうにされているのに……と思っていたけど、振り返ると最初はそのくらいの業務量がちょうどいいのだと分かった。
二ヶ月もすればなにも考えずにパスワードもIDも打ち込めるようになり、アプリケーションの操作になれ、なにも見ずに業務を行えるようになる。すると、ケアレスミスをする。そしてまた覚える。
うちの会社はしたいひとには自由にやらせる社風があって、それはたとえばスマイラーという制度に現れている。
留学を経験した卒業生のことを我々はスマイラーと呼ぶ。
そもそもなにか新しいことにチャレンジするときに、しかめっ面をしていてはいけない。微笑むくらいがちょうどいい。
そういう恋生の信念がSmile Abroadの根底にある。
スマイラーのみなさんはこれから留学する学生や親御さんに向けて講演を開いたり、アドバイスをくださったりと、Smile Abroadの留学はプロセスなのだと教えてくれる。留学は目的ではない、通過点なのだと。
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