セリフじゃなくて

藍栖 萌菜香

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04 やっぱり、きみは俺の……。

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 そっと押しつけられた神坂さんの唇は、思いのほか柔らかかった。触れては離れ、離れては触れ……そのやさしい感触についうっとりしてしまう。固く噤んでいた唇からも、つられたようにゆるりと力が抜けていった。
 これなら慣れるのも簡単そうだ。そう思い始めた頃、脱力していたその唇をチュッと軽く吸いあげられた。

 続けざまに何度も何度も唇を吸われる。そのたびに、ふるりふるりと唇が揺れた。
 ぴたりと隙間なく唇を合わされる瞬間。吸われた唇がわずかに持ちあがる瞬間。解けた唇が揺れながら戻ってくる瞬間。そのどれもが心地いい。

 そうだった。これもキスだ。唇をただ重ねるのだけがキスじゃない。映画で観たキスシーンを思い出しながら、キスにはバリエーションがあるのだと身をもって知る。

 じゃあ、熱烈な恋人たちが交わすキスはどんなだろう? やっぱりスクリーンの中で主人公たちが演じてた、口を開けて舐め合うアレだろうか?
 そんなことを考えていたからか、神坂さんに唇を舐められても驚くことはなかった。


 熱く濡れた感触が、ぬるりぬるりと唇の表面を撫でていく。
 目を閉じてるからよくわからないけど、神坂さんは首の角度を変えているらしい。唇を舐められる向きが右からだったり、左からだったり。かと思えば、すっかり解けた唇の隙間にひらひらと潜ってきてみたり……まるで楽しいオモチャでも見つけたみたいに神坂さんの舌は少しもじっとしていない。

 忙しないその動きに、田舎の祖父母が飼っている犬を思い出して、つい笑いそうになったときだった。
 かぷっと、上唇を齧られた。

 やわらかな舌の感触とは違う。硬い歯で挟まれて、甘噛みされたまま引っ張られる。
 痛みはない。ただ、それまでにはなかった強い刺激に息が乱れた。

 口を開けたのは無意識だった。乱れた息を取り戻そうと、酸素を求めてのことだったんだと思う。そうして開けた口の中へ、するりとなにかが滑り込んできた。


 熱くてやわらかいそれに、口の中を探られる。
 ああ、やっぱり。熱烈な恋人たちがするキスはコレなんだ。
 ……なんて、悠長に演技の確認をしていられたのは、ほんの一瞬だけだった。

 戸惑い固まる舌を掬い上げられ、その裏側をぞろりと舐められる。途端に、舌先から喉奥へと痺れにも似た感覚がぞくぞくと広がった。
 初めてのその体感に、胸を押さえていた指先がぴくりと震える。そのちいさな震えを感じ取ったんだろう。重ねられていた大きな手が、俺の手をぎゅっと握り込んできた。

 そのあいだも、熱い舌に口の中をまさぐられる。頬の内側や上顎の粘膜をぬくぬくとくすぐっては、ときおり俺の舌を薙ぐように舌を閃かせた。その動きは奔放で、つぎにどこを探られるのか、まるで見当がつかない。

 どこをどう探られてもぞくぞくが襲ってきた。そのたびに熱が生まれ、じわりと溢れた唾液が口の奥に溜まっていく。それらが喉を塞ぐようで、よけいに息が苦しくなってきた。
 でも、息継ぎをしようにも、口を開ければ開けるだけ熱い舌に塞がれては、もうどうしようもない。


 もともとぼんやりしがちだった頭の芯が、さらにぼうっとしてきた。これじゃキスの稽古どころじゃない。
 一度解放してほしくて、握られたままの手で神坂さんの胸を押しやろうとするけれど、体格差のせいもあって覆い被さる厚い胸板はビクともしない。逆に、邪魔だと言わんばかりにその手を退かされ、ソファーへ縫いつけるようにしっかりと握り直されてしまった。

 もはや為す術もなくただ翻弄されていると、無遠慮な舌がするりと喉奥に潜り込んできた。同時に、溢れそうなほど溜まっていた唾液も、とろりと奥へ流れ込んでくる。

「ん、ふ、ぅうんっ」
 わざとじゃない。ただの反射だったんだ。
 どちらのものともわからない唾液を俺が飲んでしまったのだって、飲み込んだ拍子に神坂さんの舌先まで喉奥へと引き入れてしまったのだって、俺の本意じゃなかった。

 舌先を飲まれそうになったことへの抗議だろうか。唾液を嚥下した瞬間、指を組むように繋がれていた手が強く握りしめられた。けど、俺だってしようと思ってしたわけじゃないんだし、そこは勘弁してもらうしかない。


 そんなことよりも……人の唾液を飲んでしまった。それも、会ってまだ数時間という他人のものだ。
 なのに、なんでだろう。不思議と嫌悪感は湧いてこない。むしろ、神坂さんの唾液を飲んでからいっそう思考がぼんやりとして、そんなことなんかどうでもいいような気さえしてきた。
 熱く蒸されたような鈍い意識の隅で、自分の反応に驚いていると、さっきは押してもまるで動かなかった逞しい身体がそっと身を起こした。

 抜け出ていく舌に薄い粘膜をそろりと擦られて、喉の奥から「クゥ」と変な声が出た。やっと解放された唇はじんじんと痺れて、何やら腫れぼったい。敏感になりすぎて、荒れた自分の息が表面を撫でていくのさえはっきりと感じ取れた。
 唇もだけど、頬が異様に熱い。俺の顔は、いったいどんな有り様になってるんだろう。

 目蓋に視線を感じて目を開けると、神坂さんがじっと見つめていた。いまのキスと同じくらい熱っぽい眼差しだ。
 乱れて垂れ落ちる前髪も、わずかに紅を刷いたような目元も、俺ほどではないけど乱れた息に上下する胸板も、キスする前より何倍も神坂さんを色っぽく見せていた。

 これも演技だろうか? 百戦錬磨の達人ともなると、希求してやまない気持ちを精一杯堪えているような、そんな甘い雰囲気だって自在になるのか?


「やっぱり、きみは俺の……」
 ふいにこぼれてきたその声は、ひどく掠れて震えていた。声量的にはごくごく小さくて、もしかしたら俺に聞かせるつもりのない独り言だったのかもしれない。
 でも聞こえてしまった。『きみは俺の……』なんだ? 無性に続きが気になる。

 おそらく独り言だろうその続きを期待し見あげていると、確信めいた強い光を宿した瞳で見つめ返された。どうやら彼の中でなんらかの発見があったらしい。
 きらきらと輝きを増した眼差しも、堪えきれない様子で持ちあがってる口角も、彼の喜悦をありのままに伝えてくる。それが、まるで宝物を見つけた少年のような喜びようで、見てるこっちのほうまで嬉しくなってきた。

 何がそんなに嬉しいのかはわからないけど、俺の表情筋までがつられて緩む。
 そのときだ。少年のようだった神坂さんの笑顔が、またアダルトな微笑にすり替わった。

 途端に、キスのあいだもずっと全身を包んでいた何かの気配が濃密になっていく。目には見えないその濃厚な気配と、神坂さんが醸し出すアダルトな雰囲気とに俺が意識を拐われていると、目の前の体躯ががふたたびそっと伏せられた。
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