セリフじゃなくて

藍栖 萌菜香

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08 無自覚ですか? いい迷惑です。

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 KTCの本社ビルの一階にある社内カフェ《グリーン》は、緑と白を基調にしたお洒落なお店だった。
 エントランス横の区画すべてを使った贅沢にも広いその空間は、奥に簡単な会議や商談ができるブースまで設けられている。遊歩道に面したガラス張りの店内は明るくて、社員が息抜きに立ち寄るほか、外部のお客様をもてなすときにも利用されていた。

 朝八時のモーニング営業から夜八時の終業まで、全体的にほどよく客が入るほか、昼食時には、社外でも美味しいと有名な社員食堂にあぶれた社員たちが軽食を求めて混雑する。大きな会議があればコーヒーの配達も請け負うため、仕事は結構ハードだった。


 先週、夏期限定スタッフの募集があり、その面接を受けた俺は無事ウェイトレスとして採用された。
 男の俺が女性従業員として働くには、いくつかの問題があったが(いや、そもそもが大問題ではあるんだけど)、直属の上司となった阿部さんがいい人だったり、女子更衣室の一角にカーテンの間仕切りが設置されていたりと、なんとか性別だけは誤魔化せそうでホッとしている。

 この際、仕事仲間を騙すことに良心が疼くのは仕方がないと割り切った。『文句はノリノリでこの設定を考えた社長代理に言ってくれ』と内心で頭をさげ、せめてみんなの役に立てるよう精一杯働かせてもらおうと心に決めた。

 フロアに出るのはほとんどが女性で、男女とも支給された制服を着用する。
 ウェイトレスの夏服は、グリーンカラーがベースの半袖Aラインの膝上ワンピースだ。その上から白のフリルエプロンを着け、足元には緑のサンダルと、ちょっとオシャレなファミレスの店員といった感じだった。

 俺の場合は、その制服のほかに、詰め物入りのブラジャーや、ハードタイプのガードルに三分丈のスパッツを常時身に着けている。初夏にこの重装備はかなりつらいものがあるが、万が一のことを考えると手は抜けなかった。いくら更衣中はカーテンで隠せるとはいえ、不慮の事故が起こらないとも限らないからな。

 ほかにも念には念を入れ、無駄毛処理に髪や肌の手入れは抜かりなく、それと、女性用のコロンもほんの少しだけど着けるようにしていた。
 おかげでここに勤めはじめてからこの五日間、誰にも男だとバレていない。


 いまはランチラッシュが終わって、客の入りもそこそこという時間帯。
 ……の、はずなんだけど、今日はいつもと様子が違った。
 店内は女性社員で溢れ返り、昼休憩で席を外しているはずの女性スタッフたちまでがフロアの隅に控えている。
 その原因はすべて、窓際の席で食後のコーヒーを悠々と楽しんでいるその人にあった。

 その人は午前中、今期最大のプロジェクト会議をこなしてきたらしい。いくらか疲れが出たのか、浅めに腰を掛け長い脚を組み、椅子の背もたれにゆったりと身を預けていた。
 手には仕事用のタブレットだろうか、ときおり画面に触れては考え事をしているようだ。オーニング越しに差し込む初夏の日差しが逆光となって、そのシルエットはなんの撮影かと思うほど様になっていた。

 店内の女性たちがほぼ全員、その様子にうっとりと見入っている。
 ただでさえそんな状態だというのに、その人はテーブルから手に取ったカップを口元へと運び、ゆるりと中身を飲んだあと、ほうと、やわらかな溜め息をひとつついた。
 途端に、見つめていた女性陣だけでなく、たまたま居合わせただろう男性たちまでが、色めいた溜め息を「はあぁー」と一斉に吐きだした。

 これがフェロモン効果か……。
 そうして感心している俺もまた、胸に手を当てて、鼓動よ鎮まれと四苦八苦していた。おそらく、ここにいる人たちのほとんどが、否応なく同じ症状に苛まされているだろう。


「ちょっと、いい加減にしてください。なんなんですか、この前から」
 そう言いながらパタパタと手を振り、たばこの煙でも追い払うような仕草をして見せたのは、神坂さんの秘書、雨宮あめみや志信しのぶさんだ。
 さっきまでサンドイッチを摘まみながら、薄型のノートパソコンを操作していた。いまは神坂さんのコーヒータイムが終わるのを待っているようだ。

 神坂さん情報によると、『生真面目すぎて面白みに欠けるが、優秀な男』だそうだ。神坂さんとは、親戚で幼馴染という気の置けない仲らしい。

「ん? なんのことだ?」
「無自覚ですか? 二十代半ばになってやっと落ち着いたと思ったのに、三十路を過ぎていまさら……いい迷惑です」
 本気でそう思っているんだろう。メガネの奥の瞳は眦がきれあがり、眉間にもキツい皺が寄っていた。
 そうしてみせても、芯が一本通ったような気品は崩れず、優雅な美しさはそのままだ。神坂さんとはタイプが違うが、この人も絵になる人種だった。


「せめて被害の拡大は避けてください。《グリーン》のスタッフたちも困ってますよ」
 雨宮さんのその言葉に改めて周りを見渡すと、確かにスタッフの視線は神坂さんたちに釘付けで、まともに動けているスタッフはほとんどいない。バックヤードを兼ねる男性スタッフが数名と、神坂さんのフェロモンとは相性が合わないらしい阿部さん、それに、かろうじて俺が動けるくらいだろうか。
 でも、お客さんたちの視線も神坂さんたちに釘付けだから、大きな動きもあまりなく、さして困っていないのが現状だった。

「あらあ、構いませんよ。売り上げ大幅アップで、うちは大歓迎です」
 少し離れたところから笑顔で応対したのは、フロアチーフの阿部さんだ。
 勤続年数の長い阿部さんは、社長や社長代理とも気さくに話せる間柄のようだった。普段はここを訪れないらしい神坂さんが珍しく来店してきたときにも、笑顔で会話をしながら普通に接客していた。

「被害はここだけじゃありません。これだけ社員が集まっていたんじゃ各部署でも仕事になってないでしょう」
 確かに。本来の昼休憩時間は大幅に過ぎている。なのに、カフェの椅子はほとんどが埋まり、空く様子もない。これでは、各オフィスでなんらかの支障が起きていてもおかしくなかった。


 「さあ、戻りますよ」と荷物を手に席を立った雨宮さんが、出入り口に向かう途中で立ちどまり振り返る。いまだ名残惜しそうに動こうとしない神坂さんを、いくらでも待つ構えのようだった。

「しかたないな。じゃあ、私も仕事に戻るとするか」
 降参とでも言いたげに肩をすくめたその仕草は妙に板についていて、やはり一同の溜め息を誘う。

 そんな神坂さんの様子に何かを感じたのは、近しい友人としての直感だろうか。
「いつになくぐずりますね……何かあるんですか?」
 という雨宮さんの問いかけにギクリとしたのは、きっと神坂さんも一緒だろう。
 なのに、その顔には動揺の欠片も現れなかった。役者志望の俺も当然だ。ギクリとはしても顔には出さない。

 神坂さんは演劇経験などないと言っていたが、KTCの次期社長として何年もビジネス業界を渡り歩いてきたんだ。むしろ毎日が化かし合いのようなもので、ポーカーフェイスなどはお手の物なのかもしれない。

 「何かとは?」と何食わぬ顔で問い返した神坂さんは、安定のスマートさで席をあとにした。それを確認した雨宮さんは、最初から答えなど期待していなかったのか、軽く溜め息をついただけで踵を返した。


 ふたりの後ろ姿に、(神坂さん、グッジョブ!)と心の中でこっそり称賛を送る。
 次いで、神坂さんたちが使っていたテーブルの片付けに、不自然にならない程度に急いで向かった。
 ほかのウェイトレスたちは、神坂さんたちのあとについてふらふらと出入り口に向かっていたので、仕事を取り合うこともなく済んだ。

 ここまではシナリオ通り。問題はここからだ。
 まさに今日、このあとなんだ。KTCの御曹司、神坂和樹次期社長が、一介のウェイトレス、水内夕陽さんに一目惚れするのは。
 リアルを舞台にしたシンデレラストーリーがいよいよ幕を開けるんだ。
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