セリフじゃなくて

藍栖 萌菜香

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09 やだ、こっちにくるぅ

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 このあとのシナリオはこうだ。
 社長代理の忘れ物を見つけた夕陽さんがロビーまで追いかけ、それを本人に手渡す。そうしたら社長代理が彼女を引き留め、お礼がしたいと彼女を食事へ誘う。けれど、彼女はそれを断る。
 いわゆる出逢い編というわけだ。

 せっかくの食事の誘いをなぜ断るかというと、夕陽さんが売名や金銭を目的としない誠実な女性であること、また、あくまでも神坂さんからのアプローチだということを社員たちに印象づけるためだ。
 その方が、二人に婚約話が持ちあがったとき、社員たちも納得がしやすく波風が立ちにくい、という神坂さんの意見を採用した。


 『売名』や『金銭目的』だなんて単語がさらりと出てくるあたり、神坂さんも相当苦労してきたんだろう。
 このシンデレラストーリーは、周囲の人間が納得できるようにと二人で考えたものだけど、それは同時に、こういう話なら自分も納得してしまうという内容でもあった。

 真面目で、夢に一途で、肩書きや外見で人を判断せず、女優の卵という見地から相手の人間性を知ろうと努力する『水内夕陽さん』は、もしかしたら神坂さんの理想の女性なのかもしれない。

 紗子社長の話によると、大学生の頃の神坂さんは『運命の人』を探していたらしい。
 もしかしたらこの先のシナリオでも、夕陽さんが神坂さんの運命の人として認められるようなシーンが設けられたりするんだろうか……。


 そんなことを考えながら神坂さんたちが去ったテーブルを拭いていると、また胸の奥がモヤモヤと落ち着かなくなってしまった。

 神坂さんのことを考えていると、ときどきこんなふうになる。
 あるときは不快で嫌な感覚だったり、べつのときにはちょっとくすぐったいような感覚だったりと、一貫性がまるでない不可解な症状だ。

 たぶん神坂さんとのあのリハーサルが関係してるんだと思う。こんな不可解な症状が出たのも初めてなら、誰かとあんなに濃厚な接触をしたのも、フェロモンなんてものに影響を受けたのも初めてだったから。


 あの日以来、神坂さんとは直接顔を合わせていない。出逢い編の前に、二人が一緒にいる姿や、神坂さんのマンションに通う男装の夕陽さんを目撃されてしまうわけにはいかないからだ。

 あの日、俺に蹴り飛ばされた神坂さんは、平謝りする俺を制して逆に謝ってくれた。
 「つい夢中になってしまった」とか、「こんなに勝手がわからないのは初めてだ」とか、戸惑った様子でこぼしていたところを見ると、やはり演技自体が彼にとっては負担のようだった。

 少し気の毒になって「キスシーンに変わる何かを考えてみますか?」と提案したけど、親密さを見せつける以上の良案はないということで、それは却下された。
 神坂さんが「二度とこんなことがないように気をつける」と誓ってくれたから、万が一、人前でキスシーンを演じるようなことになっても、前回のようなことにはならないと思うんだけど……。


 いまはもう、神坂さんの演技慣れに関して不安はない。むしろ、さっきのポーカーフェイスを見て信頼を深めたくらいだ。
 俺が不安に思ってるのは、俺のコンディションのほうだった。

 さっき神坂さんが窓際のこの席に着いていたとき、俺が控えていた場所はけっこう離れていた。にもかかわらず、彼が去るまでのあいだ、のぼせや動悸に悩まされていた。ともすれば、すぐにぽうっと神坂さんを見つめていて、阿部さんに声をかけられても気づかない始末だったんだ。
 こんな状態で忘れ物を届けに行って、果たしてシナリオ通りにちゃんと演じきれるんだろうか?

 それでも、ここはやるしかない。
 ここで失敗したら、一からシナリオをつくり直さなきゃならなくなる。
 そんな悠長なことはしてられないんだ。俺がここに勤めていられるのは夏休みのあいだだけだし、神坂さんのお祖父さんは高齢だ。一日でも早く療養させてあげないと。


 そうこうしているうちに、テーブルの上は片付いた。でも、そこには忘れ物らしきものは見当たらない。
 まさか神坂さん、忘れ物を置いていくのを忘れたとか?
 ちゃんと何をどこに忘れていくのか決めておけばよかった。忙しい神坂さんと電話でのやりとりだけで決めた大雑把なシナリオだったけど、やっぱり詰めが甘かったか。

 いまさらな後悔を胸に、椅子を直しながらテーブルの下を覗き見ると……あった。
 神坂さんが座っていた席の、隣の椅子の座面に、先ほど彼が操作していたタブレットが。

(うわっ、なんでこんな大事なものをっ)
 タブレット単体でも高価だけど、こうした電子端末は個人情報のかたまりだ。もし仕事に使っていなかったとしても、忘れていっちゃダメだろ。

 急いで届けないと、と半ば焦りながら、食器をのせたトレイをカウンター裏に仮置きする。阿部さんに「社長代理に忘れ物を届けてきます」とひと言残してから、件のタブレットをしっかりと抱えて出入り口に向かった。


 そこは、大勢の女子社員と女性スタッフとでごった返していた。なかには男性社員もいる。
 そのほとんどが、ぼんやりと夢見るような顔をしてエレベーターホールのほうへと視線を投げていた。きっとそこに神坂さんがいるんだろう。
 あからさまに神坂さんのあとを追いかけていくような人がいないようでホッとする。もしそんな人がいたら、シナリオの進行が危うくなるところだった。

 けれど、安堵したのも束の間、今度はその人垣を抜けれずに焦ってしまう。
 「すみません、通してください」という呼びかけが聞こえないのか、みんなまるきり動かない。
 幾人かがそろりと移動してはくれたが、そんな人たちは、きっと神坂さんのフェロモンの影響を受けずに済んでる見物客たちだ。こういう人たちにこそ、この舞台を見てもらわないといけないのに、と、出口を固めている集団催眠にかかったような人たちをうらめしく思った。

 否応なく催眠にかけられてしまうその状態には共感も同情もするけど、お願いだからいまだけはここを通してほしい。

 人の壁のわずかな隙間に肩を無理やり捻じ込んで、タブレットに圧がかからないようにだけ注意しながら一歩ずつ人垣を掻き分ける。ほとんど後ろ歩きだったけど、そうでもしなければ進むことができなかった。
 しかし、催眠状態でも倒れまいとする本能は働くのか、押した分だけ押し返されてしまう。あと少しのところで頑丈な砦が行く手を塞いで、ちっとも進めなくなってしまった。

 振り返ると、女性たちの頭上からロビーの奥にあるエレベーターホールが見えた。神坂さんが雨宮さんと連れ立って、エレベーター待ちをしている。
 よかった、まだいた。
 と思ったそこへ、無情にもエレベーターがその口を開いてしまった。


 神坂さんがシナリオを忘れているわけがない。ちゃんと忘れ物をしていったんだから。それを持って追いかけてこない俺を、おそらく不審に思っているだろう。
 きっと神坂さんは、エレベーターに乗るのを待ってくれるはずだ。そうは思っても、そこで彼が立ちどまってしまっては不自然だということも頭の隅ではわかっていた。

 雨宮さんがエレベーターのボタンを押して、神坂さんが動くのを待っている。
 このままじゃダメだ。もう形振りなんか構っていられない。ここで出逢い編を逃すわけにはいかないんだ。それに、このタブレットがなければ、神坂さんが困るだろう。

「社長代理っ! 忘れ物ですっ」
 咄嗟に叫んだ俺の声が、エントランスやロビーに大きく響いた。
 よかった。多少上擦っていたが、ちゃんと高めのよそいき声だ。

 俺のその声に、神坂さんと雨宮さんが同時に振り返る。
「あのっ、これっ! お席にあったんですが、」
 身体を捻って爪先立ちになり、タブレットを高く掲げて見せると、受け取りに戻ろうとした雨宮さんを制して、神坂さんがこちらへと近づいてきた。


 大丈夫だ。シナリオは続いている。
 シンデレラストーリーの始まりにしてはどうにもお粗末だったけど、このまま忘れ物を渡せば知り合うきっかけくらいにはなるだろう。
 一目惚れするには無理のある出逢いになってしまったのは仕方がない。でもそれは、あとから神坂さんに相談して、今後の展開を一緒に考えればいいだけの話だ。
 そう算段したときだった。

 「やだ、こっちにくるぅ」という誰かの声を皮切りに、催眠状態だった人垣からきゃあきゃあと興奮したような歓声が一斉にあがった。頑強だった最後の砦も、わさりわさりと揺れ動く。

 そのせいで、不自然な姿勢でタブレットを掲げていた俺は見事にバランスを崩した。
 なんとかして抜け出ようと体重をかけていた方向へ、二歩三歩とたたらを踏んで、あっという間に人垣のなかから飛び出してしまう。

 倒れるっ!
 もつれた足にそう悟ったときには、両腕でタブレットを抱え込んでいた。
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