セリフじゃなくて

藍栖 萌菜香

文字の大きさ
10 / 12

10 このひとを医務室に運ぶ。

しおりを挟む
 視界いっぱいに迫る床の色。
 足早に駆けてくる靴音。
 右膝で弾けた熱い衝撃。
 鼻先を掠めるウッドの香り。

 処理しきれない情報が、まるでばら撒いた切り抜き写真みたいに次々と舞い込んでは去っていく。

 唯一把握できたことといえば、もうダメだと目を閉じる直前、目の前に差し出された大きな手のひらが、知っていたよりもずっときれいだったという印象の相違だけだった。


 さっきまで甲高い声がきゃあきゃあとロビーに響き渡っていたのに、いまはなぜだか静まり返っている。時がとまったような静寂を背に、抱き留められた胸のなかへ、いま一度ぎゅっと強く抱きしめられた。
 力強いその腕に締め出されて、はぅ、と肺から息がこぼれる。そうされてやっと、自分が息を詰めたまま呼吸をしていなかったことに気づかされた。

 酸欠気味の頭に酸素をと思っても、少しの隙間も許さない腕のなかではそれもままならない。もぞりと身動いてみてやっと、きつかった腕がそろりと緩められていった。
 スーツに覆われた逞しい胸に押しつけられていた頬が、ゆっくりとそこから引き剥がされる。そこへできた空間をそっと覗き込まれて、神坂さんの焦ったような顔が視界に映った。

 何が起こったのかは、脳裏にこびりついた残像をあれこれ繋いで理解した。俺が勢い余って転びかけたところを、神坂さんが抱き留めてくれたんだ。
 かろうじて状況は把握できたものの、思わぬハプニングに気持ちがなかなか追いつかない。そんな状態では、神坂さんとのこの距離を危険だと身構えることも当然できなかった。


「大丈夫でしたか?」
 神坂さんの低く艶のある囁き声にふわりと包まれる。ただでさえ魅力的な声質なのに、出逢い編を意識してか、全力で俺を魅惑しにきてるとしか思えない。
 そんな声に知らず背筋がぞくりと震え、その体感に、自由になった息をひとつ大きく吸い込んだ。

 なぜだろう。ひやりとした感触を残した皮膚の下で、ぽつぽつと熱が生まれては、じわりと広がっていく。
 ハプニングのせいで体温がさがっていたらしい。その熱が身体をあたため、さらに熱くしていくようだった。

 濃茶の瞳とまっすぐに視線が噛み合っている。その瞳を、手のひらに感じたのと同じくきれいだと思ったときには、もう神坂さんのことで頭がいっぱいになっていた。

「お怪我は?」
 反応の薄い俺を不審に思ったのか、心配そうな顔をして重ねて問うてくる。

 怪我なんか知らない。そんな不安そうにしないでよ。
 なんとかして彼の不安を取り除きたい。たぶんそんな気持ちからだったんだろう。
 神坂さんの頬へとゆるりと差し伸べられていく俺の手が、視界の片隅にちらりと見えた。


 その指先に、ギクリと胃が竦む。
 ちょっと待て。
 お前はこの手をどうする気なんだ?
 神坂さんは敬語だった。シナリオは続いてる。
 お前はなんのためにここにいるんだ。ちゃんと自分の役を思い出せ。

 差し伸べかけていたその手をグッと握りしめ、もう一方の腕に抱いたままの硬さを確かめた。
 ずっと抱え込んでいたから無事のはずだ。できればそれを目で見て確かめたかったけど、どうしても神坂さんから視線をはずせなくて断念する。

 どうか壊れていませんようにと願いながらそれを差し出し、
「あの……、これ、社長代理のものですよね?」
 と、神坂さんの様子を窺った。

「ああ、うっかりしてたな。助かりました。ありがとう」
 そう返しはするものの、いまだに俺を囲う腕をこれ以上緩めるつもりがないのか、神坂さんは差し出されたタブレットに目もくれず、受け取りもしない。大人の男を思わせる色気を漂わせて、ただにっこりと微笑むだけだ。

 ふわりと花開くようなその微笑みが、目に見えない何かをふわりとあたりに撒き散らした。
 シンと静まっていた背後がその微笑みの威力の余波を受けたようで、ざわざわと騒ぎだす。
 長い腕に囲われたままの俺は逃げ場もなく、もろにクラリと悩殺されてしまった。

 ふたたびとろりと意識が蕩けかけ、ヤバいと焦りながら奥歯を噛み締めた。なんとかして踏み留まったが、本当にもうギリギリのラインだ。
 だめだろ。いまはシナリオ中なんだってば。
 そう自分に言い聞かすものの、それでも意識のほとんどを神坂さんに持っていかれていて、相変わらず視線も逸らすことができない。

 ああもう、なんて厄介なんだ。このフェロモン男め。


「こちらこそ助けていただいて……」
 役者根性を絞り出し、そう言いながら体重を移動して身体を離す。その動きに助けられて、やっと視線をはずすことに成功した。

 このフェロモンからは、距離を置くのが一番だ。それでも平常運転というわけにはいかないが、このまま神坂さんに触れていたり、至近距離で微笑まれたりすれば、きっとまた影響されてぽやぽやと我を失いかねなかった。

 確かにトラブルはあったが、出逢い編としては上出来だろう。シンデレラのピンチを王子が救ったんだから。ここはボロが出ないうちにタブレットを受け取ってもらって、さっさと退散するに限るだろう。
 そう判断して、「ありがとうございました」とお礼を口にしながら立ちあがろうとしたときだった。


「きみっ」
 慌てたように俺を呼び止めた神坂さんに、立てた右膝のすぐ下あたりを取り押さえられる。立ちあがりかけていた肩にも手がかかり、これ以上は腰を浮かすこともできなくなってしまった。
 神坂さんがずいと覗き込んできた箇所を何事だろうと見てみれば、そこには、ストッキングが破れ、一部血が滲んでいる箇所があった。
 そういえば、転んだ瞬間、右膝に熱を感じたような気もした。あれは、コレだったのか。

「大丈夫です。この程度ならスタッフルームで手当てできますので」
 《グリーン》の控え室には、スタッフの軽い火傷や切り傷などの手当てができるキットが常備してあった。あれを使わせてもらえばいい。
 神坂さんに指摘されるまで、自分が怪我をしていることにも気づかなかったくらいだ。きっとたいしたことはないだろう。医者にかかるまでもない。

 そう説明しながら、一大事だとでも叫びだしそうな面持ちの神坂さんの手をさりげなく遠ざけると、その手は思いのほか簡単に離れていって、なぜか彼のジャケットへと向かっていった。
 その行く先を不思議に思う間もなく、神坂さんがいきなりスーツの上着を脱ぎ始める。

 いったいなんなんだ?
 自社ビルのロビーの真ん中で重役がスーツを脱ぎだすなんて、それこそただごとじゃない。

 出逢い編が終わろうとしているこのときに、今度は何が始まろうとしてるんだと、俺が展開についていけずにいると、 
「雨宮。エレベーターを頼む。このひとを医務室に運ぶ」
 と、神坂さんが後方に控えていた雨宮さんに向かって指示を出した。
 指示された雨宮さんはというと、言われるまでもなく「いつでもどうぞ」という体で、すでにエレベーターの扉を押さえて待っている。
 
 神坂さんは『運ぶ』と言った。運ぶって、どういうことだろう。
 『連れていく』ならまだわかるんだけど、と俺が戸惑っているあいだに、中腰のままだった肩に腕をまわされて、あっという間に膝裏を掬われる。
 全身がふわりと浮きあがり、その感覚に「えっ」と驚いたときにはもう、神坂さんに横抱きに抱えあげられていた。
しおりを挟む
感想 2

あなたにおすすめの小説

吊るされた少年は惨めな絶頂を繰り返す

五月雨時雨
BL
ブログに掲載した短編です。

愛してやまなかった婚約者は俺に興味がない

了承
BL
卒業パーティー。 皇子は婚約者に破棄を告げ、左腕には新しい恋人を抱いていた。 青年はただ微笑み、一枚の紙を手渡す。 皇子が目を向けた、その瞬間——。 「この瞬間だと思った。」 すべてを愛で終わらせた、沈黙の恋の物語。   IFストーリーあり 誤字あれば報告お願いします!

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

騙されて快楽地獄

てけてとん
BL
友人におすすめされたマッサージ店で快楽地獄に落とされる話です。長すぎたので2話に分けています。

【完結済】あの日、王子の隣を去った俺は、いまもあなたを想っている

キノア9g
BL
かつて、誰よりも大切だった人と別れた――それが、すべての始まりだった。 今はただ、冒険者として任務をこなす日々。けれどある日、思いがけず「彼」と再び顔を合わせることになる。 魔法と剣が支配するリオセルト大陸。 平和を取り戻しつつあるこの世界で、心に火種を抱えたふたりが、交差する。 過去を捨てたはずの男と、捨てきれなかった男。 すれ違った時間の中に、まだ消えていない想いがある。 ――これは、「終わったはずの恋」に、もう一度立ち向かう物語。 切なくも温かい、“再会”から始まるファンタジーBL。 全8話 お題『復縁/元恋人と3年後に再会/主人公は冒険者/身を引いた形』設定担当AI /c

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

後宮の男妃

紅林
BL
碧凌帝国には年老いた名君がいた。 もう間もなくその命尽きると噂される宮殿で皇帝の寵愛を一身に受けていると噂される男妃のお話。

R指定

ヤミイ
BL
ハードです。

処理中です...