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10 このひとを医務室に運ぶ。
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視界いっぱいに迫る床の色。
足早に駆けてくる靴音。
右膝で弾けた熱い衝撃。
鼻先を掠めるウッドの香り。
処理しきれない情報が、まるでばら撒いた切り抜き写真みたいに次々と舞い込んでは去っていく。
唯一把握できたことといえば、もうダメだと目を閉じる直前、目の前に差し出された大きな手のひらが、知っていたよりもずっときれいだったという印象の相違だけだった。
さっきまで甲高い声がきゃあきゃあとロビーに響き渡っていたのに、いまはなぜだか静まり返っている。時がとまったような静寂を背に、抱き留められた胸のなかへ、いま一度ぎゅっと強く抱きしめられた。
力強いその腕に締め出されて、はぅ、と肺から息がこぼれる。そうされてやっと、自分が息を詰めたまま呼吸をしていなかったことに気づかされた。
酸欠気味の頭に酸素をと思っても、少しの隙間も許さない腕のなかではそれもままならない。もぞりと身動いてみてやっと、きつかった腕がそろりと緩められていった。
スーツに覆われた逞しい胸に押しつけられていた頬が、ゆっくりとそこから引き剥がされる。そこへできた空間をそっと覗き込まれて、神坂さんの焦ったような顔が視界に映った。
何が起こったのかは、脳裏にこびりついた残像をあれこれ繋いで理解した。俺が勢い余って転びかけたところを、神坂さんが抱き留めてくれたんだ。
かろうじて状況は把握できたものの、思わぬハプニングに気持ちがなかなか追いつかない。そんな状態では、神坂さんとのこの距離を危険だと身構えることも当然できなかった。
「大丈夫でしたか?」
神坂さんの低く艶のある囁き声にふわりと包まれる。ただでさえ魅力的な声質なのに、出逢い編を意識してか、全力で俺を魅惑しにきてるとしか思えない。
そんな声に知らず背筋がぞくりと震え、その体感に、自由になった息をひとつ大きく吸い込んだ。
なぜだろう。ひやりとした感触を残した皮膚の下で、ぽつぽつと熱が生まれては、じわりと広がっていく。
ハプニングのせいで体温がさがっていたらしい。その熱が身体をあたため、さらに熱くしていくようだった。
濃茶の瞳とまっすぐに視線が噛み合っている。その瞳を、手のひらに感じたのと同じくきれいだと思ったときには、もう神坂さんのことで頭がいっぱいになっていた。
「お怪我は?」
反応の薄い俺を不審に思ったのか、心配そうな顔をして重ねて問うてくる。
怪我なんか知らない。そんな不安そうにしないでよ。
なんとかして彼の不安を取り除きたい。たぶんそんな気持ちからだったんだろう。
神坂さんの頬へとゆるりと差し伸べられていく俺の手が、視界の片隅にちらりと見えた。
その指先に、ギクリと胃が竦む。
ちょっと待て。
お前はこの手をどうする気なんだ?
神坂さんは敬語だった。シナリオは続いてる。
お前はなんのためにここにいるんだ。ちゃんと自分の役を思い出せ。
差し伸べかけていたその手をグッと握りしめ、もう一方の腕に抱いたままの硬さを確かめた。
ずっと抱え込んでいたから無事のはずだ。できればそれを目で見て確かめたかったけど、どうしても神坂さんから視線をはずせなくて断念する。
どうか壊れていませんようにと願いながらそれを差し出し、
「あの……、これ、社長代理のものですよね?」
と、神坂さんの様子を窺った。
「ああ、うっかりしてたな。助かりました。ありがとう」
そう返しはするものの、いまだに俺を囲う腕をこれ以上緩めるつもりがないのか、神坂さんは差し出されたタブレットに目もくれず、受け取りもしない。大人の男を思わせる色気を漂わせて、ただにっこりと微笑むだけだ。
ふわりと花開くようなその微笑みが、目に見えない何かをふわりとあたりに撒き散らした。
シンと静まっていた背後がその微笑みの威力の余波を受けたようで、ざわざわと騒ぎだす。
長い腕に囲われたままの俺は逃げ場もなく、もろにクラリと悩殺されてしまった。
ふたたびとろりと意識が蕩けかけ、ヤバいと焦りながら奥歯を噛み締めた。なんとかして踏み留まったが、本当にもうギリギリのラインだ。
だめだろ。いまはシナリオ中なんだってば。
そう自分に言い聞かすものの、それでも意識のほとんどを神坂さんに持っていかれていて、相変わらず視線も逸らすことができない。
ああもう、なんて厄介なんだ。このフェロモン男め。
「こちらこそ助けていただいて……」
役者根性を絞り出し、そう言いながら体重を移動して身体を離す。その動きに助けられて、やっと視線をはずすことに成功した。
このフェロモンからは、距離を置くのが一番だ。それでも平常運転というわけにはいかないが、このまま神坂さんに触れていたり、至近距離で微笑まれたりすれば、きっとまた影響されてぽやぽやと我を失いかねなかった。
確かにトラブルはあったが、出逢い編としては上出来だろう。シンデレラのピンチを王子が救ったんだから。ここはボロが出ないうちにタブレットを受け取ってもらって、さっさと退散するに限るだろう。
そう判断して、「ありがとうございました」とお礼を口にしながら立ちあがろうとしたときだった。
「きみっ」
慌てたように俺を呼び止めた神坂さんに、立てた右膝のすぐ下あたりを取り押さえられる。立ちあがりかけていた肩にも手がかかり、これ以上は腰を浮かすこともできなくなってしまった。
神坂さんがずいと覗き込んできた箇所を何事だろうと見てみれば、そこには、ストッキングが破れ、一部血が滲んでいる箇所があった。
そういえば、転んだ瞬間、右膝に熱を感じたような気もした。あれは、コレだったのか。
「大丈夫です。この程度ならスタッフルームで手当てできますので」
《グリーン》の控え室には、スタッフの軽い火傷や切り傷などの手当てができるキットが常備してあった。あれを使わせてもらえばいい。
神坂さんに指摘されるまで、自分が怪我をしていることにも気づかなかったくらいだ。きっとたいしたことはないだろう。医者にかかるまでもない。
そう説明しながら、一大事だとでも叫びだしそうな面持ちの神坂さんの手をさりげなく遠ざけると、その手は思いのほか簡単に離れていって、なぜか彼のジャケットへと向かっていった。
その行く先を不思議に思う間もなく、神坂さんがいきなりスーツの上着を脱ぎ始める。
いったいなんなんだ?
自社ビルのロビーの真ん中で重役がスーツを脱ぎだすなんて、それこそただごとじゃない。
出逢い編が終わろうとしているこのときに、今度は何が始まろうとしてるんだと、俺が展開についていけずにいると、
「雨宮。エレベーターを頼む。このひとを医務室に運ぶ」
と、神坂さんが後方に控えていた雨宮さんに向かって指示を出した。
指示された雨宮さんはというと、言われるまでもなく「いつでもどうぞ」という体で、すでにエレベーターの扉を押さえて待っている。
神坂さんは『運ぶ』と言った。運ぶって、どういうことだろう。
『連れていく』ならまだわかるんだけど、と俺が戸惑っているあいだに、中腰のままだった肩に腕をまわされて、あっという間に膝裏を掬われる。
全身がふわりと浮きあがり、その感覚に「えっ」と驚いたときにはもう、神坂さんに横抱きに抱えあげられていた。
足早に駆けてくる靴音。
右膝で弾けた熱い衝撃。
鼻先を掠めるウッドの香り。
処理しきれない情報が、まるでばら撒いた切り抜き写真みたいに次々と舞い込んでは去っていく。
唯一把握できたことといえば、もうダメだと目を閉じる直前、目の前に差し出された大きな手のひらが、知っていたよりもずっときれいだったという印象の相違だけだった。
さっきまで甲高い声がきゃあきゃあとロビーに響き渡っていたのに、いまはなぜだか静まり返っている。時がとまったような静寂を背に、抱き留められた胸のなかへ、いま一度ぎゅっと強く抱きしめられた。
力強いその腕に締め出されて、はぅ、と肺から息がこぼれる。そうされてやっと、自分が息を詰めたまま呼吸をしていなかったことに気づかされた。
酸欠気味の頭に酸素をと思っても、少しの隙間も許さない腕のなかではそれもままならない。もぞりと身動いてみてやっと、きつかった腕がそろりと緩められていった。
スーツに覆われた逞しい胸に押しつけられていた頬が、ゆっくりとそこから引き剥がされる。そこへできた空間をそっと覗き込まれて、神坂さんの焦ったような顔が視界に映った。
何が起こったのかは、脳裏にこびりついた残像をあれこれ繋いで理解した。俺が勢い余って転びかけたところを、神坂さんが抱き留めてくれたんだ。
かろうじて状況は把握できたものの、思わぬハプニングに気持ちがなかなか追いつかない。そんな状態では、神坂さんとのこの距離を危険だと身構えることも当然できなかった。
「大丈夫でしたか?」
神坂さんの低く艶のある囁き声にふわりと包まれる。ただでさえ魅力的な声質なのに、出逢い編を意識してか、全力で俺を魅惑しにきてるとしか思えない。
そんな声に知らず背筋がぞくりと震え、その体感に、自由になった息をひとつ大きく吸い込んだ。
なぜだろう。ひやりとした感触を残した皮膚の下で、ぽつぽつと熱が生まれては、じわりと広がっていく。
ハプニングのせいで体温がさがっていたらしい。その熱が身体をあたため、さらに熱くしていくようだった。
濃茶の瞳とまっすぐに視線が噛み合っている。その瞳を、手のひらに感じたのと同じくきれいだと思ったときには、もう神坂さんのことで頭がいっぱいになっていた。
「お怪我は?」
反応の薄い俺を不審に思ったのか、心配そうな顔をして重ねて問うてくる。
怪我なんか知らない。そんな不安そうにしないでよ。
なんとかして彼の不安を取り除きたい。たぶんそんな気持ちからだったんだろう。
神坂さんの頬へとゆるりと差し伸べられていく俺の手が、視界の片隅にちらりと見えた。
その指先に、ギクリと胃が竦む。
ちょっと待て。
お前はこの手をどうする気なんだ?
神坂さんは敬語だった。シナリオは続いてる。
お前はなんのためにここにいるんだ。ちゃんと自分の役を思い出せ。
差し伸べかけていたその手をグッと握りしめ、もう一方の腕に抱いたままの硬さを確かめた。
ずっと抱え込んでいたから無事のはずだ。できればそれを目で見て確かめたかったけど、どうしても神坂さんから視線をはずせなくて断念する。
どうか壊れていませんようにと願いながらそれを差し出し、
「あの……、これ、社長代理のものですよね?」
と、神坂さんの様子を窺った。
「ああ、うっかりしてたな。助かりました。ありがとう」
そう返しはするものの、いまだに俺を囲う腕をこれ以上緩めるつもりがないのか、神坂さんは差し出されたタブレットに目もくれず、受け取りもしない。大人の男を思わせる色気を漂わせて、ただにっこりと微笑むだけだ。
ふわりと花開くようなその微笑みが、目に見えない何かをふわりとあたりに撒き散らした。
シンと静まっていた背後がその微笑みの威力の余波を受けたようで、ざわざわと騒ぎだす。
長い腕に囲われたままの俺は逃げ場もなく、もろにクラリと悩殺されてしまった。
ふたたびとろりと意識が蕩けかけ、ヤバいと焦りながら奥歯を噛み締めた。なんとかして踏み留まったが、本当にもうギリギリのラインだ。
だめだろ。いまはシナリオ中なんだってば。
そう自分に言い聞かすものの、それでも意識のほとんどを神坂さんに持っていかれていて、相変わらず視線も逸らすことができない。
ああもう、なんて厄介なんだ。このフェロモン男め。
「こちらこそ助けていただいて……」
役者根性を絞り出し、そう言いながら体重を移動して身体を離す。その動きに助けられて、やっと視線をはずすことに成功した。
このフェロモンからは、距離を置くのが一番だ。それでも平常運転というわけにはいかないが、このまま神坂さんに触れていたり、至近距離で微笑まれたりすれば、きっとまた影響されてぽやぽやと我を失いかねなかった。
確かにトラブルはあったが、出逢い編としては上出来だろう。シンデレラのピンチを王子が救ったんだから。ここはボロが出ないうちにタブレットを受け取ってもらって、さっさと退散するに限るだろう。
そう判断して、「ありがとうございました」とお礼を口にしながら立ちあがろうとしたときだった。
「きみっ」
慌てたように俺を呼び止めた神坂さんに、立てた右膝のすぐ下あたりを取り押さえられる。立ちあがりかけていた肩にも手がかかり、これ以上は腰を浮かすこともできなくなってしまった。
神坂さんがずいと覗き込んできた箇所を何事だろうと見てみれば、そこには、ストッキングが破れ、一部血が滲んでいる箇所があった。
そういえば、転んだ瞬間、右膝に熱を感じたような気もした。あれは、コレだったのか。
「大丈夫です。この程度ならスタッフルームで手当てできますので」
《グリーン》の控え室には、スタッフの軽い火傷や切り傷などの手当てができるキットが常備してあった。あれを使わせてもらえばいい。
神坂さんに指摘されるまで、自分が怪我をしていることにも気づかなかったくらいだ。きっとたいしたことはないだろう。医者にかかるまでもない。
そう説明しながら、一大事だとでも叫びだしそうな面持ちの神坂さんの手をさりげなく遠ざけると、その手は思いのほか簡単に離れていって、なぜか彼のジャケットへと向かっていった。
その行く先を不思議に思う間もなく、神坂さんがいきなりスーツの上着を脱ぎ始める。
いったいなんなんだ?
自社ビルのロビーの真ん中で重役がスーツを脱ぎだすなんて、それこそただごとじゃない。
出逢い編が終わろうとしているこのときに、今度は何が始まろうとしてるんだと、俺が展開についていけずにいると、
「雨宮。エレベーターを頼む。このひとを医務室に運ぶ」
と、神坂さんが後方に控えていた雨宮さんに向かって指示を出した。
指示された雨宮さんはというと、言われるまでもなく「いつでもどうぞ」という体で、すでにエレベーターの扉を押さえて待っている。
神坂さんは『運ぶ』と言った。運ぶって、どういうことだろう。
『連れていく』ならまだわかるんだけど、と俺が戸惑っているあいだに、中腰のままだった肩に腕をまわされて、あっという間に膝裏を掬われる。
全身がふわりと浮きあがり、その感覚に「えっ」と驚いたときにはもう、神坂さんに横抱きに抱えあげられていた。
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