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第二章 箱庭の温泉街

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『こっちに来て、確かめてみたら普通のお湯しか出ないじゃない。文句を言いにいったけど、契約上の問題はないんだって……。もー、悔しくて悔しくて、こうなったらやけ酒だーって思って入ったバーで、隣に座った人に愚痴を聞いてもらったの。そしたらその人が、何とかできるかもしれないって』
「また騙されてない?!」

 私は両手でぐっと受話器を握りしめて、声を上げる。

『大丈夫よ~。ちょっとしたお仕事を紹介してもらっただけだもの。あのね、こっちでお手伝いしたら、ウチに温泉が湧くようにしてくれるって約束なのよ』
 からからと笑って、大丈夫、大丈夫と重ねて言う母に、私は不安感が増すばかり。
「でも、そんな姿になっちゃって……」
『そんなに不便はないのよ~? ここ、雲仙の温泉街と大体同じなんだもの。ただ、帰れなくなっちゃったから、いない間だけ朝陽に家の管理を頼みたくて。仕事は何処ででも出来るから、温泉地でゆっくりワーケーションしたいーって良く言ってたじゃない』
「それはそうだけど……」

 確かに、私の仕事は余程大きなモノでない限りオンラインでのやりとりで完結する。最低限必要な物も念の為にと持って来ているけど……。

「そういう事なら、連絡くれたらもっときちんと準備してきたのに。急に家の鍵だけ送られて来て、連絡も付かなくて。……母さんに何かあったんじゃないかって心配で飛んできたんだから」
『え? 手紙、入ってたでしょ?』
「手紙? 家の鍵しか入ってなかったけど……」

 そのやりとりの後ろで、ツツジと名乗った少女が『あ』と声を上げた。目だけそちらに向けると、エプロンドレスの大きなポケットから、封筒をそろりと取り出した。
 私と母は何かを察し、頷き合う。

「とりあえず、自分の意志でそこに居るんだよね?」
『そうよ~。あ、母さん、もうお手伝いの時間だから行かないと。……詳しくはルリ様に聞いてね』
 その言葉に振り返ると、不機嫌そうな顔の青年が静かに頷いた。

 ミニチュアの街並み、その真ん中の大きな通りを、小さな母が走ってゆく。
 そうして、並んだ温泉宿の中の一つに姿が吸い込まれるように消えていった。
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