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第二章 箱庭の温泉街

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「着いて来なさい」
 呆然としたまま電話機を抱えていた私に、ルリと呼ばれていた青年が声をかけてくれる。どうしていいか分からずにいる私の手からツツジが電話機を取り上げ、手を貸してくれた。
 小さな手を取り立ち上がると、私はルリの背を追ってミニチュアの街の向こう側に回り込む。
 そこには飾り窓のついた扉があった。

 ルリが扉を開き、ツツジが手招く。

 後をついて中へ入ると、駄菓子屋の店内とはガラリと雰囲気が変わり洋風の古めかしい応接間。
 向かい合う二人掛けのソファーに腰を下ろすと、何処からかツツジが赤い丸盆の上にコーヒーカップを乗せてやってくる。
「どうぞー」
 ローテーブルに置かれたカップから、ふわりとコーヒーの良い香りが漂う。
 目の前に座ったルリが優雅な手付きでカップを持ち上げる。私もそれにならってカップに口をつけた。苦味と仄かな甘味……そしてその温かさに、自然と肩から力が抜けた。
 その様子を確認してから、ツツジがルリの隣にぽーんと座る。

「さて、どこから話そうか」
 ルリが困ったように眉を下げる。
「話せる所からで大丈夫です」
 私はさっきまでの光景を思い出し、あれ以上に驚くこともないだろうと腹を決める。

「そうだな。まず、この『雲仙うんぜん温泉』について、どのくらい知っている?」
「ええと、歴史ある温泉地で避暑地、って事くらいです」
 長崎へ新幹線で移動して来る間に、観光局のホームページをさらりと流し見して印象に残っていたのは、それくらいだった。
「……そうか」
 ルリは目を閉じ、内容を考えてくれているようだった。少し待つと、彼は長い睫毛が影を落とす目をうっすらと開き、話し始める。
 
「ここ雲仙温泉は島原半島の中心、雲仙岳にある温泉街だ。高地でもあることから、『雲上うんじょうの避暑地』とも言われている」
「確かに。秋なのにもう随分肌寒いですから、夏は涼しくて過ごしやすそうですね」
「昔は、その過ごしやすさを利用して、地元の進学校がここで夏の勉強合宿をしていたくらいだからな」
 勉強合宿。そんな行事、初めて聞いた。
 今はどこの学校にもクーラーが完備されているから、わざわざ避暑地に来ることも無くなったんだろう。

「春には花、夏には若葉、秋には紅葉、冬には霧氷。四季の移ろいを楽しめる豊かな自然と、温泉。それがにとっての雲仙温泉だろう」
 『人間』の所を強調するように言い、ルリは私を見て一呼吸置くと言葉を続ける。

「ここ雲仙は、古来より神が宿る山だ。特に温泉街の中心とも言える『雲仙地獄うんぜんじごく』にはその神気が濃く流れている」

 物騒な名称が出て来て、私は思わずそのまま繰り返す。
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