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最終章 光―前編―
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「オーケー、じゃあ歩いてみて」
椅子に腰かけた白髪のおじさんににこやかに言われて、足を踏み出してスタジオの壁から壁まで、歩き出す。十人くらいいる面接官の品定めするような視線を感じながら歩く。指示されたのは二ウォーク。行って、帰ってくる。時間にしたら一分もないそれだけの時間で人生が左右されるキャスティング(オーディションのことだ)の時間が、おれは意外と嫌いじゃない。
「どうだった?」
有名ブランドの事務所の入ったビルを出ると、隣のカフェのテラス席で黒いハットをかぶったケイがおれを待っていた。さすがに新進気鋭のデザイナー、パリの街並みにいても浮くことはない。
「とりあえず第一関門はクリア。数日中にフィッティングの連絡するって」
「ああ……また別の奴の服着るのか」
「それが仕事なんで」
ごうの家を出て、雑誌とか他の仕事の調整をして、十九歳の冬に初めてコレクションのキャスティングを受けるためにパリに来た。マリさんにいくつかエージェントは紹介してもらったけどまだパリでの仕事歴もなくて、その時は所属も決められていない野良モデルみたいな状態だったし、日本ではスチール中心でウォーキングもレッスン生に毛の生えたレベルだったから当然落ちまくった。その年初めてパリコレに出展したケイに「俺のとこで出なよ」って誘われたけどそれもなんだかなぁって思って。
「自力で歩きたいんだよね、コネとかじゃなくて」
「コネでも何でもないと思うけど?」
「でもさぁ、初パリコレがケイのとこってなんか枕営業みたいじゃん」
「手も握らせてくれないのによく言うよ」
大袈裟に嘆かれたことを思い出してふふ、と笑うと、ケイが「何ニヤけてんだよ、エロイな」と適当なことを言う。「メルシー」店員からマグカップを受け取って、ショコラ・ショを啜ると濃厚なチョコレートの甘みが冷えた身体に染みわたった。
オーディションに落ちまくったあと、マリさんに間に入ってもらってパリのエージェントとガッツリ契約して、一年の半分はこっち、半分は日本って感じで少しずつパリでの仕事も増やしていったのもあって、去年初めていくつかのブランドのキャスティングに受かり、ランウェイを歩くことができた。今年は去年以上に手ごたえがある。既にいくつかのブランドから合格の連絡も来てるし。まぁこっちではショーの前日にキャンセルとかもザラにあるんだけど。このまま何事もなければ数日後には、またあのランウェイを歩けるだろう。
「お兄ちゃん、呼ぶの?」
この寒いのに小瓶に入ったビールをグラスに注ぎながら、変わらない軽い口調でケイが聞く。
「いや……呼ばない」
「何で? ああ、今シーズン中か」
ごうは、おれが家を出てった年の十二月、大学三年の時に指定選手として東京のプロチームに入団した。その年のインカレではトップの得点数を誇り、チームも準優勝と健闘した。前年のリベンジができて、胸のつかえも取れたのかもしれない。おれがパリのランウェイを歩くよりも早く、ごうは子どもの頃からずっとそばにあったバスケットボールで人生の大きな一歩を歩き出していた。
『バスケに集中したい……』
ごうの、心の奥底から絞り出すような声を思い出して、これでよかったんだ、離れて正解だって何度も思った。もちろん、疎遠になった訳じゃなくて、メッセージのやり取りや電話もするし、日本にいるときはたまにごはんを食べに行ったりもする。だけど、確実に変わったこともあって――。
「イオ、電話」
「ああ、ごめん。……もしもしパパ? え、じいちゃんが?」
じいちゃんが倒れた。とりいそぎ命にどうこうというわけじゃないみたいだけど。豪が高知に行ったから、庵も行けるときに顔を見せてあげてほしい。パパは珍しく不安の混じった声で、でもおれをいたずらに急き立てることなくそう言った。
「うん、わかった。パパは……そう、うん、おれもすぐ行くし」
「イオ?」
「ん? 大丈夫だよショーは来年もあるし。はい、気をつけて。じゃあね」
電話を切って、何か言いたげなケイを見下ろして初めて、自分がいつの間にか立ちあがっていたことに気付いた。
「ねぇ、日本行きの今夜の便、今からでもとれるかな?」
あの頃から確実に変わったこと。ごうに、好きな人ができた。相手の性別は、おれと同じ、男だ。ごうはもうそれを隠さないし、おれに知られても動揺することなく、穏やかな顔で笑ってみせた。
『イオ、この人は――』
「大丈夫なのか?」
空港行きのタクシーに何故か一緒に乗り込んできたケイ(まさか日本までついてこないよな)が、顎の髭をいじりながら前を見て聞く。
「まぁ、年っちゃ年だし、でも持病らしい持病もないから」
「そうじゃなくて……いや、それも心配だけど」
「ブッカー(マネージャー)には嫌味言われたけど、彼はいつもあんなだし案外ケロっと」
「それでもなくて、お兄ちゃん。あのヤバい目の」
「ヤバい目とか言うのやめてよ」
笑いながら軽くケイの太腿を殴る。ケイとごうはあの夜、ケイに送ってもらって鉢合わせしたときしか会ってないのに、ケイのごうへの印象はあまり良くない。目ざといケイは、あれだけでおれたちの微妙にがんじがらめになってた空気を読み取ったらしい。後日仕事で会った時に、メイクルームで遅い昼食を食べてたらちょうど今みたいに隣に腰掛けてきて、驚くほどあっさりと聞かれた。
「好きなのか? 兄ちゃんが」
「何いきなり。それはもちろん、うちは仲いい兄弟なんで」
「……俺が言ってんのは性的な意味で、だぞ」
性的な意味、セイテキなイミ。おれはごうをどういう意味で好きなんだろう、と考えたけど、どんなに考えてもその中に含まれている意味、なんてわからなかった。沈黙がうるさくて、いつになく真剣なケイの視線にあからさまな嘘を吐く気力もなくて。味気ない弁当を咀嚼しながら(ごうの作ったのが百倍美味い、と思いながら)、吐き捨てるように言った。
「意味なんてわかんない。でもおれは、ごうがいればそれでいいの」
「……そうか」
何故か慰めるみたいに頭に手を置かれて、続く言葉はどうにか硬くて冷たい米と一緒に呑み込んだ。
〝ごうはそうじゃないけど〟
「大丈夫だよ、だって兄弟だよ?」
どの口が言うんだ、思わず笑いそうになるのを顎をついた掌で隠して、窓の外を見つめる。前から後ろへどんどん流れていく光は、町自体の造形に焦点を当てないでいると案外どこも変わらない。日本も、パリも、アメリカも。ごうがいない風景は、おれにとってはどこまで行っても〝ごうがいない場所〟でしかなかった。
タクシーを降りてケイと別れ、チェックインして日本行きの飛行機に乗る。羽田から乗り継げば、明日の面会時間中にじいちゃんのとこに行けるはずだ。飛行機の中は九割程度が埋まっていた。世界中からファッション好きが押し寄せるファッションウィークの真っ最中じゃなくてよかったな、と思いながら出発ロビーの売店で買ったペットボトルの水を飲み、うすく目を閉じる。
今年の春、おれが出て行ってからもずっとあのマンションで一人暮らしをしていたごうが引っ越した。プロになっても今まで住み続けてたのが不思議なくらいだったけど、ああもうあの家にごうはいないんだなってちょっと感傷的になったりして。それでも仕事でバタバタしてて祝えなかったごうの二十三歳の誕生日をちょっと遅くなったけど祝いたい気持ちもあったから、撮影で着たジャケットがごうの好きなブランドのだった、それがおれよりごうに似合いそうだった、撮影で使った花まで貰って、ちょうどよかった――。頭の中にいろんな言い訳を浮かべながら、新しいごうの家を訪ねた。
「イオ……?」
【今から行っていい?】
既にごうの新居に向かいながら送ったメッセージは既読になってなかった。エントランスのインターホンを鳴らしても反応がなかったから、空振りだったかなと肩を竦めて。仕方ないから帰ろうかと、手に持ったパティスリーの箱の中のふたり分のケーキを、これどうしようかなと思いながら帰ろうとしたとき、その声に呼ばれた。
「ご……っ、」
振り返ったとき、ごうは一人じゃなかった。「こんばんは」ごうの隣、顎くらいの長さの黒髪を耳にかけながら、悠然と微笑む男、がごうの隣にいた。百七十、あるかないかくらいだろうか。微笑みながら、どこか相手を観察するような抜け目のない目。ビンテージのデニムに七十年代のバンドのジャケットが印刷されたTシャツを着ている。ストリートファッションの好きなごうよりちょっとハード系だけど、不思議とふたりの調和はとれている。薄いくちびるの端にはシルバーのリップカフが付いていて、男が笑うと鈍く光った。
「誰?」
予想してなかった事態への驚きもあって、つっけんどんな言い方になった。でもそれに動揺することもなく、そいつは促すようにごうを見上げる。あまり身長の高くない線の細い男が、ごうを見上げると普通の男女のカップルみたいで軽く眩暈がしたけど、続くごうの言葉で目の前が暗くなった。
「え、っと……この人はヒロ、さん。おれの……コイビト、です」
「よろしく」
ヒロと呼ばれた男が、ごうのうでから手を離しておれに差し出す。それをぼんやりと見つめていると、ごうが助け舟を出すみたいに言った。
「で、これがおれの弟、庵」
おれはケーキと花束をふたりに押し付けて、明日早いからって逃げるようにエントランスを出ようとした。でも「俺ファッション好きなんだよねぇ、ブランドの展示会とかもチェックしてるよ。生モデルに会えるなんて感激だわ」とあながち嘘でもなさそうに言うヒロに、「せっかくだから茶でも飲んでって」って引き留められて、結局ふたりが一緒に暮らしているっていう部屋に招かれて、ごうの淹れたほとんど味のしない紅茶を飲んだ。
部屋に上がってどうぞと促されながら廊下を進むと、リビングの壁にはいくつかの絵が掛けられていた。部屋の隅に描きかけっぽいキャンバスも立てかけてある。そのどれもが彩度を抑えた、またはモノクロの風景画で、「画家……?」と呟いたおれに「いや趣味で描いてるだけ。仕事はこっち、よかったら飲みに来て」とヒロが名刺サイズの紙を手渡してきた。
「本職はバーのアルバイト店員」
「バイトって本職って言う?」
おれの皮肉にも軽く笑って肩を竦める、ヒロの薄い身体の向こう、バルコニーからは都心のビルと川が見えた。
「俺、海好きなんだけど。金ないし東京じゃ厳しいから、川が見えるとこがいいって豪にオネダリしたんだよ」
「へ、え……」
リビングに続くダイニングの左手の部屋は寝室だろうか。少しドアが開いていて、ベッドのようなものが見えた。おれはそれから視線を逸らして、窓の外の風景に神経を集中させる。ごうはふだんより口数は少なかったけど、アイランドキッチンで買ってきた食材を冷蔵庫に入れたり、おれの持ってきた花を生けたりこまごまと動きながら、ときどきおれたちの会話に耳を傾けて、「それはヒロが言ったんじゃん」ってツッコんだり「あ、記憶捏造してる」って笑ったりしていて。
今までとはちがうリラックスした雰囲気にいやがおうにもごうの変化を感じたおれは、さっさと帰ろうと思って熱い紅茶を火傷しながら飲んだ。なのに愛想よく喋りながらどこかこっちの反応を観察してるようなヒロの醒めた目に居心地の悪さも感じて、「どこで知り合ったの?」なんて知りたくもないことを聞いてしまった。
「お、気になる?」
「まぁ……接点なさそうすぎるし」
「豪は酒弱いしね」
「……そうだね」
「ヒーローさん、あんまりおしゃべりはダメだよ」
豪、なんて呼ばないで。おれ以外の名前をそんなに気安く呼ばないで。子どもみたいに見境なく駄々を捏ねられたら、どんなにラクだろう。なんて。
「俺さ、絵の素材探しに写真撮るのが日課なのよ。んである日フラッと東京湾の方に行ったらね」
ヒロの声が、どんどん遠くなる。焼けた舌が痛い。ねぇごう火傷しちゃった。氷持ってきて。それだけのことが言えずに、ふたりの出会いを感情を持たない人形みたいに、ただ座って聞いた。
気付けばごうは、部屋にいなかった。どこ行ったんだっけ。買い忘れたものがあるって部屋を出たんだっけ。それともトイレ? バルコニーに出て、甲斐甲斐しく洗濯物でも取り込んでる?目線でごうを探すけど、どこを探したっておれとヒロしかいない。ヒロの首元に、紅い痕があるように見える。虫刺されだろうか、それとも――。
急に、何この状況。帰りたいな、と強く思う。ごはんも一緒に、って言われたら何て断ろう、なんて考えていると、トントン、とヒロが指でテーブルを叩いた。大したことない音のはずなのに、それはいやに大きく鼓膜を揺さぶって、おれはハッとヒロの目を見た。どっかですべて知ってて面白がってるような、目を。
「それでいっちょこのイケメン骨抜きにしてやるか~って軽い気持ちで店で潰れた豪を連れて帰ったんだけど、……あの部屋、なんか雰囲気が重~くて全然できなかった」
「だから言ったんだよね、俺。『この部屋出て俺と暮らさない?』って。アイツ、ベロベロだったのにやけに真剣な顔で『それもいいかもね』って」
「ねぇイオ……でいい? ……あの部屋で何があったの?」
ずっと微笑んでるような形をした目の奥、鈍く光る何かが、真っ直ぐにおれを刺した。
「ヒロ~、車の中にスマホなかったよ? ちゃんと探した?」
玄関のドアを閉めて廊下を歩いてきたごうが、固まったおれに視線を向けるのを背中越しに感じた。
「イオ? どした?」
「マジでない? あ、ポケットにあった」
「も~、ねぇイオどした? どっかしんどい?」
ごうからはおれの後ろ姿しか見えてないはずなのに、おれの方に大股で歩いてくるのがわかる。早く。ごうがおれの顔を覗き込む前に、って何かに急かされるように立ち上がる。カバンを持って、「ごめん、帰るわ」と足早に部屋を出る。
「あ、そう? また来てね~」
ヒロの平らな声を背中で聞きながら、逃げるように靴を履いてドアを開けた。
「イオ!」
なのにごうはおれを追いかけて来て、「送るよ」とキーケースを出した。それはおれがごうの二十歳の誕生日にプレゼントしたもので、取り上げて投げつけたい気持ちになりながら、必死で平静を装って「大丈夫だよ、歩ける」と答える。「ダメ、危ないから送る」危ないからって、成人した弟相手に何だよ、と思うけど、ごうの足と手首を掴む力に敵うはずもなくて、マンションの駐車場まで引きずられるようにして歩いた。
「車……替えたんだ」
「前の狭かったし、ね」
それは黒いSUVで、確かに前の車よりサイズが大きく中も広そうだった。買って間もないのか、手入れがいいのか、ボディには傷一つない。助手席のドアを開けられて促されるように座ると、座席が前すぎて足元が窮屈だった。背、低かったもんな、八つ当たりみたいに座席の位置を変えて後ろを見ると、後部座席は倒されていた。
「画材、のせたりするから」
ミラーの位置を変えながら、言葉少なにごうが説明する。「そう……」バックミラーの端に、昔ごうと交換したキーホルダーが揺れて、おれはほとんど泣きそうになりながら「ごめんねむい、事務所でいいから。着いたら起こして」と早口で言ってかたく目を閉じた。
『これで、できる限り送り迎えするから』
決意に満ちたようなごうの顔が、何度も何度も瞼の裏に現れては消える。相変わらず安定した運転をしながら控えめな声でごうが口ずさむ歌は、おれの知らない曲だった。
身体がめちゃくちゃちいさくなってたり、目に見えて弱ってたらどうしようって空港からタクシーで病院に向かう間ずっと怖かったけど、病院の個室、入院着でベッドに腰掛けてごうと喋るじいちゃんはあまり変わらないように見えてホッとした。
「庵、悪いな遠いとこ」
「何だ元気そうじゃん」
「イオ、コート貸して。こっち座りな。おれ飲み物買ってくるから」
あの日ぶりのごうがコートを受け取ってくれて、座ってた椅子を貸してくれる。その変わらないやさしいまなざしにぎゅ、と胸が痛むけど、今はじいちゃんだ。年の割に背の高いじいちゃんは長い腕を伸ばして、ゆっくりとおれの頭を撫でた。
「大きくなったな」
「じいちゃん、おれもうすぐ二十二になるからね」
「早いなぁ、パリにいたんだろ?」
「……まぁ」
「大丈夫だから、すぐ戻りなさい」
「でも……」
「心配せんでも、まだ死ぬ気せんき」
そう言って日に焼けた肌にくっきりとした皺を寄せるじいちゃんの変わらない笑顔に、心からホッとした。いつもの、たまにしか出ない土佐弁にも。
「色が白くて細いな、ちゃんと食べてるか」
じいちゃんは笑いながら、頭を撫でていた手でおれの頬に触れる。カサついたおおきな掌に、安心して泣きそうになるのを堪えて、「あんまちゃんと食べ過ぎるとダメなんだよ、モデルなんだから」と軽口を返す。
「昔からごうと違って庵は好き嫌い激しかったしなぁ」
「まぁそれは否定しないけど、好き嫌いで痩せてるんじゃないから安心して」
「でも豪が食ったら、どんなイヤな顔してても興味深そうにまじまじ見て口に入れてたなぁ」
「……そうだっけ」
じいちゃんは「そうだよ」と何度かちいさく頷いて、懐かしそうに目を細めておれを見る。心地よい沈黙が、どれくらい続いただろう。「庵、あんまり我慢上手になるなよ」不意にかけられた言葉に、返す言葉をなくす。
一瞬、山で迷子になったおれたちを探しにきて、抱きしめてくれたじいちゃんのあたたさと匂いが蘇る。それが目の前の入院着を着たじいちゃんと消毒液の匂いに吸収されるようにあっけなく消えて、くちびるが震えた。じいちゃんのかさついた手の甲に触れ、ぎゅっと握る。変わらない、なんて嘘だ。時間は確実に経過してる。どんなに大切な想い出や記憶があっても、そこに戻ることはできない、その先に何が待っているとしても、生きてる限りおれたちは、進むしかない。
「なに……おれのワガママっぷり、じいちゃん忘れちゃった?」
震えた声を、じいちゃんは咎めなかった。
「覚えてるよ、ぜーんぶ」と笑って、「ちょっと寝ようかな。豪、庵送ってやりなさい」と部屋の入り口に声をかけた。
「うん。行こっか、イオ」
缶のココアとペットボトルのお茶を持ったごうが、じいちゃんにそっくりなやさしい目を細める。
「飛行機とれた?」
「うん、何とか」
「何時?」
「十九時」
「じゃあ時間あるね、ちょっと寄り道してこうか」
そう言ってタクシーを拾ったごうが向かったのは、じいちゃん家の近くの海だった。あの、おれがマリさんと会った場所だ。
「車で来るとこんなラクなんだね」
「ね、歩いて山越えたらちょっとした冒険だったけどね」
そこで待っててもらえますか、タクシーの運転手にお金を渡して、ごうが「寒い?」とおれを振り返る。「パリに比べたら全然」「そ? よかった」なんて言いながらも、ごうは
タートルネックにコートを羽織ったおれの首に、自分の巻いていたマフラーを巻き直した。
石の階段を降りて、大きな岩がゴロゴロある砂浜に出る。砂っていうか大きめの砂利って感じの、歩くときの感触も変わらない。ごうにもらってまだ飲んでなかった缶のココアを開ける。生ぬるい甘みが胸を充たして、あっさりと落ちていった。
「あの辺で撮影したんだよね」
「ね、あの写真まだ事務所にあるよ」
「見返したりする?」
「いや、さすがに苦行すぎる」
白い息を吐いてごうは笑う。あの日、家から送ってもらってもロクに顔も見れなかったから、こんなふうに笑うごうを見るのはいやに久しぶりな気がする。
「……ヒロ、げんき?」
「ん。たくさん海に行ってるみたいであんま家にはいないけど」
「……まさか探しに来たわけじゃ」
「ないよ、何でこんなとこまで」
ちいさい石を拾って苦笑いするごうの目はおだやかで、久しぶりにふたりで過ごす時間はどこまでもやさしくて。あの日聞けなかったことを、今なら聞ける気がした。
「海で会ったんだっけ?」
「話してなかった?」
「や、あんま覚えてないだけ」
めぼしい石を見つけたのか、それを掌で遊ばせてごうが海に向かって投げる。
白い石は驚くほど遠くに飛んで、それを見届けるみたいにしてごうは静かに話し始める。
「イオが、いなくなってからね」
あの部屋にいると無性に自分が空っぽみたいに感じるときがあって。何もできなかったし、独りよがりだったなぁって。考え始めるとどんどん沈んじゃうから、そういうときは車走らせてよく海を見に行ってた。プロになって、イオもモデルで活躍して、よかったなぁ。おれも、がんばらなくちゃ、って思えて、実際がんばってきたつもりだけど、でもその習慣自体はなくなってなくて。あの日も堤防、って言うんだっけあの出っ張ってるとこ……に座ってぼんやり海を見てたんだ。ちょっと雨が降ってたけど、それも気持ちよくて、ぼーっとしてた。そのときに写真撮りに来てたヒロが……後ろでずっとおれを見てたらしいんだけど気付かなくて。おれがあんまり長い間ボーっとしてるから、海に飛び込むんじゃないか、と思ったらしい。そろそろ帰ろっかな、って立ち上がった瞬間に水面に魚が見えた気がして覗き込んだら『溺死ってだいぶきついらしいよ』って肩掴まれて。
話してるうちに誤解も解けて、店やってるからって名刺渡されて。でもそのときは申し訳ないけどそれっきりポケットに入れたまま忘れてたんだけど。坂口さんっていうね、すごくお酒の好きな先輩がチームにいるのね。ごはん連れてってくれた帰りにお気に入りのバーがあるって、結構しつこいんだよ。おれ飲めないって知ってるのに。ダーツもあるから、とか言って。一杯だけですよ、って寄ったバーが、
「ヒロのとこだったんだ」
「うん」
「そこでベロベロに」
「坂口さんしつこいんだよ……」
「ドラマティックな出会いだねぇ」
「うわーすごい棒読み」
「……一緒に住み始めたのは?」
「同棲してた人と別れて、行くとこないって言われて」
「……へぇ」
「……あの部屋で、ヒロと暮らすのは、なんか……ね」
「ヒロもイヤそうだったしね」
「……狭いトコ、ダメなんだよ。部屋がって言うか……視界が狭いと怖いんだって。バーは大丈夫らしいんだけど」
「ごうの部屋、見晴らしいいもんね、窓でかくて」
部屋から見える川。笑うヒロのくちびるに鈍く光るシルバー。全体の記憶はあいまいなのに、断片はやけにクリアで。ごうに巻かれたマフラーからは、イヤになるくらいごうのあたたかい匂いがして。ダメだダメだと思うのに、聞いてしまう。決定打を欲しがってる自分と、死んでも避けたいと思ってる自分。終わらせないと。今しかない、と思う自分と、イヤだずっとこの匂いを独占したいと思う自分。『ごうのたからばこ』にもう絶対に入れなくなった長い身体を海風から庇うように撫でて、は、と息を吐いた。吐いた拍子に、それは明確な決意もないまま勝手に零れた。
「ヒロのこと……好き?」
ごうがおれを見つめる。子どもの頃から何度も見てきた茶色い瞳が、やさしいような、鋭いような光を宿して真っ直ぐにおれを捉える。長い沈黙。一瞬波の音と合わさるように大きな風が吹いて、ごうは静かに笑って見せた。
「好きだよ」
――男とか女とかじゃなくて、たぶん人として。
「そっか」
「うん」
おれはゆっくりと、マフラーを外す。それを畳んで、ごうに渡して、「そろそろ行こっか」と言い海に背を向けて階段に向かった。
パリのエージェント事務所の入っているビルの階段を降りると、ごく自然にケイが立っていた。街路樹の下、「よ」と手を上げる真っ黒な姿に、なぜか無性に懐かしさがら込み上げて、「ねぇ、……そろそろアンタのものになっていい?」堪えたくちびるから泣き言みたいな言葉が漏れた。
一瞬の沈黙のあと、ケイはふう、と白い息を吐いて、「魅力的な提案だけど、泣きながら言われてもなぁ……」と何か辛いモノでも食べさせられたみたいに大袈裟に顔を顰める。「泣いてないし」「はいはい、泣いてませんね。目腫れたらショーに影響するぞ」軽く頭を引き寄せられ、そのまま胸に額を当てた。ケイの胸からは洗練された香水の匂いがして、おれはごうの汗とお日様みたいな匂いを想って、「ちょっと、感傷的になってるだけ」と言い訳をする。
「このイオを感傷的にさせるなんてどこの誰だよ」
「……知ってるくせに」
「まぁ、難儀だとは思うけどさ。当たって砕けて、粉々になったIOも美しいだろうな、見てみたいな。砕けてこいよ、俺はそれを拾って一粒一粒丹念に愛してあげる」
「……きも」
心からの声に、ケイが声を上げて笑う。フィッティングに行けなくてキャンセルになった数件を除いて、ほとんどのブランドに出られるなら出て欲しい、の返答を貰えた。ケイキムラ、も含めて。ぽんぽん、と二度背中を叩かれて、ケイの胸から顔を上げる。
「明日は頼むよ、おれのドール」
「ねぇそのキャラほんとにやめた方がいいよ、売り上げ落ちるよ」
「やめてくれよ、ただでさえアパレル不況とか言われて経理部長が俺を刺すような目で見るんだ」
パリの街で見つめ合って笑い合う、そんなおれたちを切り取った写真が出回るなんて、そのときは思ってもみなかった。
「ねぇ、去年断っちゃった東京コレクションって今年はキャスティングの声かかってる?」
パリコレに出たあと、日本に帰ってすぐマリさんに電話した。
「そりゃあもちろん。なに、最近やる気ね。熱でもある?」
「平熱でーす、おれがやる気出して問題ある?」
「なーんにも。今事務所一同涙してるわ」
ランウェイを歩く。カメラの前でモデルのIOになる。ありとあらゆる衣装を着て脱いで、アクセサリーをつけて外して、いろんな髪形をして、メイクを変えて。そうしていると、全部忘れられた。パリコレ二年連続出場、が箔になって静止画動画にかかわらず広告の話もたくさん来たし、取材も去年の数倍に増えた。「やる気出すのはいいけど極端なのよねぇ……私の年も考えて欲しいわ」事務所の社長業だけじゃなくおれのチーフマネをやってくれているマリさんが移動車の中で肩を揉みながらぼやくほど、仕事を詰めて詰めて、詰めまくる。そうするとひとりの部屋でも、『好きだよ』ごうの声を不意に思い出しても、ほんの数時間しかない空き時間、すとんと意識を失うように眠ることができた。
そうやってメンズ向けのファッション誌だけじゃなく、主婦向けの雑誌社の取材や女性誌の取材も増え始めた矢先、それは発売された。
「やられたわ~。何で日本のゴシップ誌の記者がファッションウィーク期間中のパリにいるのよ」
事務所のテーブルに投げるようにそれを置いてマリさんは大袈裟に頭を抱えたけど、おれは案外冷静だった。でかでかと掲載されたおれがケイに抱き締められている写真も、ケイがおれの涙を拭ってるようにも見えるちいさな角版写真も、「コネパリコレ」とか「デザイナーと人気モデルの危険な恋」なんてバカみたいな煽り文字も、鼻で笑えた。おれはアイドルでもタレントでもないし。好感度が上がるとか落ちるとかないから、プロバスケ界イケメンランキング一位とかで騒がれてるごうよりマシなくらいじゃないかな、と思う。
「これケイ大丈夫? 経理部長に殺されてない?」なんて軽口を叩くと、マリさんは「アンタの方は大丈夫なの」といやに真剣な顔で言う。「え、別に仕事に支障なんてないでしょ。あ、クライアントおこだったりする?」
そう言って指で鬼のツノを作ると、力が抜けたみたいに笑って、マリさんが首を振る。「こんな三流誌の飛ばし記事でわざわざ撮影してるもの取り下げてはこないでしょ、じゃなくて」バッチリカールした睫毛に覆われた目がほんの少し上を見て、一瞬の逡巡、そして決意。
「誤解されたくない人、とかいないの」
「……おれがケイとデキてるって可能性もなくはないでしょ」
「デキてないでしょ」
「言い切るねぇ」
「女の勘、半世紀モノ舐めんなよ。……大切な人には、ちゃんとこんなの嘘だよ、って言わなきゃダメよ」妙に誠実な声で言われて、調子狂うな、と思いながら笑ってみせる。
「朝から晩まで働いてる今のおれにそんな相手いると思う?」
「さあ、どうでしょう」
わざとらしく肩を竦めるマリさんに、溜息を吐く。おれはどうにか全部忘れて、前に進もうとしてるのに、おれの周りの人間はどうしてこう、クレイジーなほどおせっかいなんだろう。あったかくてイヤになるよ。
「ねぇマリさん、ショーのチケット、どれか二枚手に入るかな」
そのあたたかさを迷惑がられるほど、おれはもう幼くない。だけど、前に進まなくちゃ。
ごうの後ろを付き纏ってたころのおれじゃなくて、自分の足で、ランウェイを歩くみたいに。おれの申し出に快くOKを出して「誰にあげるの?」と軽い口調で尋ねたマリさんに、おれもまた軽い声で応える。
「大切な人と、大切な人の大切な人に」
狭い路地を右へ左へ曲がって、本当にここで合ってるのかなと不安になり始めて立ち止まってスマホと名刺に書かれた住所を見比べようとしたとき、二階に続く狭い階段を見つけた。ここかも、と思う。看板も何もないけど、うす暗い階段を上がった先には、かまぼこの板くらいの木の看板がかかったドアがあった。
(ここだ……)
ふぅ、と息を吐いて手に持った招待状の文字を見つめ、意を決して重たいドアを開けると、古いハードックがかかった店の奥に、もう冬だというのにあのとき着てたのと同じようなTシャツを着たヒロがいた。
「いらっしゃい」
まだ時間が早いからか、ほかに客はいない。微かな暖色の照明の下、ヒロが吸っている煙草の煙に手繰り寄せられるみたいにゆっくりとカウンターに近付く。確かあの日は一本も吸ってなかったよな、と思いながら。左奥のスペースにはテーブル席やダーツの的っぽいのもあって、入り口からは狭い店に見えたけど案外中は広そうだ。壁側の棚に大量に置かれた酒の瓶を振り返りながらヒロが聞く。
「何飲む? 酒弱いんだっけ」
「驚かないんだ」
「いや驚いてるよ、顔に出ないだけ。久しぶりだね、元気してた?」
「うん、そっちは」
「まあこんな感じで。ゆるくね」
「ほかに人は?」
確かヒロはバイトだったはず。木のスツールに腰掛けると、ヒロは適当でいい? と言いながらカシスの瓶を取り出して、「店のやつ? 店長がいるけど、今日は来ないんじゃないかな。……腰弱いのに無茶するから」と細長いグラスに赤いそれと炭酸水を注いだ。どこか含みのある言葉に視線を送ると、煙草を咥え無表情でステアしながら「見たよ、写真」と言う。
「どの写真?」
「モデルって隠し撮りされても絵になるんだねぇ」
「……ああ」
「よく撮れてるよねって豪に見せたら、固まってた」
「……ごうに? なんで」
マドラーがグラスに触れる音がやけに大きく聴こえる。
「言葉のまんま。よく撮れてるなぁって思ったから。問題あった?」
「別に……」
「そっか、よかった」
わざとらしく細められた目に思う。やっぱりコイツ苦手だ。ごうの大切な人だから、おれもできるだけ――って思ったけど、そもそもコイツがおれのことキライそうだし。とっとと話を終わらせようと思って、「興味ありそうなのあったらどうぞ。前にファッション好きだって言ってたからどうかなと思って」とコレクションに出展するいくつかのブランドの招待状が入った紙袋をカウンターに置く。それを手に取り、「わおうれしい」と笑うヒロの本音が見えない。すぐに封を切り、まじまじと眺めてる横顔を見る限り、ファッションが好きだという言葉に嘘はなさそうだけど。
「でも何で二通ずつあんの? あ、もしかして店長に? ダメだよファッションとか超疎いオッサンだから」と言って手に取った一通を返してくるヒロに、「来るならごうと来るでしょ? 最終日は土曜だしごうは試合で無理かもしんないけど。他の人誘ってくれてもいいけどさ」と言いつつショーは約一週間、平日にもあるからどれかはふたりで来られるだろう、と考えていると、首を傾げて「あれ? 聞いてない?」とヒロが言う。差し出された招待状をとりあえず受け取って、「何が?」と聞いた。
「俺、もう豪んとこにいないんだよね」
「……は?」
「あと豪、今出れてないよ試合」
「え?」
「大したケガじゃないみたいけど、先々週だったかな? ホームの試合でゴツいディフェンスガッツリ二枚もつかれてるとこ無理矢理突っ込んで、足捻って戦線離脱。SNSとか見てないの? 気色悪いくらい仲いいと思ってたけど、案外薄情なんだね」
挑発的な言葉に言い返す余裕なんてなくて、弾かれたように立ち上がる。財布から金を引っ張り出して置くと「こんなにいらないよ~」と呑気な声が返ってくる。それを無視してドアを開けると、「また来てね、イオ」と感情の読めない声が聞こえた。
心臓が口から出るかと思った。広い道路に出てタクシーを捕まえるより電車のほうが早いと、駅まで走って電車に乗ってまた駅から走った。こんなに走ったのは久しぶりで、全身の細胞が甲高いアラームを鳴らしてるみたいな感覚が襲う。喘ぐように息を吸って吐きながら買い物帰りっぽい女の人に続いてエントランスに入ると、警戒心むき出しの顔をされた。それはそうだ。ちょっと冷静になって一回分エレベーターを見送り、また降りてきた箱に乗り込む。
無意識に招待状を握り締めていた手の甲で階数ボタンを叩き、壁に背を預けて浅い呼吸を続けた。ごうの部屋までの少しの間、会ってどうするのか、何を言って、何を確かめたいのか、何もまとまらないままエレベーターを降りて、また叩くようにインターホンを鳴らした。
「イオ? どした……」
驚いた顔のごうを押しのけるように上がって、廊下を進む。リビングに、ヒロを感じさせるものはなかった。絵も、描きかけのキャンバスも。ちゃんと必要な家具は揃っているのにどこかガランとした部屋と、変わらない広い窓と川があるだけ。ごうの足首にはサポーターのようなものが巻かれていた。
その足を少し引き摺りながら歩いて「お茶飲む?」と言ってくるので首を振って「ヒロは?」とわかりきったことを聞く。
キッチンの方に行こうとしたごうは何を言おうと迷うような表情を見せながらもおれの方に戻ってきて、「ちょっと座るね」と部屋に入って右側の壁際に置かれたソファに座った。それは前に来たときにはなかった、おれたちがあの部屋で使っていたソファだった。
「イオも座りなよ」
隣を叩くごうが、あの頃のごうに見えてそれは錯覚だと首を振る。おれを見上げるごうのくちびるの端に小さな痣が見えた。
「それも、ケガ?」
おれの視線を辿るようにして、ごうがその痕に触れる。
「いや。これは違う」
「ヒロにやられた?」
「……」
「何でいないの? アイツ」
「出てった。ここは窮屈なんだって」
「なんだよそれ、どんだけごうが、アイツの」
「べつにいいんだよ、もう」
「よくないだろ!」
大きな声が出た。こんな声初めて出したな、とどこか冷静な部分で思うけど、その爆発に引きずられて堰を切ったように言葉があふれだす。
「何がいいんだよ、なんでそんなに自分をないがしろにするの? いつも誰かのために無理して、笑って、ごうの望みは何なんだよ……っ、そうやってごうが、自分のことはどうでもいいみたいな顔すんの、おれがどんだけ……っ」
「ないがしろにしてるつもりはないんだけどなぁ……」
苦笑しながらあすように頭を撫でられそうになって、初めてその手を跳ねのけた。一瞬だけごうの体温に触れた、手の甲がジンジン熱い。
「誤魔化さないでよ……」
「イオ」
「大切なんだろ? 好きなんだろアイツが。だからおれは……」
ずっと握っていた招待状。毎年趣向を凝らして作られるブランドこだわりの封筒が、もう取り返しのつかないくらいぐちゃぐちゃになってる。それをゆっくりとおれの手から離して、ごうが無表情にそれを見つめた。たまたまヒロから受け取ったその一枚は、コレクション最終日、ケイキムラのショーのものだった。
「イオは……?」
ごうが黒い封筒に目を落としたまま、抑揚のない声で言う。
「イオは、好きな人できた?」
ダメだ。
あふれる。
思わず口を覆おうとして、ごうに手首を掴まれた。その瞳に映るおれは、笑えるほど切羽詰まった顔をしている。
「知ってる、くせに……」
愛しくてたまらない、子どもの頃の面影を残した顔を睨む。ごうは世界一やさしくて、世界一残酷だ。
「おれが好きなのは、ずっとごうだけだよ」
太陽が、毎日毎日毎日懲りずに東から登って西に沈むように、ひっくり返した砂時計の中の砂がゆっくりと確実に落ちていくように、降り積もった雪がいつかは溶けるように、時間が決して元には戻らないように。それはおれの世界の、変わることのない軸だった。
「おれも、イオが好きだよ」
「おれの好きはごうとは違う」
「……イオ」
「なんで……? なんでごうを手に入れて、愛してもらって、まだ欲しがるの? 意味がわかんない、それなら」
「イオ、おれは大丈夫だから落ち着いて」
たしなめるように、ごうの両手がおれの肩に触れる。上着越しでもわかる、大きくてあたたかい掌だ。その体温に触れても、バカになった蛇口を元に戻すことができない。
「おれでもいいじゃん、チンコあって、胸がなくて、男でいいなら……ずっと思ってた、思ってたよ。中学のとき、ごうが男といるとこ見たときからずっと……何がダメなの? 血のつながった兄弟だから? でもおれは、」ボタボタと生ぬるい何かが顎から落ちる。喉から絞り出すような嗚咽がもれて、眉を寄せたごうの顔が揺れる。困らせてる、今までにないくらい。わかっていて、止めなかった。全部を壊してしまいたかった。
『当たって砕けて――』
ケイの声が一瞬頭に浮かぶ。粉々どころか、もう、何も残らないように。渾身の力で、ほとんど殴るようにごうの胸を押す。倒れた身体に伸し掛かるようにして、言う。
「おれは、ごうとセックスしたって子どもができるわけじゃない。べつに、何も変わらな」
震える声でそう言うとハッとするような強い力で襟ぐりを掴まれて、あっという間に世界が反転した。見たことのない険しい顔をしたごうがこみ上げる怒りを煮詰めて凍らせたみたいな視線を俺に落とす。距離が近すぎて、壊れた涙腺がどんどん体液を排出するせいで、初めて見る、いや、誰にも見せたことのないようなごうの表情をちゃんと見たいのにままならなくて、おれはぼやける視界を再起動するように瞬きを繰り返す。
「本当に、イオはおれとできるの? 恋人みたいなキスも、セックスも、そういうのを含めた好き、って本気で言ってる?」
「……できるよ」
愚問だ。愚問すぎる。思わず軽薄に笑ってしまう。だっておれは、ずっと世界中のほかの誰でもない、ごうが、ごうだけが欲しかった。
「庵、今なら」
「慰めてあげる」
分別めいた言葉を遮るようにごうの首にうでを回して、紫のアザに舌を伸ばす。それはざらりと舌先をくすぐって、ごうがピクリと震えた。
「軽い気持ちでいいから、試してみなよ。おれ、結構イイみたいだよ」
精いっぱいの虚勢に、一瞬空気が凍る。ドン、と顔の横で重い音がした。ごうがソファに思い切り拳を振り下ろした音だった。おれの肩が大きく跳ねるのを見下ろしたごうは今度は横に拳を振って壁を殴った。
「ご、……っちょ、何やって……手、ケガする……っ!」
慌てて半身を起こし、ごうのうでにしがみ付く。それでも壁を殴ろうとするごうともみくちゃになって、「ごめん、ごめんって、ごう! 落ち着け……!」と叫ぶように言うと、ごうの身体から力が抜けた。
「だめだよ……」
それは、子どもみたいな声だった。何度も何度も聞いてきた、やさしいごうの声。
「それはダメ。だっておれはイオの――」
〝おにーちゃん〟だから。
それはごうの喉仏をただ震わせて、音にならずに沈んでいった。でも、ごうの言いたいことがおれには手に取るようにわかった。おれが黙って手を離すと、ごうがおれの上から退いて、ソファに背を預けて片手で顔を覆った。「今日は帰りな……送ってあげられないけど……」大人の声で言うごうの手の甲にできた赤い痕を手で覆ってあげたかったけど、自分にそんな権利がないことは痛いくらいわかってたから、「うん……」素直に立ち上がる。
わかってた。おれとごうの〝好き〟が同じじゃないこと。それをムリして合わせようとしたら、きっとどちらかが壊れてしまうこと。ごうの近くにいるとどうしてもその眩い光に引き寄せられてしまう。その光で、自分だけを照らしてほしいと願ってしまう。でもそれで大事にしてきた何かを壊してしまうくらいなら、おれたちはそばにいないほうがいい、ちゃんとわかってたのに。頭でわかってても体現できないと意味がない、ウォーキングの講師に何度も言われた言葉だ。なんでこんなときに思い出すかな、ぜんぜんおかしくないのに、笑ってしまう。掌で顔を覆ったごうは、ピクリとも動かない。
言うな、と脳が警告する。それだけは言っちゃいけない、けたたましいアラーム音に、おれの中にいる幼いおれがしゃがみ込んで耳を塞ぐのが見える。言っちゃいけない。なぜならそれは、おれにとっては渾身の告白でも、ごうにとっては真逆の――。
「ごうと……」
自分の名を呼ぶ声に反射的に反応するように、真っ赤に充血した大きな目でごうがおれを捉える。こんなときだって、ごうはおれを邪険にしたり無視したりしない。おれの姿を真っ直ぐ捉えて、最大限声を拾おうとする。そのやさしさに護られて、おれはぬくぬく生きてきたのに。
「ごうと、他人に生まれたかった――」
こんな、暴力みたいなアイラブユー。最後の最後にぶつけてごめん。大好きだよごう、もう大事な弟、にすら戻れなくても、ずっと。
椅子に腰かけた白髪のおじさんににこやかに言われて、足を踏み出してスタジオの壁から壁まで、歩き出す。十人くらいいる面接官の品定めするような視線を感じながら歩く。指示されたのは二ウォーク。行って、帰ってくる。時間にしたら一分もないそれだけの時間で人生が左右されるキャスティング(オーディションのことだ)の時間が、おれは意外と嫌いじゃない。
「どうだった?」
有名ブランドの事務所の入ったビルを出ると、隣のカフェのテラス席で黒いハットをかぶったケイがおれを待っていた。さすがに新進気鋭のデザイナー、パリの街並みにいても浮くことはない。
「とりあえず第一関門はクリア。数日中にフィッティングの連絡するって」
「ああ……また別の奴の服着るのか」
「それが仕事なんで」
ごうの家を出て、雑誌とか他の仕事の調整をして、十九歳の冬に初めてコレクションのキャスティングを受けるためにパリに来た。マリさんにいくつかエージェントは紹介してもらったけどまだパリでの仕事歴もなくて、その時は所属も決められていない野良モデルみたいな状態だったし、日本ではスチール中心でウォーキングもレッスン生に毛の生えたレベルだったから当然落ちまくった。その年初めてパリコレに出展したケイに「俺のとこで出なよ」って誘われたけどそれもなんだかなぁって思って。
「自力で歩きたいんだよね、コネとかじゃなくて」
「コネでも何でもないと思うけど?」
「でもさぁ、初パリコレがケイのとこってなんか枕営業みたいじゃん」
「手も握らせてくれないのによく言うよ」
大袈裟に嘆かれたことを思い出してふふ、と笑うと、ケイが「何ニヤけてんだよ、エロイな」と適当なことを言う。「メルシー」店員からマグカップを受け取って、ショコラ・ショを啜ると濃厚なチョコレートの甘みが冷えた身体に染みわたった。
オーディションに落ちまくったあと、マリさんに間に入ってもらってパリのエージェントとガッツリ契約して、一年の半分はこっち、半分は日本って感じで少しずつパリでの仕事も増やしていったのもあって、去年初めていくつかのブランドのキャスティングに受かり、ランウェイを歩くことができた。今年は去年以上に手ごたえがある。既にいくつかのブランドから合格の連絡も来てるし。まぁこっちではショーの前日にキャンセルとかもザラにあるんだけど。このまま何事もなければ数日後には、またあのランウェイを歩けるだろう。
「お兄ちゃん、呼ぶの?」
この寒いのに小瓶に入ったビールをグラスに注ぎながら、変わらない軽い口調でケイが聞く。
「いや……呼ばない」
「何で? ああ、今シーズン中か」
ごうは、おれが家を出てった年の十二月、大学三年の時に指定選手として東京のプロチームに入団した。その年のインカレではトップの得点数を誇り、チームも準優勝と健闘した。前年のリベンジができて、胸のつかえも取れたのかもしれない。おれがパリのランウェイを歩くよりも早く、ごうは子どもの頃からずっとそばにあったバスケットボールで人生の大きな一歩を歩き出していた。
『バスケに集中したい……』
ごうの、心の奥底から絞り出すような声を思い出して、これでよかったんだ、離れて正解だって何度も思った。もちろん、疎遠になった訳じゃなくて、メッセージのやり取りや電話もするし、日本にいるときはたまにごはんを食べに行ったりもする。だけど、確実に変わったこともあって――。
「イオ、電話」
「ああ、ごめん。……もしもしパパ? え、じいちゃんが?」
じいちゃんが倒れた。とりいそぎ命にどうこうというわけじゃないみたいだけど。豪が高知に行ったから、庵も行けるときに顔を見せてあげてほしい。パパは珍しく不安の混じった声で、でもおれをいたずらに急き立てることなくそう言った。
「うん、わかった。パパは……そう、うん、おれもすぐ行くし」
「イオ?」
「ん? 大丈夫だよショーは来年もあるし。はい、気をつけて。じゃあね」
電話を切って、何か言いたげなケイを見下ろして初めて、自分がいつの間にか立ちあがっていたことに気付いた。
「ねぇ、日本行きの今夜の便、今からでもとれるかな?」
あの頃から確実に変わったこと。ごうに、好きな人ができた。相手の性別は、おれと同じ、男だ。ごうはもうそれを隠さないし、おれに知られても動揺することなく、穏やかな顔で笑ってみせた。
『イオ、この人は――』
「大丈夫なのか?」
空港行きのタクシーに何故か一緒に乗り込んできたケイ(まさか日本までついてこないよな)が、顎の髭をいじりながら前を見て聞く。
「まぁ、年っちゃ年だし、でも持病らしい持病もないから」
「そうじゃなくて……いや、それも心配だけど」
「ブッカー(マネージャー)には嫌味言われたけど、彼はいつもあんなだし案外ケロっと」
「それでもなくて、お兄ちゃん。あのヤバい目の」
「ヤバい目とか言うのやめてよ」
笑いながら軽くケイの太腿を殴る。ケイとごうはあの夜、ケイに送ってもらって鉢合わせしたときしか会ってないのに、ケイのごうへの印象はあまり良くない。目ざといケイは、あれだけでおれたちの微妙にがんじがらめになってた空気を読み取ったらしい。後日仕事で会った時に、メイクルームで遅い昼食を食べてたらちょうど今みたいに隣に腰掛けてきて、驚くほどあっさりと聞かれた。
「好きなのか? 兄ちゃんが」
「何いきなり。それはもちろん、うちは仲いい兄弟なんで」
「……俺が言ってんのは性的な意味で、だぞ」
性的な意味、セイテキなイミ。おれはごうをどういう意味で好きなんだろう、と考えたけど、どんなに考えてもその中に含まれている意味、なんてわからなかった。沈黙がうるさくて、いつになく真剣なケイの視線にあからさまな嘘を吐く気力もなくて。味気ない弁当を咀嚼しながら(ごうの作ったのが百倍美味い、と思いながら)、吐き捨てるように言った。
「意味なんてわかんない。でもおれは、ごうがいればそれでいいの」
「……そうか」
何故か慰めるみたいに頭に手を置かれて、続く言葉はどうにか硬くて冷たい米と一緒に呑み込んだ。
〝ごうはそうじゃないけど〟
「大丈夫だよ、だって兄弟だよ?」
どの口が言うんだ、思わず笑いそうになるのを顎をついた掌で隠して、窓の外を見つめる。前から後ろへどんどん流れていく光は、町自体の造形に焦点を当てないでいると案外どこも変わらない。日本も、パリも、アメリカも。ごうがいない風景は、おれにとってはどこまで行っても〝ごうがいない場所〟でしかなかった。
タクシーを降りてケイと別れ、チェックインして日本行きの飛行機に乗る。羽田から乗り継げば、明日の面会時間中にじいちゃんのとこに行けるはずだ。飛行機の中は九割程度が埋まっていた。世界中からファッション好きが押し寄せるファッションウィークの真っ最中じゃなくてよかったな、と思いながら出発ロビーの売店で買ったペットボトルの水を飲み、うすく目を閉じる。
今年の春、おれが出て行ってからもずっとあのマンションで一人暮らしをしていたごうが引っ越した。プロになっても今まで住み続けてたのが不思議なくらいだったけど、ああもうあの家にごうはいないんだなってちょっと感傷的になったりして。それでも仕事でバタバタしてて祝えなかったごうの二十三歳の誕生日をちょっと遅くなったけど祝いたい気持ちもあったから、撮影で着たジャケットがごうの好きなブランドのだった、それがおれよりごうに似合いそうだった、撮影で使った花まで貰って、ちょうどよかった――。頭の中にいろんな言い訳を浮かべながら、新しいごうの家を訪ねた。
「イオ……?」
【今から行っていい?】
既にごうの新居に向かいながら送ったメッセージは既読になってなかった。エントランスのインターホンを鳴らしても反応がなかったから、空振りだったかなと肩を竦めて。仕方ないから帰ろうかと、手に持ったパティスリーの箱の中のふたり分のケーキを、これどうしようかなと思いながら帰ろうとしたとき、その声に呼ばれた。
「ご……っ、」
振り返ったとき、ごうは一人じゃなかった。「こんばんは」ごうの隣、顎くらいの長さの黒髪を耳にかけながら、悠然と微笑む男、がごうの隣にいた。百七十、あるかないかくらいだろうか。微笑みながら、どこか相手を観察するような抜け目のない目。ビンテージのデニムに七十年代のバンドのジャケットが印刷されたTシャツを着ている。ストリートファッションの好きなごうよりちょっとハード系だけど、不思議とふたりの調和はとれている。薄いくちびるの端にはシルバーのリップカフが付いていて、男が笑うと鈍く光った。
「誰?」
予想してなかった事態への驚きもあって、つっけんどんな言い方になった。でもそれに動揺することもなく、そいつは促すようにごうを見上げる。あまり身長の高くない線の細い男が、ごうを見上げると普通の男女のカップルみたいで軽く眩暈がしたけど、続くごうの言葉で目の前が暗くなった。
「え、っと……この人はヒロ、さん。おれの……コイビト、です」
「よろしく」
ヒロと呼ばれた男が、ごうのうでから手を離しておれに差し出す。それをぼんやりと見つめていると、ごうが助け舟を出すみたいに言った。
「で、これがおれの弟、庵」
おれはケーキと花束をふたりに押し付けて、明日早いからって逃げるようにエントランスを出ようとした。でも「俺ファッション好きなんだよねぇ、ブランドの展示会とかもチェックしてるよ。生モデルに会えるなんて感激だわ」とあながち嘘でもなさそうに言うヒロに、「せっかくだから茶でも飲んでって」って引き留められて、結局ふたりが一緒に暮らしているっていう部屋に招かれて、ごうの淹れたほとんど味のしない紅茶を飲んだ。
部屋に上がってどうぞと促されながら廊下を進むと、リビングの壁にはいくつかの絵が掛けられていた。部屋の隅に描きかけっぽいキャンバスも立てかけてある。そのどれもが彩度を抑えた、またはモノクロの風景画で、「画家……?」と呟いたおれに「いや趣味で描いてるだけ。仕事はこっち、よかったら飲みに来て」とヒロが名刺サイズの紙を手渡してきた。
「本職はバーのアルバイト店員」
「バイトって本職って言う?」
おれの皮肉にも軽く笑って肩を竦める、ヒロの薄い身体の向こう、バルコニーからは都心のビルと川が見えた。
「俺、海好きなんだけど。金ないし東京じゃ厳しいから、川が見えるとこがいいって豪にオネダリしたんだよ」
「へ、え……」
リビングに続くダイニングの左手の部屋は寝室だろうか。少しドアが開いていて、ベッドのようなものが見えた。おれはそれから視線を逸らして、窓の外の風景に神経を集中させる。ごうはふだんより口数は少なかったけど、アイランドキッチンで買ってきた食材を冷蔵庫に入れたり、おれの持ってきた花を生けたりこまごまと動きながら、ときどきおれたちの会話に耳を傾けて、「それはヒロが言ったんじゃん」ってツッコんだり「あ、記憶捏造してる」って笑ったりしていて。
今までとはちがうリラックスした雰囲気にいやがおうにもごうの変化を感じたおれは、さっさと帰ろうと思って熱い紅茶を火傷しながら飲んだ。なのに愛想よく喋りながらどこかこっちの反応を観察してるようなヒロの醒めた目に居心地の悪さも感じて、「どこで知り合ったの?」なんて知りたくもないことを聞いてしまった。
「お、気になる?」
「まぁ……接点なさそうすぎるし」
「豪は酒弱いしね」
「……そうだね」
「ヒーローさん、あんまりおしゃべりはダメだよ」
豪、なんて呼ばないで。おれ以外の名前をそんなに気安く呼ばないで。子どもみたいに見境なく駄々を捏ねられたら、どんなにラクだろう。なんて。
「俺さ、絵の素材探しに写真撮るのが日課なのよ。んである日フラッと東京湾の方に行ったらね」
ヒロの声が、どんどん遠くなる。焼けた舌が痛い。ねぇごう火傷しちゃった。氷持ってきて。それだけのことが言えずに、ふたりの出会いを感情を持たない人形みたいに、ただ座って聞いた。
気付けばごうは、部屋にいなかった。どこ行ったんだっけ。買い忘れたものがあるって部屋を出たんだっけ。それともトイレ? バルコニーに出て、甲斐甲斐しく洗濯物でも取り込んでる?目線でごうを探すけど、どこを探したっておれとヒロしかいない。ヒロの首元に、紅い痕があるように見える。虫刺されだろうか、それとも――。
急に、何この状況。帰りたいな、と強く思う。ごはんも一緒に、って言われたら何て断ろう、なんて考えていると、トントン、とヒロが指でテーブルを叩いた。大したことない音のはずなのに、それはいやに大きく鼓膜を揺さぶって、おれはハッとヒロの目を見た。どっかですべて知ってて面白がってるような、目を。
「それでいっちょこのイケメン骨抜きにしてやるか~って軽い気持ちで店で潰れた豪を連れて帰ったんだけど、……あの部屋、なんか雰囲気が重~くて全然できなかった」
「だから言ったんだよね、俺。『この部屋出て俺と暮らさない?』って。アイツ、ベロベロだったのにやけに真剣な顔で『それもいいかもね』って」
「ねぇイオ……でいい? ……あの部屋で何があったの?」
ずっと微笑んでるような形をした目の奥、鈍く光る何かが、真っ直ぐにおれを刺した。
「ヒロ~、車の中にスマホなかったよ? ちゃんと探した?」
玄関のドアを閉めて廊下を歩いてきたごうが、固まったおれに視線を向けるのを背中越しに感じた。
「イオ? どした?」
「マジでない? あ、ポケットにあった」
「も~、ねぇイオどした? どっかしんどい?」
ごうからはおれの後ろ姿しか見えてないはずなのに、おれの方に大股で歩いてくるのがわかる。早く。ごうがおれの顔を覗き込む前に、って何かに急かされるように立ち上がる。カバンを持って、「ごめん、帰るわ」と足早に部屋を出る。
「あ、そう? また来てね~」
ヒロの平らな声を背中で聞きながら、逃げるように靴を履いてドアを開けた。
「イオ!」
なのにごうはおれを追いかけて来て、「送るよ」とキーケースを出した。それはおれがごうの二十歳の誕生日にプレゼントしたもので、取り上げて投げつけたい気持ちになりながら、必死で平静を装って「大丈夫だよ、歩ける」と答える。「ダメ、危ないから送る」危ないからって、成人した弟相手に何だよ、と思うけど、ごうの足と手首を掴む力に敵うはずもなくて、マンションの駐車場まで引きずられるようにして歩いた。
「車……替えたんだ」
「前の狭かったし、ね」
それは黒いSUVで、確かに前の車よりサイズが大きく中も広そうだった。買って間もないのか、手入れがいいのか、ボディには傷一つない。助手席のドアを開けられて促されるように座ると、座席が前すぎて足元が窮屈だった。背、低かったもんな、八つ当たりみたいに座席の位置を変えて後ろを見ると、後部座席は倒されていた。
「画材、のせたりするから」
ミラーの位置を変えながら、言葉少なにごうが説明する。「そう……」バックミラーの端に、昔ごうと交換したキーホルダーが揺れて、おれはほとんど泣きそうになりながら「ごめんねむい、事務所でいいから。着いたら起こして」と早口で言ってかたく目を閉じた。
『これで、できる限り送り迎えするから』
決意に満ちたようなごうの顔が、何度も何度も瞼の裏に現れては消える。相変わらず安定した運転をしながら控えめな声でごうが口ずさむ歌は、おれの知らない曲だった。
身体がめちゃくちゃちいさくなってたり、目に見えて弱ってたらどうしようって空港からタクシーで病院に向かう間ずっと怖かったけど、病院の個室、入院着でベッドに腰掛けてごうと喋るじいちゃんはあまり変わらないように見えてホッとした。
「庵、悪いな遠いとこ」
「何だ元気そうじゃん」
「イオ、コート貸して。こっち座りな。おれ飲み物買ってくるから」
あの日ぶりのごうがコートを受け取ってくれて、座ってた椅子を貸してくれる。その変わらないやさしいまなざしにぎゅ、と胸が痛むけど、今はじいちゃんだ。年の割に背の高いじいちゃんは長い腕を伸ばして、ゆっくりとおれの頭を撫でた。
「大きくなったな」
「じいちゃん、おれもうすぐ二十二になるからね」
「早いなぁ、パリにいたんだろ?」
「……まぁ」
「大丈夫だから、すぐ戻りなさい」
「でも……」
「心配せんでも、まだ死ぬ気せんき」
そう言って日に焼けた肌にくっきりとした皺を寄せるじいちゃんの変わらない笑顔に、心からホッとした。いつもの、たまにしか出ない土佐弁にも。
「色が白くて細いな、ちゃんと食べてるか」
じいちゃんは笑いながら、頭を撫でていた手でおれの頬に触れる。カサついたおおきな掌に、安心して泣きそうになるのを堪えて、「あんまちゃんと食べ過ぎるとダメなんだよ、モデルなんだから」と軽口を返す。
「昔からごうと違って庵は好き嫌い激しかったしなぁ」
「まぁそれは否定しないけど、好き嫌いで痩せてるんじゃないから安心して」
「でも豪が食ったら、どんなイヤな顔してても興味深そうにまじまじ見て口に入れてたなぁ」
「……そうだっけ」
じいちゃんは「そうだよ」と何度かちいさく頷いて、懐かしそうに目を細めておれを見る。心地よい沈黙が、どれくらい続いただろう。「庵、あんまり我慢上手になるなよ」不意にかけられた言葉に、返す言葉をなくす。
一瞬、山で迷子になったおれたちを探しにきて、抱きしめてくれたじいちゃんのあたたさと匂いが蘇る。それが目の前の入院着を着たじいちゃんと消毒液の匂いに吸収されるようにあっけなく消えて、くちびるが震えた。じいちゃんのかさついた手の甲に触れ、ぎゅっと握る。変わらない、なんて嘘だ。時間は確実に経過してる。どんなに大切な想い出や記憶があっても、そこに戻ることはできない、その先に何が待っているとしても、生きてる限りおれたちは、進むしかない。
「なに……おれのワガママっぷり、じいちゃん忘れちゃった?」
震えた声を、じいちゃんは咎めなかった。
「覚えてるよ、ぜーんぶ」と笑って、「ちょっと寝ようかな。豪、庵送ってやりなさい」と部屋の入り口に声をかけた。
「うん。行こっか、イオ」
缶のココアとペットボトルのお茶を持ったごうが、じいちゃんにそっくりなやさしい目を細める。
「飛行機とれた?」
「うん、何とか」
「何時?」
「十九時」
「じゃあ時間あるね、ちょっと寄り道してこうか」
そう言ってタクシーを拾ったごうが向かったのは、じいちゃん家の近くの海だった。あの、おれがマリさんと会った場所だ。
「車で来るとこんなラクなんだね」
「ね、歩いて山越えたらちょっとした冒険だったけどね」
そこで待っててもらえますか、タクシーの運転手にお金を渡して、ごうが「寒い?」とおれを振り返る。「パリに比べたら全然」「そ? よかった」なんて言いながらも、ごうは
タートルネックにコートを羽織ったおれの首に、自分の巻いていたマフラーを巻き直した。
石の階段を降りて、大きな岩がゴロゴロある砂浜に出る。砂っていうか大きめの砂利って感じの、歩くときの感触も変わらない。ごうにもらってまだ飲んでなかった缶のココアを開ける。生ぬるい甘みが胸を充たして、あっさりと落ちていった。
「あの辺で撮影したんだよね」
「ね、あの写真まだ事務所にあるよ」
「見返したりする?」
「いや、さすがに苦行すぎる」
白い息を吐いてごうは笑う。あの日、家から送ってもらってもロクに顔も見れなかったから、こんなふうに笑うごうを見るのはいやに久しぶりな気がする。
「……ヒロ、げんき?」
「ん。たくさん海に行ってるみたいであんま家にはいないけど」
「……まさか探しに来たわけじゃ」
「ないよ、何でこんなとこまで」
ちいさい石を拾って苦笑いするごうの目はおだやかで、久しぶりにふたりで過ごす時間はどこまでもやさしくて。あの日聞けなかったことを、今なら聞ける気がした。
「海で会ったんだっけ?」
「話してなかった?」
「や、あんま覚えてないだけ」
めぼしい石を見つけたのか、それを掌で遊ばせてごうが海に向かって投げる。
白い石は驚くほど遠くに飛んで、それを見届けるみたいにしてごうは静かに話し始める。
「イオが、いなくなってからね」
あの部屋にいると無性に自分が空っぽみたいに感じるときがあって。何もできなかったし、独りよがりだったなぁって。考え始めるとどんどん沈んじゃうから、そういうときは車走らせてよく海を見に行ってた。プロになって、イオもモデルで活躍して、よかったなぁ。おれも、がんばらなくちゃ、って思えて、実際がんばってきたつもりだけど、でもその習慣自体はなくなってなくて。あの日も堤防、って言うんだっけあの出っ張ってるとこ……に座ってぼんやり海を見てたんだ。ちょっと雨が降ってたけど、それも気持ちよくて、ぼーっとしてた。そのときに写真撮りに来てたヒロが……後ろでずっとおれを見てたらしいんだけど気付かなくて。おれがあんまり長い間ボーっとしてるから、海に飛び込むんじゃないか、と思ったらしい。そろそろ帰ろっかな、って立ち上がった瞬間に水面に魚が見えた気がして覗き込んだら『溺死ってだいぶきついらしいよ』って肩掴まれて。
話してるうちに誤解も解けて、店やってるからって名刺渡されて。でもそのときは申し訳ないけどそれっきりポケットに入れたまま忘れてたんだけど。坂口さんっていうね、すごくお酒の好きな先輩がチームにいるのね。ごはん連れてってくれた帰りにお気に入りのバーがあるって、結構しつこいんだよ。おれ飲めないって知ってるのに。ダーツもあるから、とか言って。一杯だけですよ、って寄ったバーが、
「ヒロのとこだったんだ」
「うん」
「そこでベロベロに」
「坂口さんしつこいんだよ……」
「ドラマティックな出会いだねぇ」
「うわーすごい棒読み」
「……一緒に住み始めたのは?」
「同棲してた人と別れて、行くとこないって言われて」
「……へぇ」
「……あの部屋で、ヒロと暮らすのは、なんか……ね」
「ヒロもイヤそうだったしね」
「……狭いトコ、ダメなんだよ。部屋がって言うか……視界が狭いと怖いんだって。バーは大丈夫らしいんだけど」
「ごうの部屋、見晴らしいいもんね、窓でかくて」
部屋から見える川。笑うヒロのくちびるに鈍く光るシルバー。全体の記憶はあいまいなのに、断片はやけにクリアで。ごうに巻かれたマフラーからは、イヤになるくらいごうのあたたかい匂いがして。ダメだダメだと思うのに、聞いてしまう。決定打を欲しがってる自分と、死んでも避けたいと思ってる自分。終わらせないと。今しかない、と思う自分と、イヤだずっとこの匂いを独占したいと思う自分。『ごうのたからばこ』にもう絶対に入れなくなった長い身体を海風から庇うように撫でて、は、と息を吐いた。吐いた拍子に、それは明確な決意もないまま勝手に零れた。
「ヒロのこと……好き?」
ごうがおれを見つめる。子どもの頃から何度も見てきた茶色い瞳が、やさしいような、鋭いような光を宿して真っ直ぐにおれを捉える。長い沈黙。一瞬波の音と合わさるように大きな風が吹いて、ごうは静かに笑って見せた。
「好きだよ」
――男とか女とかじゃなくて、たぶん人として。
「そっか」
「うん」
おれはゆっくりと、マフラーを外す。それを畳んで、ごうに渡して、「そろそろ行こっか」と言い海に背を向けて階段に向かった。
パリのエージェント事務所の入っているビルの階段を降りると、ごく自然にケイが立っていた。街路樹の下、「よ」と手を上げる真っ黒な姿に、なぜか無性に懐かしさがら込み上げて、「ねぇ、……そろそろアンタのものになっていい?」堪えたくちびるから泣き言みたいな言葉が漏れた。
一瞬の沈黙のあと、ケイはふう、と白い息を吐いて、「魅力的な提案だけど、泣きながら言われてもなぁ……」と何か辛いモノでも食べさせられたみたいに大袈裟に顔を顰める。「泣いてないし」「はいはい、泣いてませんね。目腫れたらショーに影響するぞ」軽く頭を引き寄せられ、そのまま胸に額を当てた。ケイの胸からは洗練された香水の匂いがして、おれはごうの汗とお日様みたいな匂いを想って、「ちょっと、感傷的になってるだけ」と言い訳をする。
「このイオを感傷的にさせるなんてどこの誰だよ」
「……知ってるくせに」
「まぁ、難儀だとは思うけどさ。当たって砕けて、粉々になったIOも美しいだろうな、見てみたいな。砕けてこいよ、俺はそれを拾って一粒一粒丹念に愛してあげる」
「……きも」
心からの声に、ケイが声を上げて笑う。フィッティングに行けなくてキャンセルになった数件を除いて、ほとんどのブランドに出られるなら出て欲しい、の返答を貰えた。ケイキムラ、も含めて。ぽんぽん、と二度背中を叩かれて、ケイの胸から顔を上げる。
「明日は頼むよ、おれのドール」
「ねぇそのキャラほんとにやめた方がいいよ、売り上げ落ちるよ」
「やめてくれよ、ただでさえアパレル不況とか言われて経理部長が俺を刺すような目で見るんだ」
パリの街で見つめ合って笑い合う、そんなおれたちを切り取った写真が出回るなんて、そのときは思ってもみなかった。
「ねぇ、去年断っちゃった東京コレクションって今年はキャスティングの声かかってる?」
パリコレに出たあと、日本に帰ってすぐマリさんに電話した。
「そりゃあもちろん。なに、最近やる気ね。熱でもある?」
「平熱でーす、おれがやる気出して問題ある?」
「なーんにも。今事務所一同涙してるわ」
ランウェイを歩く。カメラの前でモデルのIOになる。ありとあらゆる衣装を着て脱いで、アクセサリーをつけて外して、いろんな髪形をして、メイクを変えて。そうしていると、全部忘れられた。パリコレ二年連続出場、が箔になって静止画動画にかかわらず広告の話もたくさん来たし、取材も去年の数倍に増えた。「やる気出すのはいいけど極端なのよねぇ……私の年も考えて欲しいわ」事務所の社長業だけじゃなくおれのチーフマネをやってくれているマリさんが移動車の中で肩を揉みながらぼやくほど、仕事を詰めて詰めて、詰めまくる。そうするとひとりの部屋でも、『好きだよ』ごうの声を不意に思い出しても、ほんの数時間しかない空き時間、すとんと意識を失うように眠ることができた。
そうやってメンズ向けのファッション誌だけじゃなく、主婦向けの雑誌社の取材や女性誌の取材も増え始めた矢先、それは発売された。
「やられたわ~。何で日本のゴシップ誌の記者がファッションウィーク期間中のパリにいるのよ」
事務所のテーブルに投げるようにそれを置いてマリさんは大袈裟に頭を抱えたけど、おれは案外冷静だった。でかでかと掲載されたおれがケイに抱き締められている写真も、ケイがおれの涙を拭ってるようにも見えるちいさな角版写真も、「コネパリコレ」とか「デザイナーと人気モデルの危険な恋」なんてバカみたいな煽り文字も、鼻で笑えた。おれはアイドルでもタレントでもないし。好感度が上がるとか落ちるとかないから、プロバスケ界イケメンランキング一位とかで騒がれてるごうよりマシなくらいじゃないかな、と思う。
「これケイ大丈夫? 経理部長に殺されてない?」なんて軽口を叩くと、マリさんは「アンタの方は大丈夫なの」といやに真剣な顔で言う。「え、別に仕事に支障なんてないでしょ。あ、クライアントおこだったりする?」
そう言って指で鬼のツノを作ると、力が抜けたみたいに笑って、マリさんが首を振る。「こんな三流誌の飛ばし記事でわざわざ撮影してるもの取り下げてはこないでしょ、じゃなくて」バッチリカールした睫毛に覆われた目がほんの少し上を見て、一瞬の逡巡、そして決意。
「誤解されたくない人、とかいないの」
「……おれがケイとデキてるって可能性もなくはないでしょ」
「デキてないでしょ」
「言い切るねぇ」
「女の勘、半世紀モノ舐めんなよ。……大切な人には、ちゃんとこんなの嘘だよ、って言わなきゃダメよ」妙に誠実な声で言われて、調子狂うな、と思いながら笑ってみせる。
「朝から晩まで働いてる今のおれにそんな相手いると思う?」
「さあ、どうでしょう」
わざとらしく肩を竦めるマリさんに、溜息を吐く。おれはどうにか全部忘れて、前に進もうとしてるのに、おれの周りの人間はどうしてこう、クレイジーなほどおせっかいなんだろう。あったかくてイヤになるよ。
「ねぇマリさん、ショーのチケット、どれか二枚手に入るかな」
そのあたたかさを迷惑がられるほど、おれはもう幼くない。だけど、前に進まなくちゃ。
ごうの後ろを付き纏ってたころのおれじゃなくて、自分の足で、ランウェイを歩くみたいに。おれの申し出に快くOKを出して「誰にあげるの?」と軽い口調で尋ねたマリさんに、おれもまた軽い声で応える。
「大切な人と、大切な人の大切な人に」
狭い路地を右へ左へ曲がって、本当にここで合ってるのかなと不安になり始めて立ち止まってスマホと名刺に書かれた住所を見比べようとしたとき、二階に続く狭い階段を見つけた。ここかも、と思う。看板も何もないけど、うす暗い階段を上がった先には、かまぼこの板くらいの木の看板がかかったドアがあった。
(ここだ……)
ふぅ、と息を吐いて手に持った招待状の文字を見つめ、意を決して重たいドアを開けると、古いハードックがかかった店の奥に、もう冬だというのにあのとき着てたのと同じようなTシャツを着たヒロがいた。
「いらっしゃい」
まだ時間が早いからか、ほかに客はいない。微かな暖色の照明の下、ヒロが吸っている煙草の煙に手繰り寄せられるみたいにゆっくりとカウンターに近付く。確かあの日は一本も吸ってなかったよな、と思いながら。左奥のスペースにはテーブル席やダーツの的っぽいのもあって、入り口からは狭い店に見えたけど案外中は広そうだ。壁側の棚に大量に置かれた酒の瓶を振り返りながらヒロが聞く。
「何飲む? 酒弱いんだっけ」
「驚かないんだ」
「いや驚いてるよ、顔に出ないだけ。久しぶりだね、元気してた?」
「うん、そっちは」
「まあこんな感じで。ゆるくね」
「ほかに人は?」
確かヒロはバイトだったはず。木のスツールに腰掛けると、ヒロは適当でいい? と言いながらカシスの瓶を取り出して、「店のやつ? 店長がいるけど、今日は来ないんじゃないかな。……腰弱いのに無茶するから」と細長いグラスに赤いそれと炭酸水を注いだ。どこか含みのある言葉に視線を送ると、煙草を咥え無表情でステアしながら「見たよ、写真」と言う。
「どの写真?」
「モデルって隠し撮りされても絵になるんだねぇ」
「……ああ」
「よく撮れてるよねって豪に見せたら、固まってた」
「……ごうに? なんで」
マドラーがグラスに触れる音がやけに大きく聴こえる。
「言葉のまんま。よく撮れてるなぁって思ったから。問題あった?」
「別に……」
「そっか、よかった」
わざとらしく細められた目に思う。やっぱりコイツ苦手だ。ごうの大切な人だから、おれもできるだけ――って思ったけど、そもそもコイツがおれのことキライそうだし。とっとと話を終わらせようと思って、「興味ありそうなのあったらどうぞ。前にファッション好きだって言ってたからどうかなと思って」とコレクションに出展するいくつかのブランドの招待状が入った紙袋をカウンターに置く。それを手に取り、「わおうれしい」と笑うヒロの本音が見えない。すぐに封を切り、まじまじと眺めてる横顔を見る限り、ファッションが好きだという言葉に嘘はなさそうだけど。
「でも何で二通ずつあんの? あ、もしかして店長に? ダメだよファッションとか超疎いオッサンだから」と言って手に取った一通を返してくるヒロに、「来るならごうと来るでしょ? 最終日は土曜だしごうは試合で無理かもしんないけど。他の人誘ってくれてもいいけどさ」と言いつつショーは約一週間、平日にもあるからどれかはふたりで来られるだろう、と考えていると、首を傾げて「あれ? 聞いてない?」とヒロが言う。差し出された招待状をとりあえず受け取って、「何が?」と聞いた。
「俺、もう豪んとこにいないんだよね」
「……は?」
「あと豪、今出れてないよ試合」
「え?」
「大したケガじゃないみたいけど、先々週だったかな? ホームの試合でゴツいディフェンスガッツリ二枚もつかれてるとこ無理矢理突っ込んで、足捻って戦線離脱。SNSとか見てないの? 気色悪いくらい仲いいと思ってたけど、案外薄情なんだね」
挑発的な言葉に言い返す余裕なんてなくて、弾かれたように立ち上がる。財布から金を引っ張り出して置くと「こんなにいらないよ~」と呑気な声が返ってくる。それを無視してドアを開けると、「また来てね、イオ」と感情の読めない声が聞こえた。
心臓が口から出るかと思った。広い道路に出てタクシーを捕まえるより電車のほうが早いと、駅まで走って電車に乗ってまた駅から走った。こんなに走ったのは久しぶりで、全身の細胞が甲高いアラームを鳴らしてるみたいな感覚が襲う。喘ぐように息を吸って吐きながら買い物帰りっぽい女の人に続いてエントランスに入ると、警戒心むき出しの顔をされた。それはそうだ。ちょっと冷静になって一回分エレベーターを見送り、また降りてきた箱に乗り込む。
無意識に招待状を握り締めていた手の甲で階数ボタンを叩き、壁に背を預けて浅い呼吸を続けた。ごうの部屋までの少しの間、会ってどうするのか、何を言って、何を確かめたいのか、何もまとまらないままエレベーターを降りて、また叩くようにインターホンを鳴らした。
「イオ? どした……」
驚いた顔のごうを押しのけるように上がって、廊下を進む。リビングに、ヒロを感じさせるものはなかった。絵も、描きかけのキャンバスも。ちゃんと必要な家具は揃っているのにどこかガランとした部屋と、変わらない広い窓と川があるだけ。ごうの足首にはサポーターのようなものが巻かれていた。
その足を少し引き摺りながら歩いて「お茶飲む?」と言ってくるので首を振って「ヒロは?」とわかりきったことを聞く。
キッチンの方に行こうとしたごうは何を言おうと迷うような表情を見せながらもおれの方に戻ってきて、「ちょっと座るね」と部屋に入って右側の壁際に置かれたソファに座った。それは前に来たときにはなかった、おれたちがあの部屋で使っていたソファだった。
「イオも座りなよ」
隣を叩くごうが、あの頃のごうに見えてそれは錯覚だと首を振る。おれを見上げるごうのくちびるの端に小さな痣が見えた。
「それも、ケガ?」
おれの視線を辿るようにして、ごうがその痕に触れる。
「いや。これは違う」
「ヒロにやられた?」
「……」
「何でいないの? アイツ」
「出てった。ここは窮屈なんだって」
「なんだよそれ、どんだけごうが、アイツの」
「べつにいいんだよ、もう」
「よくないだろ!」
大きな声が出た。こんな声初めて出したな、とどこか冷静な部分で思うけど、その爆発に引きずられて堰を切ったように言葉があふれだす。
「何がいいんだよ、なんでそんなに自分をないがしろにするの? いつも誰かのために無理して、笑って、ごうの望みは何なんだよ……っ、そうやってごうが、自分のことはどうでもいいみたいな顔すんの、おれがどんだけ……っ」
「ないがしろにしてるつもりはないんだけどなぁ……」
苦笑しながらあすように頭を撫でられそうになって、初めてその手を跳ねのけた。一瞬だけごうの体温に触れた、手の甲がジンジン熱い。
「誤魔化さないでよ……」
「イオ」
「大切なんだろ? 好きなんだろアイツが。だからおれは……」
ずっと握っていた招待状。毎年趣向を凝らして作られるブランドこだわりの封筒が、もう取り返しのつかないくらいぐちゃぐちゃになってる。それをゆっくりとおれの手から離して、ごうが無表情にそれを見つめた。たまたまヒロから受け取ったその一枚は、コレクション最終日、ケイキムラのショーのものだった。
「イオは……?」
ごうが黒い封筒に目を落としたまま、抑揚のない声で言う。
「イオは、好きな人できた?」
ダメだ。
あふれる。
思わず口を覆おうとして、ごうに手首を掴まれた。その瞳に映るおれは、笑えるほど切羽詰まった顔をしている。
「知ってる、くせに……」
愛しくてたまらない、子どもの頃の面影を残した顔を睨む。ごうは世界一やさしくて、世界一残酷だ。
「おれが好きなのは、ずっとごうだけだよ」
太陽が、毎日毎日毎日懲りずに東から登って西に沈むように、ひっくり返した砂時計の中の砂がゆっくりと確実に落ちていくように、降り積もった雪がいつかは溶けるように、時間が決して元には戻らないように。それはおれの世界の、変わることのない軸だった。
「おれも、イオが好きだよ」
「おれの好きはごうとは違う」
「……イオ」
「なんで……? なんでごうを手に入れて、愛してもらって、まだ欲しがるの? 意味がわかんない、それなら」
「イオ、おれは大丈夫だから落ち着いて」
たしなめるように、ごうの両手がおれの肩に触れる。上着越しでもわかる、大きくてあたたかい掌だ。その体温に触れても、バカになった蛇口を元に戻すことができない。
「おれでもいいじゃん、チンコあって、胸がなくて、男でいいなら……ずっと思ってた、思ってたよ。中学のとき、ごうが男といるとこ見たときからずっと……何がダメなの? 血のつながった兄弟だから? でもおれは、」ボタボタと生ぬるい何かが顎から落ちる。喉から絞り出すような嗚咽がもれて、眉を寄せたごうの顔が揺れる。困らせてる、今までにないくらい。わかっていて、止めなかった。全部を壊してしまいたかった。
『当たって砕けて――』
ケイの声が一瞬頭に浮かぶ。粉々どころか、もう、何も残らないように。渾身の力で、ほとんど殴るようにごうの胸を押す。倒れた身体に伸し掛かるようにして、言う。
「おれは、ごうとセックスしたって子どもができるわけじゃない。べつに、何も変わらな」
震える声でそう言うとハッとするような強い力で襟ぐりを掴まれて、あっという間に世界が反転した。見たことのない険しい顔をしたごうがこみ上げる怒りを煮詰めて凍らせたみたいな視線を俺に落とす。距離が近すぎて、壊れた涙腺がどんどん体液を排出するせいで、初めて見る、いや、誰にも見せたことのないようなごうの表情をちゃんと見たいのにままならなくて、おれはぼやける視界を再起動するように瞬きを繰り返す。
「本当に、イオはおれとできるの? 恋人みたいなキスも、セックスも、そういうのを含めた好き、って本気で言ってる?」
「……できるよ」
愚問だ。愚問すぎる。思わず軽薄に笑ってしまう。だっておれは、ずっと世界中のほかの誰でもない、ごうが、ごうだけが欲しかった。
「庵、今なら」
「慰めてあげる」
分別めいた言葉を遮るようにごうの首にうでを回して、紫のアザに舌を伸ばす。それはざらりと舌先をくすぐって、ごうがピクリと震えた。
「軽い気持ちでいいから、試してみなよ。おれ、結構イイみたいだよ」
精いっぱいの虚勢に、一瞬空気が凍る。ドン、と顔の横で重い音がした。ごうがソファに思い切り拳を振り下ろした音だった。おれの肩が大きく跳ねるのを見下ろしたごうは今度は横に拳を振って壁を殴った。
「ご、……っちょ、何やって……手、ケガする……っ!」
慌てて半身を起こし、ごうのうでにしがみ付く。それでも壁を殴ろうとするごうともみくちゃになって、「ごめん、ごめんって、ごう! 落ち着け……!」と叫ぶように言うと、ごうの身体から力が抜けた。
「だめだよ……」
それは、子どもみたいな声だった。何度も何度も聞いてきた、やさしいごうの声。
「それはダメ。だっておれはイオの――」
〝おにーちゃん〟だから。
それはごうの喉仏をただ震わせて、音にならずに沈んでいった。でも、ごうの言いたいことがおれには手に取るようにわかった。おれが黙って手を離すと、ごうがおれの上から退いて、ソファに背を預けて片手で顔を覆った。「今日は帰りな……送ってあげられないけど……」大人の声で言うごうの手の甲にできた赤い痕を手で覆ってあげたかったけど、自分にそんな権利がないことは痛いくらいわかってたから、「うん……」素直に立ち上がる。
わかってた。おれとごうの〝好き〟が同じじゃないこと。それをムリして合わせようとしたら、きっとどちらかが壊れてしまうこと。ごうの近くにいるとどうしてもその眩い光に引き寄せられてしまう。その光で、自分だけを照らしてほしいと願ってしまう。でもそれで大事にしてきた何かを壊してしまうくらいなら、おれたちはそばにいないほうがいい、ちゃんとわかってたのに。頭でわかってても体現できないと意味がない、ウォーキングの講師に何度も言われた言葉だ。なんでこんなときに思い出すかな、ぜんぜんおかしくないのに、笑ってしまう。掌で顔を覆ったごうは、ピクリとも動かない。
言うな、と脳が警告する。それだけは言っちゃいけない、けたたましいアラーム音に、おれの中にいる幼いおれがしゃがみ込んで耳を塞ぐのが見える。言っちゃいけない。なぜならそれは、おれにとっては渾身の告白でも、ごうにとっては真逆の――。
「ごうと……」
自分の名を呼ぶ声に反射的に反応するように、真っ赤に充血した大きな目でごうがおれを捉える。こんなときだって、ごうはおれを邪険にしたり無視したりしない。おれの姿を真っ直ぐ捉えて、最大限声を拾おうとする。そのやさしさに護られて、おれはぬくぬく生きてきたのに。
「ごうと、他人に生まれたかった――」
こんな、暴力みたいなアイラブユー。最後の最後にぶつけてごめん。大好きだよごう、もう大事な弟、にすら戻れなくても、ずっと。
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