【完結】藍の日々

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最終章 光―後編―

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 出演するショーの前日リハーサルをすべて終えて、おれはまたあのドアの前に立った。そうそう都合よくいるかわかんないけど、アイツのいる場所をココしか知らないから。重いドアを引くと、カウンターの向こうにちゃんとその姿があって、ニガテなはずなのにホッとした。だっていてくれないと、伝えられない。

「また来てね、とは言ったけど、ちょっとペース早くない?」

 苦笑いするヒロは、目の前に座った客に手招きされて、髪を耳にかけながら煙草の火を貰うような仕草をした。

「ごうのこと、傷つけないで」

 ぽかん、と絵に描いたような表情を見せたあと、ヒロが声を上げて笑う。淡白そうな目を猫みたいに閉じて。笑うと随分幼くなる。こんなところにもごうは惹かれたのかな、とぼんやり思う。失礼な態度に怒りを感じるスイッチは、もうおれの中にはなかった。ただ懇願するように、思う。おれにできないことをできるなら、代わりにアンタがやってよ。責任もって、おれの大事な、あのバカみたいにやさしい人を。

「愛されてんなら、ちゃんとしあわせにしてよ……」

 ヒロに火をやっていた四十代くらいの男の客が、いかにも野次馬っぽい目をこっちに向けるけどかまっていられなかった。奥の方から酒に酔った連中のやけに明るい笑い声が聞こえる。ヒロは笑いを引っ込めて、静かな、それでいて射抜くような視線をおれに向ける。
 まるでおれとヒロだけ、別の世界にいるみたいだった。

「俺とイオ、似てるところがあると思わない? さてそれは何でしょう?」

 ヒロが煙草をおれに向ける。客が「顔もスタイルも全然違うぞ」とからかうように言うのを無視して、ヒロはおれだけに「わからない?」と鼻で笑う。

「ブー、時間切れ。答えは名前」
「俺はヒロ、お前はイオ、本名は庵って言うんだっけ? まぁ何でもいいけど、ヒロとイオは母音が一緒だ」
「豪ね、最初に俺が名乗ったとき、一瞬ぽかんとして、そのあと信じられないくらいやさしい顔をした。風が強かったし、波も高かったから聞き間違えたのかな。そんな珍しい名前じゃないのに、変だなって思いながら俺は、その顔に一瞬で惹かれた。それとアイツの目。ものすごく複雑な色をしてるって知ってる? やさしいだけじゃない、大事で大事で仕方のないものを取り上げられた、または自分から手放した人間に纏わりついた、影みたいなのが時々ココに混じるの。それをもっと近くで見たかった」

 煙草を挟んだ指で、自分の目を指す。火が角膜に触れそうで一瞬ヒヤッとするけど、ヒロはそんなこと考えてもいないみたいだった。

「じゃあ第二問、アイツがケガした日の前日、俺が見せたものは何でしょう。チーム自慢のムードメイカーを、らしくないワンマンプレイをやけくそみたいに繰り返すバカシューターに変化させるものは? コレは簡単すぎるかな、じゃあ最後」

「ケガした夜、豪くんは手負いの獣みたいに乱暴に俺を抱きました。あれはなかなかヨかったな、俺ベタだけどああいうやさしさの塊みたいな男が見せるギャップに弱いの。満足して、ガラにもなく眠る豪の頭を撫でたりして、名前を呼ばれた気がして耳を寄せた。でも」

「豪が呼んでるのは、俺じゃなかった」

 ヒロの薄いくちびるが、ゆっくりと横に伸びて、つぎに丸く。たぶん、「い、お、」と動いた。いつの間にカウンターから出てきたのか、猫みたいにしなやかにおれの前に立ち、低いところからゆっくりと言葉を紡ぐ。

「もうわかった? 〝ごう〟を傷つけられるのは俺じゃない。ごうが呼んでるのも、俺じゃない」
「アホらしくなって、一発殴って部屋を出た。理由はわかってたのか、追いかけてもこなかったよ、画材送って、って男の住所教えたら、丁寧に梱包して送ってくれて。『ごめんね』だって」
「ねぇ……」

 ヒロが背伸びして、おれの顔にゆっくりと煙を吐きかける。それを微動だにせず受け入れると、ヒロが静かにくちびるの端を上げた。

「大事なおにーちゃん、返してあげるよ。どうする? カワイイ弟くん」

 ヒロの言ってることは、おれにとって青天の霹靂すぎて、急に全部を信じることは難しかった。ヒロのミステリアスな雰囲気と相まって、全部が現実感のない夢みたいに思える。いつの間にかカウンターに座っていた男はいなくなっていて、奥の席の嬌声のような笑い声も止んでいる。喉が、カラカラに乾いた。何か真意を探る言葉をかけなくちゃと思うのに、口を衝いたのはまるで無意味な、安っぽい皮肉だった。

「……お礼でも言ってほしいの?」それとも、無様なおれを揶揄って遊んでる? 疑心暗鬼を隠す気もないおれを読めない瞳で黙って見つめたあと、肩を竦めてヒロは言った。

「別に。もうどうでもいいし。……あの部屋から見える景色は、結構気に入ってたんだけどなぁ」

 どこか甘く香る煙と、香水と、アルコールの匂いを纏った小柄な身体。消えていく煙を見上げて独り言みたいに呟くヒロは、一瞬ミステリアスで食えない雰囲気を脱いだ、ごく普通の若い男に見えた。



 混乱の中にいても、ショーの幕は開ける。オープニングパーティーのショーを皮切りに、おれは都内に設営された複数の会場を行ったり来たりしながら、いくつかのブランドのショーに参加した。中にはヒロに招待状を渡したものもあったけど、見る限り客席にヒロの姿はなかった。もちろん、ごうも。
 コレクションの合間に、数社の取材を受ける。パリに行く前から表紙や連載を担当している雑誌ではSNSで発信するコメントやオフショットの撮影もある。パリと違って、タレント的な扱いも受けている国内でのコレクションの仕事は想像以上に忙しくて、対応している間はごうやヒロのことを考える余裕がほとんどなかった。会場の廊下ですれ違ったケイに、「最終日までにくたばるなよ」と言われたくらいだ。
 取材のほとんどが事前に聞かされていたコレクションについてだったけど、一社、モデルを始めたきっかけやおれの半生的な内容について触れてきたインタビュアーがいた。初めて取材を受ける相手だ。正直今かよ、と思ったけど、コレクションやファッションについて語り飽きていたというのもあって、まぁいいか、と口を開く。

「きっかけはスカウトです。小三の途中からアメリカに住んでたんですけど、祖父の家に帰省したときに、ちょうど撮影現場に出くわして」
「その時に一緒にいたのが……」
「兄ですね、プロバスケ選手の」
「すみません、有名な話ですよね」
「いえいえ。兄も一緒に、何枚か写真を撮ってもらって」
 ごうがいなければ――。
 人生でほとんど考えたことのないifが頭をよぎる。おれはモデルになってここにいることもなかったし、おれが今のおれになることも、絶対になかった。
 そのifを生きるおれは、おれと全く別物のおれだ。
 ごうが兄じゃなければ。それはほんの少し、たとえば身体は眠気を感じているのに妙に頭が冴えて何度寝返りを打っても眠れない、だけど叩くべき壁も呼ぶべき相手も存在しない空っぽの夜なんかに、考えたことがあった。
 普通の知り合い、友人としてそばにいたなら――? 弟として受けられるあまりある信愛を手放す代わりに、別の何かを、受け取ることができただろうか。それはおれがずっと欲しかったもの?

「……IOさん?」

 戸惑ったようなインタビュアーの声と視線に、ハッと意識が戻った。

「すみません、ちょっとトリップしちゃった」軽い調子で頭を下げると、気遣わしげに眉を下げた彼女は「いえいえ、お疲れですよね」と労いの言葉を口にしながら、「じゃあ次の質問ですが」と声の調子を変えた。



 最終日、怒号の飛び交うバックステージで、最終ルックの準備を終えたおれは姿見の前で静かに出番を待っている。高校を卒業してからずっとアイコンみたいに銀と金の中間みたいな色を保ってきたけど、今回のショーに合わせて暗くした髪は、妙に静かで穏やかな今の気分に合っている気がした。歩くと波みたいにふわりと揺れる、黒を基調に青みが入ったロングジャケット、タイトなシャツと対比するように布地をたっぷり使ったワイドパンツは計算され尽くしたフォルムが目を惹くのに、履いていて心地よい。前より歩きやすいな、と感じる。凝り尽くした華やかなショーのランウェイを、街中を歩くような感覚で歩ける。それがデザイナーとしてのケイの進化なのか、おれの変化なのか、わからないけど。
 いつの間にか隣に、マリさんがいた。事務所には十数人コレクションに参加するモデルがいるので、おれにつきっきりってわけにはいかない。「久しぶりだね」と言うと「何それ皮肉?」と返ってきたので苦笑して「信頼してもらえてるって受け止めてたんだけど。違った?」と言うと「正解」とマリさんは歯を見せて笑った。

「ねぇ庵。私との約束覚えてる?」

 マリさんの小さな手が、おれの背中に触れる。約束っていうかマリさんに一方的に命じられたというか。でもここまできて抵抗する気にもならなかったので、素直にボスの要求に従うことにする。

「「私の船に乗ったからには、トップモデルになってもらうわよ」」

 声が重なる。目を合わせて、軽く笑う。「行ってらっしゃい」マリさんの言葉とともに、スタッフからもゴーの指示が出る。さて、出番だ。おれは一歩、慣れた歩幅で足を踏み出す。


 突然、ランウェイの先に、さっきまではなかった光を見つけた。うす暗い客席を埋める多くの人の中でも、それは一切の留保なくおれの目に飛び込んで、胸を貫き、全身を支配する。会場に鳴り響く音が止まって、客席の息遣いも、たったいますれ違ったはずのモデルの気配も、手足の感覚も何もかもが遠のく。ただ、全身を充たす、痺れるような幸福に、おれはほんの少し口角を上げた。ただ観客に服の魅力だけを伝え、魅せる、完璧な人形は一瞬にして命を吹き込まれて、それまで感じなかった自分の鼓動や血液の流れ、体温の上昇がありありとわかる。モデルのIOの容れ物の身体に生身の〝イオ〟が顔を出す。そんなはずはないのに、耳元でケイの口笛が聞こえた気がした。

 ごう。

 唯一無二の存在は、客席に座って真っ直ぐにおれを見つめる。
 おれはその光に背を向けて、ランウェイを戻って行く。



 モデル全員で一斉にウォークして、最後に出てきたケイが頭を下げ、拍手の鳴り響く中、ショーは終わった。さっきまで怒声が飛び交っていたステージ裏の空気がやわらいで、観客が一斉に席を立つ音が聞こえる。誰かに肩を叩かれて、振り返った。

「ケイ……」
「相変わらずだなお兄ちゃん、ものすごい目で見られたわ。大事な弟、こんなに美しく魅せてやったのに」

 ケイは軽い口調で肩を竦めて、ジャケットのあしらいをそっと撫でる。おれが今何をしようとしているか、全部、ケイには見抜かれている気がした。

「わかってると思うけど、それ、一点モノの新作だから。汚したり壊したりしたら弁償な」

 行ってこい、というように髭の生えた顎をしゃくる。ありがとう、という言葉を置いて、スタッフやモデルを掻き分けるようにして搬入用エレベーターがある廊下に出る。エレベーター前は既に別のブランドの撤収が始まっているのか混雑していて、何往復も待たないと乗れなさそうだった。じっとしてられなくて楽屋口の廊下を走り、ショーを見に来た客や一般客の利用するエスカレーターへと向かう。衣装を着たまま走るモデルを驚いたように見る人の視線を感じたけど、構っていられない。背が高い、それなりに目立つはずのごうの姿を見落とさないように、いろんな方向を見ながら一心に下に降りる。
 ホールのある九階から四階まで降りたとき、天井で碧く光るムービングライトが照らす先に、駅に通じるデッキへの出口が見えた。それ以上下るのをやめて、ほとんど勘だけで外に出る。空調の効いた施設の中から衣装のまま外に飛び出しても、寒さは感じなかった。
 店内のムービングライトと同色の照明に照らされたデッキは、駅に向かう人や景色を楽しむ買い物客であふれている。それでも、おれの視線は迷うことなくその背中を、捉える。
 
 喘ぐ喉を奮い立たせて、叫ぶように名前を呼ぶ。

「ごう……っ!」

 デニムに黒いダウン姿の、人並みの中でも頭いくつ分か高いごうが振り返る。その目は、一瞬大きく開いて、やわらかく笑みの形を作った。

「イオ」

 駆け寄って、わずかに残った理性を総動員して一メートルくらいの距離で止まる。本当は思い切り抱き着きたいけど、こんなところで、パリの夜と同じ轍を踏むわけにはいかない。ごうはおれの顔から下をまじまじと見つめて「かっこいいね……ホントに似合ってる」と呟いた。

「ごう、おれ」
「じいちゃんにね、言われた言葉を思い出してた」

 じいちゃん? 穏やかな声に言いかけた言葉を呑み込んで、先を問うようにごうを見る。

「大事なものを大事にしなさい、それは自分も含めてだよ、って。おれの一番大事なもの、自分以上に大事なもの、それを大事にしたら、自分まで大事にしてるのと同じになるひと。そんなの世界にひとりしかいない。なのにあんな顔させて、あんなふうに泣かせちゃった」

 ごうが痛みを堪えるような顔をする。ごうの感じている痛みが、自分のことのように、ちがう。自分の痛みとして、おれの身体を貫く。

「おれの一番大事なひと、……なんて考えるまでもない」そう迷いのない声で言って、ごうが一歩、おれに近付く。

「好きだよ、イオ。家族として、だけじゃなくて。ひとりの男として、おれはイオが好き」

 泣いちゃダメだ。泣いたらごうをまた苦しめる。腹に力を入れて、ぐ、と歯を噛んで。懸命に抑えようとするけど、我慢しようとしても勝手にどんどんあふれてくるものを、ごうは愛し気に見つめて、濡れていくおれの頬にそっと触れた。

「でも……」

 ごうの言葉に、冗談じゃなく息が止まるかと思った。一瞬絶望的な顔をしていたのかもしれない、ごうはふっと笑って、「おれは、やっぱりイオと兄弟でよかった。苦しかったし、しんどいこともあったけど……それでも。イオのお兄ちゃんで、イオを大好きで、うれしい」そう言って、おれの目からまた新しく零れた涙を指ですくう。

「そんなの……おれだって、……っ」
「うん」
「他人に……とか言ってごめん」
「ううん」
「ごう、好き……」
「……うん」

 ダメだな、連れて帰りたくなっちゃう、白い息を吐いて苦笑するごうに「あとで行っていい?」と聞くと「ちゃんとタクシーで来てね。もうケイさんはナシで」「あ、それか車で迎えに来ようか」と真剣な顔で言う。


 ドライヤーで適当に髪を乾かして、脱衣場に置いてあったごうの白いトレーナーを頭から被る。「でか……」同じ素材、同じ色のハーフパンツもぶかくて、ひもで結んでも腰骨まで落ちる。トレーナーで腿まで隠れるしこれでいいかと下は履かずに廊下に出てごうの待つ部屋に向かった。緊張で口から心臓が飛び出そうだけど、はやく、ごうに触れて、ごうを感じたくて、でもこわくて。心の中はひっちゃかめっちゃかだ。

「ちゃんと髪乾かした? 水飲む?」

 先に風呂に入ったごうが、ベッドに腰掛けていつものやさしい声で言う。何だよ、緊張してるのおれだけかよ、とちょっと面白くなくて寝室の入り口で立ち止まると、ごうはおれのつま先から首までじ、と見つめて声色を変えた。

「……こっちおいで」

 六畳ほどの部屋なんて、ほんの数歩で距離が詰まる。ウォーキングとはまったく別物の緊張感に包まれて、おれはごうのそばまで歩いて、ベッドにおずおずと腰を下ろした。

「足、大丈夫? 今更だけど」
「うん。来週から復帰できるよ」
「そっか。よかった……」

 ホッと息を吐くと、ごうがちょっと意味深に声を落とす。

「シーツ、新しくしたから」
「ふうん……」

 確かに、腿うらに当たる感触は真新しい。そのことが意味するごうの直近の出来事に、勝手にくちびるが尖るのは仕方がないと思う。ごうが、「拗ねないで、こっちむいて」とやさしくおれの顎に手をかける。すぐ近くに真剣なごうの顔があって、目に宿った熱にたじろいでしまう。

「ご……」

 傾けられた顔、長い睫毛と整った鼻筋。ああキレイだな、なんて思ってる間に、くちびるにやわらかいものが触れて、離れていく。初恋の相手同士でするような、やさしいキス。触れるだけのそれに、呼吸の仕方を忘れて固まる。再び空いた距離にほっと息をついたのもつかの間、二度目は明確な意思を持って、奪うように塞がれる。

「ん……っ」

 自分のよりずっと熱くて大きな舌が迷いなく咥内に侵入してくる。

(なに、これ……)

 わかってる。キスだ。おれだってそれくらいしたことあるし。べつに下手な方じゃないと思う。相手には、やたらキスの巧い子だっていた。でもそのどれとも違う、細胞レベルでぴったりと馴染んで奥に眠る欲を引きずり出す、ゾクゾクするような感覚に、くちびるの隙間から喘ぐような吐息が漏れる。

「ふぁ……っ、ごぉ……っ」
 
 縋るようにごうのトレーナーを掴むと、手の甲を大きな掌で包まれて、もう片方の手でぐ、と腰を引き寄せるようにして抱き締められる。溺れる、と思う。ごうに、溺れて、どこまでも沈む。呼吸を奪うようなキスをしながら、そっとおれをベッドに押し倒したごうは、雄の目を鈍く光らせて雑な仕草で上着を脱いだ。控えめな暖色の照明の下でもわかる、鍛えられた胸筋と腹筋に、さっき潤ったはずの口の中が急速に渇く。欲しい。それが正真正銘男の身体であることとか、おれの性嗜好自体はノーマルなはずだとか、そもそもおれたちは血のつながった兄弟だとか。事実も自覚も何の役にも立たない。おれはずっと、ごうだけが欲しかった。

「ずっとこうしたかった……」

 おれが言った言葉かと思った。その声が耳の下、首筋のあたりを震わせたから、それが自分ではなくごうの口から出た言葉だと知った次の瞬間には、ごうはおれの首筋を噛むように愛撫して、たっぷりと湿った舌で耳裏から鎖骨までを舐めた。

「ん……っあっ、ぁ」

 意思に反して思わず上がる高い声が恥ずかしくて、反射的に口を覆おうとした手があっさりと捕まる。ごうはそれをシーツに押さえつけて、「声、聞かせて」と聞いたことのない声で言い、今度は舌で耳の中を犯す。まるで耳とつながる脳内までかき混ぜるみたいに執拗に愛撫されて、やらしい声が止まらない。耳たぶを甘噛みされて、身震いするおれに「かわい」と低く笑うごうはおれの知らないごうだ。

「イオも脱いで」

 寝たままバンザイをさせられ、あっさりと上着を剥がれて、下着だけの心もとなさに身を捩る。目を細めたごうが
「キレイな身体……」と素朴な声で呟くのが恥ずかしくて、「なんか……ごう変」と憎まれ口を叩いてしまう。

「変?」
「だって、いきなり積極的すぎる」
「そう? 怖い?」
「怖くない、けど……あんなにうじうじしてたくせに」
「うじうじって……そりゃそうだよ、こんなにキレイで大切な子、汚しちゃいけないって誰だって思うじゃん」
 なんてあっさり言って、「続きしていい?」とか言う。

「なんかキャラ変わってない?」
「だってずっと我慢してたし」
「がま…っ?」
「イオ、もーうるさい、口塞ぐよ」

 笑って、ちゅ、って音を立ててくちびるに軽いキスをされたら、もう何も言えなくなった。黙ったおれに軽く笑ったごうの長い指が、胸の先端、信じられないところを摘まむ。

「すごい、ココめっちゃピンクだ、ちいさくてかわい……あ、膨らんできた」
「ばか、実況すんのやめ……っ、あっ」
「舐めていい?」
「よっくな……」

 下がった頭を制止するように押さえるとにやりと笑って、舌を伸ばす。やさしく舐め取るように刺激されて、やわらかいくちびるに挟んで甘噛みされて。自分の中にこんな感覚があったなんて信じられない。混乱しながら身体を震わせると「気持ちい?」ってわかりきったことを聞かれる。絶対今度やり返してやるからな、と睨んだら、「……そんなかわいい顔しないでよ」と見当違いなことを言いながら、「ココ、触るよ?」と兆し始めたところを下着越しに掴まれた。

「んっ……ぁだ、ごぉ……っ」
「ん、大丈夫。力抜いて」

 触れられるのは、初めてじゃない。だけどあれは事故みたいなもんだったし、今夜のおれたちが目指しているゴールはあの夜とは確かにちがって。それを自覚したら、もうダメで。下着に入ってくる手が、子どもの頃からずっと見てきたそれと同じものだって思うと、恥ずかしさと背徳感、その手にもたらされる直接的な快感に、気が変になりそうだ。先走りを溢す穴を時折指で刺激しながら扱かれて、あっという間に蓄積していく熱に、頭をぶんぶん振りながら、「いっちゃ……ご……っ」その厚い背中に縋るようにうでを回した。

「あ……っ、ぁ、あ……?」

 いく。思った瞬間に手を離されて思わずその顔を見上げる。

「なん、で……?」
「だってイオ、一回イったら冷静になりそう」
「ならな……」
「やっぱやめるとか言われたらヤだし」
「言わねぇよっ、ばか……っ!」

 胸を殴ると、いたいいたい、と笑いながらごうはおれの頭を撫でた。

「おれも一緒に気持ちよくなっていい?」

 その甘すぎる声と顔で囁くの、卑怯だと思う。
 下を脱いだごうのは、しっかりと欲望を示していた。おれに触っただけでこんなになるんだ……、って、仄暗い悦びに腰がゾワゾワする。風呂で準備している間も、いやその前から、おれで勃つのかなってずっと不安だったから。ごうはおれの視線に「そんな見ないでよ」と苦笑して、覆い被さるようにして迷うことなくおれのと一緒に握り込んだ。
 兜合わせ、って言うんだっけ。聞いたことはあるけど、こんなにイイんだ。他の奴とヤるなんて絶対イヤだけど、大きな掌で包まれて、一緒に扱かれてる熱がごうのだと思うと、一気に口の中が甘い唾液で充たされて、おれも大概だと思った。

「ん……っイオ……」
「あぁ……っん、あっ、ご……もだめ……っ」

 限界の手前で堰き止められていた快楽が再び湧き上がって弾けるのは驚くほど早かった。

「イイよ、イこ……っ」

 どちらのものともつかない先走りが糸を引く。その滑りがもたらす何とも言えない感覚に身を震わせて、ダメだと思う間もなくおれは精を吐き出した。少し遅れて、ごうのが大きく膨らんで欲を吐き出すのもわかって。ふたりで浅く激しい呼吸を繰り返しながら、気だるい身体をベットに沈める。

「はぁ……」

 でもごうは息を大きく吐いたあと早々と身体を起こして、ベッドの下の引き出しからローションとコンドームを取り出した。

「ちゃんと新品だから」
「いちいち……言わなくてい……」
「爪も切って手もキレイにしたから、イオに直接触りたい、いい?」
「だからきかなくていいって……」

 ちょっとごめんね、ってうでを入れておれの身体を軽々持ち上げて、「これ持ってな」ってクッションを抱えさせて腰を上げさせる。ごうの前で裸で四つん這いになるのなんていたたまれないはずなのに、絶頂の余韻でぼんやりしてるのと、まぁ初めてじゃないしな……ってよくわからない理論で自分を納得させて、ごうに身をゆだねた。

「いたくしないでね……」
「ゼンショします」

 ローションを纏った指で縁を撫でられてビクっと腰が跳ねる。「……力抜いて」気を逸らすように濡れた前にも触れながら、くぷ、と長い指が入ってくる。

「ん……っ、」
「声、我慢しない方がラクだから」

 前にも同じことを言われたな、と思いながらもう今更だ、とクッションに顔を埋めて、刺激に反応するがままに声を上げた。ごうがあの日の行為を覚えているのか、おれの身体が覚えているのか、違和感に慣れるのも、それが快楽に変わるのも、思ってた以上にスムーズだった。

「あった、ココだ」
「んぁっ、ああ……っ」
「すごい、きゅうきゅうしてる」
「だ……っ、から……っ」
「ごめん。……指増やすね」

 あの日の、ただ積もった熱を吐き出させるための愛撫じゃない、その先の行為をラクにする目的も兼ねた前戯。おれの状態を見ながらも急くように増やされた指を、一度欲を吐き出したはずの身体はもっと強い刺激をねだるように締め付ける。閉じられない口からはひっきりなしに涎が垂れて、たぶん腰は浅ましく揺れてる。指が中の粘膜を摩擦するたびにローションが掻き混ぜられる粘度の高い音が立ち、ごうが息を呑む音がはっきりと聞こえて顔が熱くなる。

「ねぇ……ケイさんとはこういうことしなかった?」

 慣れない快楽に脳まで侵されて一瞬何でケイの名前が出てくるのか理解ができなくて、返事が遅れる。その間に苛立ったようなごうに、弱いところを潰すようにして「庵」と低い声で呼ばれて、ようやく脳が回転を始める。

「してな……っ、してない……ごうだけ……っ」
「ホントに?」
「あたりまえだろ……っ、おれは……っ」

 ごうしかいらない、ごうしかいらないもん。泣き叫ぶように訴えると、腰から下が重く痺れるような強烈な快楽がやんだ。ハッとしたように止まった指に、刺激をなくした胎内は浅ましくしがみつく。

「ごめん……」

 ごうが指を抜き、おれの顔を後ろに向けさせて労わるようなキスをする。

「もぉ……んっ、だいじょぶ、だから……っ」

 もう限界だった。これ以上、ひとりで乱されるのがこわくて、はやく一つになりたくて、息継ぎの合間にごうに懇願する。

「いれて……っ、ごぉの……」

 おれを完全に、ごうのモノにして。
 ごくりと唾を呑み込んで、ごうが昂ったモノに慣れた様子でゴムを被せるのをぼんやりと見つめる。もうどこにも逃げ場はない。逃げる気もないけど。ごうと一つになって、誰にも言えないこの愛にふたりで溺れるんだ。そう思うと涙が滲んだ。

「挿れるよ」

 ごうが低い声で言って、これ以上ないほど綻び濡れた穴に熱を擦り付ける。くる、と思って息を詰めた瞬間、ごうは「やっぱり……ごめん」と言っておれの身体をひっくり返した。

「え……?」
「顔が見たい。ごめんね、絶対あっちの体勢のほうがラクなんだけど。あと、もうたぶんやめてって言われてもやめてあげられない、……ホントごめん。引っ掻いても殴ってもいいから、掴まってて」

 そう言って抱えさせていたクッションをおれの腰の下に差し込み、手持無沙汰なうでを自分の首に巻き付かせる。

「あ……うん……いい、よ」

 一瞬やっぱりムリ、って言われるのかと思って大袈裟じゃなく心臓が止まったおれは、ごうの言ってることが半分理解できないまま、ぐ、と這入りこんでくる熱を無抵抗に受け入れる。

「うぁ……っ、く……っ」
「息吐いて、そう上手……あ、すごい」

 いけそう、ごうが低く呟いて、開いた膝に手を置きじっくり、ゆっくりと、でも逃がさないと言うように容赦なく進んで胎の奥までみっちりとおれを充たす。信じられないほど熱くて硬い肉を収めて、おれは浅い呼吸を繰り返す。ごうと、一つになった。ずっとずっとずっと、こうしたかった。きっと初めてこの世界で呼吸を上げたときから、こうなることを命懸けで望んでいた。そんな気がする。幸福感に胸がいっぱいで、勝手に涙が零れる。

「痛い? 苦しくない?」
「くるし……いし、いたい……」
「ごめん……」

 ごうがすまなそうに眉を寄せる。その顔に触れて、でも、とおれは続ける。

「初めて……だね、ごうに……っ、痛いことされるの」
「う……ホントに大丈夫? 一回抜こうか?」

 さっきまで勢いはどこにいったのか、おれの涙を拭いながら弱気な声を出すごうの首にうでを回して、ぐ、と引き寄せる。挿入が深くなって、一瞬息が詰まる。

「何言ってんの……ごうにもらう初めての痛みがコレ、なんて……めちゃくちゃしあわせなんだけど……」
「イオ……」

 もうかわいいこと言うのやめて? おれ必死で耐えてんだよ? ってごうが泣きそうな声を出すので、おれは笑った。微かに震えるくちびるに自分からキスをして、微笑む。

「いいよ……、言ったでしょ、ごうになら何されてもいい」
「そういうこと……こんな状況で言う……?」
「ごうのにして? 全部」

 ゴツン、と思い切り身体の奥を突かれて、目の前に白い星が飛ぶ。気持ちいいとか痛いとか、そういう次元のものじゃなかった。いのちの核に直接触れるような、強烈な刺激。まるで怒ったようなごうの目が、だけどおれを見下ろして、「愛してる」と告げた。自分のものではない生ぬるい水が雨のように顔を濡らして、おれはそれがごうの涙だと知る。




「うぁ……っん、あぁ……っもだめ……ぇっ」

 痛みかどうかもわからなかった、肉体を貫くような強烈すぎる刺激はいつの間にか叫び出したいような快楽に擦り代わっていた。そんな場所が自分の身体にあったなんてごうとこんなふうにならなかったら一生知らなかった場所を硬いモノで抉るように突かれて、あ、と思う間もなく触れられないまま吐精する。自分の出したモノがごうの身体を汚したことを恥じる余裕もないまま、力をなくした性器に思い出したように触れられて、本気で身を捩る。

「や……っも……おかしくな……っ」
「うん、気持ちいいね……っ、イオ……」
「だめ……っ、またくる……、なに……これっ、やぁ……っ」
「く……っぅ、あ、出る……っ」

 もう何も出ないと思うのに、あっという間に駆け上っていく身体を制御できないまま、ごうの絞り出すような声とゴム越しの熱を受け止める。ピク、ピク、と浜辺に打ち上げられた魚みたいに震えるおれの脚を撫でて、「白くてすべすべ……」とうっとりと言いながら、ごうが繋がったままおれの膝にくちびるを落とす。

「ひゃ……っぁ……だめ、だって……」

 身体に力は入らないし、体力的にも精神的にももう絶対ムリなのにずず、と抜けていく熱が寂しくて、いかないでとねだるように締め付けてしまう。ごうは、ふぅ、と息を吐いて「ごめん」と手早くゴムを外して口を縛って乱暴な仕草でゴミ箱に捨てた。

「え……」
「ごめん、もう一回だけ……」

 限界まで脚を開かされ、どこもかしこも敏感になった身体を二度目とは思えない熱で貫かれて、おれは助けを求めるように愛しい身体にしがみ付く。
 ごう。世界で一番大切なひとの名前を、祈るように呼びながら。




 目を開けたとき、自分がいる場所が一瞬どこだかわからなかった。「ごう……?」シーツを探っても、どこにもそのぬくもりはない。重たい身体を起こして、いつの間にか着せられていたごうのトレーナーとズボンを見て、夢じゃなかったんだと安堵する。だけどごうはどこに行ったんだろう。ベッドのフレームに掛けられたストールを羽織って、母親を探すちいさな子どものように心もとなく部屋を見渡す。
 
 窓の向こう、川の見えるベランダに、その背中はあった。ホッと息を吐いて、そっと窓に手をかける。

「おはよ」

 よく眠れた? 振り返ったごうが、眩しそうに目を細める。まだ春というには冷たい風が吹いて、一体いつからここにいたんだろうと思いながらその隣に並び、ストールの中に入れるようにごうの肩にもかける。密着した肩の冷たさに、心臓のうらがツキッと痛んだ。その痛みをやり過ごすように軽く俯くおれを、ごうがじ、と見つめる。また心臓が痛む。
 ごうはふ、と笑っておれの頭をぽんぽん、と撫で「この髪色、なんか懐かしいね。子どもの頃のイオみたい」と目を細める。その表情こそ子どもの頃のごうと変わらなくて、こんな関係になっても、決して消えることのないただの仲の良い兄弟、だった記憶の波を、おれは慈しむように、堪えるようにやりすごす。

「ひとりになったとき……イオのことを恋愛感情で好きってことはね、イコール身体が欲しいってことと同じなのかな、好きって、愛してるって何だろう……ってずっと考えてた。イオを想えば身体は反応するけど、弟なのにこんなのおかしいよねって怖がるばかりで。……今もわからないけど、イオが他の人とこういうことをするって考えたら気が狂うかと思うほどイヤだった。勝手だよね、だって自分は……」

 おれじゃなくて、ほかの誰かに――例えば目の前の川に向かって罪を告白するようにごうは言う。

「べつに……そんなのおれもだし」

 ぶっきらぼうに、拗ねるような声が出た。言うべきじゃないってわかってて、真意のわからないごうの様子が不安で、探るような言葉が勝手に零れる。

「……後悔してる?」

 その言葉に、川を見たままごうは笑った。朗らかな笑みだった。「まさか」おかしそうな声には含みがなくて、動揺も怒りも感じ取れない。ふっ、と真顔になったごうが、川からおれに視線を移す。まぶしそうに細められた瞳に、不安そうなおれが映っている。

「やっと手に入れる覚悟ができたのに、後悔なんてしないよ」

 掌で頬に触れて、ごうの目が、彩度を落とす。そのどこまでも沈んで行けそうな深いまなざしすら、おれには眩しくて。ごうが外の目から護るように覆ってくれたストールの中、躊躇なく近づいてくるくちびるを薄く目を閉じて受け入れた。

 誰にも見えない場所でひそやかに寄り添うおれたちを、朝の光の粒を反射した、藍色の川だけが見ている。
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