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act.16
ショーンの姿を映したナイフは、結局振り下ろされることはなかった。
その瞬間に、ショーンを押さえる二人の男の背後で、ショーンの顔を舐めた男が「ギャ!」と悲鳴を上げたからだ。
男達が振り返る。その先には、大柄なアジア系の男が、仲間を拳で叩きのめしていた。
「ショーン、無事か?!」
羽柴だった。
黒いダウンジャケットを着た羽柴が、一人目の男を完全にノックアウトして、二人目の男に掴みかかった。
── ダメよ! コウ! 相手はナイフを持ってるのに!!
ショーンはそう言おうとしたが、声が出ない。
ショーンは男の手を逃れて、喉を掻きむしった。
羽柴はナイフに気付かないのか、エディでない男の襟首を掴んで、物凄い力で男をショーンから引き離す。そしてそのまま男の身体を振り回して、膝で蹴り上げた。
その羽柴の背中に、エディがナイフを振り上げる。
「危ない!!」
その声に、羽柴がギョッとして振り返った。
ショーンも心底驚いて、自分の口に触れる。
「ショーン・・・君・・・」
羽柴がそう呟いたと同時に、エディがナイフを振り下ろす。
「コウ!!」
ショーンが再び叫ぶ。
羽柴は咄嗟にナイフを避けたが、避けきれずに腕が斬りつけられる。ダウンジャケットが裂けて、パッと白い羽毛が宙に舞い散った。
その時、パトカーのけたたましいサイレンの音が辺りに響いた。
町のゴロツキ共が、ハッとして顔を上げる。
「マズイ!」
エディは、呻き声を上げる仲間の尻を蹴って、気を失っている男を肩に担ぐと、脱兎の如く逃げ出した。
ショーンがペタリと地面に座り込む。
「ショーン!!」
羽柴がショーンに駆け寄って、ショーンを抱き締める。
ショーンは、さっき自分の声が出た時より更に驚いた顔をして羽柴を見た。
だって、彼がまた自分を抱き締めてくれるだなんて。
ショーンにはとても信じられない。
これが現実に起こっていることとは。
「大丈夫か? どこかケガしたところはない?」
羽柴が必死になって訊いてくる。
ショーンは緩く首を横に振った。
「声は? 声はちゃんと出せる?」
焦った声でそう訊かれ、ショーンは羽柴の顔を見上げた。
心底心配げな顔。
自分はあんなに酷いことをしたのに、この人はまだ俺のことを心配してくれてる。そればかりか、あんな危険を冒して、この穏やかな人が拳を振るって自分のことを助けてくれるなんて。
そう思ったら、再び泣けてきた。
ショーンは、顔をクシャクシャに顰めながら、ボロボロと大粒の涙を零し、「ごめんなさい・・・ごめんなさい・・・コウ、ごめん・・・」とようやく声に出した。
「ああ、ショーン・・・!」
羽柴も堪らなくなったらしい。羽柴はギュッとショーンの身体を更に抱き締めた。
パトカーが二人の脇に停車する。
「大丈夫ですか?!」
警官が二人出てきて、二人の側に跪いた。
「ああ、大丈夫です」
羽柴は毅然とした声で警官の問いに答えた。
警官は、真っ赤になっているショーンの素足を見て、顔を顰めた。
「襲った相手の顔、分かりますか?」
「私は後からここに駆けつけたので・・・。ショーン、君は・・・」
羽柴がショーンの顔を覗き見る。
「おや? あなたは・・・」
警官がショーンに気付いた。
ショーンはそれに応えることなく、緩く首を振った。
事を荒立てたくない。このことが騒ぎになると、立場上非常にマズいことになる。
羽柴はそれを敏感に察してくれたらしい。
「盗られたものはありません。彼は最初から裸足で街に飛び出してしまったから。ちょっと私とケンカしてしまって。そこをどうやら町のチンピラに絡まれたらしい。騒ぎは大きくしたくないので、何とか穏便に処理してもらえませんか?」
しかし・・・と警官が言い淀む。
「あなたは腕をケガしている。被害届を出す権利があるんですよ」
警官の台詞に、ショーンがギョッとした。
羽柴の腕から逃れ、ショーンは必死な顔つきで羽柴の右腕を探る。
大きく裂かれたダウンジャケットの部分が黒っぽく濡れている。血だ。
「コウ!!」
また瞳に涙を溜めて、ショーンは羽柴にしがみついた。
「大丈夫。大丈夫だから」
羽柴は優しげな目でショーンを見つめる。そして警官に向き直ると、「私がお願いしたいことは、この件をなかったことにしてもらいたいのです。それと、近くの病院まで送っていただければ、それでいい。いけませんか?」と言った。
警官達が顔を見合わせる。羽柴はだめ押しをするように頼み込んだ。
「お願いします。どうか察してもらいたい。もしどうしても被害届をださなければいけないのなら、どうか彼の名は伏せてください。彼は十分もうマスコミの餌食になってきた。だからこんなにも傷ついているのです」
警官達が、涙に濡れたショーンの憔悴した顔を見つめた。どうやら彼らは快く納得してくれたらしい。
「分かりました。ただ、我々は暴力を許すわけにはいかない。事情は車の中で聞かせてください。我々は、あなたに対する傷害容疑のみで彼らを追います」
「ありがとうございます」
羽柴と警官が握手を交わす。その拍子に、羽柴は顔を顰めた。やはりそれなりに痛むらしい。
「取り敢えず、病院までお送りしましょう。それと、今度からはこんな夜にこんな場所をうろつかないこと」
警官に釘を刺され、羽柴は頷く。
「さ、行きましょう」
羽柴とショーンは、パトカーに乗り込んだ。
腕の傷は消毒液で綺麗に拭かれ、塗り薬を塗りつけられた。
「ダウンジャケットを着ていて幸いでしたね。傷は浅いです。縫う必要もないですよ」
ERの医師が、手際よく羽柴の腕に包帯を巻いていく。
「さて、これでよし。じゃ、彼の方はどうかな・・・」
濃いブロンドの髪のその医師は、穏やかな声でそういいながら、診療台に座っているショーンの前に丸椅子を移動させて座った。
まず、裸足の足に触れられる。ピクッとショーンの身体が跳ねた。
「裸足で随分寒いところを走っていたから・・・」
羽柴が、シャツを着込みながら心配げにそう言う。
医師がショーンの顔をチラリと見上げる。
「裸足で走っちゃったのかい? この寒空の中」
翡翠色の美しい瞳で見つめられ、ショーンは気恥ずかしくなってスンと洟を啜った。それを見て、医師が優しく微笑んだ。
「俺も経験あるよ。意固地になって、ついつい無理しちゃったような記憶が、何度もね」
それを聞いて、ショーンの身体の強ばりが少し和らぐ。
ここは、クラウン地区に隣接しているセント・ポール総合病院だった。
パトカーは人の多い救急患者搬入口には車を付けず、職員出入り口に車を付けてくれた。人目に付かないようにとの配慮だった。
そしてその入口で待っていてくれた医師は警官と顔なじみのようで、ショーンを見て事情をすぐに察してくれたらしい。
マックス・ローズと名乗ったその医師に、ショーンも羽柴も見覚えがあった。
どの雑誌か忘れたが数年前に彼は雑誌に取材され、そしてC市ばかりか全米を揺るがせた連続爆弾事件の被害者として当時盛んにマスコミに取りざたされた人でもあった。
「願ってもないのに、マスコミに追いかけ回されるのは、本当に辛いよね」
ショーンと羽柴を人目のつかない治療室に案内しながら、ローズ医師はショーンにウインクして見せた。どうやら警官は、選ぶべくしてこのローズ医師を選んだらしい。それを知って、羽柴も心底ほっとした。
ローズ医師は、ショーンの裸足の足も消毒液で綺麗に拭った。
「擦り傷になってるところがある。少し染みると思うけど、ばい菌が入るとやっかいだから」
ローズ医師は、ショーンがなぜ裸足で走り出してしまったのかは訊いてこなかった。ただ、「随分と冷えてる。無茶をする気持ちは凄く分かるけど、それで自分の身体を痛めつけたんじゃ可愛そうだね」と言った。
ローズ医師はショーンの足の手当を終えると、彼の足にブランケットを巻き付けて立ち上がった。
申し訳なさそうに唇を噛みしめるショーンの顎をローズ医師が捉え、上向きにさせる。
「実は、こっちの傷の方が酷かったりするんだよね」
喉の引っ掻き傷だ。
「随分古いのもあるね・・・。どうしたの? 自分で引っ掻いた?」
ショーンは頷く。
ローズ医師は、手当をしながらチラリと羽柴を返り見た。
「まさかとは思うけど・・・あなたのせいじゃないですよね?」
羽柴は言い淀む。
直接的にはそうではないが、けれどショーンをこんな酷い有様になるまで追い込んでしまったのは自分だ。
羽柴が口を開こうとした時、「違う! 彼を責めるな!!」とヒステリックにショーンが叫んだ。
二人が同時にショーンを見る。
ショーンはまた目に涙を溜めながら、「俺が悪いんだから。俺が自分でしたんだ。俺が・・・俺が・・・」と呟く。
「ごめん。酷いこと言っちゃったね」
ローズ医師がショーンを落ちつかせるように、肩を擦る。
ショーンはまた鼻の頭を赤くしながら、「失声症だったんだ。ずっと声が出なかったから、それで・・・。だから彼のせいじゃない。彼は逆に俺を助けてくれてるんだから・・・」と早口で捲し立てる。診療台の端を掴むショーンの手がブルブルと震えていた。
ローズはショーンに気取られないように顔を少し顰めてみせると、羽柴の耳元に顔を寄せて「疑ってごめんなさい。俺、安定剤を貰ってきます。それまで彼を抱き締めてあげて。あなたの方がいいみたいだ」と囁き、診療室から出て行く。羽柴は、ショーンの隣に腰掛けると、新しいブランケットを手にとってショーンの身体を覆い、そっとショーンを抱き締めた。
ショーンがビクリと身体を震わせる。
「しー・・・大丈夫だから。誰も俺のこと責めたりしてないよ」
ショーンが羽柴を見上げてくる。
「本当に?」
「うん。さっき先生、俺に謝ってくれたから」
「よかった・・・。これ以上、コウに迷惑かけることになったら、俺、もうどうしていいか分からない・・・」
「迷惑なんかかけてないでしょ。どうしてそう思うんだい?」
「だって!」
そう言う側から、また涙が零れ落ちてくる。羽柴は、またショーンを抱き寄せた。その肩口でショーンが篭もった声で先を続ける。
「俺、コウを怒らせた。コウの大事なもの、台無しにしてしまった・・・」
「あれはちゃんとロケットにしまったから大丈夫だよ。俺が大げさに騒いでしまったのがいけないんだ。悪かった」
ショーンは首を横に振る。
「慰めなんていらないよ。酷いことしたのに、どうしてそんなに慰めてくれるんだよ! 俺にそんな価値なんてない・・・」
羽柴は、ショーンの身体を少し放して、正面から彼を見つめた。
「俺が本当に怒るとしたら、君が捨て鉢になって、自分で自分を傷つけるようなことをしたりする時だよ。丁度、今みたいにね」
ショーンの顔が強ばる。そのショーンの頬に流れる涙を、指で丁寧に拭った。
「どうか、そんなこと思わないでくれ。俺だって辛くなるよ。あの時あんな態度をとってしまった自分が情けなくて仕方なくなる。君が君を責める度に、同じように俺も傷つく。分かってくれるかい?」
「そうなの・・・?」
恐る恐るといった感じで、ショーンが訊いてくる。羽柴は即座に頷いた。
「ただでさえ、あんな酷い状況で君が声を取り戻してしまったことに落ち込んでいるのに、これ以上おじさんを苛めないでもらいたいな」
ショーンの茜色の瞳が瞬く。
羽柴は堪らなくなって、ショーンをまた抱き締めた。
「・・・君が再び声を取り戻す時の言葉は、『危ない』でも『ごめんなさい』でもない方がよかったのに・・・。まったく、最低だ、俺は」
ショーンがギュッとしがみついてくる。
「でも、謝りたかったんだ。凄く謝りたかった。あんなことになるなんて、思っても見なかったんだよ。本当に悪いことをしちゃって・・・」
「分かったよ。態とでないことも、君が心の底から謝ってる気持ちも、よく分かったから。もうそのことを言うのはやめよう」
腕の中のショーンが頷く。
見下ろすと、ショーンはようやく穏やかな表情を取り戻していた。
羽柴は安堵の溜息をつく。
「どうやら薬は必要なくなったみたいですね」
ローズ医師が戻ってくる。
羽柴がローズと目を合わせると、互いに軽く微笑みを交わしあった。
ローズ医師は、再び診療室から姿を消すと、今度は紙コップを両手に帰ってきた。コーヒーの芳ばしい香りがふわりと立ち昇る。ローズは、まずショーンにそれを手渡した。
ショーンが両手でそれを受け取って、静かに啜り始めるのを確認してから、今度は少し離れた机に羽柴の分のコーヒーを置いた。
羽柴は意図的にそこにコーヒーを置かれたことを察して、ショーンから少し離れると、不安げな表情を見せるショーンに「コーヒーを取りに行くだけだよ」と声を掛けて、診察台から降りた。
羽柴がコーヒーを受け取ると、その側に腰を掛けたローズ医師が、ショーンに聞こえないぐらいの小声で言った。
「カウンセリングの必要があると思いましたが、余計怯えさせてしまうかもしれない。あなたにとっては大変かもしれないけれど、今はあなたが彼を安心させてあげるのが一番いいように思えます。もし、辛くなってきて、これ以上彼を支えられないと思ったら、遠慮せずにここを訪ねてきてください。この病院には、心の病に対応できる診療科もあります。そこに行くには気が引けるのなら、俺を訪ねてきてもらっても構いませんから」
「大丈夫です。ちょっとやそっとで、俺は潰れませんから」
羽柴はそう断言した。
さっきは突然のことに迂闊にも取り乱してしまったが、ショーンの苦しみを肩代わりしたとしても自分は潰れない自信があった。
ローズ医師も、そう感じたらしい。
彼は頷くと、懐から名刺を取り出した。
「もしその必要が無くても、あなたの包帯は取り替えにきてくださいよ。それに、今夜お風呂は控えた方がいいですね」
「はい。分かりました」
羽柴は照れくさくなって、ポリポリと鼻の下を掻く。
「えっと・・・。彼は・・・」
羽柴が訊くと、ローズは「彼は今夜ゆっくりと温かいお湯に浸からせてあげてください。随分と身体が冷えてしまってますから。傷は大丈夫。帰りに消毒液をお渡ししますから、心配なら風呂上がりに消毒液で傷のところを拭ってあげてください」と返してきた。羽柴は素直に頷く。
羽柴はダウンジャケットを手に取ると、コーヒーを飲み終えたショーンに着せた。そしてニットの帽子をダウンジャケットのポケットから取り出してショーンの頭にすっぽりと被せる。そしていつかの付け髭までが飛び出してきて、やっとショーンが微笑みを浮かべた。
「そんなのまで持ってきたの?」
「外出時の必需品だろ」
羽柴はそう言って、ショーンの鼻の下に髭をペッと貼り付ける。流石のローズ医師もそのやり取りがおかしかったようで、クックッと笑いを噛み殺している。
羽柴がショーンを横抱きに抱き上げると、途端にショーンは暴れ始めた。
「やめてよ! ヤダよ、こんなの! 恥ずかしいよ!!」
「だって、また裸足で歩くつもりか?」
「ああ、そうだった」
ローズ医師が手を叩いて、部屋の片隅に置いてあったサンダルと靴下を差し出す。
「これ、履いて帰って。靴下も新しいやつだから遠慮せずに。サンダルは、羽柴さんがまた来る時にでも返してもらえたら結構ですので」
「何か残念だなぁ」
口を尖らせる羽柴を赤い顔で睨み付けながら、ショーンはそそくさと靴下を穿く。
「何言ってんだよ。家まで抱いて行くつもり? 腰悪くしても知らないから」
ショーンがブツブツと呟く。
「おじさんの体力も甘く見られたもんだ」
態とらしくトントンと羽柴が腰を叩くと、その仕草がおかしかったのか、更にローズ医師に笑われたのだった。
その瞬間に、ショーンを押さえる二人の男の背後で、ショーンの顔を舐めた男が「ギャ!」と悲鳴を上げたからだ。
男達が振り返る。その先には、大柄なアジア系の男が、仲間を拳で叩きのめしていた。
「ショーン、無事か?!」
羽柴だった。
黒いダウンジャケットを着た羽柴が、一人目の男を完全にノックアウトして、二人目の男に掴みかかった。
── ダメよ! コウ! 相手はナイフを持ってるのに!!
ショーンはそう言おうとしたが、声が出ない。
ショーンは男の手を逃れて、喉を掻きむしった。
羽柴はナイフに気付かないのか、エディでない男の襟首を掴んで、物凄い力で男をショーンから引き離す。そしてそのまま男の身体を振り回して、膝で蹴り上げた。
その羽柴の背中に、エディがナイフを振り上げる。
「危ない!!」
その声に、羽柴がギョッとして振り返った。
ショーンも心底驚いて、自分の口に触れる。
「ショーン・・・君・・・」
羽柴がそう呟いたと同時に、エディがナイフを振り下ろす。
「コウ!!」
ショーンが再び叫ぶ。
羽柴は咄嗟にナイフを避けたが、避けきれずに腕が斬りつけられる。ダウンジャケットが裂けて、パッと白い羽毛が宙に舞い散った。
その時、パトカーのけたたましいサイレンの音が辺りに響いた。
町のゴロツキ共が、ハッとして顔を上げる。
「マズイ!」
エディは、呻き声を上げる仲間の尻を蹴って、気を失っている男を肩に担ぐと、脱兎の如く逃げ出した。
ショーンがペタリと地面に座り込む。
「ショーン!!」
羽柴がショーンに駆け寄って、ショーンを抱き締める。
ショーンは、さっき自分の声が出た時より更に驚いた顔をして羽柴を見た。
だって、彼がまた自分を抱き締めてくれるだなんて。
ショーンにはとても信じられない。
これが現実に起こっていることとは。
「大丈夫か? どこかケガしたところはない?」
羽柴が必死になって訊いてくる。
ショーンは緩く首を横に振った。
「声は? 声はちゃんと出せる?」
焦った声でそう訊かれ、ショーンは羽柴の顔を見上げた。
心底心配げな顔。
自分はあんなに酷いことをしたのに、この人はまだ俺のことを心配してくれてる。そればかりか、あんな危険を冒して、この穏やかな人が拳を振るって自分のことを助けてくれるなんて。
そう思ったら、再び泣けてきた。
ショーンは、顔をクシャクシャに顰めながら、ボロボロと大粒の涙を零し、「ごめんなさい・・・ごめんなさい・・・コウ、ごめん・・・」とようやく声に出した。
「ああ、ショーン・・・!」
羽柴も堪らなくなったらしい。羽柴はギュッとショーンの身体を更に抱き締めた。
パトカーが二人の脇に停車する。
「大丈夫ですか?!」
警官が二人出てきて、二人の側に跪いた。
「ああ、大丈夫です」
羽柴は毅然とした声で警官の問いに答えた。
警官は、真っ赤になっているショーンの素足を見て、顔を顰めた。
「襲った相手の顔、分かりますか?」
「私は後からここに駆けつけたので・・・。ショーン、君は・・・」
羽柴がショーンの顔を覗き見る。
「おや? あなたは・・・」
警官がショーンに気付いた。
ショーンはそれに応えることなく、緩く首を振った。
事を荒立てたくない。このことが騒ぎになると、立場上非常にマズいことになる。
羽柴はそれを敏感に察してくれたらしい。
「盗られたものはありません。彼は最初から裸足で街に飛び出してしまったから。ちょっと私とケンカしてしまって。そこをどうやら町のチンピラに絡まれたらしい。騒ぎは大きくしたくないので、何とか穏便に処理してもらえませんか?」
しかし・・・と警官が言い淀む。
「あなたは腕をケガしている。被害届を出す権利があるんですよ」
警官の台詞に、ショーンがギョッとした。
羽柴の腕から逃れ、ショーンは必死な顔つきで羽柴の右腕を探る。
大きく裂かれたダウンジャケットの部分が黒っぽく濡れている。血だ。
「コウ!!」
また瞳に涙を溜めて、ショーンは羽柴にしがみついた。
「大丈夫。大丈夫だから」
羽柴は優しげな目でショーンを見つめる。そして警官に向き直ると、「私がお願いしたいことは、この件をなかったことにしてもらいたいのです。それと、近くの病院まで送っていただければ、それでいい。いけませんか?」と言った。
警官達が顔を見合わせる。羽柴はだめ押しをするように頼み込んだ。
「お願いします。どうか察してもらいたい。もしどうしても被害届をださなければいけないのなら、どうか彼の名は伏せてください。彼は十分もうマスコミの餌食になってきた。だからこんなにも傷ついているのです」
警官達が、涙に濡れたショーンの憔悴した顔を見つめた。どうやら彼らは快く納得してくれたらしい。
「分かりました。ただ、我々は暴力を許すわけにはいかない。事情は車の中で聞かせてください。我々は、あなたに対する傷害容疑のみで彼らを追います」
「ありがとうございます」
羽柴と警官が握手を交わす。その拍子に、羽柴は顔を顰めた。やはりそれなりに痛むらしい。
「取り敢えず、病院までお送りしましょう。それと、今度からはこんな夜にこんな場所をうろつかないこと」
警官に釘を刺され、羽柴は頷く。
「さ、行きましょう」
羽柴とショーンは、パトカーに乗り込んだ。
腕の傷は消毒液で綺麗に拭かれ、塗り薬を塗りつけられた。
「ダウンジャケットを着ていて幸いでしたね。傷は浅いです。縫う必要もないですよ」
ERの医師が、手際よく羽柴の腕に包帯を巻いていく。
「さて、これでよし。じゃ、彼の方はどうかな・・・」
濃いブロンドの髪のその医師は、穏やかな声でそういいながら、診療台に座っているショーンの前に丸椅子を移動させて座った。
まず、裸足の足に触れられる。ピクッとショーンの身体が跳ねた。
「裸足で随分寒いところを走っていたから・・・」
羽柴が、シャツを着込みながら心配げにそう言う。
医師がショーンの顔をチラリと見上げる。
「裸足で走っちゃったのかい? この寒空の中」
翡翠色の美しい瞳で見つめられ、ショーンは気恥ずかしくなってスンと洟を啜った。それを見て、医師が優しく微笑んだ。
「俺も経験あるよ。意固地になって、ついつい無理しちゃったような記憶が、何度もね」
それを聞いて、ショーンの身体の強ばりが少し和らぐ。
ここは、クラウン地区に隣接しているセント・ポール総合病院だった。
パトカーは人の多い救急患者搬入口には車を付けず、職員出入り口に車を付けてくれた。人目に付かないようにとの配慮だった。
そしてその入口で待っていてくれた医師は警官と顔なじみのようで、ショーンを見て事情をすぐに察してくれたらしい。
マックス・ローズと名乗ったその医師に、ショーンも羽柴も見覚えがあった。
どの雑誌か忘れたが数年前に彼は雑誌に取材され、そしてC市ばかりか全米を揺るがせた連続爆弾事件の被害者として当時盛んにマスコミに取りざたされた人でもあった。
「願ってもないのに、マスコミに追いかけ回されるのは、本当に辛いよね」
ショーンと羽柴を人目のつかない治療室に案内しながら、ローズ医師はショーンにウインクして見せた。どうやら警官は、選ぶべくしてこのローズ医師を選んだらしい。それを知って、羽柴も心底ほっとした。
ローズ医師は、ショーンの裸足の足も消毒液で綺麗に拭った。
「擦り傷になってるところがある。少し染みると思うけど、ばい菌が入るとやっかいだから」
ローズ医師は、ショーンがなぜ裸足で走り出してしまったのかは訊いてこなかった。ただ、「随分と冷えてる。無茶をする気持ちは凄く分かるけど、それで自分の身体を痛めつけたんじゃ可愛そうだね」と言った。
ローズ医師はショーンの足の手当を終えると、彼の足にブランケットを巻き付けて立ち上がった。
申し訳なさそうに唇を噛みしめるショーンの顎をローズ医師が捉え、上向きにさせる。
「実は、こっちの傷の方が酷かったりするんだよね」
喉の引っ掻き傷だ。
「随分古いのもあるね・・・。どうしたの? 自分で引っ掻いた?」
ショーンは頷く。
ローズ医師は、手当をしながらチラリと羽柴を返り見た。
「まさかとは思うけど・・・あなたのせいじゃないですよね?」
羽柴は言い淀む。
直接的にはそうではないが、けれどショーンをこんな酷い有様になるまで追い込んでしまったのは自分だ。
羽柴が口を開こうとした時、「違う! 彼を責めるな!!」とヒステリックにショーンが叫んだ。
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ショーンはまた目に涙を溜めながら、「俺が悪いんだから。俺が自分でしたんだ。俺が・・・俺が・・・」と呟く。
「ごめん。酷いこと言っちゃったね」
ローズ医師がショーンを落ちつかせるように、肩を擦る。
ショーンはまた鼻の頭を赤くしながら、「失声症だったんだ。ずっと声が出なかったから、それで・・・。だから彼のせいじゃない。彼は逆に俺を助けてくれてるんだから・・・」と早口で捲し立てる。診療台の端を掴むショーンの手がブルブルと震えていた。
ローズはショーンに気取られないように顔を少し顰めてみせると、羽柴の耳元に顔を寄せて「疑ってごめんなさい。俺、安定剤を貰ってきます。それまで彼を抱き締めてあげて。あなたの方がいいみたいだ」と囁き、診療室から出て行く。羽柴は、ショーンの隣に腰掛けると、新しいブランケットを手にとってショーンの身体を覆い、そっとショーンを抱き締めた。
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「しー・・・大丈夫だから。誰も俺のこと責めたりしてないよ」
ショーンが羽柴を見上げてくる。
「本当に?」
「うん。さっき先生、俺に謝ってくれたから」
「よかった・・・。これ以上、コウに迷惑かけることになったら、俺、もうどうしていいか分からない・・・」
「迷惑なんかかけてないでしょ。どうしてそう思うんだい?」
「だって!」
そう言う側から、また涙が零れ落ちてくる。羽柴は、またショーンを抱き寄せた。その肩口でショーンが篭もった声で先を続ける。
「俺、コウを怒らせた。コウの大事なもの、台無しにしてしまった・・・」
「あれはちゃんとロケットにしまったから大丈夫だよ。俺が大げさに騒いでしまったのがいけないんだ。悪かった」
ショーンは首を横に振る。
「慰めなんていらないよ。酷いことしたのに、どうしてそんなに慰めてくれるんだよ! 俺にそんな価値なんてない・・・」
羽柴は、ショーンの身体を少し放して、正面から彼を見つめた。
「俺が本当に怒るとしたら、君が捨て鉢になって、自分で自分を傷つけるようなことをしたりする時だよ。丁度、今みたいにね」
ショーンの顔が強ばる。そのショーンの頬に流れる涙を、指で丁寧に拭った。
「どうか、そんなこと思わないでくれ。俺だって辛くなるよ。あの時あんな態度をとってしまった自分が情けなくて仕方なくなる。君が君を責める度に、同じように俺も傷つく。分かってくれるかい?」
「そうなの・・・?」
恐る恐るといった感じで、ショーンが訊いてくる。羽柴は即座に頷いた。
「ただでさえ、あんな酷い状況で君が声を取り戻してしまったことに落ち込んでいるのに、これ以上おじさんを苛めないでもらいたいな」
ショーンの茜色の瞳が瞬く。
羽柴は堪らなくなって、ショーンをまた抱き締めた。
「・・・君が再び声を取り戻す時の言葉は、『危ない』でも『ごめんなさい』でもない方がよかったのに・・・。まったく、最低だ、俺は」
ショーンがギュッとしがみついてくる。
「でも、謝りたかったんだ。凄く謝りたかった。あんなことになるなんて、思っても見なかったんだよ。本当に悪いことをしちゃって・・・」
「分かったよ。態とでないことも、君が心の底から謝ってる気持ちも、よく分かったから。もうそのことを言うのはやめよう」
腕の中のショーンが頷く。
見下ろすと、ショーンはようやく穏やかな表情を取り戻していた。
羽柴は安堵の溜息をつく。
「どうやら薬は必要なくなったみたいですね」
ローズ医師が戻ってくる。
羽柴がローズと目を合わせると、互いに軽く微笑みを交わしあった。
ローズ医師は、再び診療室から姿を消すと、今度は紙コップを両手に帰ってきた。コーヒーの芳ばしい香りがふわりと立ち昇る。ローズは、まずショーンにそれを手渡した。
ショーンが両手でそれを受け取って、静かに啜り始めるのを確認してから、今度は少し離れた机に羽柴の分のコーヒーを置いた。
羽柴は意図的にそこにコーヒーを置かれたことを察して、ショーンから少し離れると、不安げな表情を見せるショーンに「コーヒーを取りに行くだけだよ」と声を掛けて、診察台から降りた。
羽柴がコーヒーを受け取ると、その側に腰を掛けたローズ医師が、ショーンに聞こえないぐらいの小声で言った。
「カウンセリングの必要があると思いましたが、余計怯えさせてしまうかもしれない。あなたにとっては大変かもしれないけれど、今はあなたが彼を安心させてあげるのが一番いいように思えます。もし、辛くなってきて、これ以上彼を支えられないと思ったら、遠慮せずにここを訪ねてきてください。この病院には、心の病に対応できる診療科もあります。そこに行くには気が引けるのなら、俺を訪ねてきてもらっても構いませんから」
「大丈夫です。ちょっとやそっとで、俺は潰れませんから」
羽柴はそう断言した。
さっきは突然のことに迂闊にも取り乱してしまったが、ショーンの苦しみを肩代わりしたとしても自分は潰れない自信があった。
ローズ医師も、そう感じたらしい。
彼は頷くと、懐から名刺を取り出した。
「もしその必要が無くても、あなたの包帯は取り替えにきてくださいよ。それに、今夜お風呂は控えた方がいいですね」
「はい。分かりました」
羽柴は照れくさくなって、ポリポリと鼻の下を掻く。
「えっと・・・。彼は・・・」
羽柴が訊くと、ローズは「彼は今夜ゆっくりと温かいお湯に浸からせてあげてください。随分と身体が冷えてしまってますから。傷は大丈夫。帰りに消毒液をお渡ししますから、心配なら風呂上がりに消毒液で傷のところを拭ってあげてください」と返してきた。羽柴は素直に頷く。
羽柴はダウンジャケットを手に取ると、コーヒーを飲み終えたショーンに着せた。そしてニットの帽子をダウンジャケットのポケットから取り出してショーンの頭にすっぽりと被せる。そしていつかの付け髭までが飛び出してきて、やっとショーンが微笑みを浮かべた。
「そんなのまで持ってきたの?」
「外出時の必需品だろ」
羽柴はそう言って、ショーンの鼻の下に髭をペッと貼り付ける。流石のローズ医師もそのやり取りがおかしかったようで、クックッと笑いを噛み殺している。
羽柴がショーンを横抱きに抱き上げると、途端にショーンは暴れ始めた。
「やめてよ! ヤダよ、こんなの! 恥ずかしいよ!!」
「だって、また裸足で歩くつもりか?」
「ああ、そうだった」
ローズ医師が手を叩いて、部屋の片隅に置いてあったサンダルと靴下を差し出す。
「これ、履いて帰って。靴下も新しいやつだから遠慮せずに。サンダルは、羽柴さんがまた来る時にでも返してもらえたら結構ですので」
「何か残念だなぁ」
口を尖らせる羽柴を赤い顔で睨み付けながら、ショーンはそそくさと靴下を穿く。
「何言ってんだよ。家まで抱いて行くつもり? 腰悪くしても知らないから」
ショーンがブツブツと呟く。
「おじさんの体力も甘く見られたもんだ」
態とらしくトントンと羽柴が腰を叩くと、その仕草がおかしかったのか、更にローズ医師に笑われたのだった。
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心と肉体が削がれていく“儀式”が、いま始まる。
その首輪は、弟の牙でしか外せない。
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養子ゆえに、王位継承権を持たないオメガで長男のレイン(24)は、国家騎士団として秘密裏に働き、ただ義弟たちを守るためだけに生きてきた。
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どうにかしてレインを落としたいリオールと、弟との関係に悩むレインのオメガバースです。
リオール・グランケット(19)×レイン・グランケット(24)
※この作品は2015年頃に本文を書き、2017年頃にオメガバースに改稿、さらに2026年に手直しした作品になります。読みにくいかもしれません。ご了承ください。
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