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act.37
「コココ・・・」
ショーンが羽柴の名前をまともに言えないほど動揺しているのとは対照的に、羽柴は穏やかな表情で「久しぶり」と言った。
それでもショーンが不安げな顔つきで羽柴を見上げると、羽柴はいつも通りの温かい笑顔を浮かべ、ショーンの髪をクシャクシャと撫でた。
── ああ・・・!!
ショーンはうっとりと目を閉じる。
その温もりを心の奥底で感じた。
自分がどれほどその手を求めていたか分かる。
「 ── ショーン?」
囁くように羽柴に声をかけられるまで、ショーンは目を開けることを怖く感じた。
開けば、夢が覚めてしまうような気がして。
「大丈夫か? ショーン」
羽柴の手が頬に触れて、ショーンは思わずその手をしっかりと掴んでしまった。
彼が消えてしまわないように。
「だって・・・だって、コウから家に来てくれるなんて・・・」
ショーンが目を開き、ようやくそう言うと、「来るのなんて訳ないさ」と羽柴は肩を竦めた。
「よければ、家の中に入れてくれるかい?」
「もちろん!」
ショーンは慌ててドアを広く開け、そして正気に戻ったように羽柴の手を放すと、テレ笑いを浮かべ、羽柴を中に招き入れた。
羽柴がリビングのソファーに腰掛けたのを目の端で確認しながら、ショーンは慌ててキッチンに向かう。
幸いなことに、コーヒーメーカーにはまだ温かいコーヒーが残っていたから、カップに注いで、急ぎ足でリビングに戻った。
「ああ、ありがとう。出先を回ってて、丁度一息つきたかったところだ」
カップを受け取った羽柴は、コーヒーを啜って、ほぅと息を吐き出す。
「え? 仕事中なの?」
「ああ、まぁね。企業研究するのが俺のメインの仕事だから。今日は優良企業の情報探し。でもま、時間は比較的自由がきくから」
なるほど、パリッとしたチャコールグレイのスーツ姿といい、飴色の本革で被われたハードなアタッシュケースといい、ショーンが初めて羽柴に出会った時の精悍な彼を思い起こさせる。
「でも、そんなに驚かれるとは思わなかったな」
ショーンが羽柴の向かいに腰掛けるのを待っていたかのように、羽柴が切り出す。
ショーンは苦笑いした。
「だって。さっきも言ったように、コウが来てくれるなんて全く思ってなかったからさ」
「どうして?」
「どうしてって・・・。コウ、俺のこと避けてるのかと思ってたし」
コーヒーを啜っている羽柴が、カップ越しにショーンをチラリと見る。
ショーンにはその視線の意味が分からなかった。肯定しているのか。否定しているのか。
言い知れぬ不安感が、ショーンの全身を襲う。
「仕事が終わった夜の時間とか、休みの日とか、電話かけても留守だったんで、てっきり俺・・・」
不安がショーンを押し出すようにして、彼の口を軽くした。
次から次と早口にそう捲し立てる。
「それに電話で話せても、コウ、どこか怒ってる感じがしたし、きっと俺がこうなっちゃったせいだと思って・・・」
ショーンはふいに口を閉じて、怖々羽柴を見上げると、小さな声で訊いた。
「 ── ひょっとしてコウ、俺に失望した・・・?」
羽柴は、深い溜息をついてカップをテーブルの上に置く。
ショーンはその溜息の意味も察することができなくて、益々不安げに羽柴の動きを目で追う。
── どうしよう。コウに失望したと言われたら。嫌いと言われたら、俺、どうしよう・・・。
そんなショーンに、羽柴が少し苦しげな笑みを浮かべた。
「俺は確かに怒っていた。君が、君の古巣から受けた仕打ちにね。それと、マスコミの君に対する態度にも」
「・・・え?」
「その感情をうまく殺すことができなくて、君にそれが伝わってしまっていたとは分からなかった。すまない。不安にさせてしまった」
「・・・そう・・・なの?」
羽柴がウンと頷く。
「じゃ、俺のこと、嫌いになった訳じゃなくて?」
羽柴が再び頷く。
「あの辛い状況の中で、君を独りぼっちにしてしまった自分が許せなかった。けれど、あの時の俺は、君を支えるには不十分で。・・・実は、本来なら毎年真一の命日に日本に帰国していたんだが、今年はそのタイミングを逃してね。近年まれにみる失態に、自己嫌悪に陥っていたんだよ。自分はなんて薄情な男なんだろうってね。それで、君の前でぶっ倒れたりもしてしまって・・・。本当に大人げない真似をしてしまった」
ショーンはそれを聞いて初めて、羽柴の様子がおかしかった本当に理由を知ることができた。
ショーンはソファーから立ち上がって羽柴の足下に座り込むと、彼の膝を掴んだ。
「それって、俺のせいじゃないの? 俺が、コウのところに居候してたから、それで・・・」
羽柴が微笑んで、首を横に振る。
「彼の命日は年が明けてからだ。俺がうっかり飛行機のチケットを取り忘れていたんだよ。本当、年取るってのはやだね。物忘れが酷くなって」
そういう羽柴は、少し疲れて見えた。何日も自分を苛む思いに責められていたせいなのだろうか。
ショーンは胸が苦しくなる。
けれどどうしていいか分からなくて、額を羽柴の膝にコツンとぶつけた。
羽柴の手が、ショーンの頭にゆっくりと触れる。
「でも君の歌で、また力をもらった。君があのコンサートで歌ってくれたことに感謝している。きっと真一も喜んでいると思うよ」
ショーンはパッと顔を上げた。
「本当?」
「ああ。君が、敢えてあの場所で歌ってくれた意味を思うと、今でも胸が詰まるよ。その代わり、君に大きな代償を払わせてしまうことになったが・・・」
ショーンは思わず、羽柴に抱きついた。
「そんなこと! そんなこといいんだよ。コウにそう言ってもらっただけで、俺は大満足なんだ・・・。ああ、あの時、本当に歌ってよかった・・・!」
ショーンが涙を滲ませる。
羽柴は、柔らかくショーンを抱きしめた。
「だからコウは気にしないで。代償なんて思わないで。俺がバルーンを辞めたのは、俺自身が決めたことなんだ」
腕の中で必死にそういうショーンを見つめて、羽柴は落ち着いてとでもいうように、シーッとショーンの口に指を当てた。
「ショーンが、バルーンを辞めたことは正しいと俺も思ってる。けれど、彼らが君に対して行っていることは許せない。圧力をかけて、君が新たに他の音楽事務所と契約を交わせないようにしているだなんて、それこそ大人気ない行為だ。それに、興味本位なマスコミの質問。聞いているだけで、気分が悪くなる」
ショーンが瞬きをする。
「・・・コウ?」
「君が音楽を諦める理由なんてないし、君のファンは絶対にそれを望んでいないよ。俺も含めてね」
羽柴はショーンから腕を放すと、床に置いてあるアタッシュケースをテーブルの上に置いて、留め金を外した。
羽柴はその中から、一冊の雑誌を取り出す。そしてそれをショーンに手渡した。
『ENIGMA』
そういうタイトルのファッション雑誌だった。
ショーンもエニグマは知っている。
ギリシャ語で『謎』という意味のその雑誌は、今ヴォーグに次ぐ有力雑誌として書店では平積みされている売れ線の雑誌だ。
ヴォーグは女性版と男性版を分けて発行しているが、エニグマの場合は厳選した情報やファッション広告を男女の差なく掲載しているので、購買層も多様だった。
「これが?」
ショーンは今ひとつ羽柴の意図が分からずに、怪訝そうに羽柴を見た。
「前に日本料理のレストランで日本人の女性と会っただろ? 覚えてる?」
ショーンは思いを馳せた。
確か、羽柴の友達で羽柴を『悪い男』呼ばわりした人だ。随分親しそうな感じだった。
ショーンが頷くと、「彼女は、エニグマの編集者をやってるんだ」と羽柴は言った。
「そうなんだ。凄い」
ショーンも、まさか日本人があの雑誌の編集に関わっているとは思ってもみなかった。
「仕事が跳ねてからとか、休日の空いた時間を見計らって彼女と交渉してたんだ。それで、やっと見通しがついてね。さっき彼女から電話があった。上がゴーサインを出したと」
「・・・なんのこと?」
ショーンは益々怪訝そうな表情を深める。羽柴はショーンにきちんと向き合って言った。
「エニグマは音楽業界の柵など関係ないんだ。それに、ゴシップ好きのパパラッチとも無縁。むしろ、そういう取材活動に異を唱えている。エニグマの編集長は女性だが、しっかりしたポリシーを持っているし、誠実だ。一昨日直接会って話をしたら、彼女も深いところでこの状況を理解してくれた。君のありのままの姿を、誌面で紹介してくれると」
「え?」
「来月発売の号には間に合わないが、その次の号なら何とか間に合わせられるって。4月だよ。雑誌としては極めて異例だが、誌面にCDディスクを同梱する計画だ。ただ、君へのインタビューと写真については、どれほどページを割いてくれるかは未定だけれど・・・。編集長は、ものの出来を見極めてから決めたいと言っている。それは編集者として当然のことだから、今回はその条件で話を進めることにした。もちろん、君へのギャランティーも通常の取材料とCDの著作権料が用意される。つまり、雑誌が売れた分だけ、君に報酬が入る。これは極めて正当な契約条件だ。あとは、君の了承だけ」
ショーンは、驚きのあまり息を飲んだ。
まるで想像もしなかったことだ。
音楽業界でCDを発売するのが無理な代わりに、ファッション雑誌業界でCDを発売するだなんて。
聞いているだけで胸がドキドキ高鳴ってきた。
まるで心臓が身体中に飛び火したみたいに・・・。
「確かに、CDショップに並べることはできないが、全米の書店には確実に並ぶ。そしてもちろん、エニグマは海外版も各国で発行されているから、それを含めれば凄い販路だ。まぁ、こういう形態だから、ヒットチャートなんかには数字が出てこないだろうし、数々の音楽賞にもノミネートすらされないだろうが、少なくとも君の本物の音楽を全世界のファンに届けることができる。それに、うまくいけば君が音楽を続けられるきっかけになってくれるかもしれない。
ひとつ分かっていてほしいのは、この話は、エニグマにとってもハイリスクな賭けになるということだ。CDを同梱するだなんて初めてのことだし、通常より発行コストがかかって、売価値段も高くなるからね。それでも編集長は理解してくれた。そして賛同もしてくれた。── だからどうか、OKと言って欲しい。これが、俺が考えた中で精一杯のアイデアだ」
ショーンは驚愕の表情のまま、ハッと息を吐き出した。
── なんてことだろう。ああ、本当になんてことだ。この人は、自分の時間を削って、そんなことを考え、行動してくれていたのか。
一流の雑誌編集部の中に幾らかコネがあったとはいえ、畑違いの業界から、こんなに短時間にそんな内部にまで食い込んで話を纏めてきただなんて信じられない。しかも、自分の普段の仕事もこなした上で・・・。
きっと相当の動力が必要だったろう。相手を説得するために、何度も交渉を重ねたはずだ。そうでなければ、こんな破天荒な企画が受け入れられる筈がない。
── だから電話が繋がらなかったんだ。決して、俺を嫌っていた訳でも避けていた訳でもなく、俺が音楽を続けられるようにと、必死になって手だてを打ってくれていたのだ、この人は。
ショーンは、自分が恥ずかしく思えてくる。
自分はただ、何も考えずのほほんと田舎暮らしをしていただけだ。
自分の諦めを「仕方のないこと」と言い訳にして、何も努力をしなかった。
── 本当に、自分が恥ずかしい・・・。
ショーンはボロボロと涙を零した。
鼻の頭を真っ赤にしながら、顔をくしゃくしゃにして。
「ああ・・・。想像はしていたが、やはり泣かせちゃったな・・・」
羽柴はそう言いながら、ポケットからハンカチを取り出し、ショーンの頬に押しつける。
ショーンは、羽柴のハンカチを受け取って、次から次と零れ落ちてくる涙を拭いた。
「・・・だって、だって・・・あんまり凄過ぎるから・・・。俺、なんも考えてなかった自分が恥ずかしい・・・」
「何言ってんだ。君からあれほど素晴らしい歌をもらったんだ。当然だよ。それに、そうでもしないと俺の怒りは収まらなかったんでね。これがうまくいけば、俺も穏やかな暮らしが取り戻せそうだ」
羽柴が優しげな笑顔を浮かべる。
「── で、ショーン。OKかい?」
「当たり前じゃない!!」
思わずショーンは叫んでしまった。
「コウにメガトン級のバレンタインプレゼント貰って、どうお返ししていいか困っちゃってるぐらいだよ!!」
今度は羽柴がポカンとする。
「え? あ? そうか・・・。今日は・・・」
「え? 知らずに今日来たの?」
羽柴はバツが悪そうに顔を顰める。
「まったく分かってなかった・・・」
「なんだ・・・。てっきり俺、狙って来てるんだと思ったのに・・・」
ショーンと羽柴が互いにキョトンとした顔で見つめ合う。
そしてショーンがボソリと言った。
「ちょっと期待して損しちゃったかな」
しばらくの間があって、ショーンがプッと吹き出す。
羽柴も同じように吹き出す。
二人は、そうして随分長い間笑い合ったのだった。
── お前の想い人は、クレイジーな奴だな。
ショーンがクリスに羽柴の計画を話すと、彼は開口一番そう言った。
そうしてさも楽しそうに笑い続けた。
「流石の俺も、そんなこと考えつかなかったよ」
ショーンとスコット、クリスの三人で夕食の食卓を囲みながらの一幕だ。
「それで、そのインタビューと撮影はいつ?」
「明後日。もうあんまり時間がないんだって」
ステーキを頬張りながら、ショーンが答える。
本当は羽柴にも夕食までいてもらいたかったが、仕事中だったのでそれも適わず、スコットとクリスにはショーンからの報告となった。
もちろん、二人とも大賛成だった。
「どこでするんだい?」
「向こうで場所を用意する案もあったらしいけど、俺はもっとパーソナルなところでしたいと思ったんだ。今度こそ本当の自分を見てもらいたいから。一番いいのはニューヨークの自宅だったけど、それは引き払っちゃったし困ってたら、コウが彼の家でやればいいって言ってくれて」
「大丈夫なのか?」
クリスがビールを飲みながら訊いてくる。
ショーンは頷いた。
「全体を撮影する訳じゃないから、他の人には場所まで分からないだろうって。カメラマンが上手く撮ってくれるから大丈夫って、エニグマの人が言ってくれた」
「へぇ~・・・。カメラマンって誰だ?」
「若手の人だって。編集長が目をかけてる人みたい。被写体もカメラマンもフレッシュだから、きっと良い効果が生まれるはずだって言ってた。電話で話したけど、編集長のラクロワさんって凄くエネルギッシュでいい人なんだ」
「うまくいくといいな・・・」
スコットがしみじみとそう言う。
彼もショーンが今のまま、音楽とは別の方向に進むことを気に病んでいたらしい。
ショーンは、二人にしっかりとした強い笑顔を見せると、こう言った。
「絶対にうまくいく。そんな感じしかしないんだ」
── だってこれは、コウが自分のために一生懸命準備してくれたことだから。
俺だって、一生懸命頑張る。
失敗はする気がしない。
絶対にしない・・・。
ショーンはまるで祈りを捧げるように、そう思った。
ショーンが羽柴の名前をまともに言えないほど動揺しているのとは対照的に、羽柴は穏やかな表情で「久しぶり」と言った。
それでもショーンが不安げな顔つきで羽柴を見上げると、羽柴はいつも通りの温かい笑顔を浮かべ、ショーンの髪をクシャクシャと撫でた。
── ああ・・・!!
ショーンはうっとりと目を閉じる。
その温もりを心の奥底で感じた。
自分がどれほどその手を求めていたか分かる。
「 ── ショーン?」
囁くように羽柴に声をかけられるまで、ショーンは目を開けることを怖く感じた。
開けば、夢が覚めてしまうような気がして。
「大丈夫か? ショーン」
羽柴の手が頬に触れて、ショーンは思わずその手をしっかりと掴んでしまった。
彼が消えてしまわないように。
「だって・・・だって、コウから家に来てくれるなんて・・・」
ショーンが目を開き、ようやくそう言うと、「来るのなんて訳ないさ」と羽柴は肩を竦めた。
「よければ、家の中に入れてくれるかい?」
「もちろん!」
ショーンは慌ててドアを広く開け、そして正気に戻ったように羽柴の手を放すと、テレ笑いを浮かべ、羽柴を中に招き入れた。
羽柴がリビングのソファーに腰掛けたのを目の端で確認しながら、ショーンは慌ててキッチンに向かう。
幸いなことに、コーヒーメーカーにはまだ温かいコーヒーが残っていたから、カップに注いで、急ぎ足でリビングに戻った。
「ああ、ありがとう。出先を回ってて、丁度一息つきたかったところだ」
カップを受け取った羽柴は、コーヒーを啜って、ほぅと息を吐き出す。
「え? 仕事中なの?」
「ああ、まぁね。企業研究するのが俺のメインの仕事だから。今日は優良企業の情報探し。でもま、時間は比較的自由がきくから」
なるほど、パリッとしたチャコールグレイのスーツ姿といい、飴色の本革で被われたハードなアタッシュケースといい、ショーンが初めて羽柴に出会った時の精悍な彼を思い起こさせる。
「でも、そんなに驚かれるとは思わなかったな」
ショーンが羽柴の向かいに腰掛けるのを待っていたかのように、羽柴が切り出す。
ショーンは苦笑いした。
「だって。さっきも言ったように、コウが来てくれるなんて全く思ってなかったからさ」
「どうして?」
「どうしてって・・・。コウ、俺のこと避けてるのかと思ってたし」
コーヒーを啜っている羽柴が、カップ越しにショーンをチラリと見る。
ショーンにはその視線の意味が分からなかった。肯定しているのか。否定しているのか。
言い知れぬ不安感が、ショーンの全身を襲う。
「仕事が終わった夜の時間とか、休みの日とか、電話かけても留守だったんで、てっきり俺・・・」
不安がショーンを押し出すようにして、彼の口を軽くした。
次から次と早口にそう捲し立てる。
「それに電話で話せても、コウ、どこか怒ってる感じがしたし、きっと俺がこうなっちゃったせいだと思って・・・」
ショーンはふいに口を閉じて、怖々羽柴を見上げると、小さな声で訊いた。
「 ── ひょっとしてコウ、俺に失望した・・・?」
羽柴は、深い溜息をついてカップをテーブルの上に置く。
ショーンはその溜息の意味も察することができなくて、益々不安げに羽柴の動きを目で追う。
── どうしよう。コウに失望したと言われたら。嫌いと言われたら、俺、どうしよう・・・。
そんなショーンに、羽柴が少し苦しげな笑みを浮かべた。
「俺は確かに怒っていた。君が、君の古巣から受けた仕打ちにね。それと、マスコミの君に対する態度にも」
「・・・え?」
「その感情をうまく殺すことができなくて、君にそれが伝わってしまっていたとは分からなかった。すまない。不安にさせてしまった」
「・・・そう・・・なの?」
羽柴がウンと頷く。
「じゃ、俺のこと、嫌いになった訳じゃなくて?」
羽柴が再び頷く。
「あの辛い状況の中で、君を独りぼっちにしてしまった自分が許せなかった。けれど、あの時の俺は、君を支えるには不十分で。・・・実は、本来なら毎年真一の命日に日本に帰国していたんだが、今年はそのタイミングを逃してね。近年まれにみる失態に、自己嫌悪に陥っていたんだよ。自分はなんて薄情な男なんだろうってね。それで、君の前でぶっ倒れたりもしてしまって・・・。本当に大人げない真似をしてしまった」
ショーンはそれを聞いて初めて、羽柴の様子がおかしかった本当に理由を知ることができた。
ショーンはソファーから立ち上がって羽柴の足下に座り込むと、彼の膝を掴んだ。
「それって、俺のせいじゃないの? 俺が、コウのところに居候してたから、それで・・・」
羽柴が微笑んで、首を横に振る。
「彼の命日は年が明けてからだ。俺がうっかり飛行機のチケットを取り忘れていたんだよ。本当、年取るってのはやだね。物忘れが酷くなって」
そういう羽柴は、少し疲れて見えた。何日も自分を苛む思いに責められていたせいなのだろうか。
ショーンは胸が苦しくなる。
けれどどうしていいか分からなくて、額を羽柴の膝にコツンとぶつけた。
羽柴の手が、ショーンの頭にゆっくりと触れる。
「でも君の歌で、また力をもらった。君があのコンサートで歌ってくれたことに感謝している。きっと真一も喜んでいると思うよ」
ショーンはパッと顔を上げた。
「本当?」
「ああ。君が、敢えてあの場所で歌ってくれた意味を思うと、今でも胸が詰まるよ。その代わり、君に大きな代償を払わせてしまうことになったが・・・」
ショーンは思わず、羽柴に抱きついた。
「そんなこと! そんなこといいんだよ。コウにそう言ってもらっただけで、俺は大満足なんだ・・・。ああ、あの時、本当に歌ってよかった・・・!」
ショーンが涙を滲ませる。
羽柴は、柔らかくショーンを抱きしめた。
「だからコウは気にしないで。代償なんて思わないで。俺がバルーンを辞めたのは、俺自身が決めたことなんだ」
腕の中で必死にそういうショーンを見つめて、羽柴は落ち着いてとでもいうように、シーッとショーンの口に指を当てた。
「ショーンが、バルーンを辞めたことは正しいと俺も思ってる。けれど、彼らが君に対して行っていることは許せない。圧力をかけて、君が新たに他の音楽事務所と契約を交わせないようにしているだなんて、それこそ大人気ない行為だ。それに、興味本位なマスコミの質問。聞いているだけで、気分が悪くなる」
ショーンが瞬きをする。
「・・・コウ?」
「君が音楽を諦める理由なんてないし、君のファンは絶対にそれを望んでいないよ。俺も含めてね」
羽柴はショーンから腕を放すと、床に置いてあるアタッシュケースをテーブルの上に置いて、留め金を外した。
羽柴はその中から、一冊の雑誌を取り出す。そしてそれをショーンに手渡した。
『ENIGMA』
そういうタイトルのファッション雑誌だった。
ショーンもエニグマは知っている。
ギリシャ語で『謎』という意味のその雑誌は、今ヴォーグに次ぐ有力雑誌として書店では平積みされている売れ線の雑誌だ。
ヴォーグは女性版と男性版を分けて発行しているが、エニグマの場合は厳選した情報やファッション広告を男女の差なく掲載しているので、購買層も多様だった。
「これが?」
ショーンは今ひとつ羽柴の意図が分からずに、怪訝そうに羽柴を見た。
「前に日本料理のレストランで日本人の女性と会っただろ? 覚えてる?」
ショーンは思いを馳せた。
確か、羽柴の友達で羽柴を『悪い男』呼ばわりした人だ。随分親しそうな感じだった。
ショーンが頷くと、「彼女は、エニグマの編集者をやってるんだ」と羽柴は言った。
「そうなんだ。凄い」
ショーンも、まさか日本人があの雑誌の編集に関わっているとは思ってもみなかった。
「仕事が跳ねてからとか、休日の空いた時間を見計らって彼女と交渉してたんだ。それで、やっと見通しがついてね。さっき彼女から電話があった。上がゴーサインを出したと」
「・・・なんのこと?」
ショーンは益々怪訝そうな表情を深める。羽柴はショーンにきちんと向き合って言った。
「エニグマは音楽業界の柵など関係ないんだ。それに、ゴシップ好きのパパラッチとも無縁。むしろ、そういう取材活動に異を唱えている。エニグマの編集長は女性だが、しっかりしたポリシーを持っているし、誠実だ。一昨日直接会って話をしたら、彼女も深いところでこの状況を理解してくれた。君のありのままの姿を、誌面で紹介してくれると」
「え?」
「来月発売の号には間に合わないが、その次の号なら何とか間に合わせられるって。4月だよ。雑誌としては極めて異例だが、誌面にCDディスクを同梱する計画だ。ただ、君へのインタビューと写真については、どれほどページを割いてくれるかは未定だけれど・・・。編集長は、ものの出来を見極めてから決めたいと言っている。それは編集者として当然のことだから、今回はその条件で話を進めることにした。もちろん、君へのギャランティーも通常の取材料とCDの著作権料が用意される。つまり、雑誌が売れた分だけ、君に報酬が入る。これは極めて正当な契約条件だ。あとは、君の了承だけ」
ショーンは、驚きのあまり息を飲んだ。
まるで想像もしなかったことだ。
音楽業界でCDを発売するのが無理な代わりに、ファッション雑誌業界でCDを発売するだなんて。
聞いているだけで胸がドキドキ高鳴ってきた。
まるで心臓が身体中に飛び火したみたいに・・・。
「確かに、CDショップに並べることはできないが、全米の書店には確実に並ぶ。そしてもちろん、エニグマは海外版も各国で発行されているから、それを含めれば凄い販路だ。まぁ、こういう形態だから、ヒットチャートなんかには数字が出てこないだろうし、数々の音楽賞にもノミネートすらされないだろうが、少なくとも君の本物の音楽を全世界のファンに届けることができる。それに、うまくいけば君が音楽を続けられるきっかけになってくれるかもしれない。
ひとつ分かっていてほしいのは、この話は、エニグマにとってもハイリスクな賭けになるということだ。CDを同梱するだなんて初めてのことだし、通常より発行コストがかかって、売価値段も高くなるからね。それでも編集長は理解してくれた。そして賛同もしてくれた。── だからどうか、OKと言って欲しい。これが、俺が考えた中で精一杯のアイデアだ」
ショーンは驚愕の表情のまま、ハッと息を吐き出した。
── なんてことだろう。ああ、本当になんてことだ。この人は、自分の時間を削って、そんなことを考え、行動してくれていたのか。
一流の雑誌編集部の中に幾らかコネがあったとはいえ、畑違いの業界から、こんなに短時間にそんな内部にまで食い込んで話を纏めてきただなんて信じられない。しかも、自分の普段の仕事もこなした上で・・・。
きっと相当の動力が必要だったろう。相手を説得するために、何度も交渉を重ねたはずだ。そうでなければ、こんな破天荒な企画が受け入れられる筈がない。
── だから電話が繋がらなかったんだ。決して、俺を嫌っていた訳でも避けていた訳でもなく、俺が音楽を続けられるようにと、必死になって手だてを打ってくれていたのだ、この人は。
ショーンは、自分が恥ずかしく思えてくる。
自分はただ、何も考えずのほほんと田舎暮らしをしていただけだ。
自分の諦めを「仕方のないこと」と言い訳にして、何も努力をしなかった。
── 本当に、自分が恥ずかしい・・・。
ショーンはボロボロと涙を零した。
鼻の頭を真っ赤にしながら、顔をくしゃくしゃにして。
「ああ・・・。想像はしていたが、やはり泣かせちゃったな・・・」
羽柴はそう言いながら、ポケットからハンカチを取り出し、ショーンの頬に押しつける。
ショーンは、羽柴のハンカチを受け取って、次から次と零れ落ちてくる涙を拭いた。
「・・・だって、だって・・・あんまり凄過ぎるから・・・。俺、なんも考えてなかった自分が恥ずかしい・・・」
「何言ってんだ。君からあれほど素晴らしい歌をもらったんだ。当然だよ。それに、そうでもしないと俺の怒りは収まらなかったんでね。これがうまくいけば、俺も穏やかな暮らしが取り戻せそうだ」
羽柴が優しげな笑顔を浮かべる。
「── で、ショーン。OKかい?」
「当たり前じゃない!!」
思わずショーンは叫んでしまった。
「コウにメガトン級のバレンタインプレゼント貰って、どうお返ししていいか困っちゃってるぐらいだよ!!」
今度は羽柴がポカンとする。
「え? あ? そうか・・・。今日は・・・」
「え? 知らずに今日来たの?」
羽柴はバツが悪そうに顔を顰める。
「まったく分かってなかった・・・」
「なんだ・・・。てっきり俺、狙って来てるんだと思ったのに・・・」
ショーンと羽柴が互いにキョトンとした顔で見つめ合う。
そしてショーンがボソリと言った。
「ちょっと期待して損しちゃったかな」
しばらくの間があって、ショーンがプッと吹き出す。
羽柴も同じように吹き出す。
二人は、そうして随分長い間笑い合ったのだった。
── お前の想い人は、クレイジーな奴だな。
ショーンがクリスに羽柴の計画を話すと、彼は開口一番そう言った。
そうしてさも楽しそうに笑い続けた。
「流石の俺も、そんなこと考えつかなかったよ」
ショーンとスコット、クリスの三人で夕食の食卓を囲みながらの一幕だ。
「それで、そのインタビューと撮影はいつ?」
「明後日。もうあんまり時間がないんだって」
ステーキを頬張りながら、ショーンが答える。
本当は羽柴にも夕食までいてもらいたかったが、仕事中だったのでそれも適わず、スコットとクリスにはショーンからの報告となった。
もちろん、二人とも大賛成だった。
「どこでするんだい?」
「向こうで場所を用意する案もあったらしいけど、俺はもっとパーソナルなところでしたいと思ったんだ。今度こそ本当の自分を見てもらいたいから。一番いいのはニューヨークの自宅だったけど、それは引き払っちゃったし困ってたら、コウが彼の家でやればいいって言ってくれて」
「大丈夫なのか?」
クリスがビールを飲みながら訊いてくる。
ショーンは頷いた。
「全体を撮影する訳じゃないから、他の人には場所まで分からないだろうって。カメラマンが上手く撮ってくれるから大丈夫って、エニグマの人が言ってくれた」
「へぇ~・・・。カメラマンって誰だ?」
「若手の人だって。編集長が目をかけてる人みたい。被写体もカメラマンもフレッシュだから、きっと良い効果が生まれるはずだって言ってた。電話で話したけど、編集長のラクロワさんって凄くエネルギッシュでいい人なんだ」
「うまくいくといいな・・・」
スコットがしみじみとそう言う。
彼もショーンが今のまま、音楽とは別の方向に進むことを気に病んでいたらしい。
ショーンは、二人にしっかりとした強い笑顔を見せると、こう言った。
「絶対にうまくいく。そんな感じしかしないんだ」
── だってこれは、コウが自分のために一生懸命準備してくれたことだから。
俺だって、一生懸命頑張る。
失敗はする気がしない。
絶対にしない・・・。
ショーンはまるで祈りを捧げるように、そう思った。
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※この作品は2015年頃に本文を書き、2017年頃にオメガバースに改稿、さらに2026年に手直しした作品になります。読みにくいかもしれません。ご了承ください。
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