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ショーンと二人きりでルームサービスの朝食を楽しんだ後、羽柴はホテルを出た。
食事中に、できれば空港で会いたいねとショーンが言ったので、空港の入口付近で目立つ位置にあるシアトル系のコーヒーショップにいることにしようか、と約束を交わした。そこなら、ショーンのような海外スターが出入りするVIP用の搭乗ラウンジへの入口に面しているからだ。
ホテルを出る前にショーンの部屋の電話を借りて、隼人に電話した。
電話に出たなり「あんた、どこにいんの?」と隼人に訊かれ、適当に誤魔化した。
後ろでは、「誰に電話してんの?」とショーンが背中に飛びついてきたので、隼人を誤魔化すのが少々大変だった。
実は羽柴は、隼人の部屋に泊まった時に、隼人がバルーンのアルバムをすべて持っていることを発見していた。きっと面食いな隼人のことだ。ショーン目当てなんじゃないかな、と感じた。
そんな隼人に、『昨夜はショーン・クーパーとセックスしてた』なんて知れたら、どんなに大騒ぎするか分からない。
羽柴は、昼前に成田に向かう途中の駅で落ち合って昼食を一緒に食べようと約束して、電話を切った。
「── 日本でのまた別の恋人っていうんじゃないよね」
背中に張り付いたままのショーンに言われ、「違う、違う。隼人だよ。日本での大切な友達」と答えた。
「ああ! 彼か」
ショーンも隼人のことは知っている。彼の家には、昨日ショーンも電話をかけたと話していた。生憎、留守のようだったが。
「彼にも会いたかったな・・・」
なんて呑気に言っているショーンに、内心で羽柴は『そんなことになったら、隼人がどうなっちまうか・・・』と苦笑いした。── いや、この場合、羽柴が隼人からどんな仕打ちを受けるか分からない。新しい恋人がショーン・クーパーなんて。
羽柴はゾッと背筋を凍らせながら、ショーンの部屋を出た。
途中エレベーターで理沙と一緒になって、彼女からは無言でひじ鉄を食らった。
結局理沙は無表情のままでエレベーターを降りていったので、そのひじ鉄がどういう意味をなしていたのか、分からず仕舞いだった。
「やったな、お前」か、「ちくしょう、いい目をみやがって」か。
そこを突き詰めて考えると、そっちも怖い気がしたんで、羽柴はそのまま考えないようにしてホテルを出た。
平日の中途半端な時間だったので、浅草までの電車も非常に空いていた。
少ない乗客の中には、営業中と思しきサラリーマンの姿も見える。
昔は自分も、こうして電車に乗って企業研究に出かけていたっけ。
そう思うと、なんだかムズ痒い気がした。
真一との思い出はそれほど昔のことのように感じないが、日本でビジネスマンをしていた頃の記憶は、随分遠い過去のように感じる。
本当なら、年に一回の帰国の際は、以前勤めていた会社に挨拶に行ったり、仕事関係の知人に会ったりしていたが、今回の帰国はそんな暇もなく、またアメリカにとんぼ返りだ。
── まさか、こんなことになるなんてなぁ・・・。
車窓を流れる東京のゴミゴミとした風景を見つめながら、羽柴は思った。
誰が想像できただろう。
この日本の地で、ショーンと結ばれることになるなんて。
ふと繁華街のビルの大型ヴィジョンに、昨夜のショーンのライブを取り扱った特別番組の宣伝映像が流れた。
ショーンと新たな契約を交わすことになる『ノート』は、本腰を入れて活発に活動を始める様子が窺えた。昨夜のプレライブで確かな手応えを感じたためだろう。ノートのバックに控えているアイ-コンシューマ社の大きな存在も光っている。
── きっと、これから良い方向に進むに違いない。
エニグマ発刊時には今ひとつ不安を感じていた羽柴だったが、今回、理沙やエニグマ編集部が仕掛けてくれた一連の動きは、確実にショーン・クーパーの音楽生命を繋いでくれることになりそうだ。
── 本当に・・・本当によかった。
羽柴は、安堵の溜息をつく。
あまりにもうまく歯車が回り過ぎて、誰かが裏で糸でも引いているんじゃないかと思った。
羽柴の隣では、女子大生風の若い女の子達が、電車の窓から見えるショーンの映像を指さして歓声を上げている。
ショーンも最初はエニグマ・ジャパンというファッション情報誌で日本に紹介された訳だから、洋楽に縁の薄かった若い女性達も随分興味を持っただろう。
あの素晴らしい写真たちは、ショーンの様々な魅力を十二分に表現していたし、あれで虜にならない人間がいたら、会ってみたいほどだ。
まぁ、若い女性のこの反応は、ショーンをアイドル的に捉えているような節も窺えたが、ショーンの本業である音楽に触れれば、彼が単なる顔がいいだけの『アイドル』ではないことも理解してもらえると思う。
羽柴は、彼女達のはしゃぎようを目を細めて眺めながら、穏やかな微笑みを浮かべた。
その日の空は、東京にしては珍しく、朝の曇天から澄んだ青空へと心地よく変化していったのだった。
その日ショーンは、帰国の前にノートと正式な契約書を交わした。
いつになるか具体的な日取りはまだ決まっていなかったが、近いうちにアルバムを出すというのを当面の目標にして、ショーン・クーパーチームを新たに組織すると石川は宣言した。
ショーンは、契約に立ち会ったスタッフばかりか、会議室の外にいる社員にも挨拶の言葉を伝えた。
これから、自分の音楽活動を支えてくれる大切な場所だ。大事にしたかった。
ノートの石川とエニグマのリサの間では、ショーン・クーパーを売り出す一連の活動に関して提携を結ぶことを正式文書にした。
ノートは一度アメリカから撤退している状態なので、アメリカでショーンをマネージメントするにもそれなりの準備が必要だった。それが整うまで、エニグマ編集部がそれを手助けし、また準備が整った後もエニグマが積極的にマーケティングに関わっていくという方向で話はまとまった。どうやらエニグマの中でも新たな部署が誕生しそうだ。
こうしてショーンは、新たな、本当にショーンのことを認めてくれる人達に支えられた環境を手に入れることができたのである。
ノートを去り際、声が掠れていることを指摘され、「昨夜のライブは随分頑張ってくれたんだね。事実、とても素晴らしかった」と石川に言われ、ショーンは顔を真っ赤にしてしまった。
ショーンが声を嗄らした理由はそんなことではなかったが、本当の理由を言う訳にもいかず、「今度は潰れないように喉を鍛えておきます」と答えて、最後の握手を交わした。その後、昼食を食べに行くレストランまでの車中、シンシアにしこたまからかわれた。
日本での最後の食事は、ライトテイストの『キョウカイセキ』で、キレイに盛りつけられた小さな料理がいくつもいくつも出てきて、アンやシンシアと三人ではしゃいだ。
味はよく分からないものも多かったが、その絵のような美しさに見惚れた。
シンシアに至っては仕切りにシャッターを押し続け、食いっぱぐれる、なんてことにもなった。
アイ-コンシューマ社の小山内は、随分ショーンのことを気に入ってくれたらしい。
今回ショーン・クーパー来日に関する費用や宿泊・食事の手配などは、すべてアイ-コンシューマ社が行っていた。それはノートにそれを仕切る能力がまだ弱かったせいもあるが、なにより小山内が積極的に関わってくれたせいだ。
お陰でショーンは、十分な待遇で今回日本の滞在を終えようとしている。
もちろん、短期間で準備することになったプレライブや丸一日深夜まで拘束された取材は大変だったが、どれも成功を収め、満足できるものとなった。
それになにより・・・。
── コウとやっと気持ちを繋ぐことができたなんて。
彼の生まれた国で、こういう劇的な展開をみせたことは、非常に運命的なものを感じていた。
何だか、こうして身近に羽柴がいないと、昨夜のことは夢だったようにも思える。
けれど自分の胸元を覗き込むと、そこには彼が昨日ショーンの身体に残してくれた“痕”が無数にあって、決して夢でないことが実感できた。
この赤い花のような痕のひとつひとつ。そのすべてが、自分が羽柴耕造のものである証拠。
これから、本当の意味で自分は『愛』を学ぶのだ。
コウと新しい日々の結晶を積み重ねていく。
自分にしかできないやり方で、愛を紡いでいく。
きっとまだまだ困難なことがたくさんあると思うけど、でも。
自分はゆっくりと、ずっとずっと遠い未来まで、コウの人生に寄り添っていくんだ。
── 今頃、コウ、どこで何を食べてるかな・・・。
ショーンはそんなことを思いながら、ふいに身近で起こった笑い声に同調して、幸せそうな極上の微笑みを浮かべたのだった。
羽柴は、隼人と約束した時間のぎりぎりまで、浅草にある須賀家の菩提寺で過ごした。
墓の掃除は昨日千帆と済ましていたので綺麗だったが、もう一度丁寧に掃除をした。
墓石に打ち水をして布で磨き上げると、まだ真新しい墓石が艶やかに輝く。
長いこと墓石の前で佇んで、羽柴は心の中でいろんな話をした。
他愛のない話から、今ここでしかできない話まで。
もちろんそれに返事はなかったが、心はとても澄み切っていて、穏やかだった。
指輪も分骨してもらった骨も千帆に返してしまったが、それでも真一の感覚が遠く消え去った感覚は、まったくなかった。
むしろ、ほっこりとした温かいものが身体の芯に芽生えたようで、物に固執していた自分は随分苦しい思いをしていたんだなと、自分のことながらそう思えた。
── 真一、今まで自分を偽って、いろんな人と付き合ってきたけど。今度こそ本当に理解し合える相手を見つけることができたみたいだ。
今日は一人きりでここに来たけれど。
今度はきっと、その新しい伴侶となる人をここに連れてくるから。
その時は、よろしく。
・・・ヒラリ。
ふいに羽柴の目の前に、散ったばかりの桜の花びらが舞い降りてきた。
羽柴が手のひらをそっと広げると、その上に綿毛が乗るように、ピタリと止まった。
── 真一め、なかなかこにくいことをする。
羽柴はふっと笑って墓石にキスすると、寺を後にしたのだった。
その後羽柴は隼人と落ち合い、牛丼を食べた。
日本での最後の食事にしては随分安上がりに済ませたが、でもこれも懐かしい日本の味だった。
電車で空港まで向かいながら、隼人とは他愛のない話をした。
その話の端々に、隼人の片想いの相手・杉野君の話が出てきて、つくづく隼人は彼のことが好きなんだなぁと微笑ましくなった。
しかも隼人はまだ知らないが、杉野君も杉野君で、隼人のことが気になっているらしい。
以前から隼人との長距離電話で杉野君の存在は知っていたが、今回の帰国で本物の彼に会うことができた。
最初はどんなスカした野郎だと思って・・・隼人の話ではそうなっていたから・・・、今回も今まで隼人を泣かしてきたようなダメ男だったら、とっちめてやろうと思っていたのだが、実際に会ってみると本当に真面目で誠実な青年医師で。
彼はまだまだ若いし、負けん気も強いから隼人とぶつかることが多いようだけど、今まで隼人の周りに寄ってきたアホ共と違って、隼人の容姿のよさだけではなく彼の心根を理解して、彼を好きになってくれたんだということが窺えた。
今まで自分は、ショーンのことで随分周囲の人をヤキモキさせてきたんだろうけれど、隼人と杉野君を見ていると、今度は羽柴がヤキモキする。
他人の色恋沙汰の方が冷静に見られる分、そうなるのだろうか。
── ここはひとつ、何とかせねばなぁ・・・と羽柴は思っていた。
「あ、もうすぐ空港に着くね」
隣で隼人が呟く。
その声には、少しだけ寂しさが滲んでいた。
今回の帰国は短かったから、隼人とろくに遊びにも行けなかったし。せいぜい夜に飲みに行っただけだったから。
それに隼人自身も、今回の帰国で羽柴の中の何かが変化したことを敏感に感じている。
「おい、そうだ。昨日俺宛に電話かかってきてなかった? 留守電」
羽柴自身は、努めていつもと同じように会話を進めた。
別に永遠のお別れではないし、自分に新たな恋人ができたとしても隼人や千帆と縁を切る気はまったくなかったから。
「 ── 留守電?」
「うん。夕方頃、隼人の家にかけたって話だけど」
隼人は、眉間に皺を寄せる。
「そう言えば、昨夜も今朝も留守電チェックするの忘れてる・・・」
「ああ、なら、いいんだ」
「いいの?」
「ああ。用事は昨夜済んだから」
「渋谷で?」
「そう、渋谷で」
隼人は窓の外を見ながら、「あんたに渋谷なんて似合わない」なんて悪口を叩いている。
「じゃ、どこが似合うんだよ」
「 ── う~んと・・・、新橋とか?」
羽柴は、隼人の頭を小突いた。「イテ」と隼人は声を上げて笑う。
「せめて青山とか代官山とか言ってくれよ」
「え~。青山はあったとしても、代官山はないな」
「隼人は、武蔵小金井って感じだな」
「何ソレ!!」
「や、武蔵小金井に住んでるから」
「改めてそう言われると、なんかヤダなぁ・・・」
そう言って口を尖らせる隼人は、今朝のショーンを思わせる。
やっぱり似てる。この二人。
全体の雰囲気とか、局地的に口が悪いところとか。
羽柴はそれがおかしくて、クスクスと笑った。
そんな羽柴を見て、隼人は「思い出し笑いは、スケベ笑い」と当たらずとも遠からずなコメントを言い放ったのだった。
食事中に、できれば空港で会いたいねとショーンが言ったので、空港の入口付近で目立つ位置にあるシアトル系のコーヒーショップにいることにしようか、と約束を交わした。そこなら、ショーンのような海外スターが出入りするVIP用の搭乗ラウンジへの入口に面しているからだ。
ホテルを出る前にショーンの部屋の電話を借りて、隼人に電話した。
電話に出たなり「あんた、どこにいんの?」と隼人に訊かれ、適当に誤魔化した。
後ろでは、「誰に電話してんの?」とショーンが背中に飛びついてきたので、隼人を誤魔化すのが少々大変だった。
実は羽柴は、隼人の部屋に泊まった時に、隼人がバルーンのアルバムをすべて持っていることを発見していた。きっと面食いな隼人のことだ。ショーン目当てなんじゃないかな、と感じた。
そんな隼人に、『昨夜はショーン・クーパーとセックスしてた』なんて知れたら、どんなに大騒ぎするか分からない。
羽柴は、昼前に成田に向かう途中の駅で落ち合って昼食を一緒に食べようと約束して、電話を切った。
「── 日本でのまた別の恋人っていうんじゃないよね」
背中に張り付いたままのショーンに言われ、「違う、違う。隼人だよ。日本での大切な友達」と答えた。
「ああ! 彼か」
ショーンも隼人のことは知っている。彼の家には、昨日ショーンも電話をかけたと話していた。生憎、留守のようだったが。
「彼にも会いたかったな・・・」
なんて呑気に言っているショーンに、内心で羽柴は『そんなことになったら、隼人がどうなっちまうか・・・』と苦笑いした。── いや、この場合、羽柴が隼人からどんな仕打ちを受けるか分からない。新しい恋人がショーン・クーパーなんて。
羽柴はゾッと背筋を凍らせながら、ショーンの部屋を出た。
途中エレベーターで理沙と一緒になって、彼女からは無言でひじ鉄を食らった。
結局理沙は無表情のままでエレベーターを降りていったので、そのひじ鉄がどういう意味をなしていたのか、分からず仕舞いだった。
「やったな、お前」か、「ちくしょう、いい目をみやがって」か。
そこを突き詰めて考えると、そっちも怖い気がしたんで、羽柴はそのまま考えないようにしてホテルを出た。
平日の中途半端な時間だったので、浅草までの電車も非常に空いていた。
少ない乗客の中には、営業中と思しきサラリーマンの姿も見える。
昔は自分も、こうして電車に乗って企業研究に出かけていたっけ。
そう思うと、なんだかムズ痒い気がした。
真一との思い出はそれほど昔のことのように感じないが、日本でビジネスマンをしていた頃の記憶は、随分遠い過去のように感じる。
本当なら、年に一回の帰国の際は、以前勤めていた会社に挨拶に行ったり、仕事関係の知人に会ったりしていたが、今回の帰国はそんな暇もなく、またアメリカにとんぼ返りだ。
── まさか、こんなことになるなんてなぁ・・・。
車窓を流れる東京のゴミゴミとした風景を見つめながら、羽柴は思った。
誰が想像できただろう。
この日本の地で、ショーンと結ばれることになるなんて。
ふと繁華街のビルの大型ヴィジョンに、昨夜のショーンのライブを取り扱った特別番組の宣伝映像が流れた。
ショーンと新たな契約を交わすことになる『ノート』は、本腰を入れて活発に活動を始める様子が窺えた。昨夜のプレライブで確かな手応えを感じたためだろう。ノートのバックに控えているアイ-コンシューマ社の大きな存在も光っている。
── きっと、これから良い方向に進むに違いない。
エニグマ発刊時には今ひとつ不安を感じていた羽柴だったが、今回、理沙やエニグマ編集部が仕掛けてくれた一連の動きは、確実にショーン・クーパーの音楽生命を繋いでくれることになりそうだ。
── 本当に・・・本当によかった。
羽柴は、安堵の溜息をつく。
あまりにもうまく歯車が回り過ぎて、誰かが裏で糸でも引いているんじゃないかと思った。
羽柴の隣では、女子大生風の若い女の子達が、電車の窓から見えるショーンの映像を指さして歓声を上げている。
ショーンも最初はエニグマ・ジャパンというファッション情報誌で日本に紹介された訳だから、洋楽に縁の薄かった若い女性達も随分興味を持っただろう。
あの素晴らしい写真たちは、ショーンの様々な魅力を十二分に表現していたし、あれで虜にならない人間がいたら、会ってみたいほどだ。
まぁ、若い女性のこの反応は、ショーンをアイドル的に捉えているような節も窺えたが、ショーンの本業である音楽に触れれば、彼が単なる顔がいいだけの『アイドル』ではないことも理解してもらえると思う。
羽柴は、彼女達のはしゃぎようを目を細めて眺めながら、穏やかな微笑みを浮かべた。
その日の空は、東京にしては珍しく、朝の曇天から澄んだ青空へと心地よく変化していったのだった。
その日ショーンは、帰国の前にノートと正式な契約書を交わした。
いつになるか具体的な日取りはまだ決まっていなかったが、近いうちにアルバムを出すというのを当面の目標にして、ショーン・クーパーチームを新たに組織すると石川は宣言した。
ショーンは、契約に立ち会ったスタッフばかりか、会議室の外にいる社員にも挨拶の言葉を伝えた。
これから、自分の音楽活動を支えてくれる大切な場所だ。大事にしたかった。
ノートの石川とエニグマのリサの間では、ショーン・クーパーを売り出す一連の活動に関して提携を結ぶことを正式文書にした。
ノートは一度アメリカから撤退している状態なので、アメリカでショーンをマネージメントするにもそれなりの準備が必要だった。それが整うまで、エニグマ編集部がそれを手助けし、また準備が整った後もエニグマが積極的にマーケティングに関わっていくという方向で話はまとまった。どうやらエニグマの中でも新たな部署が誕生しそうだ。
こうしてショーンは、新たな、本当にショーンのことを認めてくれる人達に支えられた環境を手に入れることができたのである。
ノートを去り際、声が掠れていることを指摘され、「昨夜のライブは随分頑張ってくれたんだね。事実、とても素晴らしかった」と石川に言われ、ショーンは顔を真っ赤にしてしまった。
ショーンが声を嗄らした理由はそんなことではなかったが、本当の理由を言う訳にもいかず、「今度は潰れないように喉を鍛えておきます」と答えて、最後の握手を交わした。その後、昼食を食べに行くレストランまでの車中、シンシアにしこたまからかわれた。
日本での最後の食事は、ライトテイストの『キョウカイセキ』で、キレイに盛りつけられた小さな料理がいくつもいくつも出てきて、アンやシンシアと三人ではしゃいだ。
味はよく分からないものも多かったが、その絵のような美しさに見惚れた。
シンシアに至っては仕切りにシャッターを押し続け、食いっぱぐれる、なんてことにもなった。
アイ-コンシューマ社の小山内は、随分ショーンのことを気に入ってくれたらしい。
今回ショーン・クーパー来日に関する費用や宿泊・食事の手配などは、すべてアイ-コンシューマ社が行っていた。それはノートにそれを仕切る能力がまだ弱かったせいもあるが、なにより小山内が積極的に関わってくれたせいだ。
お陰でショーンは、十分な待遇で今回日本の滞在を終えようとしている。
もちろん、短期間で準備することになったプレライブや丸一日深夜まで拘束された取材は大変だったが、どれも成功を収め、満足できるものとなった。
それになにより・・・。
── コウとやっと気持ちを繋ぐことができたなんて。
彼の生まれた国で、こういう劇的な展開をみせたことは、非常に運命的なものを感じていた。
何だか、こうして身近に羽柴がいないと、昨夜のことは夢だったようにも思える。
けれど自分の胸元を覗き込むと、そこには彼が昨日ショーンの身体に残してくれた“痕”が無数にあって、決して夢でないことが実感できた。
この赤い花のような痕のひとつひとつ。そのすべてが、自分が羽柴耕造のものである証拠。
これから、本当の意味で自分は『愛』を学ぶのだ。
コウと新しい日々の結晶を積み重ねていく。
自分にしかできないやり方で、愛を紡いでいく。
きっとまだまだ困難なことがたくさんあると思うけど、でも。
自分はゆっくりと、ずっとずっと遠い未来まで、コウの人生に寄り添っていくんだ。
── 今頃、コウ、どこで何を食べてるかな・・・。
ショーンはそんなことを思いながら、ふいに身近で起こった笑い声に同調して、幸せそうな極上の微笑みを浮かべたのだった。
羽柴は、隼人と約束した時間のぎりぎりまで、浅草にある須賀家の菩提寺で過ごした。
墓の掃除は昨日千帆と済ましていたので綺麗だったが、もう一度丁寧に掃除をした。
墓石に打ち水をして布で磨き上げると、まだ真新しい墓石が艶やかに輝く。
長いこと墓石の前で佇んで、羽柴は心の中でいろんな話をした。
他愛のない話から、今ここでしかできない話まで。
もちろんそれに返事はなかったが、心はとても澄み切っていて、穏やかだった。
指輪も分骨してもらった骨も千帆に返してしまったが、それでも真一の感覚が遠く消え去った感覚は、まったくなかった。
むしろ、ほっこりとした温かいものが身体の芯に芽生えたようで、物に固執していた自分は随分苦しい思いをしていたんだなと、自分のことながらそう思えた。
── 真一、今まで自分を偽って、いろんな人と付き合ってきたけど。今度こそ本当に理解し合える相手を見つけることができたみたいだ。
今日は一人きりでここに来たけれど。
今度はきっと、その新しい伴侶となる人をここに連れてくるから。
その時は、よろしく。
・・・ヒラリ。
ふいに羽柴の目の前に、散ったばかりの桜の花びらが舞い降りてきた。
羽柴が手のひらをそっと広げると、その上に綿毛が乗るように、ピタリと止まった。
── 真一め、なかなかこにくいことをする。
羽柴はふっと笑って墓石にキスすると、寺を後にしたのだった。
その後羽柴は隼人と落ち合い、牛丼を食べた。
日本での最後の食事にしては随分安上がりに済ませたが、でもこれも懐かしい日本の味だった。
電車で空港まで向かいながら、隼人とは他愛のない話をした。
その話の端々に、隼人の片想いの相手・杉野君の話が出てきて、つくづく隼人は彼のことが好きなんだなぁと微笑ましくなった。
しかも隼人はまだ知らないが、杉野君も杉野君で、隼人のことが気になっているらしい。
以前から隼人との長距離電話で杉野君の存在は知っていたが、今回の帰国で本物の彼に会うことができた。
最初はどんなスカした野郎だと思って・・・隼人の話ではそうなっていたから・・・、今回も今まで隼人を泣かしてきたようなダメ男だったら、とっちめてやろうと思っていたのだが、実際に会ってみると本当に真面目で誠実な青年医師で。
彼はまだまだ若いし、負けん気も強いから隼人とぶつかることが多いようだけど、今まで隼人の周りに寄ってきたアホ共と違って、隼人の容姿のよさだけではなく彼の心根を理解して、彼を好きになってくれたんだということが窺えた。
今まで自分は、ショーンのことで随分周囲の人をヤキモキさせてきたんだろうけれど、隼人と杉野君を見ていると、今度は羽柴がヤキモキする。
他人の色恋沙汰の方が冷静に見られる分、そうなるのだろうか。
── ここはひとつ、何とかせねばなぁ・・・と羽柴は思っていた。
「あ、もうすぐ空港に着くね」
隣で隼人が呟く。
その声には、少しだけ寂しさが滲んでいた。
今回の帰国は短かったから、隼人とろくに遊びにも行けなかったし。せいぜい夜に飲みに行っただけだったから。
それに隼人自身も、今回の帰国で羽柴の中の何かが変化したことを敏感に感じている。
「おい、そうだ。昨日俺宛に電話かかってきてなかった? 留守電」
羽柴自身は、努めていつもと同じように会話を進めた。
別に永遠のお別れではないし、自分に新たな恋人ができたとしても隼人や千帆と縁を切る気はまったくなかったから。
「 ── 留守電?」
「うん。夕方頃、隼人の家にかけたって話だけど」
隼人は、眉間に皺を寄せる。
「そう言えば、昨夜も今朝も留守電チェックするの忘れてる・・・」
「ああ、なら、いいんだ」
「いいの?」
「ああ。用事は昨夜済んだから」
「渋谷で?」
「そう、渋谷で」
隼人は窓の外を見ながら、「あんたに渋谷なんて似合わない」なんて悪口を叩いている。
「じゃ、どこが似合うんだよ」
「 ── う~んと・・・、新橋とか?」
羽柴は、隼人の頭を小突いた。「イテ」と隼人は声を上げて笑う。
「せめて青山とか代官山とか言ってくれよ」
「え~。青山はあったとしても、代官山はないな」
「隼人は、武蔵小金井って感じだな」
「何ソレ!!」
「や、武蔵小金井に住んでるから」
「改めてそう言われると、なんかヤダなぁ・・・」
そう言って口を尖らせる隼人は、今朝のショーンを思わせる。
やっぱり似てる。この二人。
全体の雰囲気とか、局地的に口が悪いところとか。
羽柴はそれがおかしくて、クスクスと笑った。
そんな羽柴を見て、隼人は「思い出し笑いは、スケベ笑い」と当たらずとも遠からずなコメントを言い放ったのだった。
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宇土為名
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高校3年の春、同級生の名取に告白した冬だったが名取にはあっさりと冗談だったことにされてしまう。それを否定することもなく卒業し手以来、冬は親友だった名取とは距離を置こうと一度も連絡を取らなかった。そして8年後、勤めている会社の取引先で転勤してきた名取と8年ぶりに再会を果たす。再会してすぐ名取は自身の結婚式に出席してくれと冬に頼んできた。はじめは断るつもりだった冬だが、名取の願いには弱く結局引き受けてしまう。そして式当日、幸せに溢れた雰囲気に疲れてしまった冬は式場の中庭で避難するように休憩した。いまだに思いを断ち切れていない自分の情けなさを反省していると、そこで別の式に出席している男と出会い…
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